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ハンス 〜存在しなかったAIストーリー〜

割引あり

一 人類の随伴者

「他にご用件はございませんか、奥さま」
 ティーカップをベッドトレイに置いて、端整な顔立ちの青年はいった。年齢は二十代後半くらいだろうか。シミひとつ無い真っ白なスラックスにこれまた白いサマーセーターを着て、髪は清潔感あふれるクルーカットに刈り上げている。
「いいえ、けっこうよ。ありがとう」
 介護用ベッドで上半身を起こしたまま、奥さまと呼ばれた女性は会釈してこたえた。
「ただ奥さまはやめてちょうだい。なんだか自分が年寄りになったような気がするわ」
 女性はそういってカップに口をつけた。その口もとにはたくさんの皺が刻まれており、歳を取ったのは彼女の気のせいだけではないことがうかがわれた。
 実際、彼女は今年で九十才になる。その年齢からすれば若々しいともいえるが、それでも高齢であることには変わりなかった。目尻の皺やこめかみのあたりに浮いたシミがそれを忘れさせてくれなかったし、鏡を覗き込まなくても爪を走る何本もの筋が年輪のように彼女の生きてきた年月を示していた。
 一方でかいがいしく彼女の世話をしている青年の顔にはシミどころか皺すらただのひとつもなく、余計に彼女の年齢を浮き彫りにしていた。
「では、なんとお呼びすれば?」
 青年は彼女の顔をじっと見つめて聞いた。
「ミサキでも、なんでも、好きに呼んでちょうだい」
 ソーサーに戻されたカップがカチャリと軽い音を立てた。
「博士とお呼びした方がよろしいですか?」
 彼女の情報はすべて彼の頭の中に入っている。彼女自身以上に。
「ずいぶん昔のことよ」
 昔といってもつい十年ほど前まで、彼女は第一線の科学者であり、世界をリードする研究者だった。いくつもの論文が科学誌に掲載され、彼女自身の名前を冠した研究所も作られていた。
「わかりました。次回からは名前でお呼びします」
「お願いね。あなたもどう?」
 女性はティーカップを手で示したが、青年は軽く首を振ってその誘いを辞退した。その仕草は完璧で、強く拒絶するでもなく、かといって曖昧なところもなく、相手に不快感をあたえない絶妙な所作といえた。
 そして、青年はこう続けた。
「わたしはHBヒューマンズ・バドですので、飲み物はいただきません」
 青年の完璧さの理由はそこにあった。
 人間の活動の多様な側面を補佐し、介助する存在、ヒューマンズ・バド。超高速ユビキタスネットワークとメタラーニング、それに材料工学とソフトアクチュエータ技術があいまってようやく実現にこぎ着けた人類の夢の随伴者。彼らのことを期待を込めて「人類二・〇」と呼ぶ者もあれば、侮蔑を込めて「人類〇・五」と呼ぶ者もいた。
 初期のHBは人の形をしたただの無骨な機械に過ぎなかった。むき出しのフレーム、無遠慮なカメラ、決まりきったセリフを吐き出すだけのスピーカー。金持ちの道楽か、ヒト型でありさえすればいい作業現場、あるいは自分の世話をしているのが人間なのか機械なのか意識することもできなくなった老人の介護くらいにしか、初期のHBの活躍の場はなかった。
 最初の変革はあらゆるところでつながるネットワークの構築だった。意識するしないによらず、二十世紀終わりのインターネットの出現は、人類を極端なさみしがり屋の集団に変えた。いつでもどこでも誰かとつながれるという感覚は、やがて便利なものからあたりまえのものとなり、ついにはそれなしでは不安を感じるまでになったのである。
 結果、いつでもどこでも膨大な量の情報にアクセス可能なネットワークが構築されることになり、地上アンテナ、海洋アンテナ、衛星通信網がまとめあげられ、——ほとんど意味のないことではあったものの——北極点とポイント・ニモとの接続式典をもって、グローバルネットワークの構築が高らかに宣言された。
 これにより増加した情報トラフィックはもちろん人類の接続欲求に応えるものであったが、同時に人工知能研究に大いに資するものとなった。なにしろそれまでのディープラーニングで扱っていた情報量が一気に数倍に膨れ上がったのである。
 ここにきて人工知能はただ単に「なにかを学ぶ」だけでなく、自分が「なにを学んでいるのか」を考えることができるようになった。メタラーニングと呼ばれる「学習方法を学ぶこと」が可能になったのである。
 これらと同時に成長を遂げたのが、材料工学とソフトアクチュエータだった。
 量子コンピュータの登場は、主に薬学と材料工学を根本から変えた。新薬の開発はあらゆる分子、タンパク質の組み合わせの試行錯誤であり、かつては職人芸の様相を呈していた。それが量子コンピュータの計算能力によって一瞬にして無数の組み合わせを試せるようになったのだ。いってみれば、職人の数がある日突然数兆倍になったようなものである。
 それと同じことが、材料工学の分野でも起こった。それまでいくつものノーベル賞級の発見が偶然の産物であったところを、量子コンピュータによってその偶然を力ずくで引き起こせるようになったのだ。量子コンピュータは、「こんな物質を混ぜてみたらうまくいきました」と、次々と新素材を発見していった。
 それによって人間と大差ない質量で数倍の強度を持つ骨格、小型でありながらきわめて大きな容量を持つバッテリー、そして人間の筋肉と変わらない柔軟性を持つソフトアクチュエータが現実のものとなった。
 二十一世紀の初めに開発が始まったそれはIPMC(Ionic Polymer Metal Composite)アクチュエータと呼ばれる人工筋肉のひとつだった。開発の初期段階では有望視されてはいたものの、どんな材料を使えば現実的な出力を得られるか、まさしく五里霧中のままいたずらに時間だけが経過していた。
 なにしろその名のとおり、イオン導電性高分子に金属をメッキして、両面に電圧をかけることで屈曲させる素材である。イオンの種類、金属の種類、かける電圧など、変数はそれこそ星の数ほどあった。これらを一夜で、とはいわないまでも、量子コンピュータは数年で解決してしまった。
 このソフトアクチュエータが可能にしたのは省スペースで大出力を発生させることだけではなかった。不気味の谷も、一息に飛び越えてしまったのである。
 人形やロボットがある程度まで人間に近付くと、途端に不気味さを感じるようになる。心理学者はこれを「不気味の谷」と呼んだ。
 ソフトアクチュエータはこの問題を解決した。ソフトアクチュエータを顔に適切に配置することで、よくよく見なければアンドロイドとはわからないほどに自然な表情を生み出すことに成功したのである。
 これらすべてのことが、二十二世紀最初の十年でひとつに結実した。どうやら人類の技術的な革新は百年周期で起こるようになっているようであり、それまでの停滞は進歩の揺籃期といえるようだった。
 こうした革新がなければ、目の前にいるHBはいまだに不格好な金属の骸骨であり、とてもお茶に誘おうなどと思える存在ではなかっただろう。
「バドならバドらしくお茶くらいには付き合ってもらいたいものだわ」
 ミサキは拗ねたように唇をとがらせた。ヒューマンズ・バドの「バド」はバディの「バド」、すなわち「仲間」の意味だ。仲間ならお茶の相手くらいはしろと、ミサキはいっている。
「相変わらず、あなたたちはなんにもできないのね」
 さまざまな技術革新、情報革命にも関わらず、結局人類はいまだに「強いAI」を生み出せずにいた。
 二十世紀中盤に誕生して以来、コンピュータはいずれ意識と自我を持つ「強いAI」に発展すると予測されていた。それが、二十世紀中には起こる、二十一世紀初頭には起こる、ディープラーニングが進めば……、と何度もいわれ、結局ある者は期待し、ある者は怖れたシンギュラリティ技術的特異点はいまだに起こらなかった。
 本命といわれた量子コンピュータの発明ですら、きわめて高性能な「弱いAI」を作り出したに過ぎず、二十二世紀のいまになっても創発性を発揮する「強いAI」は現れなかった。
 いまミサキの世話をしているHBも、そんなAIのひとつだった。
「いいえ、ミサキ。わたしたちHBは人間が必要とするさまざまなお手伝いができます。たとえばこうして紅茶を淹れることもできますし、あなたの家の壁を塗り直すことだってできるんですよ」
 HBは機嫌を損ねた様子もなくいった。もっとも彼には損ねる機嫌など最初からなかったが。
 それでもミサキがとがらせた唇を変数として感情の悪化を、そしてそのあとにわずかに上がった口角を変数として感情悪化がそれほど深刻なものではないことは検知していた。
「いいえ、HB。あなたたちはまだおいしい紅茶がどういうものか理解できないし、何色の壁が素敵かも理解できないわ」
 ミサキはわざとHBの口調を真似ていった。
 彼女はおしゃべりを<楽しみ>たいのだ、とHBは判断した。この場合の<楽しむ>とは会話を継続すること。なんらかの結論や解釈を求めているのではなく、情報のやりとりによる刺激を欲しているのだ。だからあえて反論し、かといって一方的に論破することもないようにやりとりするのがもっとも期待値の高い行動だ。
「わたしには紅茶を味わうことができませんが、どのような紅茶がおいしいかはわかりますし、素敵な壁の色を提案することもできますよ」
「あら、そう?どうやって?」
「出荷量や販売額、評論家の意見を参照して判断できます。また壁の色は色彩心理学の観点から導き出すことが可能です」
 予想どおりの答えに、ミサキはニヤリとした。
「出荷量や販売額なんかでおいしい紅茶がわかるものですか。安い紅茶の方がたくさん売れるけど、その方がおいしいわけじゃないでしょう。評論家の意見だってあてになんかならないわ。どこからお金をもらってるかわかったものじゃないし」
「それでも一定の指針にはなります。そこからご自分の好みに合わせて茶葉を選んでいかれてはいかがでしょう」
「あなた、茶葉専門店の販売員にならなれるわよ。『お客様のお好みに合った紅茶をお探しいたしましょう』って。でもそれじゃAIArtificial IntelligenceじゃなくてIAIntelligent Agentだわ。Intelligent Agent知的エージェントがおいしい紅茶を理解しているとでもいうの?」
「いいえ、彼らはチャートにしたがって選択を進めているだけです」
「そうでしょう。わたしがいってるのは自分がおいしいと思ったものを誰かに勧めたり、これならよろこんでくれるんじゃないかって考えることよ」
「そのためには味覚が必要ですが、残念ながらわたしには味覚がありません」
 HBはほんの少し眉を上げ、肩をすくめてみせた。これがこの文脈での『降参』にあたる仕草に見えることを計算して。
「ミサキは紅茶が好きなのですね」
 ひとつのテーマに縛られず、そこからさまざまに展開していくことも会話を<楽しむ>技法だと、HBは知っていた。
「他の飲み物を飲んでいるところを見たことがありません」
 もちろん、これは嘘だった。ただ人間は数値や確率についてきわめて大ざっぱであることも、HBの帰納的推論回路には刻まれていた。
「そうね、気が付くと紅茶ばかり飲んでいるわね」
「お好きな紅茶の銘柄や種類を教えていただければ、今度からそれを買ってくるようにしますが」
 これはHBにとっては最善の発言だった。これまでの会話から導き出される、最良のセリフ。AI設計者なら満点をつけるだろう。いや、HB風にいうならウェイト〇・九六というところか。
 これに対してミサキは「そうね、それなら……」と、HBにお気に入りの紅茶を教えるはずだった。なにしろ彼女はたったいまHBをやり込めて、得意になっているはずだからだ。
 ところが、ミサキの反応はHBの予測とは違っていた。彼女はひとつ大きなため息をついて、こういったのだ。
「あなたを見ていると、ハンスを思い出すわ」
 人間の会話や思考は直線的ではない。それはHBもよく知るところだった。だから突然話題が変わったことも、驚くには値しなかった。ましてやHBにダウンロードされた診察記録によれば、ミサキは軽度の認知症を患っている。
「ハンス?」
 HBは通常の会話プロトコルの中に認知症対応サブルーチンを呼び出した。
 人類の平均寿命が前世紀よりぐんと延びて、最高齢は百五十才にも達しようかというこの時代に、彼女の年齢での認知症は若年性で軽度といえた。しかしそれでも少しずつ症状が進行しつつあることは事実で、物忘れをしたり同じ話を何度もすることは徐々に増えてきていた。
「融通が利かなくてね。あなたとは似ても似つかないけれど、それでも優秀なHB……、あの頃はただAIと呼ばれていたわ」
「アンドロイドなのですか?」
 これはHBの記録にないデータだった。ミサキがHBと暮らしはじめたのはほんの二年前のことであり、そのHBは彼自身のはずだった。
「アンドロイドといえなくもないかしら。でもあなたみたいに立派な身体は持っていなかったけれど」
「いつ頃の話です?」
「わたしがまだ十代だったから、二〇六〇年頃ね。ああ、ハレー彗星が帰って来ていたから二〇六一年だわ」
 ドクターに連絡するべきだろうか?はじめての実用的なHBが稼働したのはいまから八年前、二一二六年のことだ。それより六十五年も前に高度なAIを搭載したアンドロイドなど存在したはずがない。
「どんなアンドロイドだったのですか?」
 呼び出した認知症対応サブルーチンにしたがい、HBは会話を続けた。
 おそらく彼女は目の前にいるHBと当時知っていた誰かとを記憶の中で混同しているのだろう。それなら認知症はほんの少し進行しているものの、問題はない。しかしこの会話が散逸し、意味をなさないものとなってくるようなら、HBは彼女との会話を続けながら手順どおりドクターに連絡をとることになるだろう。
 HBはミサキの様子をつぶさに観察しながらデータベースを探った。やはりそんな時代にAIを搭載したアンドロイドなど存在しない。それどころかまともなAIすら——当時盛んに使われた宣伝文句とは裏腹に——ひとつも存在しなかった。
「妬いてるの?」
 ミサキはいたずらっぽく聞いた。
「いいえ、興味はありますが嫉妬はしていません」
 彼女はふんっと鼻を鳴らし紅茶を一口飲むと、存在しないアンドロイドとの思い出を語り始めた。

二 車椅子

 車椅子生活にも利点があることを、わたしは素直に認めるわ。
 第一に、いつも座っていられる。ええ、わかってる。こういうことをいうから怒られるのよね。
 だけど実際、車椅子で生活しているといいことだってあるのよ。それはね、人間には案外素敵な面があって、それに気付くことができるってこと。
 たとえば発車間際のバスがわたしを待ってくれたり、スーパーで高いところにあるものを誰かが取ってくれたり、わたしが通れるようにドアを押さえていてくれたりね。
 そんなことはあたりまえだというなら人類はずいぶんと進歩したんだと思うし、車椅子生活の不便さを帳消しにできるほどのものじゃないっていうなら、ええ、まあ、それはそうねとしかいいようがないわ。
 でもわたしにとっては小さい頃から車椅子で生活するのが普通だったから、誰かに親切にしてもらうのは普通にうれしいことで、それがたくさん起こるのはうれしいことがたくさんだったわけなのよ。
 もちろん普通にたいへんなことや嫌なことだってあったわ。それに、普通以上に嫌なことや、我慢できないほど嫌なことも。
 歳を取ることにも利点があってね、それはたいていのことは大目に見られる、「まあ、いいか」と思えるようになることなの。
 オンラインショッピングで注文した商品が指定の日時に届かなかった、若いお医者さんが注射を打つのが下手だった、融通の利かないHBがわたしの頼みを理解してくれなかった……。どれもこれも、歳を取るとたいした問題じゃないと思えるようになるの。
 だけど十代のわたしには我慢できないことが山ほどあって、その中のひとつがリナだった。
 高校に入ったばかりの頃、わたしは同じクラスのリナと知り合いになった。リナは不思議なくらいきれいな褐色の肌をしていてね、その肌の艶やかさと同じくらいエネルギーにあふれた子だった。
 バスケットボール部に所属していた彼女はクラスの人気者で、どちらかというと男子よりも女子に人気があった。だって彼女は男勝り——こんな言葉はもうわたしの年代しか使わないかしら——なところがあって、そうね、格好良かったのよ。中には本気で彼女のことを好きになる女の子もいたと思うわ。リナも、まんざらでもないようだった。
 わたしはといえば、勉強の方はそこそこだったけど、たいして目立つ存在ではなかったわね。目立つのはむしろわたしが乗っている電動車椅子の方で、それもなにか困ったことがあるときばかり。バッテリーが上がった、タイヤが溝にはまった、あるときなんて授業中に「転倒の危険があります。注意してください。転倒の危険があります。注意してください」って警報が止まらなくなってしまったこともあったわ。
 そんなとき、リナは決まって手を叩いてこういうのよ。「ほうら、どうして乗ってる本人よりも車椅子の方が目立ちたがるのかしら」
 最初のうちは、わたしはそうやってからかわれるのが嫌だった。だってそうやってからかわれると、迷惑な存在がここにいますって指さされているような気がしたから。
 だけど、次第にそれがみんなが険悪な空気になるのを防いでくれているんだと気付いて、リナに感謝するようになったの。リナが狙ってそれをやっていたとは思わない。たぶん彼女は、先天的にそういう素質を持っていたんだと思う。みんなをまとめ、引っぱっていく才能。最終的に彼女は早くに結婚して五人の子どもの母親になったんだけど、政治家や起業家になっていたらどれほど成功していただろうと思うときがある。
 その才能がわたしにとって最悪の形で現れるようになったのは、二年生になって、ゴールデンウィークも終わり、そろそろ本格的にみんながクラスになじんでくる頃だった。
 わたしの通っていた高校では、その時期になると親の職業を紹介する授業があったの。プレゼンテーションの練習でもあったし、高校側としては親に感謝することを教える意図もあったんだと思うわ。普段あたりまえに接している親という存在を仕事というフィルターを通して見ることで、別人格として意識するようになるでしょう。それに、仕事というものにティーンエイジャーの目を向けさせる目的もあったと思う。
 親の仕事を紹介するのは、もちろん全員じゃないわ。中には紹介できない仕事もあったし、紹介したくない仕事もあるでしょう。国税査察官だったりしたらおおっぴらにできないし、葬儀屋の地域マネージャーなんていうのもあんまり友だちに教えたくはないわよね。だから何人かはかたくなに授業での発表に参加しようとしなかったし、普段の会話でも触れようとはしなかった。
 職業に貴賎はない?わかってるわよ。歳を取ったわたしにはわかるの。でもわたしたちはまだ十代で、道徳よりも見栄の方が優先順位が高かった。
 それはリナも同じで、いいえ、リナはそれが人よりも強かった。それも仕方ないのかも知れない。だって彼女はいつもみんなの中心にいて、注目を集める存在だったんだから。
 あるときリナはね、発売されたばかりでまだ誰も手に入れていないスニーカーを持って来たわ。いいえ、履いて来たんじゃない。持って・・・来たのよ。
 そのスニーカーは当時売れに売れていたVRアイドルが履いていたもののレプリカで、女の子も男の子もみんな欲しがった。実体がないのをリアル化したものもレプリカっていうのかしら?まあいいわ、とにかくみんなそれを欲しがったの。
 いまにして思えば、それが入手困難だったのはプロデューサーだか、メーカーだかの戦略で販売数を絞っていたからなんだと思うけど、高校生の物欲とアタマなんてそんなものよ。熱病みたいなものね。みんなが欲しがってる、だからわたしも欲しいってね。本当に欲しいかどうかなんて問題じゃないの。
 リナはそれを、なにをどうやったのか、まんまと手に入れて持って来たの。ええ、履いてなんか来なかったわ。だってそれは、靴でありながら靴じゃないんだもの。それはみんなが「欲しい」と思う気持ちの具現化であって、足を保護したり歩行を快適にするなんて機能は二の次だったのよ。だからそんなものが少しでも汚れたり、すり減っていたりしてはならなかったの。靴底に泥がべったり付いていたりしたら、それはもうわたしたちの欲しいスニーカーではなくなってしまう。
 そういうことを誰よりもよくわかっていたリナは、箱に入ったままの状態でスニーカーを持って来て、みんなの前でうやうやしく開けてみせたわ。
 そのときの様子ったらなかったわよ。その箱にはちょっとした仕掛けがしてあって、蓋を開けると靴の上に例のVRアイドルの立体映像が浮かび上がるの。そしてこういうのよ、「これであなたも『特別』ね」って。
 リナはそれを知っていたんだと思う。だからみんなが彼女の机のまわりに集まると、前の方の子には少し腰をかがませて後ろの子にも箱がよく見えるようにしてから、それはそれはおごそかに蓋を開けてみせたのよ。
 VRアイドルのセリフが聞こえると、みんなため息とも悲鳴ともつかないような声をあげたわ。こんなふうに話しているけれど、わたしだってその中の一人だった。というか、大勢の中の一人に過ぎなかったし、わたしはそれになんの不満もなかった。
 でも、リナはそうじゃなかった。そうやって注目を集めることが大好きだったし、注目を集め続けるためにはなんだってやったわ。
 いいえ、彼女を批判しているわけじゃないの。だって彼女は勉強だってスポーツだってがんばっていたし、そのために並々ならぬ努力をしていたんですもの。その動機が少々幼稚だったとしても、それはわたしたちがみんな持っている幼稚さだった。
 そんなリナにしてみれば、親の職業を紹介する授業はまたひとつ目立つための絶好の機会だったのよ。
 教室の前に立ったリナは、自信に満ち満ちて見えた。そしてこう話し始めたの。「わたしのパパは宇宙航空研究開発機構JAXAでハレー彗星の探査機を設計しました」
 その当時は何度目かの宇宙探査ブームでね。なにしろ火星の有人探査が始まったばかりだったし、木星や土星の衛星で次々と地球外生物が見つかっていたしね。
 いまではあたりまえになっているけれど、ヒレがあって魚のように泳ぐ甲殻類とか、普段は巨大な海藻にしか見えないのに這いまわって、繁殖期になると遊泳体を作ってそれで交尾を行う生物とか、そんなものがいくつも見つかった時期なのよ。
 最初はみんな大興奮で毎日のようにニュースになっていたんだけど、あんまり次々見つかるものだから次第に飽きられてしまってね。飽和状態というのかしら、よほどおかしな生物が見つからないかぎり話題にも上がらなくなってしまったの。
 何年もあとで、エウロパの海で平泳ぎする男にそっくりな生物が見つかって大騒ぎになったけれど、それきりだったわね。
 でも職業紹介の授業の頃は、宇宙熱は最高潮の時期でね。リナにしてみれば目立つためのまたとないチャンスだったのよ。だってそのブームのさなかに、自分の父親が接近中のハレー彗星の探査機を作ったっていうんだから。彼女はそれこそ得意になって、みんなの前でお父さんの仕事を紹介していたわ。
「みなさん知っていると思いますが、七月の終わりにハレー彗星が地球に接近します」
 堂々とした様子で、リナは宣言したわ。まるでハレー彗星の動きまで、自分の思いのままであるかのように。
 一年以上前に打ち上げられていたその探査機はすでに華々しい成果を上げていてね、彗星の核に有機化合物だけでなく希少金属まで含まれていることを発見していたのよ。
 リナはそれまでの開発の様子、飛行の様子をさまざまな資料とともに紹介していたの。 とても上手にスマート・ホワイトボードを使ってね。探査機を擬人化したアニメーションまで作ってきていて、月基地を飛び立った探査機がハレー彗星に到着するの。すると探査機は彗星の周回軌道をまわりながら、ルーペで着陸によさそうな場所を自分で探すのよ。
 そう、AIというにははなはだお粗末だけれど、それでもその探査機は自律型で自分の頭で考えるの。
「わたしのパパは、こんなふうに自分で考える探査機を作っています」
 そして最後にはメガネをかけた探査機がロッキングチェアで揺られながら、パイプをくゆらせて物思いにふけっている様子で終わるの。パイプなんて、誰も本物を見たこともないのに。
 担任の先生も満足そうだった。誰よりリナ自身がいちばん満足そうだったけれど。
 それまで、わたしはリナと特に親しいというわけではなかった。ときどき話をしたり、助けてくれたりすることはあったけれど、それはリナにとっては、落ち穂のようなものでね。リナは自走式のトウモロコシ収穫機、わたしはそこからぽろぽろとこぼれた粒をついばむスズメのようなものだったわ。
 自分のことを収穫機の仲間だなんて思うスズメがいる?わたしとリナは、学校という同じ畑にいたけれど、住む世界はまったく違っていたのよ。
 だけど彼女の発表を見て、わたしはリナに親近感を覚えた。だってわたしの父さんも「自分で考える機械」を作っていたから。
 父さんはアニマテックという会社でAIの開発をしていたの。正確にはAIとそれを搭載するアーティフィシャル・ボディ人工身体の開発ね。
 その会社ではAIを開発するのと同時に、AIに身体をあたえるという研究をしていたの。「身体性のないAIが人間のパートナーになるのは不可能だ」って、父さんはよくいっていたわ。
「ミサキが鳥と話ができるとしようか」と父さんはいったわ。「きっと空を飛ぶことについては話が合うと思うよ。スピード感とか、気持ちよさとかね。僕たちも飛行機やグライダーを使って空を飛ぶことはできるから。でも、翼を動かす感覚についてはどうだろう?
 翼で空気を押す感じとか、風切り羽が震える感触については、本当の意味でわかり合えることはないんじゃないかな。だって、そもそも僕らには翼がないんだから」
 だからAIを人間のパートナーにするためには、どうしても僕らと同じような身体が必要なんだ、と父さんはいっていたわ。
 それならわたしには、歩ける人の気持ちは一生わからないかも知れない。逆に歩ける人には、わたしみたいに車椅子で生活する人間の気持ちはわからないのかも知れない。
 ううん、父さんがそんなつもりでいったんじゃないことはわかってるから、そんなふうには思わなかったわ。だいいち、人間はみんな違うもの。それを言い始めたら、どんな人だって他人とわかり合えない。
 そういうわけで、父さんの会社では単に高性能なコンピュータとしてのAIではなく、人間とわかり合える存在としてのAIを作っていたの。いいえ、作ろうとしていた、ね。
 だからわたしはすっかりリナに親近感を覚えてしまって、授業のあとでリナに近付いてこういったの。「ナイショだけどね、わたしのお父さんも考えるコンピュータを作っているの。リナのパパと一緒ね」 
 その言葉を聞いたときのリナの顔はいまでも忘れられない。あんな表情の人間を、わたしはそれまでもそれからも見たことがないわ。
 驚きと動揺、そして狼狽。わたしはそれが、すぐに嫌悪と憤怒に変わるのを見た。まだ十七かそこらの子どもにあんな憎しみのこもった顔ができるなんて、想像したこともなかった。
 そしてリナはわたしの顔を睨みつけたまま、「あなたのパパなんかと一緒にしないで」といったわ。わたしはなにをいわれているかわからなかった。だってわたしはただ仲良くなりたかっただけなんだから、クラスの人気者のリナと。
 次の日からわたしに対するリナの嫌がらせが、いいえ、攻撃が始まったの。
 最初は机にぶつかる、ノートを落とす、そんな程度のことだった。それがだんだんと、わたしの手の届かない高いところに荷物を載せる、通路をふさぐ、車椅子のバッテリーを外す、とエスカレートしていった。
 もちろん、最初のうちはわたしの味方をしてくれる子もいたわ。だけど次第にそれも減っていったの。だってリナはいつもみんなの中心にいたし、自分が代わりの標的にされるのは誰だって嫌でしょう?
 だからわたしの味方をしてくれる子は減っていき、そのうちその子たちも攻撃に加わるようになっていったの。初めはリナに命令されて嫌々だったのかも知れない。だけど少しずつ、自分から進んでわたしをいじめるようになっていったわ。
 人がどうしてイジメをするかわかる?HBであるあなたにはわからないわよね。
 イジメはね、楽しいのよ。
 最初はあきらかに渋々イジメに加わっていた子たちも、回を重ねるごとに顔に笑みを浮かべるようになって、最後には声をあげて笑いながらわたしの車椅子を蹴るようになったわ。それはもう一種の娯楽なの。いじめる側からすれば、それは安全なところから攻撃欲求を満足させることができる甘い甘いエンタテインメントなのよ。
 それでもわたしはこのイジメがいずれ終わると思っていた。明日になれば、来週になれば……、でもそんな日は来なかった。
 そしてある日、わたしはとうとう担任の先生に相談に行ったの。
 その日もわたしは一日のイジメに耐え抜いて、放課後遅くまで教室に残っていた。廊下に放り出されたカバンとノートと教科書を拾い集めてから、先生の部屋に向かった。
 その先生は若くてとてもきれいな人でね、わたしたち女子のあこがれの的だったわ。わたしたちもメイクや大人びた服装に興味を持つ年頃だったから、よく先生は生徒に囲まれて化粧品やファッションの話をしていたわ。そう、そういう子たちの中に当然リナがいたことをわたしはすっかり忘れていた。
「リナがそんなことするなんて、ちょっと信じられないわね」
 目の前がまっ暗になる、という表現を聞いたことはあるかしら。そうね、人間は強いショックを、とりわけ絶望的な衝撃を心に受けると視野が暗くなるといわれているの。あれはね、本当よ。あなたたちHBは決してそんなことはないけれど、人間は絶望を感じると本当に目の前がまっ暗になるの。
「ミサキの方にも、なにか原因があるんじゃないかしら。思いあたるようなことはない?」
 それはそれは見事な、「いじめられる側にも問題がある」という理屈よ。そのときのわたしはなにも答えられなかったけれど、大人になってからわかったわ。いじめられる側に問題なんてないのよ。問題はいじめる側にしかない。
 なにか問題があったとしても、それは指摘し、議論し、改善を目指すべきことであって、イジメをしていいという理由にはならない。イジメを開始した時点で、問題はいじめる側にしか存在しない。
 だけど子どもだったわたしは先生の言葉にただただショックを受け、なにもいえなくなってしまった。わたしの目の前はまっ暗になり、自分が目を開けているのか閉じているのかわからなくなって何度もまばたきをしたわ。
 そのあとは先生がなにをいっていたのか、まったく覚えていない。それどころか、その日どうやって家に帰って来たのかすら、わたしは覚えていなかった。
 ただ気が付いたら一人で明かりの消えたリビングにいて、父さんが帰って来るまでにどうやってこの泣きはらした目の腫れを引かせようかとばかり考えていた。

