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スケッチ「汽車」

山を越えて行く汽車の一席に、ある男が座っていた。

彼の右手の中には、一通の電報が握られていた。今朝、下宿の前でその報せを受けたときのことを、彼はもはや覚えてはいまい。驚きに硬直した体を無理矢理動かすかのように、心臓は早鐘を打ち続けている。そこに記されたたった一行の片仮名から、これまでにあらゆる夢想が彼の胸のうちに巻き起こり、そしていつしか凪いでいった。

(何としても、あの人にもう一度会いたい。会わなければならない。あの人が、私が、まだ生きているうちに。)

それが今、彼を急がすただ一つの想いであった。

飛び乗った三等車の中は、不思議なほどに穏やかだった。半年前、大きな鞄を抱えて故郷を離れたあの日は、列車の前後も分からなくなるほどの人混みだったのに。彼は早々に誰もいないボックス席を見つけ、網棚に鞄を上げることも忘れて、窓際の席に座った。そして、窓硝子に額を寄せ、客車に纏わりついては消えていく汽車の煙をただひたすら眺めていた。


くぐもった汽笛を二つ鳴らして、汽車はトンネルに入った。舞台の照明を消したかのように真っ暗になった窓に、車内の様子がぼうっと映り込む。

(まるで幻のようじゃないか)

彼は何気なく頭の中に呟いた。

(今この列車の中には、存在する乗客の私たちと、光が生み出した幻の私たちが見えている。奴らは私たちを真似するだけで、話すことも触ることもできない亡霊だ。ほら、こうして)

彼は頬のところに片手を持ってきて、窓に映る自分に指先を近づけた。

(硝子に触れるだけ。硬くて、冷たい、暗く歪んだ窓硝子に)

彼はため息をひとつ吐いた。そして、彼をこの列車に飛び乗らせた本人たるかの人の姿が、ひょっとするとこの虚像の中に紛れ込んではいまいかと、ありもしないことを空想した。

(馬鹿なことを。こんなにぼんやりしていちゃあ、私の魂まで亡霊と区別がつかなくなってしまいそうだ)

彼は自身を奮い立たせようと試みた。しかし、ようやく平静を取り戻した心臓は、かえって彼の体を眠気に引き込もうとしているようにさえ感じられた。


しばらくして、彼は窓に映る自分の背後に、黒い影が現れたのを見た。閉じかけた目を大きく見開き咄嗟に振り返ると、そこには黒いワンピースを纏ったうら若い女性が佇んでいた。

「ここ、座っても?」

彼女は彼のはす向かいの席を指して訊いた。

「えぇ、どうぞ」
「ありがとう」

彼女はそっと席に着くと、小さなトランクを足元に収め、つばの広い帽子を脱いでその上に置いた。汽車はトンネルを抜け、窓からの木漏れ日が彼女の足元にちらちらと光りはじめた。

「どちらまでいらっしゃるのですか」
「私は、終点まで」
「そう。わたしはすぐに降りますから、お気になさらないでね」
「いえ、こちらこそ」

彼は素っ気なく微笑みながら首を振った。正直なところ、彼女に構ってやる気分にはなれないのだ。首を振るようにして俯くと、手の中の電報が再び目に入った。

「電報」

彼女が微かに呟いた。その文字を読み取ったのだろう、目元には同情の色が浮かんでいた。

「ご家族ですか」
「いえ、なんというか……親しい、友人みたいな者です」

そうなのだ。その人は彼の親類でもなければ、恋人でも、隣人ですらない。例えるならば、人生という旅路のある時点で、偶々同じ列車に乗り合わせ、たった二三駅ほど話し込んだだけの、そういう関係の人間だった。しかし、そういう関係の人間が、どんな因果か、ひととき出会った相手の魂を強く揺さぶってしまうような不思議が、この旅路では往々にして起きるのだ。そしてその揺さぶられた魂につられて一歩、また一歩と歩みの向きを変えていくことこそが、ひとりの人間の成長である。そう彼は思索していた。

