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「悲しみの聖母」を発端とする、とるにたらない思考録 ―或いは、私と『聖母マリア』

聖母の絵

昨年十一月、東京都美術館の「展覧会 岡本太郎」を見に行ったついでに、国立西洋美術館の常設展を見てきた。昼食を摂る場所を探しながら前を通りかかったときに、ふと思い立ってのことだった。

展示室は静かだった。昼食を摂ったレストランには校外学習で来たような団体の学生も多かったが、彼らはもう引き上げたのだろう。私も、西洋美術館に来るのは数年前の校外学習以来だった。当時に比べれば西洋絵画に対する知識はかなり身についていて、あぁこの画家は聞いたことがある、きっとこの絵はギリシャ神話のあの話だ、それにあっちのは教会の三面祭壇画だ、などと考えながら展示室をひとりで進んでいった。

一枚の絵の前で、足を止めた。
[カルロ・ドルチ 『悲しみの聖母』 1600年代]
暗い画面、鮮やかな青い布の中に、淡い光を背負いながら、愁いを帯びた女性の顔が佇んでいる絵。

はじめは、よくある絵だと思った。こういった暗闇に浮かび上がるような人物画はレンブラントやフェルメールの作品で馴染みがあるし、聖母像なら同じ展示室の中にさえいくつも飾ってある。

それでも、なんだかこの絵から目が離せなくなっていた。キャプションを読み、隣にかけられた絵の具の組成研究の説明パネルを読む。この絵の青色は、当時とてつもない高級品だった純度の高いラピスラズリの絵の具で描かれているという。

改めて絵に目を戻す。言われてみるとより一層、その青色の衣は深く美しく思えた。闇に溶け込み、光に応える青色。悲しみと慈愛の、つめたくあたたかい青色。

そのまま見つめていると、思わず涙が溢れてきそうになるほどだった。もしこの場に私以外の人間がいないとしたら、今にも膝から崩れ落ちてこの絵に頭を垂れるだろう、とさえ感じた。

近くにいたスタッフさんに確認をとって、備忘のために写真を一枚取り、次の展示室へと向かった。美術館に行ったときには恒例行事として気に入った作品のポストカードを買って帰るようにしているので、今回は迷わずこの絵を選んだ。でも、当たり前のことながらあの美しい明暗は印刷でだいぶ劣化しているし、それに他のポストカードと一緒に壁に貼っておくのも気が引けて、それは今も買ったまましまい込んである。

2022.11.26. 筆者撮影


その名を呟くのは

「マリア様。」
あの絵を見てからだろうか。時々、小さく呟きたくなるときがある。
私はキリスト教徒ではないし、まともに教会でお説教を聞いたこともない。キリスト教についての知識も、一つは美術鑑賞のため、もう一つは自分の人生哲学を深める一助とするために、教養程度に学んでいるだけだ。語弊を恐れず言えば、世界的に有名なキャラクター、と捉えている程度なのかもしれない。
では、なぜ、そう呟きたくなるのか?

彼女は、母だ。イエスを生み育て、慈愛を尽くしてその生涯を見届けた人。あの絵で悲しみに暮れる姿も、わが子イエスの運命を嘆く表情だ。
それでいながら、彼女は、娘だ。ある日突然聖霊の子を身籠った、穢れを知らぬ処女。あの絵に描かれた顔つきや、胸の前に組み握られたやわらかい両手は、ひとりのうら若き少女を写しているようにさえ見える。

私は今、少なくとも私の自認する限りでは、その二つの中間にいるのではないか、ということを強く意識している。誰かを守り育てる聡明な"母"となることを見据えながら、誰かに守り育てられる純真な"娘"となることも望んでいる。その二つは、どちらか一方を備えるだけでは不十分だと思う。
私は『聖母マリア』という存在に、いつしかその理想を見るようになっているのではないだろうか。自分を守ってくださる母であり、自分がかつてそうだったような娘である。そして、自分がこの先の人生で目指していくべき姿である、と。

だから、私は彼女の名を呟き、言葉にならない願いを呼びかけようとするのかもしれない。


"かの人"であり、"私"であり

何ヶ月か前に、店頭で見かけて気になったものの買わなかったネックレスがあった。
後で調べたところ、それは『奇跡のメダイ』や『不思議のメダイ』と呼ばれるメダルを模ったものだった。表面にはマリア像や祈りの言葉など、裏面にはマリアとイエスの心臓を表すハート型などが刻まれているものらしい。ネットで軽く調べただけの情報ではあるが、信者でなくてもその力を信じて持っていれば良いことがあるお守りだと言う。

12月に入って少し時間がある日ができたので、いくつかの服屋やアクセサリー店をはしごして、メダイを模ったネックレスを探してみた。最終的に、1.5cmくらいの小さなメダイがついた金色のネックレスを見つけ、購入した。
見守られているような、少しだけ穏やか心でいられる気がして、時々身につけて出掛けている。


そういえば、以前描いたいくつかの絵の中に、『ハイカラちゃん』と呼んでいる少女がいる。

上の説明の通り、彼女は現実と背中合わせの理想を象徴するキャラクターとして生まれた。現実の分身のような存在でもあるため、自己を投影している部分も大いにある。

さらにその後、私が西洋美術について学んでいくうちに、彼女の"赤と青の着衣"というモチーフが伝統的な聖母マリアの描かれ方と似通っていることが分かり、そこから彼女に聖母のイメージが加えられた。現在このnoteアカウントのアイコンにしている絵も、それを受けて描かれたものだ。

これから数年のうちに、私にも実際に着物と袴を着る機会があるだろう。その時には是非、彼女のように、桜色の着物と紺色の袴を着てみたい。理想に向かって一歩を踏み出す私を、私自身の心に刻むためにも。



(見出し画像は、随分前に描いた花の水彩画。聖母マリアと一緒に描かれる象徴的な品として、白百合が有名なので。)

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