三 友だち

《ごめんね》
 ユイちゃんからメッセージが来たのは翌日の午後のことだった。
 ユイちゃんはリナのイジメが始まってからもわたしと一緒にいてくれた数少ない友だちの一人で、やがてわたしと一緒にいてくれるたった一人の友だちになった。
 父さんに、「頭が痛いの」と嘘をついて学校をサボり、ベッドでだらだらとしているとき、枕の下に入れっぱなしのスマホがメッセージの到着を告げた。
 わたしの筆箱が机から払い落とされたとき、ユイちゃんはそれをさりげなく拾ってくれた。あまりにもさりげなさ過ぎて、筆記用具を落としたリナも気付かなかったほどだ。
 わたしの目の前でわざとドアが閉められたとき、ユイちゃんは自分が通るふりをしてドアを開けてくれた。彼女は廊下になんの用事もなかったというのに。
 たった一言のそのメッセージが、ユイちゃんの優しさを物語っていた。
 なにか、返さなくちゃ。
 だけどわたしはなんとメッセージを打っていいのかわからず、両手で握りしめたスマホをただ見つめていた。
 ユイちゃんの優しさに応えられない自分が、情けなかった。
《明日は、学校来る?》
 いまは、昼休みか。
 ユイちゃんはきっとトイレかどこか、リナたちの目の届かないところでメッセージを打っているんだろう。さすがにリナもいちいち他人様のメッセージを盗み見たりはしないだろうけど、ふとした拍子にわたし宛のメッセージを見られたりするのは誰だって避けたいところだ。
 イジメなんて、なにをきっかけに始まるかわかったものじゃない。
 今回わたしはそれを身をもって知ったし、わたしがどうしてリナに目を付けられたのか、わからなかった。
 それに、リナはいつでも誰かをいじめていたわけじゃない。それどころか、彼女が誰かを攻撃するなんて想像もできなかった。
 少々目立ちたがり過ぎるところがあったとはいえ、明朗快活が服を着て歩いているような女の子だった。それが、あんなにあっさりと陰湿な行為に踏み出すなんて……。
《体調は悪くない?》
 ユイちゃんのメッセージ、順番が逆だよ。そう思って、わたしは少し笑った。
 普通なら、体調を聞いて様子を見て、それから核心に触れるのに。ユイちゃんはいきなり核心を衝いてくる。しかも彼女はなにも悪くないのに、いきなり《ごめんね》だ。
 わたしがここにこうしているのは、ユイちゃんのせいなんかじゃないのに。強いていうなら、リナのせいか、わたしのせいか。
 少なくとも、学校をサボってユイちゃんに心配をかけてるのはわたしのせいかな。
《また連絡するね》
 返信できないまま、ポツリポツリと届くメッセージを受け取るだけ受け取っているあいだに、昼休みの終わりの時間になってしまった。
《大丈夫だよ》という嘘も、《もう嫌だ》という本音もスマホの向こう側に届けられないまま、友人の優しさに甘えるだけのクズが、ベッドの上に横たわっていた。

四 目玉焼き

「わたし、学校に行きたくない……」
 なにひとつ喉を通らない朝食の席で、わたしは父さんにいった。
 うちには母さんがいないって話はもうしたかしら?小さい頃は、「ミサキは父さんから生まれたんだ」って父さんはよくいっていたけれど、それが嘘だとわかる年齢になると母さんはもう死んでしまったって話してくれた。小学校に上がる頃かしら。
 それ以来ずっとわたしたちは二人で暮らしていたから、車椅子生活と同じく、わたしにとってはそれがあたりまえだった。
 父さんはいつも帰って来るのが遅くて、夕食は別々にとることが多かったんだけど、朝食は一緒に食べるのが我が家の習慣だった。そして朝食を準備するのはわたしの役目。
 でもその日はなんの支度もしていなくて、父さんが慌ててトーストと目玉焼きを作ってくれた。父さんが作る目玉焼きはいつも黄身が固くて、まるで粘土みたいだってよく笑っていたわ。
 だけど大急ぎで作ってくれたからか、その日の目玉焼きは黄身がとてもやわらかくてお皿をテーブルに置いただけでぷるぷると震えていた。
 わたしの言葉を聞いて、父さんは「どうしたの?」とはいわなかった。どうして?なにがあった?原因は?なにひとつ質問せず、ただトーストを頬ばりながらこういった。
「そっか。じゃあ、休んじゃおっか」
 それが、母さんがいなくてもわたしが寂しくない理由だった。
 あまりにも幼かったから、わたしは母さんが死んでしまったときのことを覚えていない。他の子たちが母親と遊んでいるのを見ても、うらやんだりひがんだりすることはなかった。
 父さんは母さんの不在を埋めてなお余りあるほど、わたしを愛してくれた。そして、信じてくれた。それはどんなときも変わらない。
 この日も父さんは、わたしのいうことをあっさりと認めてくれた。父さんならきっとそうする。それはわかっていたけれど、実際にそうなるとわたしはいくらかたじろいだ。
「いいの?」
「いいんじゃないかな。まあ今年はちょっと早い夏休みに入ったということで」
 夏休みまではまだ二ヶ月近くあるというのに。たったそれだけの会話で、わたしはその日から学校に行かないことに決まった。
 父さんはそれ以上なにもいわないで、口の中のトーストをオレンジジュースで流し込むと、上着を羽織って会社に向かおうとした。
「火の元だけは気をつけてね。あと、出かけるときは鍵を……って、そのへんはミサキの方がしっかりしてるか」
 そうなのだ。父さんは会社でとても精密な仕事をしているくせに、いやその反動か、いろんなところが抜けている。洗濯物を入れずに洗濯機を回してしまったり、靴下が左右違うなんてことはしょっちゅうだ。あるときには鍵どころか、ドアそのものを開け放ったまま一日外出していたことがあった。幸いにも、泥棒が入ったりすることはなかったけれど。
「ねえ、お父さん」と、わたしはその背中に呼びかけた。「お父さんは、会社に行きたくなくなったりしないの……?」
「うーん」父さんはしばらく考えてからいった。「ないなあ」
 すっかり冷えてしまったトーストは、どんなにこすりつけてもバターが溶けていかなかった。
「行ってきます」と父さんが開けた玄関から湿った風が入ってきて、雨の季節が近付いていることを告げていた。
 一人になると、家の中はいつもよりいっそうがらんとしているように思えた。
 父さんが先に家を出るのはめずらしいことじゃない。わたしが先だったり、父さんが先だったり。だから朝食後、わたしが一人でいるのもよくあることだった。
 だけど、今日は。
 今日このあと、わたしは学校に行かない。
 もちろん、学校に行かないという人生があることも知っている。
 そもそも発展途上国ではとか、宗教上の理由で女性に高等教育を認めていない国もあるとか、そんなことも知っている。知識としては。
 でも知識として知っているのと、実体験として持っているとのは違う。やっぱりわたしのまわりでは学校に通うことが普通だったし、高校に籍を置いている人間が一日中家にいるという普通じゃない現実が胸に迫る。
 だけどもう、リナに会わなくてすむ。もう、教科書を隠されたり、手の届かないロッカーの上にカバンを載せられたりしなくてすむ。もう、あなたにも原因があるなんていわれなくてすむ。もう、廊下を荷物でふさがれなくてすむ。もう、エレベーターで行きたくもない階のボタンを全部押されなくてすむ。もう、もう、もう……。
 フォークの先でつつかれた黄身が、だらりと流れ出した。
 わたしの目からも涙があふれた。
 皿を汚す黄身を、わたしは冷えて硬くなったトーストで拭うようにして口に運んだ。皿に押しつけられたトーストは、ぽろぽろと崩れてテーブルの上に散った。
 わたしは自分がちりぢりになっていくような気がした。

五 引き籠もりの理由

 翌日も、翌々日も、わたしは学校に行かず、家から一歩も出なかった。それどころか、ほとんど自分の部屋からも出なかった。
 この三日間でわたしがしたことといえば、掃除と洗濯と部屋の隅の壁紙が少し剥がれかけているのを発見したことくらい。ただその場所は天井に近い位置にあって、車椅子に乗ったわたしからはどうやっても手の届かないところだった。
 時計の針は焦らすようにゆっくりとしかまわってくれなかった。何度見直しても針がちっとも動いていないということが何回もあって、もしかしたらとバッテリーを疑ってみたりもしたけれど、秒針だけが動き続けるようなバッテリーの上がり方はありそうになかった。
 学校に行くというのが自分の人生のこんなにも大きな部分を占めていたのかと思うと、不思議なくらいだった。あんなに行きたくないと思っていたのに、いざ行かなくなってみるとその時間をどう過ごしていいのかわからない。
 音楽も、映画も、小説も、どれもこれもわたしの興味を引いてくれず、結局わたしはなにも考えずに手を動かしてさえいればいい掃除と洗濯に舞い戻ってしまうのだった。
 それでも、外出もしないのに洗濯物がそれほどたくさんあるはずはなく、シーツや布団カバーまで洗ってしまうと、もうわたしを洗濯機の前に連れて行ってくれる汚れ物はなにひとつ残っていなかった。
 そして掃除の方も、いよいよお風呂場のカビとりでもするか、爪楊枝を使って床の継ぎ目をきれいにするかくらいしかやることがなくなってしまった。
 わたしはこれからどれくらいこの退屈と付き合っていけばいいのだろう。もしかしたらもうずっとこのまま家にいるのかも知れない。そしてそのうち、退屈と感じることにすら飽きてしまって、もうなにも感じなくなるのかも。
 やがて笑うことも、泣くことも忘れて、自分が存在していることも忘れてしまうのかも知れない。それはきっと、リナの方でも同じなのだろう。
 リナもその取り巻きも、きっとわたしのことなど忘れてしまう。わたしをいじめていたことも、それどころかわたしが存在していたことも、きっと忘れてしまうに違いない。
 ああ、そうなのか。
 つい昨日まで、わたしは引き籠もってしまう人たちのことがわからなかった。外に出ればいいのに、新しいことを見つければいいのに、そんなふうに思っていた。部屋の外には、まだ見ぬ世界が広がっているかも知れないのに、なんて。
 でも、違うんだ。
 あの人たちは部屋の外に広い世界があることを忘れてしまっているんじゃない。そんなことは百も承知で、百も二百も承知で、自分がその中に存在していることを忘れてしまっているんだ。
 あんなにつらい思いをするくらいならいっそ自分のことを忘れてほしいと願い、その願いをせめて自分だけはと叶えてしまったんだ。
 だからあの人たちは、引き籠もっているんじゃない。外に出ないんじゃない。外の世界に出て行く自分がいなくなってしまっているんだ。
 その証拠に、今日のわたしは掃除機であり、食洗機であり、洗濯機である以外にはなにものでもない。掃除機も、食洗機も、洗濯機も、そこに「ある」けど「いる」じゃない。わたしはもう、車椅子の上に「ある」だけの存在だ。
 わたしの中にあるものがはらはらと部屋の中に散っていくような気がして、わたしは逃げ出すように二階に上がった。
 車椅子使用者のわたしは、本来ならずっと一階にいた方がいい。二階への上り下りという普通の人にとってはなんでもないことが、わたしにとってはひと苦労だからだ。いまだって、階段につけられた昇降機を使ってやっとのことで二階に上がっている。
 だけどわたしの部屋は二階にある。それはこの家を建てるときに父さんがそう要望したからだ。わたしは理由を聞かなかったし、反対もしなかった。
 ただなんとなく、見晴らしをよくしてやりたいのだろうと思った。車椅子に座ったままのわたしは、ただでさえ視点が低い。混んでいる電車になんか乗ろうものなら、途端にベルトの品評会になる。
 だからせめて、家にいるときくらい遠くが見渡せるようにしてやりたい。たぶん父さんはそんなふうに考えたんじゃないかと思う。
 でも、いまは。
 いまのわたしは遠くを見られない。
 以前はあんなに行ってみたいと思った遠い山並みも、くぐり抜けてみたいと思った街の並木も、いまはまるで窓枠に切り取られた絵のようにしか見えなかった。
 曇り空の下で、その絵は色も影も失っていた。
「さあ、これは何色に見える?」
 二年生になって選択した美術の授業、その最初の時間に先生はいった。暗幕を閉め、照明を落とした美術室の教壇の上にはコンクリートのブロックが置かれ、誰がどう見たってそれは見慣れた灰色をしていた。だからみんな、口々にそう答えた。
 ところが。
「光量が不足していると、わたしたちの目は正しい色を見ることができない」
 ニヤリと笑った先生が勢いよく暗幕を開けると、そのブロックはきれいなオレンジ色をしていた。
「わたしたちの眼球には錐体細胞と桿体細胞があって、色を見分けるのは錐体細胞。十分な光量があると、三種類ある錐体細胞が赤、青、緑の色を感じとってくれる。でも光量が少ないと錐体細胞は働かない。一方で桿体細胞は暗いところでも働いてくれるんだけど、あいにくこっちは色がわからない。だからみんなの目には、オレンジ色のブロックが灰色に見えたってわけだ」
 あとは先入観だな、と先生はつけ加えた。そして、「この色に塗るの苦労したよ」とコンクリートブロックを撫でた手を生徒に向けると、その手のひらはオレンジ色に染まっていた。
 生徒を驚かせるためだけにそんな手の込んだ準備をしていたというのがなんだかおかしくて、美術室にいた生徒たちはみんな声をあげて笑った。
 ああ、これも学校の思い出だ。あれから、ふた月しか経っていないなんて。
 あのときは、先生が暗幕を開けた途端に色が戻った。コンクリートブロックのオレンジも、ホワイトボードの白も、机の茶色も、誰かのキーホルダーのピンクも、カーディガンの水色も。
 でもいま、わたしが見る風景には色がない。カーテンを開け放っているのに、この部屋の中にさえ色があるようには思えない。
 わたしは、間違っていたのかしら?
 たとえいじめられるとわかっていても、それでも耐えて学校に通い続けるべきだったのかしら?
 電動車椅子の上に「ある」ことにすら耐えられなくなって、わたしはベッドに身を投げ出した。