「貴方は幸せなお方ですね」
「はぁ」

彼女は少し微笑みながら、丁寧に言葉を繋いだ。しかし彼の反応が心外だったと見えて、身を乗り出すようにしてさらに続けた。

「だって、血の繋がりもない知り合いがそんな電報を出してくださるなんて。よほど大切な思いがおありなのでしょう」
「そうでしょうか……それなら嬉しいのですが」

彼はまた曖昧に答えて目を伏せてしまった。あの人がそのように自分の魂を揺さぶったところで、反対に自分自身があの人の魂を揺さぶったとは、少しも思っていなかったのだ。ある意味で、彼はその人にとって数多いる弟子の一人に過ぎない。だから、その人が彼にわざわざ電報を打ったということさえ、喜ばしいのと一緒に、本当は自分の勝手な夢なのではないかという疑念を搔き消せないでいた。

汽車は谷川に架かった橋をごとごと渡り、また短いトンネルを通過した。


「失礼。切符を拝見いたします」

赤い帽子の車掌が、ボックス席を覗き込んだ。向かいの女性がさっと切符を取り出し車掌に渡しているうちに、彼も上着のポケットを探った。

(あれ、無い。おかしいな)

確かに、買ってすぐに上着のポケットに入れたはずなのだ。他のポケットを順番に確かめても見つからず、では鞄か、と手を伸ばしかける。

「ありがとう。あぁ、この方は大丈夫よ。さっきの駅で乗ってきたのは私だけですから」

彼女が呼びかけたのを聞いて、驚いたように車掌を見上げた。

「承知しました。では、ごゆっくり」

車掌はきちんと一礼をして去っていった。

「あの、私の切符が……」
「いいの。あの車掌さんは、普通とは違う切符を持っている人のところだけをまわる仕事なのよ。ご存じないかしら」
「初耳です」

腑抜けた声の彼とは裏腹に、彼女は澄まし顔で自身の切符を仕舞った。とはいえ、言われてみれば、彼もあんな赤い帽子の車掌は今まで見たことがないような気がした。


「そういえば、お嬢さんは何の用事でこの列車に」

だしぬけに彼は問うた。ここまでずっと自分のことを問われるばかりで、気まずくはなくとも少々煩く思っていたので、少しは問い返してやりたいと一寸意地を張ってやったのだ。

「私は、ただ遊びまわっているだけですよ。強いて言えば、少し実家を覗きに行こうと思っているところです」

彼女は何のことはなしと答えた。

「この列車を降りたら、そこが私の故郷の町です。山間の小さな村ですがね、そう、なんでも最近ある学者さまがいらして、じいさまやばあさまに口伝えの昔話を訊いて回っていったのですって。私もよく聞かされたわ、山や川や家々に見たという不思議なものたちのお話……」

うっとりと目を細める彼女に、思いの外面白い話が聞けそうだ、と彼は背筋を伸ばした。

「へえ、そんな話は初めて聞いたなあ。不思議なものというと、例えば?」
「例えば、そうね……人を川へ引きずり込む魔物だとか、家に福をもたらす子どもだとか、訪ねてきた友人が本当は既に亡くなっていただとか」

彼の心臓が、思い出したかのように一つ大きな鼓動を打った。

「あら……ごめんなさい」
「いや、いいんですよ。ええ。面白い話だ」

大げさに頷いて見せたものの、彼女は既にその変化を察し、縮こまってしまった。が、またすぐに彼の方をきいっと見つめると、ほんの一瞬哀しげに眉を動かし、それから思い切ったように言葉を続けた。

「でも、こんな話もあるのですよ。亡くなった者の魂はすぐにこの世を離れたりせず、山や海や星の方へ行って、そこから故郷の地を眺めているのです。どんな時でも。素敵なことじゃありませんか。生きているものたちが楽しそうに暮らしているのも、こちらに嬉しい報せを呼びかけるのも、ちゃんと解っているのですよ」

