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「ふつう」について考える

感想を主とした乱文になる気がします。かなり心が揺れました。それでもこちらのnoteだけでも読んでいただければ、、という想いとともに書いていきます。

こちらのnoteを読んで自分自身が思ったこと。この文章も自分自身の当たり前によって書かれていく。それはもう滲み出てしまうものだから仕方ない。

自分の「ふつう」は何によってつくられたか

自らの「ふつう」という考えを構成する要素とは、家族や友達、地域でのコミュニティなど。いわゆる対面で話したことのある関係値の高い人との関わり。なかでも家族は一緒にいる時間が長いぶん、価値観の一致が起こりやすい。ハラスメントや反抗期を機に、離れる(価値観の不一致)場合もある。友達もしかり。両親から「友達は大事にしなよ」といわれて育ってきたけれど、いやいや家族も大事だわってことに当時気づけなかったことは結構悔やまれる。

僕も21年、それなりに安全に、楽しく、普通に生きてこれた。保育園から大学の現在まで、周りの子がいろいろ教えてくれたからだと思っている。自分でももちろん調べたけど、一人で考えてきたという感覚はまったくない。

受けてきたものを恩返しすること、次の代へと継いでいくこと、感謝をすることも教えてもらった。ひがんだり、嫉妬したりしていた時期もあったけれど、時間を経て、それも必要なことだったと認識している。

そんな普通のこれまでを疑ったことはたぶんなかった。大体みんなこういうことを経験して大人になっていくんだと思っていた。自分が経験したことをみんなも経験していく。社会って一般人も芸能人も個人単位ではほとんど遜色ないただの人でできている。なんとなくそれがわかってきた気がした。

全然そんなことなかった。という衝撃が今回のnoteだったのかもしれない。

自分が見えている景色なんて、せいぜいテレビ越しの番組や、Twitterを始めとするSNSや、訪れたことのある場所くらいでしょう。それで完結しているものだから、それ以外の世界があるとは思わない。自分の手のひらの延長が社会全体にも広がっているものだと思って疑わない。

全然そんなことはない。世界のネットニュースですら、見えているのは氷山の一角に過ぎない。根拠はないけれど、そう思う。

それでも時間は流れるし、昨日みたいな今日がやってくる。どこで何が変化したかも知らずに、自分の部屋から今日を始めている。

何がいいたいのかというと、自分の「ふつう」はふつうではないかもしれないということ。突飛なことのない当たり前の日常がイレギュラーかもしれないということ。その視点はもった方がいいかもと思った。

そりゃあ自分視点でみたら、昨日と同じことやっていたらそれは「ふつう」という感覚になるだろうし、慣れてしまうだろう。しかし、他人視点でみたとき、それは一転する。「そんなことやってたんだ、知らなかった」。

結局なところ、100m向こうにいる人が何をしているかなんてわからなくて、1m先ですらわからないことがある。けれど、そういうものだ。

自分の「ふつう」は当たり前?見直してみるといいかもしれない。

社会全体って全然見えていない、むしろほとんどの人は見えない

社会全体の考えってなんだろう。世論とは、社会全体を指すものなのだろうか。意外と、というかぜんぜん社会全体って見えないものです。自分もなんとなく把握していた、と思っていたけれど、これは無理です。わからない。

わからないなりに、自分に伝える感じでnoteを書いていく。1年前の自分なら読めるかなという風に。扱う言葉と伝え方。それは積み重ねだから。

どれだけ頭が良くても他人がいま何を考えているかなんてわからないように、やはり画面の向こう側にはどんな人が読んでいるかはわからない。それでも届いてくれたら嬉しいなと込めて書いている。誰に向けて書いているかわからない文章を、ただ淡々と。

結局なところ、自分の心に顕れた言葉を探して見つけて書いているだけだ。想像力も文才もこれっぽちもない。自分の写し鏡でしかない。しかし、それでいいと思っていた。

どういうわけか、流れ流れて自分の知らない人に届くことがある。あなたの文章、まだ読んだことありませんって人から「スキ」が届いたときは、どういうきっかけで流れ着いたのか気になったりする。あるいは人通りの少ない路地裏で唯一光を発している自販機のようなものだろうか。そうだったらいいな。とにかく見つけてくれてありがとう(ございます)。

田舎にはあるのです、誰が利用しているかわからない自販機が。こんなところにあってもすぐ先にスーパーがあるのに。もしくはコンビニがあるのに。しかも自販機は多少高い。そんな面倒で使い勝手の悪い自販機を誰が使うんだって思うことがある。

でも、利用する人はいるのですね。例えば近所の人とか喉がめちゃくちゃ乾いている人とか。僕にはその人たちが見えていなかった。ちょっと歩いた先で起きている出来事。社会はその全国版なのだろうか。見えるはずもない。

見ようとして見えるものではない。ならば、目の前を大切にする他にないだろう。想像力とやらを目の前に集中させる他にないだろう。どうせ画面の向こう側はわからない。わかる範囲でいい。

そうこうして生きている。ありがたいことに、生きていると感じながら生きている。十分過ぎます。自分の両手を広げたサイズ感でちょうどいい。

傾聴、経験、出会えてよかったというあまりにもふつうすぎる言葉

冒頭のnoteに戻りますが、一言でいえば「格差」でしょう。そしてその当事者は自分であると。自分はどの位置にいるのだろうって思って振り返ってみたら、当たり前の暮らし、笑い合える友達、誇らしい家族がいることを改めて感じていました。これは、ふつうじゃないということも。

割れ切った世界のほんの一つ。まだまだ見えてない世界ばかり。それでも、気づいたなら耳を傾けて聴いてみたい。経験してきた話は深さが違う。その話を聴いて、自分は何を考えるか。何を考えて行動できるか。

出会えてよかった、と思うのも、人生1周目でいいことも微妙なことも経験できたから。たぶん、自分で選んでここにいる。すごろくだとしたら人に会うマスは多かったと思う。そして、それでよかったと思う。

まだまだ先は長そうだ。自分の位置を多少は確認できたかなと思う。今後も起きるであろう。彼女の話からバックグラウンドを想像してみた。尊重したい。違うことを肯定したい。小説みたいな物語がもっと知りたい。

差異があることは仕方ないだろう。大事なのは、その後。違うことを否定することじゃない。難しいけれど。できる範囲でできたならあなたは偉い。

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