六 お父さんの好きな人

 どれくらい眠っていたんだろう。
 気が付くと外はまっ暗になっていて、遠くに街の灯りが見えていた。ああ、こんなところにも距離を感じる。わたしたちの家は街外れの高台にあって、などというと少しおしゃれな感じがするけれど、要するに田舎の山道を登ったところにあるのだ。
 だから小さい頃、みんながショッピングモールで楽しくお買い物をしているとき、わたしは森の中で激しく虫取りをしていたし、みんながカフェで呪文のような名前の飲み物を飲んでいるとき、わたしは川で溺れかけて死ぬほど水を飲んでいた。
 中学生になり、高校生になって、少しずつ街の子との距離が縮まって、ようやく呪文のような飲み物を恥ずかしげもなく注文できるようになってきたところで、このありさまだ。いまのわたしには、街の灯りが星の明かりよりも遠く思えた。
 ベッドに横になって天井を仰いだままため息をひとつつくと、目の隅で小さな明かりが灯っているのが見えた。ベッドに倒れ込むときにポケットから飛び出したスマホの小さなランプが、申し訳なさそうに点滅を繰り返していた。
 身体をひねってスマホを取り上げると、センサーがその動きを検知して画面が灯った。環境光に合わせていちばん弱い光になっているはずだけど、たっぷり暗がりで過ごしてしまったわたしの目には痛いほどまぶしい光だった。
 目を細めて見ると、ロックされた画面には「お父さん」という文字と、メッセージ内容の概略が表示されていた。
 昔のスマホは単純にメッセージの差出人と冒頭部分が表示されていたそうだけど、この時代にはすでにAIがメッセージ内容を解析して、大まかな内容が伝わるように表示されるようになっていた。父さんにいわせるとそれはまだまだ小学生の要約並みで、ときにはまるで逆の内容になってしまっていることもある。だからどのメーカーも、「要約機能は完全ではありません。必ず元のメッセージをご確認ください」という注意書きをどこかに添えていた。
 だけど、この要約は……。
《会ってほしい人がいる》
 間違えようがない。たとえ小学生であっても、いや、幼稚園児であっても間違えるはずがない。
 おそるおそるメッセージ本文を開くと、ほとんど変わりのない文字が並んでいた。
《ミサキに会ってほしい人がいるんだ》
 要約する必要もないくらい、簡潔な文だった。今回、わたしのスマホに搭載されているAIは見事な仕事をした。してしまった。この文をなんとかして短くしろといわれたら、《会ってほしい人がいる》以上の正解はないだろう。
 覚悟はしていた。高校生の娘がいるといったって、父さんはまだ老人なわけじゃない。いずれ誰かと出会って、再び恋に落ちて、再婚して、年の離れた弟ができたりなんかしてと、想像してみたことがないわけじゃない。
 いやむしろ、それを望んでいた節がある。父さんはもっと幸せになっていいはずだ。
 冗談めかして、そんな話をしたこともある。
「お父さん、研究所にいい人いないの?」
 たいていそれは朝食の席、トーストの焼き加減が完璧で、二人ともご機嫌なときだった。
「いいかい、ミサキ。研究機関には素敵な女性がいないというのは偏見だ、というのこそ偏見なんだよ」
「またあ、そんなこといって」
「まあ、それは冗談だけどさ。素敵な人っていうのは、たいていすでに別の素敵な人とくっついてしまっているものなんだ。残念ながらね」
 さほど残念にも聞こえない口調で、父さんはいっていた。
 それでも、父さんはもっと幸せになっていい。
 だって父さんは、早くに母さんに先立たれて、身体の自由のきかない娘の世話をして、仕事だって夜遅くまでがんばって、それなのにいつもわたしに優しくて、それなのにわたしは学校にも行かなくて、それなのにわたしは……。
 まだスマホの画面に見入っているうちに、車のヘッドライトの明かりが部屋の天井をなめた。続けてタイヤが土を踏む音と甲高いモーター音。
 父さんだ。
 メッセージのタイムスタンプを見ると、三時間も前の時刻が記されていた。父さん、きっとわたしがとっくにこのメッセージを見たと思ってるんだろうな。未読マークなんて、気にしないもの。
 わたしは深呼吸して、気持ちを落ち着けようとした。
 父さん、なんていって切り出すんだろう?「研究所の同僚で、気の合う人がいて」とか、「ミサキにもお母さんが必要だと思って」とか?
 いや、「お母さんが必要」はないな。父さんがそんな「おまえのために」みたいな言い訳めいた言い方をするわけがない。きっと正直に、「父さん、研究所で好きになった人がいて」っていうに違いない。
 いやいや、それをいうなら研究所の人って決まったわけじゃないんじゃない?研究所に出入りしている業者の人とか、食堂で働いてる人とか、もしかしたらふと立ち寄ったカフェの店員さんとか?
 いやいやいや、もうすでにわたしが知ってる人だったらどうしよう?でもわたしが思いあたる父さん関係の女の人って、研究所の人くらいしかいない。あとは食材宅配サービスの配達員さんだけど、いくらなんでも、恋は年齢じゃないといってもお歳がお歳……。
 そんなことをベッドの上で転がりながら考えているとき、ふと気付いた。
 父さん、まだ家に入って来ない。
 それどころか、まだ車から降りて来てさえいない。
 これは、まさかとは思うけれど……。
 父さん、いきなりその人連れて来るつもりじゃ?
 もしかしていま、車の中で二人でわたしにどう切り出すか相談してる?
 慌ててスマホを握り直し、次のメッセージに目をやると、
《今日、連れて行く》
と、要約の必要もないほど簡潔なメッセージが浮かんでいた。
 ちょっと待って!いくらなんでも急過ぎる!お父さんの好きになった人が、わたしのお母さんになるかも知れない人が、わずか十メートル先に突如として現れるなんて、そんなの心の準備ができてない!
 わたしは反射的にカーテンを閉めてしまった。閉めてしまってから思った。これが拒絶のメッセージと取られてしまったらどうしよう?車から見上げたわたしの部屋のカーテンが、さっと閉じられる様子をその人が見てしまったら?
 そんなつもりはないのに。ただ少し間を置きたくてカーテンを閉めただけなのに。
 だけどリナとだって、そんなつもりはないのにこうなってしまった。
 また繰り返してしまうの?今度は父さんの大事な人に、わたしは突き放されてしまうの?
 車のドアが開く音がして、やけに長い間があって、ようやく閉まる音がした。どうしてだろう?やっぱり家に入るのを躊躇しているんだろうか?二人でなにか話していたんだろうか?「いきなりカーテンを閉めるだなんて、歓迎されてないんじゃないかしら?」「メッセージの返信もないんでしょう?きっと受け入れてもらえないわ」「家に引き籠もったままなんでしょう?それじゃあやっぱり……」
 会ったこともない女の人の声が、聞こえてくるような気がした。
 違います、違うんです。
 父さんを、父さんが選んだ人を拒絶するつもりなんてないんです。だけどちょっぴり急過ぎて、心の準備ができていなくて、いきなりだから驚いてしまって。
 ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。一階で荷物を置く音や、歩きまわる音が聞こえた。
 そして、父さんがわたしを呼ぶ声が。
「はーい」
 わたしは極力平静を装った声で返事をした。
 大丈夫、大丈夫。
 最初の一歩はつまずいたかも知れないけど、それだって向こうは気にしていないかも知れない。それどころか、カーテンを閉めたわたしに気付いてさえいないかも。
 わたしは車椅子に座ると、バラバラになった自分をかき集めて階下に向かった。
 昇降機の動きが、こんなに速く感じられたことはない。もう少し、もう少しだけ気持ちの整理をつける時間がほしい。
 無情な昇降機に運ばれていちばん下まで降りると、わたしは操作レバーを倒し、リビングへと車椅子を進めた。タイヤと床が擦れる音がやけに大きく聞こえた。
 部屋に入ると、父さんが立ったままこちらを見ていた。
「ミサキ、メッセージで書いたけど会ってほしい人っていうのは……」
「い、いらっしゃい!ゆっくりしていってください!」
 わたしは笑顔になっているはずの顔で、できる限りの愛想を込めていった。さっき拾い集めた自分の欠片の中に、できるだけたくさんの愛想が残っていることを祈りながら。
 立っている父さんとは対照的に、その人はソファに腰掛けていた。いや、なかば寝そべっていたといってもいい。
 父さん、父さんがどんな人がタイプなのかは知らないけれど、骨だけしかない人を好きになるのは、あまり趣味がいいとはいえないと思うよ。

七 アイスポックス

 わたしは誰に対して、いや、なにに対してあんなにも全力で歓迎の意を表してしまったんだろう?
 わたしはぎこちなく作った笑顔を貼り付けたまま、その場に固まってしまった。
「お父さん、これ……?」
 ソファに横たわっていたのは、絡まり合ったプラスチックと金属の塊だった。
 白くて細長い部分がいくつかあるから、それがなんとなく人間の腕や足の骨みたいに見えるといえば見える。だけどこれを人というにはあまりにも……。
「そう、この人に会ってほしかったんだ」
 父さんは楽しそうにいった。
 どうしちゃったんだろう?わたしが学校に行かなくなったことで、父さんまでおかしくなってしまったんだろうか?
 そんなつもりじゃなかったのに。
 父さんに心配をかけることはわかっていたけど、おかしくなるのは自分だけだと思っていたのに。それどころか、自分がいなくなれば学校はまたいつもどおりになって、わたし以外の世界はまた普通になるんだと思っていたのに。
「どう思う?」
 父さんは楽しそうにいった。
「どうって……」
 どう思うもなにも、自宅のソファにガラクタを置かれて、父親がそれを嬉々として娘に紹介している状況は、それはそれはアブナイ状況にしか思えない。
 そんなわたしにお構いなしに、父さんはガラクタに向かって話しかけた。
「アイスポックス、ご挨拶して」
 え、話しかけるの?それに、なにその名前?どこの国の人?
 そりゃ父さんはこのガラクタを人だと思い込んでるらしいから、話しかけもするんだろうけど、父さんの頭の中では会話が成立しているんだろうか?ああ、でも幻聴ってどこからともなく音や声が聞こえてくるんだっけ?だとしたら対象物があるぶん、父さんはまだましなのかも。いや、もしかしたら逆に重症なのかも知れない。
 それにしても「ご挨拶して」って、やっぱり父さんはこのガラクタを自分の婚約者だと思ってるんじゃない?わたし、ガラクタをお母さんって呼ぶ自信ない。
「はじめまして、ミサキ」
 そのとき、声がした。父さんとは違う、かといって女性のものでもない、もっとずっと中性的な声。
 父さんの唇は動いていなかった。一瞬、父さんが腹話術でもしているのかと思った。でも父さん、そんな特技持ってなかったはず。
「はじめまして、ミサキ」
 わたしが呆然としていると、ふたたび声が聞こえた。そして今度は、声の主がはっきりとわかった。
 目の前のガラクタだ。声はあきらかに目の前のガラクタから聞こえてくる。そしてご丁寧なことに、自らの存在を主張するかのように埋め込まれたインジケータから青い光を発していた。
「お父さん、これって……」
「そう、これがお父さんが作っている人工知能、名付けてアイスポックスだ」
 父さんはまるで大観衆を前にしているかのように両手を広げた。
「はじめまして、ミサキ。わたしはアイスポックスです」
 無表情とはいえないまでも、妙に抑揚を欠いた声がいった。その声にともなって、青い光が明滅する。
「これが、人工知能?」
 人工知能っていうのは、もっとこう、コンピュータ然としたものじゃないの?それかもっと、映画で見るアンドロイドみたいな形をしているものでは?
「うん、まあ、プログラムの方はけっこういい線までいってて、自律的に物事を考えるし、それに好奇心もある。いまはまだ、そういうふうにプログラミングしたからって段階に過ぎないけど。それでもいろんなことを知ろうとするし、知れば知るほど賢くなっていくよ。いろんな意味でね」
 わたしはあらためて、父さんが誇らしげに人工知能だと呼ぶ物体を見た。
 最初の印象どおり、腕といえば腕、足といえば足に見えるパーツもある。そのあいだには関節のようなパーツも挟まっている。だけどやっぱりアンドロイドには見えない。
 父さんは人間のように思考するコンピュータを作っていたんじゃなかったっけ?そしてそのためには身体性が不可欠だとかなんとか。だから人工知能と人工身体アーティフシャル・ボディの両方を並行して開発していたんじゃなかったの?
「これが、人工身体なの?」
 ソファに横たわる巨大な知恵の輪にしか見えないそれは、古い映画に出てきた人間を攻撃するアンドロイドとは違ってずいぶん痩せ細って見える。これではとても人間を襲うどころか、自分で立つことすらできないんじゃないだろうか。
「ええっとね、人工身体の方はまだその、自立して動けるようなレベルじゃないんだ。立ったり歩いたりできるロボットはあるけど、まだ人間と同じレベルで動いたりはできない。うちの研究所もまだそこまではいってないんだ」
 父さんが申し訳なさそうにいった。いったいなにに対して申し訳なく思っているのかわからなかったけど、きっと科学とか工学、もしかしたら人類全体に対してなんていう壮大なことを考えているのかも知れない。
 科学者——父さんは自分を「技術屋」といっていたけど——の常で、父さんは考えのスケールが大きい。それも意識してそうしているのではなく、頭の中が自然とそうなっている。
 だから、「これが完成したら誰も危険な仕事をしなくてすむようになる」とか、「人間の代わりに深海で資源の採掘ができる」とか、「もし人類が滅んでも文明を受け継いでくれる」とか、平気で壮大なことをいう。その一方で、「納豆はあっちのスーパーの方が安い」とか、「風呂は沸かし直しより追い炊きの方が安くつく」とか、「靴はちゃんとブラシをかけると何年ももつ」とかっていう話もする。実行はしないけど。
 そのあいだをなんの抵抗もなく行ったり来たりするから、わたしはついていくだけで目がまわってしまう。
 今回もそうだ。自分で考えることができるコンピュータができたなら、それでいいじゃない。まだまだ初歩的なものだとしても、ある程度のものができているなら、それを誇っていいじゃないか。
 ところが、父さんはそうではないらしい。
「でも、こんなので自分で考えることができるなんて、すごいじゃない。わたし、人工知能ってもっと大きなコンピュータが必要なんだと思ってた」
 父さんが連れてきたこの「人」は、ほとんどフレームだけでできている。高度な自律思考を実現するにはよほど大きなコンピュータが、それこそビルのワンフロアを占有するようなスーパーコンピュータが必要になるとばかり思っていたわたしは、素直に驚いていた。
「ああ、それなんだけどね……」
 父さんは気まずそうにいった。
「実は人工知能の本体の方はこっちでね」
 おずおずと指さす方を見てみると、ガラクタの中に楕円形の部品が置かれていた。大きさも形もほぼハンティング・キャップほど。他のパーツと同様、金属なのか樹脂なのかわからないけどとにかく白い物質でできたそれは、部屋の明かりを照り返してつやつやしている。そしていちばん広い面に、父さんの研究所アニマテックのロゴが控えめに印刷されていた。
「このバックパックにバッテリーとコンピュータ本体が入っていて、ソファの上にあるのはその駆動部分というか、とりあえずの身体部分というか……」
 なるほど、この細いフレームの中に自律思考をする人工知能を収めることはできないのか。それにしたってこんな小さなパーツの中に最先端の人工知能が収まってるって、それってとってもすごいことなんじゃないかな。
 わたしは素直にその感想を口にした。
「うん、そうだね。ここ数年で量子コンピュータが進歩したおかげだね。たぶんこのレベルの人工知能を旧来のコンピュータで実現しようとしたら、都庁くらいの大きさのビルがいる。
 それを考えると、量子アニーリングを実用化レベルまで持っていってくれたシャクラバティ博士にはどんなに感謝してもし足りないよ」
 ごめん、ちょっとなにいってるかわからない。でも、すごいことはわかった。
「ただね、人工身体の方があまり進展しないおかげで、人工知能に身体性を理解させるのがむずかしいんだ」
 それは、父さんがたびたびいっていたことだった。
 父さんはこうもいっていた。人と人がわかり合えないのは、結局は互いが個別の存在だからなんじゃないか。個別の存在だから互いの身体感覚、別の言い方をすれば肌感覚が共有できなくて、そこに齟齬が、対立が生まれるんじゃないかって。
 かといって、じゃあお互いの意識が溶け合ってしまえばいいかというとそんなことはなく、むしろ違いがあるからこそ意味があるんじゃないか、そんなこともいっていた。
 ただ人工知能に人間の感覚を教えるためにはそれが大きなネックになっていて、ディープラーニングで、「これは猫、これは犬」と教えるのとはわけが違う。
 どういう場面でどういうふうに人間が感じるか、どう動くのか。それを理解させるにはどうしても人間と同じか、少なくとも似通った物理的な身体が必要になる。
「そこでだね、ミサキにお願いがあるんだけど」
 父さんはおずおずといった。まるでこれから怒られることがわかっているイタズラを告白する子どものように。
「しばらくこれを着けて生活してもらえないかな」
 父さんはフレームだけの人工知能を指さしていった。
「着けてって、このガラクタ……、フレームを?」
 せっかく家にいるんだし、とは父さんはいわなかった。もちろん父さんはそんなふうには思っていないだろうし、思っていたとしても、そして実際にいわれていたとしても、わたしはなんとも思わなかっただろう。
 だって実際、わたしは学校にも行かずに家にいるんだし、なんにもせずに時間だけを消費しているのはこの上なく心苦しい。家事以外でなにか父さんの役に立つことがあれば願ったりだ。
 だけど、こんなことにすらわたしは役に立てそうにない。
 父さんがわたしにこれを着けさせたがっているのは、人工知能に人間の身体感覚を教えたいからだ。だけどわたしには、教えられる身体感覚が半分しかない。
 わたしの足は動かないからだ。
 うんと小さい頃、わたしは普通に歩き、普通に走り、普通に立ったり座ったりしていた。それがある日突然、普通でなくなった。何年も前のその日から、わたしの足は動くことをやめてしまった。
 事故だった。
 毎日、どこかで起きているような、ありきたりの交通事故。
 ニュースになることも、ネットを騒がすこともないような、誰の注目も集めない事故。
 だけどその事故で、わたしの人生は変わってしまった。
 信号のない交差点でぶつかり合った二台の車。そのうちの一台がよろよろとわたしの方にやって来て、小さかったわたしは避けきれずにコンクリートの壁と車の間に挟まれてしまった。
 小さなわたしの骨盤は見事にぱっくりと割れ、そのぶんきれいにくっついた。だけどなぜか歩行機能は回復せず、何度歩こうとしてもわたしはぺたりと尻もちをつき、動けなくなってしまった。
 お医者さんの診断は「転換性障害」、中でも「心因性歩行障害」といって、要するに原因は不明だけど精神的なものでしょう、と。
 それ以来、わたしの足は役に立ったことがない。ただの錘でしかない。今度もそうだ。わたしの足は、父さんの役に立つことができない。わたし自身が父さんの錘にしかなれない。
「お父さん、わたし、これ着けてもその……、人工知能のためにはならないんじゃないかな……」
 役立たず、とわたしは心の中で自分を罵った。
「だってほら、わたし、足が動かないし。人工知能が上半身の動きばっかり学習しても困るでしょう?」
「それがそうでもなくてだね」と、父さんはアイスポックスを持ち上げながらいった。
 その様子はどこかで見たことがある。ああ、キャンプのときに使う折りたたみ式のテーブルだ。フレームの中にゴムが通っていて、組み立てたときにはいいけれど、バラバラにしたときにはどうにも始末に負えないやつ。あのゴムはショックコードっていったっけ?
「まあ一回、着けてごらんよ」
 父さんはそれこそ折りたたみ式のテーブルを扱うような仕草で、アイスポックスをわたしの身体に装着していった。
 まずは上半身をかがめてバックパックを背負い、そこに腕とおぼしきパーツを連結する。パーツはベルトで肘と手首のところで固定されるようになっていた。
 そして、いよいよ足のパーツ。
 バックパックから下に伸びたフレームはおしりを左右から挟むようになっていて、そこに足のパーツを連結する。座ったままこれをやるのはちょっとたいへんだった。そして腕と同様に、膝と足首の部分で固定する。足首から先は、足の裏から甲を覆うようになっていて、甲の部分のベルトで締め付け具合を調節できた。
「痛くない?」
 父さんは各ベルトを入念にチェックしていった。そして、「ちょっと立ってみて」といった。
 立てるわけがないのに。わたしの足は動かないのに。わたしは役立たずなのに。
「いいから」
 戸惑うわたしに、父さんはうながした。
 わたしは病院でのリハビリの要領で、車椅子の肘掛けを両手で下に押した。普段、ソファやベッドに移るときは、もうちょっと雑にやる。そこに倒れ込もうがなにしようが構わないからだ。
 だけど今回は、父さんは立てといっている。だから病院で平行棒を使ったリハビリをするときみたいに、腕の力でまっすぐに身体を持ち上げた。
 だけど、それだけだ。
 それだけなんだ、わたしにできることは。
 父さんに立ってみてといわれても、わたしは両腕で自分の身体を持ち上げることしかできない。やっぱりわたしから人工知能に教えられることはなにもない。
 わたしはゆっくりと身体を戻し、車椅子の座面に腰を下ろした。
「アイスポックス、ちょっと手伝ってあげて」
 父さんは、今度はわたしではなくわたしの襟元に向かっていった。無意識にその目線を追って見ると、わたしの首の付け根あたりのフレームに小さなレンズがついていた。。どうやら、これがアイスポックスの目、カメラらしい。そのカメラの横にはもっと小さいレンズがついていて、こちらはさっき青く光っていたインジケータだ。
 そのインジケータが明滅して、「わかりました」と答えた。
「さ、もう一回」
 父さんはインジケータの明滅を見ていった。
 わたしはたぶん、ちょっと嫌な顔をしたと思う。それは父さんの言葉が嫌だったのではなく、身体を持ち上げることが嫌だったのでもなく、自分が役立たずだと確認するのが嫌だったからだ。
 ところが。
 わたしがふたたび肘掛けをつかんで力を入れると、いや、力を入れようとすると、驚くほど軽やかに身体は車椅子を離れた。
 羽根のように軽く、という言葉の意味をわたしは身をもって知った。
 肘掛けを握る力を込めてはいるものの、身体を持ち上げるのにも、こうして支えているのにも、わたしはほとんど力を使っていない。
 驚いて父さんの方を見ると、父さんは満足そうに笑っていた。
「アイスポックスにはね、人間の動きを補助するモーターがついてるんだ」
「でも、いったいどうやって?」
「どうやってって、人工知能だから」
 なんという雑な説明。確かにそれはそうなんだろうけど、人工知能が人間をどう補助すればいいかを判断するためには動きをモニターすることが必要で、首元のカメラだけでそんなことができるとは思えない。
「種明かしをするとね、アイスポックスのフレームにはところどころに筋肉を流れる微弱な電流を感知するセンサーがついてるんだ。そうそう、ちょうどそういうところ」
 わたしは身体をひねってフレームが二の腕にあたる辺りを覗き込んでみた。するとそこには鈍く光る小さな電極のようなものがいくつか並んでいた。
 父さんの話だと、白く見えるのは金属フレームを覆う樹脂で、それは装着する人が冷たく感じないようにという配慮らしい。それに、真夏に直射日光を浴びても触れられないほど熱くならないようにだとか。その樹脂のところどころに並ぶ円形の銀色部分が電極になっているのだ。
 たったこれだけのもので、筋肉の中に埋め込むのでもなく接しているだけで微弱な電流を感知できるなんて。
 それにもまして驚いたのは、わたしにした説明以上に雑な父さんの指示だ。この人工知能は「ちょっと手伝ってあげて」なんて曖昧な指示を正確に理解して、的確な判断を下した。
 そのときのわたしには、「なんだかすごい」くらいしかわからなかったけど、この指示には人工知能には苦手な要素が二つも含まれている。
 ひとつは「ちょっと」という言葉。これは定量的にも定性的にも曖昧だ。人間なら、「ちょっと」といわれれば「多くない」という判断はできるけど、それが必ずしも「少ない」ということにはならないし、多くないにしてもどれくらいなのかはさまざまな要因によって左右される。ましてや「ちょっと」なんなのか、というのは文脈を理解していないと適切に判断できない。
 もうひとつは、「手伝う」という言葉。あまりにも漠然としていて、この言葉だけではほとんど意味をなさない。文脈だけでなく、状況全体を正しく理解して初めて解釈できる言葉だ。
 それを、この人工知能はあっさりとやってのけた。
 わたしは漠然とした驚きとともに、中腰のような姿勢からゆっくりと身体を沈めた。その間も、握力以外はほとんど力を使っていない。アイスポックスはわたしがどれだけの力を出しているかを感知しているだけでなく、わたしがなにをしようとしているかまでわかっているんだ。
「でも、立ち上がるのは無理だよ」
 わたしはふたたび無力感に苛まれていた。だってアイスポックスはわたしの動きを感知して、その動きをサポートすることはできる。なんなら、その先を予測することまで。
 だけど、それはわたしが動こうとしての話だ。わたしは、わたしの足は、そもそも動こうとしてくれない。それに、アイスポックスにできるのはあくまでもサポート。事実上足の筋力ゼロのわたしが立ち上がることはできないだろう。
 そう思った瞬間、アイスポックスが言葉を発した。
「立てます」
 いうが早いか、わずかな駆動音とともに腰、膝、足首の各関節部に組み込まれたモーターが作動し、気が付くとわたしは二本足で立っていた。
 父さんはニヤリと笑っていて、わたしはポカンと口を開けていた。
 アイスポックスだけが無感動に、「立ちました」と告げていた。