幼子に語り聞かせるような声色が、かえって彼の鼓動を速めた。こんな話、今は聞きたくない。まして、会いたくてたまらないあの人とは似ても似つかぬ、見知らぬ女に聞かされているなんて。むしろ腹が立つ。

「素敵なもんか。私は……俺は、生きているあの人に会わなければ意味がないんだ」

低く呟く自分の声が、あまりにもか弱く聞こえた。彼は瞳に涙が溜まっていくのを感じた。手の中で滲んだ電報の文字が、再び頭の中に幾重にも響いていた。

「……やはり貴方は、本当に幸せなお方ですね」

彼女の言葉は、みたびトンネルに突入した列車の轟音で掻き消され、彼に届くことは無かった。


列車はまた陽光の中を勇み進んでいき、やがて町中の停車場に向けて速度を落としていった。

「あら、もうこんなところだわ。私この駅で降りますね。お話に付き合ってくださり、ありがとうございました」

彼女は言いながら立ち上がった。

「こちらこそ、どうも」

彼も一つ鼻をすすって答えた。

「さっきは取り乱してしまいました。どうか許してください」

照れながら頭を下げる彼の内心は、存外朗らかであった。

「この国には、まだまだ私の知らない話が沢山あるのですね。もっと勉強して……あの人にも、聞かせてやりたいと思います。それと、きっとこの町にも、またゆっくり観光に来ますから」
「それはとっても嬉しいわ。その時にはまたお会いできると良いですね」

彼女が停車場へ降り立った後も、二人は窓越しに微笑み、会釈を交わした。そのとき、彼は彼女の姿がはじめとどこか変わっていることに気が付いた。

「お嬢さん、帽子!」

見ると、あのつばの広い帽子が目の前の席に置き去りにされていた。彼は電報を上着のポケットにねじ込みつつそれを拾い上げ、窓をこじ開けると、彼女に向って力いっぱいに投げた。緑の風に乗った帽子は、蝶のようにふらふらと上下しながら、彼女の足元に落ちた。その途端、列車は透きとおった汽笛を鳴らし、次の駅へ向かって動きだした。


彼女が帽子を拾い上げ、深々とお辞儀をしているところを見送っていると、突然彼の視界を黒煙が遮った。彼は驚きながら、なんとか手探りで窓を閉めた。駅を出てすぐにまたトンネルがあるだなんて、思いもしなかったのだ。ひとしきり咳込み、頭や服が真っ黒になったことを憂いていると、それに気付いたらしい人物がどかどかと近づいてきた。

「大丈夫ですか、お客さん。駄目じゃないですか、トンネルで窓を開けちゃ」
「車掌さん。はは、これはお恥ずかしい……」

見慣れた黒い帽子の車掌だった。

「それで、切符を拝見しても宜しいですか」
「ああ、はい」

彼が上着のポケットに手を入れると、さっきいくら探しても見当たらなかった切符は、何故だかちゃんとそこに仕舞われていた。

「どうぞ」
「うむ、確かに。じゃあ、以降気を付けてくださいね」
「どうも。ありがとうございます」

車掌は空いた座席のすすを軽く払ってから、前の車両へ消えていった。彼は力が抜けたようにすとんと座り直し、またただひたすらにぼんやりと窓の外を眺め始めた。

(おかしなやつにも会うものだなあ)

頭の中で、さっき出会った女の声と、それに対して湧き上がった自分の色々な考えとが、脈絡なく繰り返されていた。

(生きていりゃあそんなことも起きるか)

彼は電報をポケットから取り出し、滲んだ文字を眺めた。心のざわめきはもう何処にも見当たらなかった。ただ、その文字の向こうに見える大切な人に、きっと今会いに行くのだ、という希望にも似た決意があるばかりだった。


(見出し画像は、先日乗った三陸鉄道レトロ列車の車内。ただし本編のイメージはむしろ翌日に乗ったSL銀河に近い。)

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