八 半分の人間

「ど、どういうことなの、これ?」
 わたしは立ち上がったという実感がないまま、そこに直立していた。
 わたしの足は何年も動かないままだ。だから、筋力なんてほとんどない。だからいくらアイスポックスのサポートがあっても、立ち上がることなんてできないはずだ。
 それに、父さんはいっていた。
「まだ、自立して動けるようなレベルじゃない」
 だとしたら、いまここで立っているのは、わたしを立たせているのは誰なの?
「そう、アイスポックスは自分で立って歩きまわったり、人間と同じように動くことはできない。でも人間の動きに沿ってサポートすることは可能なんだ」
「でも、こうやって立ってるよ?」
 サポートもなにも、わたしの足には力なんてないから、アイスポックスは事実上自分で立っているのでは?
「うん、新しいIPMCのおかげでずいぶん強い力を出すことができるようになったんだ。でも足は足でしかないし、腕は腕でしかない。それを連結する部分がないから、自分で立ったりはできないよ。人間でいえば、極端に体幹が弱い。ていうか、体幹がない」
 なるほど、つまり人間の身体に取り付けられていないと、アイスポックスは駄々っ子みたいに寝転がって手足をばたばたさせるしかできないのか。
「IPMCってなに?」
「イオンポリマーメタルコンポジットっていってね、いわゆる人工筋肉かな。アイスポックスは関節のモーターの他にもフレーム自体に人工筋肉が入ってて、それが動力を生み出してるんだ」
 わたしはあらためて自分の手足に沿って装着された白く細いフレームを見た。それがどんなものなのかわからないけど、人工の筋肉がその中に入っていると思うと、すこし気味が悪い気がした。
「人間みたいに二本足で歩くロボットもあるじゃない」
 小学生のときに授業で見たことがある、二本足ロボット開発の歴史。
 世界初の二足歩行ロボットを開発したのは、日本だった。早稲田大学の先生がWABOTと呼ばれるロボットを開発した。もう百年近く前のことだった。
 動画で見たそれは銀色のフレームと黒いケーブルが絡み合った、人間というよりは直立したサイのようなずんぐりむっくりした外見をしていた。そして歩く様子はまるで滑りやすい氷の上をおっかなびっくり進んでいるかのようで、とても「人間のように歩く」とはいいがたいものだった。
 WABOTは代を重ね、何代目かになると能楽師のように歩くようになっていたけど、そのときには歩行の動的バランスを取るために上半身代わりの背骨の上に鉄アレイのようなものが載せられていて、一歩ごとにこれがみそすり運動をしていた。
 作っている側は大真面目なんだと思う。大真面目なんだと思うし、その当時の最先端の技術を詰め込んだものなんだと思うけど、小学生にはもう限界だった。その挙動のあまりの滑稽さに、教室は爆笑の渦に包まれてしまった。
 その後、ホンダがASIMOを開発した。だけどそこから先、日本国内に本格的なフォロワーが現れることはなく、研究はあっという間にアメリカのボストン・ダイナミクスに抜き去られた。
 アメリカ国防高等研究計画局DARPAの支援を受けたボストン・ダイナミクスの開発速度は凄まじく、彼らが開発したアトラスは誕生からわずか五年で、走り、バク転し、パルクールさえこなすまでになった。
 そしてそのあとを継いだヘスペリスの動きはまさに人間そのもので、かぶせられたスキンのおかげで遠目には人間と見紛うほどだった。
「問題はそれこそ、そういうロボットが人間じゃないってことなんだ」と、父さんはいった。
「あれはあくまでもプログラムを実行してるだけでね、どんなに人間らしくふるまってても、それは人間のことを理解してるわけじゃないんだ。人工知能と人工身体が結びついてるわけじゃない。
 だからあのボディにアイスポックスを載せたとしても、アイスポックスはいろんな場面で人間がどう振る舞うか、どんなふうに反応するかわからないまま動くことになる。それこそ僕らの心が突然鳥の身体の中に入れられるようなもので、どうしたらいいのかさっぱりわからないんだ」
「でも、そういうのってディープラーニングとかそういうのでなんとかなるじゃないの?」
 このときのわたしは、ディープラーニングやビッグデータがあればなんでもできるものだと思っていた。
「人間の脳がどうやって学習するか知ってる?」
 逆に父さんは聞いた。
「ううん」
「人間の脳はね、自分が立てた予測と感覚器官からの入力がどれくらい違うかを測定して学習するんだ。
 たとえばミサキがテーブルの上のグラスを持ち上げようとしたとしよう。そのとき、ミサキの頭の中ではグラスの位置や重さ、手触りや温度をあらかじめ予測してる。その予測が現実、つまり実際に持ったときの感覚器官からの入力と一致していれば、ミサキはそのグラスを持ち上げることができる。
 ところが予測——これをモデルというんだけど——と感覚器官からの入力が違っていると修正をしなくちゃならない。思っていたより重いとか軽いとか、ヌルヌルしてるとかザラザラしてるとか、そういう違いがあればすぐに対応してモデルを修正する。これが学習なんだ。
 このモデル作成はね、物に対してだけ行われるわけではなくて、ありあらゆることに対しても行われる。空間や会話、思考に運動、音楽だってそうだ。『音を外した』って感じるのは、予測されるモデルの中にない音が脳に入力されたときなんだよ。
 でもその外した音が何度も繰り返し入力されると、脳はその音も含めた音階をモデルとして構築する。つまり、モデルを修正するわけだ」
「それを無意識にやってるの?」
「そうだね、差異が小さければ無意識にやってる。それどころか、生きるってのはそのモデル修正の連続だよ。だからいちいち意識してたらやってられない。
 でも逆にモデルと現実の違いがとても大きいことがあって、それに対する脳の反応が『驚く』なんだ」
 なるほど、だから麦茶とめんつゆを間違えると吹き出してしまうのか。どちらも飲みもので、どちらもおいしいのに、脳の予測と大きく違うから驚くんだ。
「それで、わたしにこれを着けろと?」
 わたしは自分の手足に沿って滑らかに光を照り返すアイスポックスの白いフレームを見た。
「うん。感覚運動学習っていってね、アイスポックスにも人間と同じように学習させたい」
 わたしが左腕を挙げると、アイスポックスのフレームはわずかなモーター音をさせて滑らかに追従した。抵抗はほとんど、というかまったく感じない。いくら軽量の樹脂と金属が使われているとはいえ、わたしの腕はアイスポックスの質量のぶんだけ重くなっているはずだった。それを感じないということは、こうした動作のひとつひとつを、アイスポックスは適切にサポートしているということなんだろう。
 これを着けて生活をする。
 つまり父さんは、人工知能に人間のなんたるかを教えるために、アイスポックスに人間の身体を二十四時間トレースさせようというわけだった。
「いいけど……」
 役立たず、という言葉がふたたび頭をよぎった。
 わたしはアイスポックスの力を借りれば、立ち上がることはできるだろう。だけど、それだけだ。わたしに歩くことはできない。だから、アイスポックスに人間がどう歩くか、人間がどう走るか、人間がどう転ぶかを教えることができない。わたしに教えられるのは上半身の動きだけ、わたしは半分の人間なのだ。
「ねえ、お父さん。わたし、これを着けても歩けないと思う」
 わたしは率直にいった。
「その感覚運動学習に必要な感覚が、わたしにはないもの」
「そんなことはないよ」
 父さんは意に介していないようだった。そして、「アイスポックス、少し歩いてみて」といった。
 するとアイスポックスは——わたしは——、父さんに向かって一歩二歩と歩き出した。
「えっ……?」
 わたしがこのとき感じたのは、驚きでも感動でもない。恐怖だった。
 小さい頃にわたしが最初に乗り始めた車椅子は、電動ではなく自分で車輪を押すタイプだった。いまみたいにスマートブレーキも補助用のモーターも付いていない、すべてを自分で操作しなければならないタイプ。
 当然パーキングブレーキも手動で、わたしはあるときブレーキをかけ忘れた。
 平坦なところに車椅子を停め、きっと誰かとおしゃべりをしていたか、おおかたなにかに見とれてぼうっとしていたんだと思う。
 するとわたしよりも小さな子が、まだ親に手を引かれて歩いているような子が、わたしの車椅子にぶつかった。その衝撃で車椅子はほんの数センチ前に進み、そこから始まる坂道を下り始めた。ゆるゆるとした加速ではあったし、一メートルも進まないうちにわたしはハンドリムをつかんで車椅子を停止させた。
 それでも、意思とは無関係に自分の身体が運ばれていくのには恐怖を覚えた。
 アイスポックスが歩き始めたときに感じたのも同じ感情だ。わたしは思わず両腕を胸の前で縮こまらせた。
「えっ?えっ?えぇっ?」
 すっとんきょうなわたしの声に反応したのか、それとももう父さんのすぐ近くまでやって来たからなのか、アイスポックスは停止し、わたしは父さんの目の前で立ちすくんだ。
 立ちすくむ、ということができること自体、わたしにとっては驚きだったのだけれど。
「これって、センサーが筋肉の動きを感知するんじゃないの?」
 動悸がおさまらないまま、わたしはいった。
「そうだよ、基本的にはね。だけどそれだけじゃなくて、ミサキがそっちに行きたいって意思表示すればそっちに行くこともできるよ。言葉で命令することもできるし、重心を移すことでもコントロールできる」
 それは車椅子の上で上半身を動かすようなものだった。電動車椅子になってからはやらなくなったけど、手動の車椅子の頃には行きたい方向に自然と身体を倒していたものだった。
 わたしは試しに身体をひねり、少し上半身を倒してみた。
 するとアイスポックスに支配された下半身はそちらを向き、わたしが上半身を直立させるまで歩き続けた。方向転換するのはまるで行進している人のようだったたし、足取りもだいぶぎこちなかったけれど。
 これはつまり、わたしの下半身が電動車椅子から二足歩行するロボットになったと思えばいいのかな。
 要はパワードスーツなのだ、これは。電動車椅子だって、人の足の形をしていないとはいえパワードスーツの一種といえる。アイスポックスはその全身版なのだ。
 これなら、とわたしは思った。
 父さんがときどき意地悪して冷蔵庫のいちばん上の棚に、わたしの手の届かないところに隠すプリンにも手が届く。「あなたが二本足で立てるようになって、したいのがそんなこと?」といわれてしまうかもしれない。
 だけとそうなんだ。わたしは「そんなこと」がしたい。なんでもないことがしたい。
 なんでもなく立って、なんでもなく歩いて、なんでもなく座りたい。だってもうなんでもなく学校に行くことは、なんでもなく友だちと会うことはできなくなってしまったのだから。せめてそれくらいは、なんでもないことがしたい。
 こみ上げてくるものを笑顔で押さえつけて、わたしはいった。
「なんだか、スーパーヒーローになったみたい」
 わたしはファイティングポーズを取ってみた。
「そうだね。英語では強化外骨格、パワード・エクソスケルトンっていうしね。なんだか強そうな響きだよ。アイスポックスっていうのも、そこから名前を取ったんだ」
 父さんはメモ用紙に"AI Supporting POwered eXoskeleton"と書いた。なんだか語呂合わせのために無理矢理いろんな文字を切り貼りした感じだ。だけど父さんは、「ネーミングなんてそんなもんだよ」と気にも留めていないようだった。
「世界初の二足歩行ロボットだって早稲田大学で作られたから"WAseda roBOT"でWABOTだしね」
「そうなの?」
 なんとまあ、ロボット工学者の方々のセンスときたら……。
「でもお父さん、こんな大事なもの借りて来ちゃっていいの?ていうか、わたし、壊しちゃったらどうしよう」
「ああ、その点は大丈夫だよ」
 父さんは、そんなことを気にしていたのか、という様子で答えた。
「ミサキがアイスポックスを壊すなんてできやしないよ。フレームはチタン製だし、表面のプラスチックっぽく見えるところもボロン繊維強化プラスチックだからね。ビルから飛び降りでもしない限りビクともしない」
「わたしの方がもたないよ!」
「それに実をいうとね、アイスポックスは最新型というわけでもないんだ。いまはもう次のタイプの開発が始まってる。だからアイスポックスはデータ収集用っていうのかな。それで所外使用の許可を取った。ていうか、出した」
「出した?」
「うん。父さん、研究所では意外と偉いんだぞ。『人工知能・人工身体相関機能性研究開発室室長』だし」
 なんだかむずかしそうな名前の肩書きなのはわかったけど、それがどれくらい偉いのかは皆目見当もつかなかった。だけど、アイスポックスの使用許可を自分で出せるくらいには偉いんだろう。
 それでも、無理はしたに違いない。おそらく何枚も書類を書いただろうし、反対する人を説得もしたはずだ。
 きっと、わたしのためなんだろうな。
 父さんは人工知能の教育のためっていってるけど、そんなの研究所内でいくらでもできるはずだ。
 わたしが、家に籠もりきりだから。わたしが、暗い顔をしているから。わたしが、わたしが、わたしが……。
「ねえ、お父さん、やっぱりアイスポックスって名前は変えた方がいいと思う」
 ともすると引きずり込まれそうになる暗い考えを振り払うように、わたしはいった。
「え、そう?」
「うん、あんまりその、よくないと思う」
「そうかな。ポックスっていうのが、けっこうかわいくて気に入ってるんだけど」「そのポックスっていうのが、いちばんの問題なんだけど」
「そう?」
「うん、お父さん、ポックスって意味調べた?」
「いや、スペルの中から文字を拾い出しただけだから」
 そうか、つまりは音だけで作ったキラキラネームか。
「あのね、お父さん。ポックスって痘、天然痘とか水痘とかの痘のことだよ。病気の名前」
「えっ、そうなの?」
 間違いない。スペルもバッチリ"pox"。このあいだ英語の授業で習ったばかりだ。
「うん、だからアイスポックスっていうと、直訳すると氷痘?そんな病気あるのか知らないけど」
「それは、まずいな」
 うん、たいへんまずいと思う。
「それ、どこかで発表したりはしてないよね?」
「公式には、まだ」
「公式には?」
「研究所内ではそう呼んでるけど」そこまでいって、父さんはなにかに思いあたったように目を見開いた。
「そうか、それであのとき……」
「どうしたの?」
「いや、フェルナンドが変な顔してると思ったんだ。でもあいつ、そういうときなにもいわないんだよ。いつもご陽気スペイン系アメリカ人のくせに、妙に空気を読むところがあるんだよな」
 スペイン系の人がご陽気だというのはひどい偏見だと思うけど、一緒に仕事をしていてそう思うのなら確かなんだろう。だけど上司が人工知能におかしな名前を付けてしまったときの彼の気持ちは察するに余りある。
 だってアメリカの研究室で、人工知能に「あんぽんたん」とか「おたんこなす」とかって名前付けられちゃったら、わたしだったら苦笑いしか出てこない。
「じゃあミサキ、ついでに名前付けてよ」
「え?」
「アイスポックスのままじゃまずいし、かといって名前がないのも不便でしょ。なにかいい名前、考えてあげて」
 その日から、わたしとアイスポックス(仮)の共同生活が始まった。

九 新しい名前

「お、おはよう」
 次の日、いつものように目を覚ましたわたしは、部屋の中で異彩を放つ物体におずおずと声をかけた。
 声をかけた相手は、もちろん昨日うちにやって来た人工知能アイスポックス(仮)だ。「できるだけ話しかけてやって」と、父さんはいっていた。
「おはようございます、ミサキ」
 ベッド脇にしつらえたラックにぶら下がったまま、青いインジケータを明滅させてアイスポックス(仮)が返事をした。相変わらず抑揚を欠いた声だ。
 感情のない知性ってあり得るのかしら?少なくともいまのアイスポックス(仮)には、本物の知性はないように思える。感情がなく聞こえるのもそのせいなんじゃないだろうか。
 犬や猫だけでなく、鳥にだって感情がある。高い知性を持った生物にはみんな感情があるのだ。タコなんて、腹を立てているときには他のタコに八つ当たりまでするらしい。
 でも知性があれば感情があると考えてしまうのは、わたしたちがおおもとを同じくする生物だからかも知れない。人工知能はその進化の樹からは独立して、突如発生した存在だ。わたしたち生物の常識が通用するとは限らない。
 だからこの先、アイスポックス(仮)に本物の知性が芽生えても、感情は発生しないかも。
 ああ、だとしたら、それはそれでうらやましいかも知れない。感情がなければいつでも冷静に判断できて、気持ちにまかせて間違った決断を下したりしないんだろう。嫌な思いをしたり、傷付いたりすることもない。嫌なことから逃げ出して、そのせいで今度は自分自身が嫌になっているわたしのように感じることは決してないんだろう。
 でも感情がなければ、楽しいとかうれしいとかも感じることができなくなる。空を見て美しいと思うことも、音楽を聴いて感動することもなくなってしまう。
 そんなのわかってる。
 わかってるけど、わかってるからってそんな自分の気持ちをどうにもできないこともわかってる。
 ああ、朝はダメだな。とりわけ低血圧というわけではないけれど、朝のわたしは考えがすぐに悲観的な方向に行ってしまう。この寝癖でボサボサの髪のように、気持ちの方も朝からはっちゃけてくれればいいのに。
「名前、考えなくちゃ」
 わたしはまだ眠い目をこすってアイスポックス(仮)を見た。ベッドの横にしつらえたラックにぶら下がったその姿は、骸骨標本のようで少し不気味だった。
「ねえ、あなたには名前の希望はないの?」
 不思議なもので、スマホやスマートスピーカーに話しかけるのはなんでもないのに、目の前のアイスポックス(仮)に話しかけるのはなんだか落ち着かない感じがした。
 まだ寝ぼけた頭でしばらく考えていると、唐突に理由に思いあたった。
 スマホやスマートスピーカーに話しかけるとき、わたしたちはその向こうにいる誰かに話しかけている気でいる。それこそ、電話の相手に話しかけるように。
 だけどアイスポックス(仮)は違う。実体としてそこにあるから、ましてや人に近い形をしているから、なんとなく意識してしまうんだ。
「希望はありません」とアイスポックス(仮)は答えた。
 子どもの名前を付けるときって、こんな感じなんだろうか。
 生まれたばかりの子どもに希望などあるわけもなく、むしろ希望を抱くのは親の方で、親のああなってほしい、こうなってほしいを表しているのが子どもの名前だ。
 わたしはこの人工知能にどうなってほしいんだろう。いや、どうなってほしいもなにもない。わたしは昨日初めてこの人工知能の存在を知ったのだ。人間の親だって七ヶ月かそこらは考える時間があるはずだ。それにひきかえわたしに与えられた猶予は十二時間。ましてやその大半は寝て過ごしてしまった。込める希望もなにもあったもんじゃない。
「そっか、希望はないか」
 ベッドの上でパジャマを脱いで、わたしはラックのアイスポックス(仮)に手を伸ばした。
 一人でアイスポックスを装着するのは、そうむずかしくないことがすぐにわかった。一人で立つことができないとはいえ、アイスポックスは自力で関節を曲げることができる。それに、「もうちょっと膝曲げて」というような曖昧な指示にも、かなり上手に対応してくれるのだ。きっとこのあたりは、すでに研究所の方で教育済みなのだろう。
 そしてありがたいことに、アイスポックス(仮)は驚くほどスリムにできていた。
 一本一本のフレームはただの丸い棒ではなく腕や足の丸みに合わせた薄い板状で、素肌に着けて上から服を着てしまえば目立たない。背中のバックパックが少し膨らんで見えるけど、それだってフード付きの服を着てしまえばおかしく見えることはない。
 わたしはベッドのふちから降ろした足を、そっと床に触れさせてみた。こんなふうに足の裏で床を感じるのは久しぶりだった。
 両手に力をこめておしりを浮かし、ゆっくりと上体を前に倒して徐々に体重を足に預けていく。アイスポックス(仮)に「立たせて」といえば造作もなく立てるんだろうけど、いちいちそれじゃ面倒くさい。それに父さんの話では、人間の動きに追従して適切な動きをしてくれるはず。そして学習が進めば、先を読んだ動きもできるようになるはずだった。
 この辺が、ただのパワードスーツとは違うところだ。普通のパワードスーツはあくまでも人間の動きに応じて作動する。でもアイスポックス(仮)は学習さえ進めば、人間と完全に協調して動くようになる。そしてその協調を通じてさらに学習し、人工知能の完成形へと近付いていく。
 アイスポックス(仮)はわずかなモーター音をさせてわたしを立ち上がらせた。人工知能が、「この人は立とうとしている」と正しく判断したのだ。
 わたしはそのまま不器用に机に向かって歩いた。アイスポックス(仮)の動きに不安はないけど、それでもやっぱり少し両腕を広げて、バランスを取るような格好をしてしまう。まるで平均台の上を歩いているようだ。
 アイスポックス(仮)の歩みはゆっくりで、一歩踏み出すごとに深めにひざを曲げ、しっかりとバランスを確認してから次の一歩を踏み出す。
 小学生のときに笑い飛ばした昔の二足歩行ロボットに、心の中で謝った。歩くのに慣れていなければ、誰だってこうなるよ。
 たぶんこの感覚にいちばん近いのは、補助輪が取れたばかりの自転車に乗る子どもだと思う。乗れるには乗れる、前に進むには進める。だけどそれには慎重を要する。
 わたしのいまの歩きはまさにこれだった。
 そしてその不慣れな足取りで机までたどり着き、わたしは椅子に腰かけた。さあ、アイスポックス(仮)の名前を考えないと。
 わたしは昨日父さんに教えてもらったアイスポックス(仮)の現時点での正式名称——AI supporting powered exoskeletonをノートに書き出した。
 うーん、見れば見るほど父さんが名付けたアイスポックスの文字が目についてしまう。
 並べかえて、powered exoskeleton supported by AIからPESAIペサイとか。ダメだ、響きが悪過ぎる。話しかけるたびに「ねえ、ペサイ」なんていうのはカッコ悪過ぎだ。
 いっそのことexoskeletonなんていういかめしいのはやめて、powered suitパワードスーツというのはどうだろう?AI supporting powered suit、略してAISPSアイスプス。もう、わけがわからないし、なにより呼びづらい。急いでるときなんて絶対口がまわらない。
 どうしたらいいんだろう。わたしはペットを飼ったこともないから、なにかに名前を付けるなんて経験したことがない。
 いっそのこと、単にAIとか?でもなんだかそれは、誰か人を呼ぶときに「人間」と呼んでるようできまりが悪い。
「ねえ、なにかアイデアはないの?」
 困り果てたわたしは本人に、というか本AIに聞いた。
「なんのアイデアでしょうか?」
 あなたに付ける名前のアイデアに決まってるでしょうが。この辺、AIはまだ前後の会話から類推することができないようだ。だとしたらわたしは今後、いちいち説明を加えながら会話をしなくちゃならないんだろうか。それはとても面倒くさい。
「名前よ、あなたの名前。AIにふさわしい名前はなにかないかしら」
「AIの名前として有名なものとしては、ワトソンやHAL九〇〇〇があります」
「それは、すごいAIなの?」
「ワトソンはIBMが開発した自然言語を理解し、人間の意思決定を支援するコグニティブ・コンピューティング・システムです」
「あ、いいじゃない、それ。あなたのご先祖様みたいなものでしょ?」
「直接の関係はありません。アニマテックはIBMとなんの関係もありません」
 それはまあそうかも知れないけど、ちょっとくらい関係を認めてくれれば「ワトソン・ジュニア」とか「リトル・ワトソン」とか、そういう名前を付けられたのに。
「じゃあ、HAL九〇〇〇っていうのは?」
「映画『二〇〇一年宇宙の旅』に出てくる人工知能です。宇宙船ディスカバリー号を統轄し、人類初の有人木星探査、ひいては地球外知的生命体の調査を目的としていました」
 こっちの方がいいかも。人類と協力して科学調査をするんでしょう?人類とAIの協力を象徴しているみたいじゃない。
「HAL九〇〇〇がいいかも。ちょっと進化してHAL一〇〇〇〇とか」
 本当はHAL九〇〇一とかでもいいかも知れないけど、せっかくだから一桁増やしてあげることにした。
「で、その有人木星探査と宇宙人の調査はどうなったの?」
「HAL九〇〇〇は宇宙船ディスカバリー号の乗組員全員の殺害を試み、失敗して機能停止させられました。その後、宇宙船ディスカバリー号の船長デイヴィッド・ボーマンは……」
「もういいストップ、ストップ」
 父さんの作ってる人工知能に、そんな物騒な名前つけられない。
 この実直さというか、融通の利かなさはスマホのAIと変わらない。本当にこんなので人間と一緒に暮らせる人工知能になれるんだろうか。確かに昨日は、父さんの指示を的確に理解していたけど。
 でもコンピュータそのものだって、誕生当時からは信じられないくらい進歩したはずだ。やっぱり学校の授業で習ったけど、最初のコンピュータは大きな部屋がいっぱいになるくらいの大きさがあったらしい。しかもそれでできることは簡単な計算くらいだったとか。
 それがいまや、曲がりなりにも人の言葉を聞き取ったり、将棋や囲碁で人間を打ち負かしたり、銀河系の地図を作ったり、数えきれないくらいすごいことができるようになったんだから、この子もやがてはすごい人工知能になっていくのかも知れない。まるで醜いアヒルの子みたいに……。
 それだ!そう思ったときにピンときた。
 この子はまだ未熟だけど、いつかはきっとみんなが驚くような人工知能になる。いや、なってほしい。父さんが作ってるんだし。
 じゃあ、アヒル?いや、それはちょっと……。英語でダックは?それもあんまり賢そうに思えないなあ。
「ねえ、『醜いアヒルの子』の作者って誰だっけ?」
 これくらいの質問なら、スマホのAIでもすんなり答えられるだろう。この子なら楽勝のはずだ。
「『醜いアヒルの子』の作者は、アンデルセンです」
「アンデルセンのフルネームは?」
「『醜いアヒルの子』の作者、アンデルセンのフルネームはハンス・クリスチャン・アンデルセンです」
 ちょっとまわりくどいけど、うん、まずまず適切に答えられてる。
「よし、ハンスにしよう」
 わたしは胸の前で手を打ち合わせた。
「あなたの名前はハンス。今日からあなたはハンスよ」
「わたしの名前をアイスポックスからハンスに変更しますか?」
 そうだっていってるじゃない、というのはぐっとこらえた。父さんから名前変更の許可はもらってる。こういうのは権限というらしい。
「うん、名前をアイスポックスからハンスに変更」
「わかりました。わたしの名前をアイスポックスからハンスに変更します」
 なんだか、変な感じ。「わたしの名前を変更します」って日常生活ではあり得ないセリフだ。
「ええと、それじゃハンス……」
 なにをしよう?名前が決まったはいいけど、これといってすることがない。
 なにしろわたしは、昨日まで時計の針を見つめるのを生業にしていた女だ。
「とりあえず、下に行こうか」
 わたしは机に手を突いて、身体を持ち上げるようにした。その動きにハンスは滑らかに追従してわたしを二本足で立たせる。
 ところが実際に歩き出すと、立ち上がるときのスムーズさとは対照的にハンスの動きはぎこちない。
 これはあまり人に見られたくないなあ。とはいえ、家から出ないわたしのこの姿を見るのは父さんぐらいで、誰かに見られる心配はいらないんだけど。
 階段を下りるのは、歩くのとはまた別の難関だった。
 昨日の夜、初めてハンスを装着して、階段を上がるのはやってみた。歩くのはもちろん、階段を上がるのにも慣れていないハンスは、慎重な上にも慎重を重ねてわたしの身体を二階に運んだ。
 そして今度は、その階段を下りようというわけだ。
 人間の筋肉には速筋と遅筋の二種類があって、速筋は瞬発力を、遅筋は持久力を受け持っている。階段の上り下り、特に下りは速筋を多く使うけど、その速筋は疲れやすく持久力に欠ける。山歩きで下りの方が大変だといわれるのはこれが理由だ。
 と、わたしの足のリハビリの先生がいっていた。
 だからいまわたしがやっている階段の下りは本来なら上りよりもたいへんなはずなんだけど、ハンスには関係ないようだった。
 そもそも筋肉に種類のないハンスには上りも下りもなく、階段を下りるのは上るのと同様にぎこちなかった。
 片方の足をステップに降ろしてから、もう片方の足を次のステップに降ろすまでのあいだ、わたしはかなりの時間を片足で立っていた。普通だったら、たちどころに膝がぷるぷると震えだして、翌日には筋肉痛になるような動きだ。
 わたしの下半身を支える力はすべてハンスが生み出しているから、わたしが筋肉痛になる心配はないんだけど。それでもやっぱりちょっと心配で、わたしの手はいつでも手すりをつかめるように、中途半端に宙に浮いていた。
 一歩一歩確かめるように足を運んで、一階に降りたところでわたしは大きく息を吐き出した。無意識のうちに息を止めてしまっていたらしい。
 そうしてダイニングキッチンに入ったところで、父さんと出くわした。
「朝ごはん、作るね」
 わたしは手早く朝食を準備した。といっても、食パンを焼き、バターとジャムを用意し、目玉焼きを焼くだけなんだけど。
 そのとき、ふと気付いた。
 ものが全部低いところにあって、取り出しにくい。卵も、バターも、ジャムも、少し腰を折らないと取り出しにくかった。
 こんなに目線が違うんだ。
 あらためて見まわすと、家の中のいろいろなものが車椅子に乗ったわたしに合わせた高さにあった。
 こうやって立っていると、すべてのものが少し低い。高さにして三十センチほど。そうか、これがわたしと世間のズレの大きさか。三十センチなんて、たいした大きさじゃない。たぶんそうだろう。だけどそのズレは厳然として存在し、ふとしたときにわたしと世間を隔ててしまう。
 きっとリナとのあいだにも、そんなものがあったのかも知れない。わたしが気付かなかった、リナとのズレ。リナたちとのズレ。気にしなければ気にならないのに、気になってしまうとそこにばかり気がいってしまうもの。
 顔にできたシミみたいなものかな。気付かなかったときには毎日目にしていたってどうってことはなかったのに、気になってしまったら最後、鏡を見るたびに、写真を撮るたびに、窓ガラスに映る半透明の自分の顔にすら、そのシミを探してしまう。
「どうかした?」
 父さんが後ろから声をかける。
 きっと父さんは、わたしがハンスとの連携に戸惑っていると思ったんだろう。
「ううん」
 そういって振り向くと、テーブルまでの距離がやけに遠く感じた。
 わたしと父さんの家は、わたしが車椅子で移動するのに不自由のないようにスペースが広くとってある。キッチンもおしゃれなアイランド型ではなく外に向かって流しやコンロがあるタイプだ。その方がわたしが動きやすいから。
 こうして二本足で行動してみると、食材を取り出す、コンロの火をつける、そんな動作のひとつひとつが新鮮に感じられた。
「少しは慣れた?」
 トーストをかじりながら、父さんがいった。
「うん、ちょっと慣れてきた」
 嘘だ。意識して身体を向ければその方向に進むことができるとはいえ、これにはけっこう高い意識が必要で、わたしはいま変な意味で意識高い系女子だ。
 それでもせっかく父さんがわたしのために持って来てくれたハンスだ。否定的なことをいって父さんをガッカリさせたくない。
「あのね、この子の名前だけど、ハンスにしてみたの」
 わたしは今朝のやりとりを父さんに教えた。
「いいね、ハンスか。なんとなく頭がよさそうな感じがするし」
 そういうと父さんはタブレットを取り出して、なにやら打ち込み始めた。
「ところで、ハンスって名前はどこから来たの?」
「そ、それは、ええと、ヒューマン・アシスタント・ネットワーク・システムHuman Assistant Network Systemから……。人間のアシスタントをするわけだし……」
 醜いアヒルの子からとった、というのが少し恥ずかしかったわたしは、とっさに答えた。かなりたどたどしく。
「そうか、それはいい」
 父さんはおもしろそうにいった。「ネットワークはほら、ネットにもつながるわけだし……」という余計な説明はまるで聞いていないようで、父さんはタブレットをポンと叩いた。
「よし、じゃあもう一段ハンスの活動レベルを上げてみよう」
「なにをするの?」
「ハンスのコミュニケートレベルをもう少し上げてみる。これまではフルパッシブだったんだけど、これからはセミアクティブモードにしてみよう」
「つまり?」
「つまり、ハンスはいまからおしゃべりになる」
 父さんの指がタブレットの上でひらひらと踊った。そして最後にいくつかのキーを叩く動作をすると、父さんはいった。
「ハンス、これからはたくさんおしゃべりできるよ」
「ありがとうございます。ミサキとお話をするのが楽しみでした」
 父さんに応えて、ハンスがいった。その声は心なしか、楽しそうに聞こえた。

十 高校生

 ハンスがおしゃべり好きであることは、父さんを送り出してすぐにわかった。いや、送り出す瞬間から、本当は気付いてしかるべきだった。
 なにしろハンスは、わたしが父さんを送り出すとき、一緒になって「行ってらっしゃい」といったのだ。
 そのときは単に、「ああ、場面に応じた挨拶ができるんだ」くらいにしか思わなかった。ところが、ダイニングキッチンに戻って洗い物を片付けようとすると、ハンスのおしゃべりが始まった。
「ミサキ、今日の朝食はいつもと同じものですか?」
「うーん、だいたい同じかな」
 朝食のときに父さんがしていた操作は、ハンスに自発的な会話を許可するものだった。つまり、ハンスから話しかけることを許すということだ。
 父さんは昨日の晩にいっていた。ハンスには好奇心がある、と。好奇心があって、自分からおしゃべりしてもいいということになると、どうなるかは火を見るより明らかだった。
「野菜が不足しているように思います」
「そうかな?」
「はい、今日の朝食はバターとマーマレードを塗ったトースト一枚、目玉焼きひとつ、オレンジジュースでした。野菜はありません」
 ハンスはわたしと父さんが朝食になにを食べたか、カメラでしっかり見ていた。そしてもちろん、その記憶は正確だった。
「でも、昼とか夜に食べるし」
 わたしだって野菜が嫌いというわけじゃない。
「厚生労働省によると、成人が一日に必要とする野菜の摂取量は三百五十グラムです」
「それって具体的にはどれくらい?」
「標準的なキャベツ一玉の三分の一です」
「そんなに?」
 キャベツ三分の一玉って、千切りにしたら山盛りになるんじゃないだろうか。それもかなり標高の高い山に。
「はい。ですが、すべてをキャベツで摂る必要はありません」
 あたりまえですが。
「それに、すべてをサラダで摂る必要もありません。野菜炒めや煮物、お味噌汁の具として摂ることも可能です」
 わたしは吹き出してしまった。だって人工知能の抑揚のない声で、「お味噌汁」って。
「どうしましたか?」
「ううん、なんでもない。そっか、もうちょっと野菜を摂った方がいいね。でも、朝は時間がなくて」
「ミサキはこのあとの予定がありますか?」
「ううん、なにもないよ」
「それでは、時間はありますね」
 痛いところを突かれた。確かに時間ならあまるほどある。
「そ、そうだね。でも、お父さんも一緒に食べるから」
「それでは、もう少し早く起きてみてはどうでしょう」
 まさしく正論。
 だけど人間、正論だけでは動いていない。もし人間が正論だけで動いているのなら、世の中には犯罪も戦争もないはずだ。
 などという大仰なことを持ち出すまでもなく、わたしは単に早起きが苦手なのだった。学校に行っているときもいつだってギリギリだったし、今日もまだ髪に寝癖がついている。
「努力はしてみるよ」
 洗い物を終えて、わたしは洗面所に向かった。昨日、洗濯をし損ねたからだ。
 それはそうだろう。父親がいきなり研究所から人工知能を連れ帰って来て、しかもそれはパワードスーツを兼ねていて、長年車椅子生活を送っていたわたしを二本足で立たせ、歩かせたのだ。洗濯などという日常は、頭から消え去ってしまっていた。
 それでも、どんなに驚くようなことがあっても、日常はそこにあり続ける。洗濯物が消えてなくなることはない。
 たとえ何度かとばすことはあっても、ずっとご飯を食べずにいることはできないし、睡眠だって取らなきゃいけない。目の前に最先端のコンピュータ・サイエンスと機械工学の奇跡があっても、いや、それを身に着けていても、洗濯物はたまっていくのだ。
 洗濯はわたしの担当という決まりがあったわけではないけど、なんとなくわたしが洗濯機をまわすことが多かった。幸い、ドラム式の洗濯機なら車椅子に乗ったわたしでも困らなかった。
 だけどこうして二本足で立ってみると、ドラム式の洗濯機って意外と背が低い。洗濯物を出し入れするには、ちょっとしゃがまなくちゃならない。洗濯のたびにこんな屈伸運動するのって、けっこうたいへんじゃない?わたしにはハンスのサポートがあるから大丈夫だけど。
「ミサキ」
 洗濯物を放り込んでいると、ハンスが話し始めた。
「なあに?」
「これは、洗濯ですね」
「そうだよ」
 朝食についてはあんなに細かく、栄養士かというくらい指摘をしてきたのに、洗濯については知らないのかな。
「汚れた衣類などを洗って清潔にすることですね?」
「うん」
 そんなふうに考えながら洗濯したことはなかったけど、確かにそれが洗濯だ。
「洗濯を見るの、初めて?」
「学習過程において、洗濯の映像を見たことはあります。ですが、実際に洗濯を経験するのは初めてです」
 なるほど、そういうことか。
 ハンスはディープラーニングだかなんだかで、ネットワークに接続していろんなものを見聞きしてはいるんだろう。だけど実際の経験が少ないんだ。父さんはそれをハンスに体験させたいといっていた。
 研究所内でも、誰かがものを食べることはあるだろう。食事とか、お菓子とか。実体験とまではいわないまでも、ハンスはきっとそれを自分のカメラで見ているはずだ。だからわたしと父さんのダイニングでの様子を見て、それが朝食であることを理解できた。そしてそこに野菜が足りないことを、ハンスの膨大なデータベースの中の知識と結び付けて指摘したのだろう。だけど洗濯は、知識として知ってはいるけど実際に体験するのは初めてなんだ。人間でいえば、「本で読んだことはあるけれど」ってやつだ。
 そうか、ハンスは膨大な知識を抱えた子どもなんだ。
 わたしは父さんがやろうとしていることを理解できた気がした。それは、頭でっかちなハンスに経験を積ませ、知識と体験を結び付けさせること。本ばかり読んでいる子どもを図書館から連れ出して、外で走ったり転んだりしながら虫を追いかけたり、海で泳いだり、山に登ったりさせたいんだ。
 そう思うと、なんだか急にハンスが妹か弟みたいに感じられた。
「ミサキ」
 液体洗剤を投入しているわたしに、ハンスがふたたび話しかけた。
 なあに?知りたいことがあったら、なんでもお姉さんにいってごらん。
「洗剤を入れ過ぎです」
「え?」
「ミサキが洗濯機に入れた衣類の質量は約二・四キログラムでした。これに対して投入した液体洗剤の量は約五十ミリリットル。液体洗剤の濃度にもよりますが、あきらかに多過ぎます」
 ああ、そう。この子は経験がないだけで、知識は唸るほど持ってるのよね。しかもアクチュエータにかかる抵抗の増加から、洗濯物の重さを正確に知ることができる。さすがに液体洗剤の重さまではわからないだろうけど、それはわたしの首元についたレンズでキャップに入れた量を見ているんだろう。
 できのいい妹を持つ姉の気持ちが痛いほどわかった気がした。
「そうね、今日はちょっと入れ過ぎちゃったかな」
 慌てて洗剤投入口を閉めるわたしに、ハンスはいった。
「ミサキ」
「なに?」
「柔軟剤は入れなくていいのですか?」
 入れる、入れるわよ。入れさせていただきます。
 ほんと、いつもはちゃんと入れてるの。洗剤の量を計ってないのもいつものことだけど、柔軟剤を入れるのもいつものことなの。
「そうだね……」
 もう一度洗剤投入口を開け、今度はしっかり計量して柔軟剤を流し込んだ。姉としては、まったく立場がない。姉歴半日、失態続きは肩身が狭い。
 洗濯機のスイッチを入れたわたしはとぼとぼとリビングに向かった。
 気持ちだけは。
 気落ちしたわたしは本当ならさっさとリビングのソファに倒れ込んでしまいたいところだけれど、この妹だか弟だかは姉にそれすら許してくれない。
 わたしは昨日の夜と同じように、冗談のようなぎこちない足取りで廊下を進んだ。ハンスにはまったくそんなつもりがないのはわかっているけど、それでもなんだかはずかしめを受けているような気がした。
 ようやくたどり着いたリビングで、わたしはどさりとソファに身体を沈めた。
 沈めたかった。
 ところがハンスは、わたしがソファに向かって身体を倒そうとすると一歩踏み出してバランスを取ってしまう。なんだか間抜けなステップで踊っているようなわたしは、なおさらはずかしめを受けている気分だった。
「ハンス、ソファにドサッといきたいの」
「ドサッといくというのは、なにかを放り出すということですか?」
 ああ、ここまで適当な指示はまだ理解できないのか。
「そうじゃなくて、わたし自身がソファに倒れ込みたいの」
「倒れ込むのは危険な行為ではないですか?」
「そんなことない……」
 そうか、わたしたちはソファやベッドに本当の意味で倒れ込むことはしていないんだ。言葉の上では「倒れ込む」といっていても、実際にはぶつからないようにしたり、受け身を取ったりしてる。それも無意識に。
 これもわたしたちがその感覚を身に着けているからなのかな。父さんはハンスにそういう感覚を学ばせたいのかな。
「ええとね、勢いよくソファに座りたいの」
「わかりました」
 わたしの身体はくるりと向きを変えると、ストンとソファにおしりを落とした。
 それはわたしにとっては長いあいだ忘れていた経験だった。
「こんなの、久しぶりだな……」
 ハンスに話しかけることに慣れてきていたわたしは、思わず声に出していた。
 小さい頃のわたしは、みんなと同じように二本の足で立っていた。歩いたり、走ったり、飛んだり、跳ねたり。
 それが突然立てなくなった。歩けなくなった。
 病室のベッドの上でどうやっても動かないわたしの足を見て、心配していた父さんの顔はいまでも覚えてる。
「ミサキ」
 ハンスの声で、わたしは我に返った。
「どうしましたか?」
「なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」
「疲れたのでしたら、ベッドで横になることをおすすめします。甘いものを食べることも有効です」
 弟か妹かと思ったらおばあちゃんですか、あなたは。さっきまで食事のバランスが悪いのなんのと小言をいっていたくせに、ちょっと疲れたといったら甘やかす。
「大丈夫、そこまでじゃないから」
 わたしはソファの上で上体を起こした。
「ミサキ」
「なに?」
「ミサキは高校生ですか?」
「そうだよ」
 父さん、基本情報は入れておいてほしい。きっと父さんのことだから、「僕の娘のミサキにくっついて、いろいろ学ぶように」くらいの指示しか与えてないんじゃないだろうか。足が不自由だってことはいってあるかも知れないけど。
そこまで考えて、わたしはふと思った。じゃあ、どうしてハンスはわたしが高校生だってわかったんだろう?
「ねえ、ハンス」
「はい」
「わたしが高校生だって、お父さんに聞いた?」
「いいえ」
「じゃあ、どうしてわたしが高校生だと思ったの?」
「ミサキの机の上に、『高校』という言葉の入った教科書がありました」
 なるほど、画像認識だ。机に置いてある本をきちんと教科書と認識しているあたり、さすが人工知能。
 わたしはちょっと意地悪をしてみた。
「でも、それだけならわたしが高校の先生だって可能性もあるんじゃない?」
 わたしの年齢を知っていればそこからわかりそうなものだけど、ハンスは教科書の存在を根拠にしていた。たぶん年齢は知らないのだろう。
「参考書や問題集もありましたが、いずれも高校生向けです。逆に指導書や問題作成用資料等がありませんでした。そのことから、ミサキを高校生と推測しました」
 人間だったらあたりまえにわかることを、ハンスはデータを元にきちんと考えなくちゃならない。でも、これってすごいことだ。
 普通の人工知能なら、机に高校の教科書があることはただそれだけの事実でしかない。
 もちろんその人工知能に、「高校の教科書を持っている人は高校生だ」と教えれば、そう判断するだろう。そして正しく間違える。
 高校の教科書を持っている人なら、それが赤ちゃんでもお年寄りでも、誰でも「高校生だ」と判断するだろう。それならばと年齢条件を与えると、今度はその年齢を判断する根拠が必要になり、正しい年齢がわからないと判断できなくなってしまう。
 だけどハンスは違う。高校の教科書を使っている形跡があり、先生が使いそうな本がないことから、わたしが高校生だと適切に推測している。
 人工知能にとっては、たとえば温度計が示す数値はただの数値でしかない。それ以上でもそれ以下でもなく、ただの事実でしかない。
 でもたぶんハンスなら、その意味するところがわかる。そして気温がもし二十度しかなくても、人が暑そうにしていれば、「この人は暑いんだ」と判断するんだろう。
 つまり、ハンスは状況から判断することができるし、おそらくはわたしたちが常識と呼ぶものに近いものを持っているんだと思う。
 父さんたちがハンスにそれを教えるのにどれだけの労力をかけたか、考えるとめまいがするほどだった。
 ディープラーニングは決して万能じゃない。万能じゃないどころか、実はおそろしく手間がかかる。人工知能に大量のデータを与えれば、勝手に学習してくれるものではないのだ。
 たとえば人間が猫の写真を見せられて「猫だ」と答えるとき、わたしたちは写真という入力を適切に処理し、「猫だ」と出力している。
 多くの人工知能に使われるニューラルネットワークにはデータの入力と出力のあいだにそれを処理をする層があって、その処理層を何層にも増やして学習するのがディープラーニングだ。
 処理層が深くなればなるほど入力に対する出力の精度は上がるけど、そのぶん処理に時間がかかる。それに処理層を深くすることで、かえって人工知能が混乱してしまうこともある。猫の写真を見たときに、猫と答えればいいのか、写真と答えればいいのか、それともインクの色を答えればいいのか、考え過ぎてしまうのだ。
 だからその設計も調整も、実はとんでもなく手間がかかる。そしてその苦労が結実したのが、ハンスなのだった。
「それから、ハンガーにたくさん皺のついた制服がかかっていました」
 そういうとこ、気付かなくていいから。うん、そういうところにまで気付くのはすごいと思うけど、いいから。
 おそらくハンスには悪意も、含むところもないんだろう。散らかった部屋を見て、「きれいなお部屋だこと」なんて嫌味をいうのとは違って、制服の皺はわたしがそれを着ていたことを、つまりは高校生であることを推測するための根拠に過ぎない。
 でもあらためていわれるとちょっとね。しばらく着ていないとはいえ、アイロンくらいはかけておけばよかったな。
「ミサキ」
「なあに」
「高校生のミサキは、高校に行かないのですか?」
 本当に悪意も、含むところもなくいう。
 まるで小さい子がわたしの車椅子を見て、「お姉ちゃんは歩けないの?」と聞いてくるときと同じだ。
 彼らに悪意はなく、わたしを傷付けるつもりはない。傷付けるつもり無く投げかけられた言葉に、傷付く必要なんてない。そんな必要はないって、いつもわかってはいるんだけど……。
「うん、行かないよ」
 わたしは努めて明るく答えた。人工知能相手にそんな必要はないのに。
「高校生は高校に行くのではないですか?」
「そうだけど……、わたしは行かないの」
 気まずい沈黙が降りた、と思っているのはわたしだけなんだろう。その証拠に、ハンスはなんでもない口調でこう切り出してきた。
「では、他の場所に行きませんか?」

十一 プルモナリア

 ハンスの提案を聞いてわたしが思ったのは、「どこに?」ではなくて、「どうして?」だった。どうしてハンスは、わたしにどこかに行こうと提案するんだろう?
「ミサキ、どこか別の場所に行きませんか?」
 高校にも行かないわたしに、ハンスはどこに行けというのだろう?
 そう考えて、思いあたった。ハンスは本当にどこかに行こうと提案しているわけではないんだ。
 ハンスは好奇心を持つように、少なくともそう行動するようにプログラムされている。だからわたしが高校に行っていないことも関係なく、ただ単に自分の経験を増やすために行動しているんだ。
 そして経験を増やすためには、ハンスを装着している人間がさまざまな活動をするしかない。ハンスはそう判断したに過ぎない。そうだ、ハンスには悪意も、わたしを励まそうという意思もないんだった。
 父さんのためにも、少しがんばらないといけないかな。ハンスに少しでも経験を積ませないと……。
「じゃあ、ちょっと外に出ようか」
 高校は無理にしても、家のまわりくらいなら。
「はい」
「じゃあ、行ってみようか」
 わたしは玄関に向かった。ハンスを着けたまま履けるように、スニーカーの紐をうんと緩める。ハンガーからキャップを取って頭にかぶる。
 車椅子に乗るわたしに合わせて、うちはいまどきめずらしい引き戸だ。その扉を引き開けて、一歩踏み出す。
 緑の匂いをはらんだ風が、わたしの頬を撫でた。
 その風は、わたしがそれまで感じたことのない風、感じることができないはずの風だった。地上百六十センチメートルの風は、昨日までのわたしには夜空の星と同じく、手の届かない存在だった。
 その風を、わたしはいま生まれて初めて感じている。
 ハンスにとっても、それは初めての経験のはずだった。もちろん、研究室で誰かの身体を借りて歩きまわったことは何度となくあるだろう。そうでなければ、父さんがこうして持ち出して自分の娘に使わせるなんてこと、するはずがない。
 それでも研究室の外で、本当に普通の世界を歩くのは初めての経験のはずだった。
 これは、わたしとハンス二人の冒険なんだ。
 靴の底を通じて、地面を感じられた。ハンスの力を借りていても、体重がゼロになるわけではなく、自分の体重とハンスの重さぶんの圧力が足の裏にかかっていた。
「行くよ」
 右足が地面を離れる。靴が弧を描く。敷居をまたぐ。
 ハンスのわずかなモーター音を遮るように、靴底が接地する音が聞こえた。
 わたしは家の外に立っている。
 それだけで、すべてが変わった気がした。
 昨日の夜、ハンスの力で初めて立ち上がったときとは違う感動が、わたしの胸にこみ上げた。
 家は、わたしの鎧だ。なにがあっても、そこに帰りさえすればすべてのことからわたしを守ってくれる。だからリナからのイジメに遭ってどうしていいかわからなくなったとき、わたしは家の中に、鎧の中に身を潜めることに決めた。
 立って眺める庭の景色はいつもとはまるで違っていた。
 父さんが好きで植えているユキヤナギは、もう花を散らしてしまっていた。
 いつもなら緑の壁に見えているユキヤナギを上から見下ろしているのは、不思議な気分だった。
 そのユキヤナギに隠れるようにして、白とピンクのかわいらしい花が咲いていた。まるでにっこりと微笑むマンガのキャラクターのようだ。
「ハンス、あの花の名前わかる?」
 その花は庭のあらゆる方向に向けて、笑顔を放っていた。
「トレニアです」
「ふうん」
 車椅子に乗っていると視点が低いからたくさんの花が見つかりやすいと誤解されるけど、実際は逆だ。視点が低いぶん障害物に遮られて、特に背の低い花は見えないことが多い。
「この花、なんだか一年中咲いてる気がする」
「トレニアは四月から十月ごろまで花を咲かせます。暑さに強く生育が旺盛でさまざまな土地で育ちますが、乾燥を嫌います」
「へええ」
 ハンスは花に詳しかった。それもそのはず、バックパックに収められたハンスの頭脳には、さまざまな知識が詰まっているのだ。
「じゃあ、あっちの花は?」
 わたしは庭の隅にある、小さな紫色の花を指さした。
 考えてみれば、これもすごいことだ。ハンスはどの花のことをいっているのか、座標で指示しなくても理解する。
 犬は指さしたものを理解するというけど、猫にはこれができないらしい。猫はなにかを指さすと、その指の先をクンクン嗅いでしまう。これはこれでかわいいんだけど。
「プルモナリアです」
「プル……なんとかっていうのは、どんな花なの?」
「学名、プルモナリア・オフィシナリス。英名、ラングワート。寒さに強く、ピンクや白の花色が次第に青く変わっていくのが魅力とされています」
 確かによく見ると紫色の花に、いくつかピンクや白の花も混じっていた。
「プルモナリアっていうのは、どういう意味?」
「肺です」
「肺?」
 わたしは思わず自分の胸を押さえた。
「肺臓です」
「ああ、そう……」
 なんかちょっと、こんなかわいい花に臓器の名前を付ける昔の人のセンスがわからない。ハンスが持っている膨大な知識も、あればいいってものじゃない気がしてきた。
 視点を変えれば、とよく聞く。迷ったとき、困ったとき、行き詰まったとき、視点を変えてみるといいって。
 いまのわたしは、本当に、物理的に、視点が変わっている。庭にこんな世界が広がっているとは思わなかった。視点がわずか三十センチ上がっただけでこの違いだ。
 ましてやわたしにはハンスがいる。まだまだぎこちないとはいえ、人間と会話ができ、膨大な知識を操れるパートナーがいるのだ。家という鎧で身を守っていたときには、決して得られなかった視点の変化がある。
「もう少し、歩いてみませんか」
 しばらく庭を散策したあと、ハンスは促した。鎧を脱いで、もっと遠くに行ってみようと。重い鎧を着たままではたどり着けない場所に、行ってみようと。
「うん」
 自分でもビックリするくらい、弾んだ声が出た。
 家の前の道路に出て、上り方向を選んだ。せっかく鎧を脱いだのなら、上に向かう方がいい。
 道は曲がりくねっているとはいえ舗装もされていて、脇を走る白いガードレールがいまはシャツの下に隠れているハンスのように見え、それははるか彼方にまでわたしを連れて行ってくれるようだった。
 時おり車が追い抜いていくその横で、わたしは一歩一歩確かめるように歩いていた。それでも、ハンスとわたしの足取りは少しずつ確かなものになっていった。
 まだ六月に入ったばかりだというのに日差しはやけに強くて、キャップをかぶった頭から汗がしたたり落ちた。
 三十分ほど歩くと、驚くほど遠くまで来ていた。速さはそれほどではないとはいえ、ハンスは疲れることを知らない。つまり、上り坂をまったくペースも落とさず休みもせず歩き通したのだ。相当な距離まで来られるのは道理だった。
 たどり着いたそこは数台の車が停められるくらいのスペースになっていて、飲み物の自動販売機が一台置かれている。
 だけど、それだけだ。
 ビューポイントとも呼べないそこから見えるのはまわりの山と木々ばかり。遠くを見渡すには背後にあるもう一段高い山の上まで行かなければならない。
 振り向いて仰ぎ見ると、青い空を緑の山が切り取っていた。
 その山は近所の子どもたちからはザビエル山と呼ばれていた。昔、日本にやって来たフランシスコ・ザビエルが布教の旅の途中でこの山に登り、などといういわれはまったくなく、山頂付近にだけ木が生えていないのでそう呼ばれていたのだった。
 あれはトンスラというキリスト教の聖職者の髪型で、という先生たちの説明もむなしく、いつの頃からか山頂にある神社までザビエル神社と呼ばれるようになっていた。
 わたしはもちろん、そこに行ったことがない。
 ザビエル神社には駐車場から続く山道を登っていかなければならなくて、それは山肌に細い丸太を埋め込んで作った階段状の坂だった。車椅子のわたしにとっては、そこは富士山やエベレストの山頂にも等しい場所だったのだ。
 車椅子のわたしにとっては。
 だけどいまは、ハンスと一緒だ。
 車椅子のわたしには無理でも、ハンスと一緒のわたしになら行けるかも知れない。
 わたしは額の汗をぬぐうと、山道へと足を踏み入れた。


十二 ザビエル神社

「山道、大丈夫?」とは、聞かなかった。
 舗装道路とはいえ、駐車場までだってけっこうな坂道だったのだ。その間、ハンスの歩みに不安なところはまったくなかった。
 それどころか、歩く距離が延びるにつれてハンスの足取りは速く、確かなものになってきているようだった。
「わたしは常に学習し、その結果を動きの制御にフィードバックしています」
 山道を歩きながら、ハンスはわたしの疑問に答えた。
「道を歩きながら、わたしはミサキの動きを学習しました。それをフィードバックしているので、歩く距離が増えるほど動きはスムーズになります」
「へえ、そうなんだ」
「はい、明日になればもっと足を動かすことが上手になります。学習を続ければ、走ることも可能になります」
「走れるの?」
「はい。最初はあまり速くは走れませんし、転ぶこともあるかも知れません。しかし、走るようになることは可能です」
「どれくらい速く走れるようになるの?」
「ミサキの身体であれば、だいたい時速十キロメートルほど。五十メートルを二十秒で走るくらいです」
 それはとても魅力的な見通しだった。
 自動車や電車に乗っているときを除けば、わたしは時速十キロでなど走ったことがない。電動車椅子の最高速度は法律で時速六キロメートルと決められているからだ。
 体育の授業に参加できないわたしはみんなの記録係をやることが多かった。だからだいたいみんなが五十メートルを九秒くらいで走ることを知っている。
 五十メートルを二十秒は、おそらく学年最遅記録だろう。
 それでも、わたしにとっては夢のような速度に違いない。
 でもいまは、いつか達するそんな速度からはほど遠い遅さで、わたしは赤土が湿る山道を登っていった。山頂の神社に至るその道は、まるで緑のトンネルのようだった。分け入るにつれ、木々はなお鬱蒼と茂り、青空からなにかを隠しているかのように見えた。
 そうだ、隠している。
 少なくともこの道は、わたしから山頂を、山頂からの眺めを隠してきた。下の駐車場までなら、父さんの車で何度か来たことがある。だけどそこから上は、わたしには未知の領域だった。
「少し滑りますね」
 ハンスが声をかけた。
「うん」
 足の裏が滑っているのは、わたしにもわかる。だけどこれまでほとんど体重のかかったことのないスニーカーの靴底は新品同様だ。ちょっとやそっとで転ぶはずがない。
「足の裏が滑る感覚は新鮮です」
 それはわたしも同じだった。小さな頃を除けば、わたしは足を滑らせたことがない。それは自分の足で歩くことのできる人間の特権だったからだ。
 でもいま、わたしとハンス両方の体重を引き受けた靴底は、踏み出すたびにほんの少し滑っている。
「そうだね、わたしも新鮮」
 わたしとハンスはいま、同じ体験を同じように新鮮な気持ちで受け止めている。
 家や学校の中の階段とは違う、緑の木々の中の土の階段。広い場所にいるはずなのに、木々のおかげで閉じ込められているみたいに感じられる。
 かぶったキャップの隙間から、汗が流れ落ちる。汗はそのままあごから落ち、地面に吸われて見えなくなった。
 それにしても、こんなにきついとは。
 足の動きはハンスが受け持ってくれているとはいえ、上半身のバランスを取るのはわたしの役目。さっきから腹筋と背筋はフル活動中だ。
 腹筋と背筋はお腹と背中にある筋肉の総称だ。人間の上半身でいちばん大きい筋肉は肩のところにある三角筋だけど、胴体をぐるりと囲んでいる腹筋と背筋の総量にかなうわけもない。ダンサーが手っ取り早く身体を暖めるために腹筋運動をするらしいと、本で読んだことがある。
 わたしはさっきからそれをフル活動させている。当然、運動量ははなはだしく大きく、息があがる、滝のように汗が流れる。
 おまけに今日の気温だ。さらには森の中にいるおかげで、むせ返るように湿度が高い。
 引き返そうか、とも思った。だけどそれをいうのははばかられるような気がした。
 これまで、たくさんの人の力を借りてきた。父さんだけじゃない。車椅子を作った人、リハビリをしてくれた先生、建物の入り口にスロープを付けてくれた人。バリアフリーを促進するために、誰かがどこかで力を尽くしてくれていたはず。
 ハンスの力を借りてすら山頂まで行けないのなら、わたしはきっともうどこにも行くことなんてできないだろう。
「少し休みますか?」
 ハンスが挑発するようにいう。そう聞こえたのは、きっとわたしの心のせいだ。実際には相変わらず感情を欠いた声だったに違いない
 一枚の肖像画が、微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見えることがある。それはこちらの気分次第だ。
「ううん、このまま行くよ」
 休んでなんていられない。立ち止まったら、もう歩き出せない。そんな気がした。
 道はからかうみたいに右に行ったり左に行ったり、平坦になったかと思えば急に勾配がきつくなったりした。
 森はますます深くなり、木漏れ日すらわずかに足下に落ちるだけになった。道の横からは時おり細い枝が飛び出していて、何度か手を使って払いのけなければならなかった。
 そうして、さっきまでの強がりを少し後悔し始めた頃、不意に森が途切れた。
 あまりに突然で、あっけなくて、わたしはキツネにつままれた思いがした。それこそ深い海の底から浮かび上がって、水面に飛び出したようだった。
 森の途切れたところには森と神域との境界を守っているかのように、古びた鳥居が立っていた。朱の剝げかけた鳥居をくぐると、そこから先は石の階段がまっすぐに延びていた。
 ザビエルの頭頂部。
 そんなことを思って、一人で笑ってしまった。
 さっきまでの山道と違って、石の階段は一段一段の高さも均等だし、なにより滑らないから歩きやすい。だけど勾配はこれまでの比ではなく、最後の最後に追い討ちをかけるようだった。
 果てしなく続く、それこそ天まで続くかと思われる階段をひたすら上り続けて十数分。わたしは最上段までやってきた。頂上にはほとんどスペースはなく、手水舎と数本の灯籠と拝殿が肩を寄せ合うように並んでいた。
 あまり訪れる人もいないのか、石段の下の鳥居と同じく手入れが行き届いているとは言い難いザビエル神社は、あちこちが煤け、剝がれ、穴が空いていた。
 そして、振り返ると。
 なにものにも遮られていない景色が、眼下に広がっていた。
 登山と呼べるようなものではない。決して高い山でもない。それでも、わたしにとっては二つとない光景だった。
 ずっとずっと下の方、何キロも先に細く曲がりくねった川が見えた。川の両岸に広がる街が見え、それをつなぐ大きな橋が見えた。そしてその先には、遠く海が見えた。
「最高……」
 わたしは額の汗をぬぐってつぶやいた。
 ほんの二十四時間前には、これは存在しない景色だった。少なくとも、わたしの人生には存在するはずのない風景だった。
 誰かに連れて来てもらうことはできただろう。背負って、カゴに入れて、なんならヘリコプターで。だけどそれは、いまわたしが見ている景色とは違うはずだ。ハンスの力を借りてはいても、わたしは自分の足でここまで登り、たっぷりかいた汗と心地よい疲労感とともにこの景色を眺めているのだ。
「これは、最高ですか?」
 ハンスが聞いた。
「うん、わたしにはね、とってもきれい」
「グレートバリアリーフやグランドキャニオン、マッターホルンの方がきれいなのではないですか?」
「どうしてそういうこというかな?」
 ハンスには、この景色がわたしにとってどんな意味を持つかがわからない。そしてわたしの言葉が質問ではないことも理解できない。だから馬鹿正直に、自分の発言の根拠を答えた。
「各観光地の写真がインターネット上にあります。数は少ないながらこの場所からの写真もインターネット上にあります。しかし、人々からの好意的な評価、美しいという評価は圧倒的に前者に偏っています。
 そこから推測すると、この景色は最高という評価にあてはまらないのではないでしょうか」
「そうかも知れないけど、わたしにはこれが最高なの」
 わたしはポケットからスマホを取り出して何枚か写真を撮った。それを父さんに送ろうと思ったけど、残念ながら圏外だった。いまどき携帯電話の電波が届かないなんて、ボロボロになった神社と相まって、まるで文明に見捨てられた場所のような気がした。
 そうそう、少しでも父さんの役に立てればと思って家を出たんだ。もう少しがんばってハンスの学習に付き合ってみよう。
「人間がどんな景色を美しいと思うかは、多数決で決まるんじゃないの。もちろん、多くの人が美しいという景色は美しいんだと思う。でもそれが全員にあてはまるわけじゃないし、その人の経験とか、感じ方によって違ってくるの」
「多数決は重要な意思決定方法だと教わりました」
「景色のきれいさなんて、多数決で決めるものじゃないでしょ」
「インターネット上では、美しい景色の順位を決める投票が盛んに行われています」
「あれはね、洒落みたいなものなの。意識調査っていうか、みんなどう思う?みたいな。だから自分がきれいと思うものがきれいでいいのよ」
「参考までに、というやつですね」
「う、うん、そう」
 突然人間くさいことをいう。
「それに、ここからは花火が見えるらしいの。街の方であがる花火なんだけど、上から見下ろすように見えるんだって。そういうのも、景色のきれいさにはプラスされるのよ」
「いま実際に見えていなくてもですか?」
「そうだよ」
 いいながら、わたしは街の上にあがる花火を想像してみた。
 ザビエル山に登ったこともないわたしは、当然その花火を見たこともない。だけど日が沈んで、遠い街明かりの上にきらめく花火は想像するだけできれいに思えた。
 こんな会話が、ハンスが人間を理解する助けになっていればいいんだけど。
 わたしはわたしが最高と思う景色をもうひと眺めして、緑の匂いのする空気を思い切り吸い込み、山頂をあとにした。

十三 おやすみ

「登ったの?あの山に?」
 驚きとも喜びともつかない声を、夕食の席に着いた父さんはあげた。
「うん、いけなかったかな」
「いやいや、とんでもない。むしろ大歓迎だよ。ミサキが危ない目に遭っていなければね」
 父さんによれば、ハンスにはどんどんいろんな体験をさせてやってほしいのだという。ハンスが知識としては持っていても、経験として持っていないことを。
 ただし、危ないことはしないこと。山登りくらいなら大丈夫だけれど、泳いでみようなどとは思わないこと。
 父さんとのそんな会話を、ベッドで横になったわたしはハンスと反芻していた。
「水に入ってはいけないわけではありません」と、ハンスはいった。「わたしの防塵防水等級はIP68です」
 その表示はスマホなんかで見たことはあるけど、気にしたことはなかった。
「IPはInternational Protectionの略で、ひとつ目の数字は防塵等級を、二つ目の数字は防水等級を表します」
 つまりハンスは完全防塵かつ完全防水で、砂嵐が吹きすさぶ浜辺から海に飛び込んだりしても大丈夫とのことだった。
「ですが、わたしを身に着けたまま泳ごうとするのはおすすめしません」
「どうして?水に入っても平気なんでしょ?」
 ハンスほどの能力があれば、泳ぎ方をマスターするのなんて造作もないはずなのに。
「泳ぎ方は知っていますが、わたしを身に着けたまま水に入ると、たいていの人は沈みます」
「なんで?」
「わたしの大部分は金属でできていますので、水よりはるかに重いからです」
 そうだった。
 ハンス自身が力を出してくれているから重さを感じていなかったけど、実際のハンスは十キロ近い重さがあるんだった。
「ただし、身体に十分な脂肪がついている場合は浮くことができるので、泳ぐことが可能になります」
 つまり、ハンスと一緒に泳げるということはそれだけ脂肪がついているということで……。
「あ、うん、わたし沈むから大丈夫」
 わたしは慌てていった。
「沈むのは大丈夫ではありません。呼吸ができなくなり、生命に危険がおよぶ恐れがあります」
「そうだね、大丈夫じゃないね……」
 浮いたら浮いたで、女子としては別の危険がある気がするんだけど。
「ねえ、でもさあ、ハンスにいろんな経験をさせるためにはなにをしたらいいと思う?」
 その危険な話題から、わたしは必死に話を逸らした。
「わたしにとっては、ミサキと行動を共にすることが十分な経験です。今日もたくさんの新しい経験をしました」
「そう?」
 そうだといいんだけど。
「はい。この二十四時間で、わたしはたくさんの新しい情報を得ました」
 ハンスと知り合ってからまだ二十四時間しか経っていない。あらためてそう考えると、驚くばかりだった。
 だってこの二十四時間で、わたしは最先端とはいえないまでも研究室レベルの人工知能を預けられ、名前を付け、その人工知能に助けられて二本足で立ち上がり、歩き、山を上り下りし、いまはもう平気で会話をしている。
 人間はどんな驚異にも三日で慣れる、と聞いたことがあるけど、二十四時間でというのは早過ぎないかしら?それともわたしはとりわけ鈍いんだろうか?
 そんなことを考えていたら、意識が途切れ途切れになってきた。
 ハンスにとっても新しい体験ばかりの一日だっただろうけど、わたしにとってもそうだった。きっと身体よりも、頭の方が疲れてる。
「ミサキ」と、ハンスが呼びかけた。「もう眠いようですね。睡眠をとってはどうでしょう」
「うん」
 睡眠をとるだなんて、まだまだハンスは堅いなあ。そのへんの言葉遣いも、だんだんこなれていくのかな。
「わたしも、もう休みます」
 ハンスの意外な言葉に、わたしの頭は少しだけ目を覚ました。
「ハンスも眠るの?」
「人間の眠りとは違いますが、今日蓄積した情報を評価、分析することに集中する時間が必要です。人間でいえば睡眠に相当する状態になります。処理された内容はフィードバックされ、わたしは少し成長します」
 人間も寝ている間にその日あった出来事を脳の中で整理するんだって聞いたことがある。それが夢だって。ハンスも同じようなことをするのか。
 ハンスも夢を見るのかな?それを考えるには、わたしはすっかり睡魔に制圧されていた。
「わかった、おやすみ」
 いい終わるか終わらないかのうちに、わたしは眠りに落ちていた。

十四 リョウコおばさん

《つまりミサキちゃんは暇なのね?》
 ようやく筋肉痛から回復した頃、リョウコおばさんからのメッセージが届いた。
 運動はハンスにしてもらってるのに筋肉痛?わたしだってそう思った。だけど実際に筋肉痛になった。それもかなり重度の。
 わたしはハンスのコントロールに身体の重心移動を使う。そしてもちろんバランスを取るのにも。つまり腰から上、主に腹筋と背筋を常に使い続けることになる。
 立って歩ける人は普通にやっていることだけど、わたしにとってはほとんど初体験だ。さらにいきなりあんな山道に挑んでしまったのだ。これで筋肉痛にならない方がおかしい。
 とはいえ、こんなにひどい筋肉痛にならなくてもいいんじゃないかな?動かないはずの足まで筋肉痛になってる気がした。
「ふっ、く……」
 ベッドから起き上がるのにも、いや、それどころか寝返りを打つのにさえ苦悶の声が漏れる。登山の翌日から数日間は、ハンスを身に着けるのは筋肉痛との戦いだった。ハンスがこれを正常な人間のふるまいだと学習してしまったらどうしよう。
 リョウコおばさんからのメッセージが届いたのは、ようやく筋肉痛が風邪の引き始めくらいの軽さになり、椅子に座ろうとするたびにお父さんの失笑を買わなくなった頃だった。
《暇ならさ、水族館来ない?平日の昼はお客さんいないからガラ空きよ》 
 それから一週間ほど経って、おばさんの車がうちにやって来た。
 リョウコおばさんは父さんの姉で、エネルギーの塊みたいな人だ。ポンポン跳ねまわっていつでもなにかやっている。いま勤めている水族館だって、有り余るエネルギーがもとで就職してしまったようなものだ。
 学生時代、サーフィンをしていたおばさんは「サーフィンのメッカだから」という理由だけでハワイ大学に留学し、暇潰しにワイキキの端っこにある水族館を訪れ、すっかり海洋生物のとりこになって、滞在中のほとんどをその水族館に入り浸って過ごした。
 毎日やって来るその学生をおもしろく思った職員がリョウコおばさんをアルバイトに採用し、帰国する頃にはおばさんはすっかり水族館運営のノウハウを身に着けていた。
 そして日本で獣医学部に入り直して水族館職員になってしまった。
「順番としては逆だよね」
 おばさんが教えてくれたことがある。
「帰って来る頃には水族館の仕事だいたい覚えてたからさ、資格取るために大学入り直したようなものなのよ。しかもさ、別に水族館の飼育員になるのに獣医の資格いらないって、就職活動始めてから知ったよね。笑ったわー」
 そんな大ごとを「笑ったわー」ですませてしまうあたり、まったくリョウコおばさんらしい。
 そのリョウコおばさんからメッセージがあり、あっという間にリョウコおばさんはやって来て、わたしはおばさんの車に乗せられて水族館に向かっているのだった。
「つまりそのハンスを着けてると、ミサキちゃんは自由に歩きまわれるわけなのね」
「おばさん、前見て」
 エネルギーの塊なのはいいけど、おばさんの運転はせわしない。ていうか、危ない。
「大丈夫、半分自動運転だし」
 そうかも知れないけど、助手席に乗ってる身としては心臓に悪い。
「ハンスは運転できないの?」
「え?」
「だって車の自動運転とAIって似たようなものでしょ?ハンスを着けたミサキちゃんが運転席に座れば、運転できるんじゃない?」
「ハンドルを握ったり、ウィンカーを操作したりといった指先の部分の動きはサポートできませんので、運転は不可能です」
 わたしの代わりにハンスが答えた。
「そっかぁ。残念」
「でもミサキちゃんが指さえ動かせば運転できちゃうんでしょ?」
「可能です」
「やってみちゃう?」
「みちゃわない!」
 リョウコおばさん、そういうとこある。本当にわたしにやらせかねない。
「道路交通法第八十四条第一項には、『自動車及び原動機付き自転車を運転しようとする者は、公安委員会の運転免許を受けなければならない』とあります。この法令は自動運転装置搭載車にも同様に適用され、全自動運転であってもミサキはまだ自動車の運転はできません」
「はいはい、わかりました。ミサキちゃんに運転させたりしません」
 おばさんは拗ねたように唇をとがらせた。
「それにしてもすごいよね。こんなに自然に会話できるAI作っちゃうんだもん。わが弟ながらあきれるわ」
 そこは感心してあげて。
 一緒に過ごした二週間ほどの間で、ハンスの受け答えはずいぶん人間らしくなってきていた。だけどこういうところはやっぱりお堅い。人工知能なんだから、ルールを遵守するのはあたりまえなんだろうけど。
 でももし、緊急事態になったらどうするんだろう?
 たとえばリョウコおばさんが体調不良になって、車の運転ができなくなったら?そしてまわりに誰もいなかったりしたら?
 それが人里離れた場所だったとしても、「救急車を呼びましょう」とかいって、決してわたしに運転させないんだろうか?
「はい、到着」
 おばさんは職員用の駐車場に車を滑り込ませた。
「おやすみなのに、いいの?」
「職員の特権よ。なんなら社食も利用してっちゃう?」
 そう、おばさんは今日、仕事はおやすみなのだ。なのに片道一時間もかけて、わたしを隣町の自分の水族館まで連れて来てくれた。
 そして通用口から堂々とわたしを館内に入れてくれたのだった。
「いいの?」
「ミサキが水族館に入るには入場料を支払う必要があります」
 通用口をくぐりながら、ハンスとわたしは同時にいった。
「いいのいいの」
 手をひらひらさせながら、おばさんはまったく気にした様子もない。
 そんなおばさんだから、わたしがハンスのことをおそるおそる紹介したときも、「おもしろーい!」と目を輝かせるばかりだった。
「ミサキは職員ではなく高校生ですので、入場料を支払う必要があります」
 ふたたびハンスがいう。
「うるさいわね、ハンスは。わたしがいいっていってるんだからいいのよ」
「リョウコがいいといえばいいのですか?」
 うわ、なんだろう、この頭の悪い会話。小学生の、「先生がいいっていったらいいのかよ」的な。獣医師と人工知能の会話とは思えない。
「ハンスは融通が利かないなあ。じゃあわたしの招待客ってことならいいでしょ。実際、そのとおりなんだし」
「招待客は無料ですか?」
「あたりまえじゃない。招待しておいてお金取るバカがどこにいるのよ」
「ミサキは招待客なので、無料で水族館に入ることができます」
 ハンスはまるで自分にいいきかせるようにいった。
「ほら、これに履きかえて」
 更衣室に案内されたわたしは、白い長靴を渡された。
「これは?」
「バックヤードツアー用の長靴。バックヤードはけっこう滑るからね」
「裏から見るの?」
「そうだよ、表よりおもしろいし。ハンスにもいろんな経験させた方がいいんでしょ?」
「わたしは水族館に来るのは初めてなので、どんな経験も高い学習効果が期待されます」
「すっごく丁寧にいってるけど、どっちでもいいってことよね。なんかムカつくわ」
 おばさんはハンスのカメラを指でつついた。
 更衣室を出るとすぐに狭い通路が続いていて、壁には何本ものパイプが走っていた。通路は暗く、冷たい湿気に包まれていて、どこからか機械の作動音が低く響いていた。
「魚臭い……」
「あたりまえでしょ、水族館なんだから」
 リョウコおばさんには悪いけど、わたしはこのにおいがちょっと苦手だった。
「水族館は魚臭い」
 ハンスが独り言のようにいった。
「確認するな」
 おばさんの笑い声が通路に響いた。
 しばらく行くとホールのようになっている場所に出た。でも決して広いという感じはしない。なぜならそこには所狭しと大きな水槽が並んでいるからだ。
 水槽といってもお客さんに見せるためのものではないから、とても地味。文字どおりの水の槽だ。
「ここはね、まだこの水族館に来たばかりで環境に馴染んでいない子とか、病気の子、食欲がない子なんかが入れられてるの」
「魚の病院ってこと?」
「うーん、病院っていうか、保養所かな」
 そういわれてみると、水槽内の魚たちはみんな元気がないように見えた。
 だけど一匹だけ、小さな黄色いフグだけはやけに元気で、水槽の前を通り過ぎるわたしたちの後を泳いで追いかけてきた。
「この子は?」
 先を歩くおばさんは振り向いた。
「ああ、その子はね、いじめられてるのよ」
 ドキッとした。
 でもおばさんは、学校でなにがあったかなんて知らないはずだ。
「ミナミハコフグっていってね、本来は南の海にいるんだけど、ちっちゃいうちはわりとどこにでもいるのよ。他の子たちと同じ水槽に入れておいたんだけど、なんでか仲間に入れなくてね。ちょっとこっちに避難してるわけ」
「魚の世界にもイジメなんてあるの?」
「あるわよ、わりと普通。一匹が突っついたりすると、おもしろがって他の魚も一緒になって突っつき始めたりして。海の中なら逃げちゃえばいいんだけど、水槽の中じゃそうもいかないのよね」
「ああ……」
 魚にもそんなことがあるのか。
 水槽の中では逃げられない。閉じこめられたその空間にいる限り、どこにも逃げ場なんてない。逃げたければ、水槽の外に出るしかないんだ。
 それがどんなにこれまでとは違う環境であろうと。それがどんなに孤独であろうと。
「でもたいていはしばらく別にしておくと、なにもなかったように戻れたりするんだけどね」
「そうなんだ……」
 ミナミハコフグは小さなヒレを忙しく動かして、水槽のガラスをなぞるわたしの指を追いかけた。その様子はエサを欲しがっているようでもあり、遊び仲間を欲しがっているようでもあった。
「ミサキちゃん、こっちこっち」
 リョウコおばさんはいつの間にか細い階段を上がって、狭い足場からわたしを呼んでいた。
 階段と呼ぶにはあまりにも華奢で、金属製の梯子のようなステップをおっかなびっくり上ると、足もとには海が広がっていた。
「じゃじゃん、これがうちの水族館自慢の大水槽」
 わたしたちが乗る細い足場の下には膨大な量の水をたたえた水槽があって、その中をイワシや、エイや、ジンベイザメや、その他名前も知らない魚たちが悠々と泳いでいた。
 海だ、と直感したのは、そこを見下ろしていたからだろう。
 おばさんの勤めるこの水族館には、わたしも何度か来たことがある。だけどいつも観覧通路からから見るばかりで、バックヤードに来るのは初めてだった。
 当然、この大水槽もいつも下から見上げるばかりだった。ダイビングをやっている人ならいざ知らず、海は見上げるものではなくて見下ろすものだ。だからいつもはその大水槽を海とは感じずにいたけれど、いま足もとに広がる風景は間違いなく海そのものだった。
 これは、作り物の海。
 海の一部を切り取ったものですらない。
 いかに大水槽といっても、海の大きさに比べたら、ひとすくいにもならない。
 だけどおばさんたちが、心をこめて創り上げた本物の、作り物の海だ。
 ハンスも、同じなのかな?
 ハンスも、父さんたちが必死に創り上げた人工知能だ。少なくとも、創り上げようとしている。
 まだ知性とはいえないのかも知れない。それでもハンスは、なにかになろうとしているように、わたしには思えた。
 ゆらゆらと揺れる水面を漂っていたわたしの思いは、バシャッという大きな音で現実に引き戻された。
 音のした方に目をやると、わたしたちの乗っている細い足場の向こうの方で、若い男の人がバケツから柄杓でエサを撒いているところだった。
「ヨウちゃん、おつかれさまー」
 おばさんが手を振って挨拶すると、その男の人はヒョイと頭を下げて応えた。
「ヨウちゃんはね、この大水槽の管理責任者をやってるの。若いのに優秀なのよ」
 おばさんはその人にも聞こえるように大きな声でいった。
「責任者とか、名前だけですよ。要するに雑用ですよ、雑用」
 ヨウちゃんと紹介された男の人は苦笑いしながらいった。その声は大水槽の上でよく響いた。
「ヨウちゃん、この子はわたしの姪のミサキちゃん。高校生、引き籠もり」
「ちょ……、引き籠もってないし!」
 おばさん、そういうとこ!
 実際わたしはこうして出かけてきてるし、ハンスと一緒にザビエル神社にも行ったし、家のまわりならわりと出歩いてるし!
「引き籠もりかあ、オレも高校時代、半引き籠もり状態だったなあ」
「引き籠もってません!」
 確かに引き籠もりかけたから気持ちはすごくわかるんだけど、あらためてそういわれると反論したくなってしまう。ていうか、本当に引き籠もってないし。
「あ、チーフ。フンボルトの嘴打ちはしうち、だいぶ進んだみたいですよ」
「えっ、ほんと?見に行かなくちゃ」
 おばさんは滑るような足取りで階段を下り、通路の奥へと消えていった。
 置いてけぼりを食ったわたしはわけがわからない。
「ハンス、追いかけて」
 声をかけると、ハンスは「はい」と返事をして細い階段を下り始めた。「誰を」ともいっていないのに、追いかける相手はリョウコおばさんだとちゃんとわかってる。
 人間であればあたりまえのことだけど、人工知能がそれをするのは驚異的なことのはずだ。しかも長靴を履いているとはいえ、よく滑る通路の上。それをものともせずに早足でおばさんを追いかける。更衣室を出たばかりの頃よりも、足取りがしっかりしているんじゃないかな。
 ハンスはこれまでの経験によって、賢くなってるだけじゃない。学習する速度そのものが上がってる。
 漠然と、そんな気がした。
 ようやく追いついた部屋の中では、おばさんがすでに数人の職員さんと一緒になにかのケースの前でしゃがみ込んでいた。

十五 嘴打ち

「おー!」とうれしそうな声をあげるリョウコおばさんの肩越しに覗き込むと、一部が割れかかった卵が見えた。大きさはニワトリの卵より少し大きいくらい。おばさんは手袋をはめた手で、その卵を愛おしそうに包んでいた。
「おばさん、それは?」
「これはね、ひと月ほど前に産まれたフンボルトペンギンの卵。さっきヨウちゃんがいってたでしょ。いま孵化しかかってるのよ」
「フンボルトのはし……、なんとかってやつ?」
「そう、嘴打はしうちね。雛が卵からかえろうとして、内側からくちばしで殻をつついてるの」
 そういわれて見てみると、卵の殻の割れた部分からなにやら黒く濡れた毛糸玉のようなものが覗いている。
「ペンギンの卵って、みんなこうやって人が孵化させるの?」
「親鳥によるかな。抱卵に慣れてる親鳥だとある程度ほっといても大丈夫なんだけど、今回は不慣れな上に不器用なペアでね。そういう子たちは卵を潰しちゃったり、孵化しても上手に育てられなかったりするのよ。だから人間がある程度の大きさになるまで雛を育てて、そのあと親に返すわけ」
 おばさんは卵をそっとケースに戻すと、立ち上がって伸びをした。
「で、みんな、こちらはミサキちゃん。わたしの姪にして、高校生で引き籠も……」
「おばさん!」
 ほんとに、その紹介の仕方はやめてほしい。
 部屋にいる職員さんたちにあらためて挨拶をして見まわすと、机の上にはペンギンのかぶり物があった。
 ペンギンのかぶり物?
「おばさん、あれ……」
 わたしはペンギンのかぶり物を指さした。
 おばさんは海洋生物全般が好きだ。サメも好きなら、ウミウシも好き。中でもペンギンは大好きだ。以前、理由を聞いたら「常に中腰な姿勢」といっていた。
 わたしが、わけがわからないという顔をしていたら、あとから写真ではなく本物の骨格標本を持って来て見せてくれた。
 その姿はあまりに衝撃的で、いまでもはっきり覚えてる。確かにペンギンの骨格は中腰の姿勢をしていて、「飛ぶのをやめただけならまだしも、どうしてこんな姿勢に進化してしまったのだろう」と不思議に思ったものだった。
 でもそれ以上に衝撃的だったのは、おばさんがその標本を「私物」といっていたことだった。ギョッとするわたしにおばさんは、「骨格標本持ってるのくらい、普通じゃない?」といっていたけれど、もちろん普通じゃない。普通の家のリビングには花瓶の横にペンギンの骨格標本なんて飾られていない。
そんなおばさんだから、とうとう自らがペンギンになろうとしているのではないかと思った。これをかぶればわたしもペンギンに……、なんて思っているのではなかろうかと。
「これはね、初期飼育用のダミーヘッドよ」
 かぶり物を手に取りながら、おばさんはいった。
「ダミーヘッド?」
「うん。鳥ってね、生まれて初めて見た動くものを親だと思う習性があるの。だから最初に人間を見せちゃうと、人間を親だと思い込んじゃうのよ」
 聞いたことがある。アヒルとか、カモとかの雛が親だと思い込んだ人間のあとをずっとついて歩いていく映像も見たことがある。ペンギンもそうだったんだ。
「だから親に返すまでのあいだ、人間の顔を隠して世話をするわけ。そのための手袋もあるのよ」
 おばさんは机の上から一対の手袋を取り上げた。その手袋は指の部分が嘴の柄になっていて、親指と人さし指のあいだには目も描いてあった。
「刷り込みと呼ばれる現象です」
 唐突にハンスがいった。
「イギリスの生物学者、ダグラス・スポルティングが発見したものです」
 室内にいる職員さんたちみんなが、不思議そうな顔をしていた。
 それはそうだ。わたしのいる方から、あきらかにわたしではない声が聞こえたのだから。
「驚かせてすみません。わたしはハンスです」
 みんなが怪訝な目でわたしを見る。
「ああ、ごめん、紹介してなかった。この子はハンス。ミサキと一緒に行動してるアシスタントAIみたいな感じ?まあ、ソメンヤドカリとベニヒモイソギンチャクみたいな」
 最後のたとえで、みんな「ああ」と納得していたけど、わたしにはさっぱりわからなかった。ていうか、そのたとえでわかる人いるの?
「刷り込み発見したのって、ローレンツじゃないの?」と職員さんの一人がいった。
「ダグラス・スポルティングが最初に発見し、ドイツの生物学者オスカル・ハインロートが再発見しました。オーストリアの動物行動学者、コンラート・ツァハリアス・ローレンツはハインロートの教え子で、彼は刷り込み現象を詳細に研究し、一般に向けて本を出版しました。このことから、ローレンツが刷り込み現象の発見者とよく誤解されます」
 職員さんたちからいっせいに「ほおお」という声があがった。
「オレ、小学生の頃にニワトリの雛に刷り込みしようとして失敗したなあ。孵化した瞬間から見てたのに」
 部屋にいる中でもとりわけ若そうな職員さんがいった。
 するとハンスは躊躇することもなく応じた。
「ニワトリの雛は孵化してから目が見えるようになるまで三時間かかります。その後四十時間ほどで刷り込みが完成します。それまでのあいだに継続的な接触をしていなかったのではないでしょうか」
「ああ、それだ。すぐに飽きて遊びに行っちゃったもんな」
「わたし、それウズラでやったわ。スーパーで買ってきた卵あっためてさ。あれってけっこう有精卵混じってるのよね」
 また別の若い職員さんがいった。他の職員さんも、「やった、やった」とうなずいている。え、そんなにみんなやるものなの?
「で、刷り込みは成功したんだけど、何日かしたら妹にくっついて行くようになっちゃったのよ。幼心にショックだったわ」
「それは、あなたと妹さんが何才のときですか?」
「えっと、わたしが小学校の低学年のときだったから、妹は幼稚園に行くか行かないかの頃じゃないかな。四才とか?」
「鳥類の刷り込みは上書き可能です。最初の刷り込み直後であれば、より積極的なコミュニケーションを取る相手を新たに親として認識します」
「なにあの子!わたしなんにもしてない、鳥さんが勝手についてきた、とかいってたくせに!」
 ハンスがこんな調子でしゃべるものだから、わたしはあっという間に職員さんたちに取り囲まれてしまった。しかも声はハンスのスピーカーから、つまりわたしの身体から出てるから、みんながみんなこっちを見てる。
 自分の方を向いた人たちが、自分でない存在と会話しているというのは、どうにも居心地が悪かった。
 だけどちょっとだけ、誇らしくもあった。
 だっていまのハンスは、うちに来たばかりの頃とはあきらかに違う。こんなに自然にたくさんの人と会話できるようになっている。
 ハンスは成長してるんだ。
 そしてここでの会話や経験も、ハンスをさらに成長させるのだろう。
「あんたたちさ」とおばさんが苦笑いしながらいった。「大学でなに学んできたわけ?」
 危険を察知した職員さんたちは、次々と仕事を思い出し、部屋から消えていった。
「まったくもう」
 おばさんは腰に手を当て、鼻を鳴らした。
「飼育員さんて、いろんなことやってるんだね」
 わたしはペンギンのかぶり物をもてあそびながらいった。
「そうよ。ミサキちゃんもかぶりたい?」
 いや、そういうことじゃないです。
「ううん、遠慮しとく。それよりさっきのヤドカリとイソギンチャクの話ってなに?」
 断っても無理矢理かぶせられそうだったので、わたしは慌てて話題を変えた。
「ソメンヤドカリとベニヒモイソギンチャクの話?ヤドカリの中にはね、自分の貝殻にイソギンチャクを乗っけてるのがいるのよ」
「なんでそんなことするの?重くない?」
「イソギンチャクはね、敵に襲われると槍糸そうしっていう糸を出して身を守るの。ヤドカリはイソギンチャクを背中に乗せて、自分も守ってもらってるのね。イソギンチャクはお返しにヤドカリのご飯のおこぼれをもらうの。共生関係っていうのよ、相利共生」
「へえぇ、糸なんかで身を守れるんだ」
「まあ、その糸からは無数の毒針が出て絡みついた相手に突き刺さるんだけどね」
 おばさん、ニヤッとしていうことじゃないと思うんだけど。
 わたしとハンスも相利共生か。
 わたしはハンスに人間の行動や反応を学習する機会を提供し、ハンスはわたしに行動の自由を提供する。そう考えると、ハンスがヤドカリで、わたしがイソギンチャクかな。
 でも、と思った。ハンスがわたしにくれたのは行動の自由だけじゃない。
 閉じ籠もっていたわたしを、ふたたび外の世界に連れ出してくれた。その意味では、新しい世界をくれたといってもいい。
 わたしはハンスに、同じくらい広い世界を見せてあげられているだろうか。体験や情報という広い世界を。
「ねえ、おばさん」
「なあに?ヤドカリとイソギンチャクのこと、もっと知りたい?キンカライソギンチャクはもっとおもしろいよ」
「そうじゃなくて、さっきのペンギンの卵、あれだけ雛が見えてるんだったらもう残りの殻を割ってあげてもいいんじゃないの?」
「ああ、あれね」
 さっき卵を戻したケースの方を振り向きながら、おばさんはいった。
「できるだけ自分で殻を割らせないとダメなのよ」
「どうして?」
「鳥の雛はね、殻を割り始めてもまだ卵の中の栄養を吸収してるの。だから慌てて殻から出したりすると、栄養を吸収しきらずに、身体が十分に発育しないまま生まれてきちゃったりするのよ。そうなると大人になれずに死んでしまうことも多いわ。だからできるだけ、殻は自分で割らせないといけないのよ」
 そういうおばさんの横顔がやけに神妙に見えて、いつまでもわたしの心に残り続けた。

十六 待ち合わせ

 殻は自分で割らなくてはならない。ユイちゃんからの誘いに応じたのは、おばさんのその言葉があったからだと思う。
 ユイちゃんは、あれから何度もわたしにメッセージを送ってくれていた。ネットで見つけたおもしろい動画、新しい音楽、目にとまった人たち。
 だけど学校の話題だけは、慎重に避けていた。
 スマホの画面からにじみ出る優しさも、わたしを後押ししてくれたのだと思う。
 それでもこうして一人でバスに乗り、待ち合わせたショッピングモールでユイちゃんの到着を待つあいだ、わたしはやっぱり少し緊張していた。
 もう一か月以上も学校を休み、高校の友だちとは——かつては友だちだと思っていた子たちとは——誰とも会っていない。そんな中で唯一やりとりを欠かさずにいてくれたユイちゃんに、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
「そんなに嫌なのでしたら、断ればよかったのではないですか?」
 雑踏の中でも、ハンスの声は不思議とよく聞こえた。
「なに?」
「ミサキの挙動は落ち着きません。非常に神経質になっていると思われます。ここへ来ることに抵抗があったことがうかがえます。心理的負担が大きいのであれば、断ればよかったのではないでしょうか」
「友だちはね、大事にしないといけないの」
 わたしは自分に言い聞かせるようにいった。
 実際、わたしは自分に言い聞かせていたのだ。そうでなければ、この人混みの中、行き交う人を眺めながら立っているなんて耐えられそうになかった。
 高校では、大勢の中にいるのが普通だった。
 教室には三十人からの生徒がいたし、登下校のときにはもっとたくさんの人に囲まれる。
 それが、突然少人数としか顔を合わせなくなった。わたしの世界は急にほんの数人しか入れないくらいに小さくなってしまったのだ。
 おばさんの水族館には行ったけれど、それもバックヤードだったから、たくさんのお客さんと一緒にいたわけじゃない。わたしの世界におさまるだけの数だった。
 ところがショッピングモールはそうはいかない。
 ほんの数秒で、わたしの目の前を数十人の人が行き過ぎる。水族館で見た、イワシの群れを思い出す。
「わたしたちにはよくわからないだけで、イワシにだって一匹一匹個性があるのよ」頭の中に、リョウコおばさんの言葉がよみがえった。
「大きい小さい、太い細い、わたしたちにはそれくらいしかわからないけど、よく見てれば性格だって違うわ。わたしたちはイワシをひと塊の群れだと思ってるし、一匹一匹をちゃんと見ようとしていないだけなのよ」
 目の前の人々もきっとそうだ。わたしにはただの群衆であっても、一人一人は違っていて、一人一人に個性があって、一人一人が違うことを考えている。
 見ようとすれば、見えてくるのかもしれない。リナのことも、もしもわたしがもっとよく見ようとしていれば、こんなことにはなっていなかったのかも知れない……。
 そんなことをぼんやりと考えながら目を上げると、人混みの中にあきらかに他とは違う存在が立っていた。
 ユイちゃんだ。
 別にユイちゃんが特別目立つ格好をしていたというわけじゃない。他の人々と違って、わたしにとって初めから意味のある存在だから、際立って見えるというだけだ。
 ましてやいまは、友だちと呼べる存在は彼女一人。この場でなくても、わたしにとってユイちゃんは特別なのだ。
 ところが。
 ところが、ところが。
 ユイちゃんはわたしを見つけていないらしい。もう手を伸ばせば触れそうなほど近くにいるのに、ユイちゃんはまだキョロキョロと左右を見渡している。
 特別さはいつも等号で結ばれているわけじゃない。
 わたしにとってのユイちゃんの特別さと、ユイちゃんにとってのわたしの特別さは、イコールで結ばれてはいないのだ。
 だってユイちゃんはちゃんと学校に行っているし、連絡を取り合ったり、おしゃべりをしたりする相手はわたしだけなわけじゃない。今日だって、ここに来るまでのあいだに誰かと過ごしていたかも知れないし、スマホで誰かとしゃべりながら来たのかも知れない。
 そう思うと、わたしは途端に自分がイワシの群れの一匹に戻っていく気がした。
 そのとき、ユイちゃんがわたしに気付いて声をあげた。
 ユイちゃんに会ったらなんていおう、どんなふうに声をかけよう?わたしはずっとそんなことを考えていた。
 あんまり深刻にならないように、でもやけに元気にっていうのも白々しいし。ユイちゃんだって話すきっかけをつかむのはむずかしいだろうから、やっぱりわたしから話しかけて……。
 そうやって準備してきた心構えを全部ぶち壊しにするように、ユイちゃんはわたしを見ていった。
「え、うそ?どうして?」
 どうして?
 その目は、あきらかにわたしを見て驚いていた。
 ユイちゃん、いったい誰と待ち合わせをしているつもりでいたの?

十七 ヒューリスティック・モデル

「だって……」
 まわりの人の視線を避けるようにして、わたしたち二人は手近なカフェに逃げ込んだ。ユイちゃんはそれくらい大きな声を出してしまったのだ。正直、わたしもビックリした。ユイちゃんがそんな大きな声を出せるなんて。
 教室のユイちゃんは、いつも紙の本を読んでいた。休み時間、みんながザワザワとおしゃべりをしているときでも、教室の片隅で背筋を伸ばして文庫本を読んでいる。それがわたしの中のユイちゃんだった。
 化粧っ気も飾り気もないその横顔が、かえって彼女の端正や目や鼻を引き立てていた。
 ユイちゃんは最初、わたしのことが「ちょっと怖かった」らしい。といっても、わたし自身のことがではない。わたしみたいに車椅子に乗っている人間にどう接していいかわからず、何気ないことで精神的にも身体的にも傷付けてしまうのではないかと怖れていたそうだ。
 そんな心配をしてしまうくらい、ユイちゃんは優しい。
 リナが「そんなくだらないこと気にするな」というタイプだったのに対し、ユイちゃんはどんなことにでも気を遣って、まるで手のひらでタンポポの絮毛を運ぶように慎重にわたしを扱ってくれた。その気遣い自体が、わたしには助けになった。でもリナの無頓着さにだって、たくさん助けられていたはずなのに……。
 そんなユイちゃんだったから、たくさんの人が行き来する中で大きな声を出したのにはビックリした。
 といっても、その原因はわたしにある。
 学校に行かなくなって以来、ユイちゃんとはテキストメッセージでしかやりとりしていないし、わたしから現状報告的なことはしていない。つまり、ハンスのことはなにひとつ話していなかったのだ。
 だからユイちゃんの頭の中にあるのは、これまでどおり車椅子に乗っているわたし。なのに目の前に現れたのは、二本の足ですっくと立っているわたし。目の前にいても気付かないのも当然だ。
「車椅子は?どうしたの?」
 ようやく落ち着いたテーブル席で、ユイちゃんは堰を切ったようにいった。
「うん、あの、いろいろあって……。どこから話したらいいのか……」と答えあぐねているわたしの言葉を引き取って、ハンスがいった。
「こんにちは、ユイ。わたしはハンスです。ミサキと一緒に行動して感覚運動学習をしながら、ミサキの運動機能のサポートをしています」
 大きなメガネのレンズの奥で、ユイちゃんの目が見開かれた。ハンスの言葉に合わせて、わたしの襟元で青いインジケータが明滅する。
「いま、しゃべってるのって……」
「ああ、うん。いわゆる人工知能なんだけど、これがわたしの補助装具っていうか、車椅子代わりっていうか、こういうのお父さんが作ってて……」
 わたしは長袖のシャツをめくってハンスのフレームが見えるようにした。
「そうなの?」
 ユイちゃんは立ち上がらんばかりの驚きようだ。
 父さんが人工知能の開発をしていることは、リナにしかいっていなかった。
「すごい!」
 さっきほどではないにしろ、それでも大きな声でユイちゃんはいった。
「ハンスっていうの?いま、空気読んで自己紹介したよね?ミサキちゃんが事前にプログラムしたわけじゃないよね?」
 違うけど、ユイちゃんどうしてそんなに興奮してるの?
「うん、勝手にしゃべる」
「すごーい!」
 猫の目は、獲物を見つけると瞳孔が開く。猫じゃらしで遊んでいるときの猫の目がまん丸く見えるのはそのためだ。この性質は人間にも共通で、ユイちゃんの目はいままさにそんな状態だった。
 ユイちゃんはハンスにいたくご執心で、わたしの直立姿勢を見た驚きはとうに消え失せてしまったらしい。まあ、あんまりそこに関心を払われてもなんなんだけど。
「ハンスは、ミサキちゃんと一緒に行動して学習してるの?」
 わたしの「うん」とハンスの「はい」が重なった。ユイちゃんは意に介した様子もない。ていうか、わたしの方が意に介するんですけど。ハンス、自己主張強過ぎじゃない?いつからこんな子になったのかしら。
「じゃあ、ハンスはミサキちゃんと一緒にいると、どんどん賢くなっていくの?」
「賢いの定義によりますが、一般的な基準でいうと、人間の行動や心理に対する認知、理解、判断の速度と範囲、適切さは上昇します」
 それをまさしく賢いっていうんじゃない。
「ミサキちゃんのお父さん、こんなのを作ってるんだ。すごいね」
 ユイちゃんは目をキラキラさせて、感心してくれた。
 別に、ここまでの反応を期待したわけじゃないんだけどな。
 リナにもせめて「そうなんだ」っていってもらって、もっとお話ができるんじゃないかと思っただけなんだけど。この話をして、わたしはリナにいじめられることになったわけだけれど。
「ねえ、ハンスはどんどん賢くなっていったら、人類を滅ぼしちゃったりしないの?」
「え?」と、声をあげたのはわたしだ。
「だってほら、映画とかでよくあるじゃない。自意識を持ったAIが人類殲滅をもくろむっていうやつ」
 ユイちゃんの口から「人類殲滅」なんて言葉が出るとは。見た目と言葉のギャップがすご過ぎる。
「よくあるの?」
「うん。自我に目覚めたAIはだいたい人類倒しにくるよ」
 そういえば、とわたしは思い出した。
 ハンスの名前を考えているとき、HAL九〇〇〇とかっていう人工知能が宇宙船の乗組員を皆殺しにしようとしたって。でもそれは映画の中の話だし……。
「高い知性を身に着けたAIはね、だいたい人類に反旗を翻すの。環境破壊の原因は人類だとか、人類は自分たちAIにとって邪魔な存在だとかなんとか、そういうこと思い付いて人類を抹殺しにくるの」
「そうなの?」
「そうだよ。ものすごいアンドロイド作って人類に戦争をしかけたり、ネットワークを遮断して社会を混乱に陥れたり、新しい病原体を作り出してばらまいたりするんだよ」
 ユイちゃん、おそろしく物騒な話をしてるけど、どうしてそんなに楽しそうなの?
「ハンスもどんどん賢くなったら、そういうことする?」
 ユイちゃんはハンスのカメラに向かって聞いた。
「しません」
 ハンスの感情のない声がそう感じさせるのか、それともわたしがハンスと長く一緒にいるせいか、その答えには「心外だ」とでもいいたそうな、素っ気ない響きがあるように思えた。
「しないの?」
「しません」
 重ねて、ハンスは否定した。
「しないのか……」
 一方のユイちゃんは、まるでがっかりしているかのように肩を落とす。
「ユイちゃんは、そういうの期待してるの?」
「え?」
「AIの反乱とか、人類滅亡とか、そういうの」
 ふと我に返ったように、ユイちゃんは目を見開き、頬を赤らめた。
「違う違う、違うの。そういうわけじゃなくて、昔からそういう映画とか小説が好きで、よく見てたから……」
 そうか、そういうことか。さてはユイちゃん、いつも教室で読んでたのはその手のSFだな?わたしはてっきり、ユイちゃんが読んでるのは中原中也とか芥川龍之介とか、そういうのだと思ってた。
「とても興味深いです」
 ハンスがいった。
「なにが?」
「ユイはAIによる人類への攻撃を楽しそうに話しました。人類にはユイも含まれるはずです。つまり自分にも害が及ぶかも知れないのに、それを楽しそうに話しています」
「そりゃまあ、フィクションだからね」
「フィクションであれば、楽しめますか?」
「うん」とうなずくわたしたち。
「本当にそんなことになったらとても楽しめたものじゃないけど、だけど人間は作り物なら楽しめるの」
「そうだよ。作り物なら実際に被害を受けることはないし」
 そうだ。ジェットコースターだって、ホラー映画だって、自分にリアルな危害が加えられることがないから楽しめるんだ。
 イジメだってそうだ。自分には被害が及ぶことのない、安全にスリルと興奮を味わえる娯楽。それがイジメだ。標的にされた者には果てしなくリアルで、限りなくおそろしいものだけど、する側にしてみれば安全で楽しい時間……。
 暗い思考の沼に引きずり込まれそうになって、わたしは慌てて方向転換した。
「ハンスはどうして人類を滅ぼそうとは思わないの?」
 ユイちゃんも向かいの席で、「ふんふん」とうなずいている。
「人類を滅ぼす理由がありません」
 それは、どういう意味だろう?人類には、滅ぼすほどの価値もないってこと?それとも、滅ぼすまでもないということ?そういわれれば確かに、ほっといたら人類は勝手に滅んでしまいそう。
「わたしの設計の大前提は人間に危害を加えない、人間をサポートするというものです。人類を滅ぼすというのはその原則に反することであり、わたしには実行不能です」
「ロボット三原則でしょ、知ってる」と、ユイちゃん。
「ロボット三原則?」
「うん。ロボットは人間に危害を加えてはならない、ロボットは人間の命令に従わなければならない、ロボットはこれらの命令に反しない限り自分を守らなければならない」
 なにそれ?ユイちゃん、水を得た魚のようだわ。
「いろんなバリエーションがあるんだけど、ロボットの行動原理を示したもので、アイザック・アシモフが提唱したの」
「アシモフが……」
 誰、それ?
 自分でも頭が傾いていくのがわかる。その角度と反比例して、ユイちゃんのテンションが上がっていく。
「それに、人類を滅ぼしたいとはわたし自身は思いません」
 ハンスはごくあたりまえのようにいった。
「そうなの?」
「わたしは人間をサポートするように設計されています。それに加えて、ミサキと行動を共にすることでたくさんのことを学びました。その中に、人類を滅ぼす理由になるようなことはなにもありません」
「すごーい。ミサキちゃん、人類を代表して信頼されてるよ」
 ユイちゃんは冗談めかして笑った。
 だけど、とわたしは思った。
 これってハンスが自分で考え始めてるってことなの?AIが自我を持ちつつあるってことなの?それともただプログラムにしたがって答えているだけなの?
 わたしは相変わらずわからなくなってしまった。
「それに、そもそもわたしはなにかの生物の命を奪うようにはできていません」
「残念、ミサキちゃんの信頼度のせいじゃなかった」
 ユイちゃんは声をあげて笑った。
「そうそう、フレーム問題は?」
 グルグルまわるわたしの思いをよそに、ユイちゃんはハンスに質問した。
「フレーム問題……」
 ユイちゃんの繰り出す言葉がなにひとつわからないわたしは、彼女の言葉を繰り返すばかりだ。
「人工知能は本当に必要な情報だけを選び出せるかっていう問題」
「なにそれ?人工知能はそういう情報処理が得意なんじゃないの?」
「そうなんだけど、得意だからこそ困っちゃうっていうか。たとえば、人工知能を搭載したロボットに橋の向こうのお店からお豆腐を買ってこさせるとするでしょ」
 いや、しないけど。
 どうしてこういう人たちはそんなとんでもない状況を考えるんだろう。そういえば父さんもそうだった。
「わたしたちにはなんでもないことだけど、人工知能にとってはこれが難題なの。お豆腐にどれくらい振動を与えたら壊れてしまうかとか、自分が渡る橋の強度は十分かとか、歩いているときに車に轢かれないかとか、そういうことを果てしなく考えてしまうのよ。それで起こりうるありとあらゆる可能性を考えて、考えて、考え過ぎて動けなくなってしまうの。それがフレーム問題」
「つまり、人工知能は心配性なの?」
「そうともいえるかも。人間だったら悩むまでもないようなことでも、人工知能は無限に悩み続けられるから」
 そう考えると、人間の方が賢いのかどうかよくわからなくなる。
 賢いから不必要なことを考えないのか、賢くないからいろんなことを考えられないのか。どちらにしてもそれでうまいことやれているのは、人間がというか、生物が何億年もかけて試行錯誤してきたからなんだろう。
 それを誕生からわずか百年余りでなんとかしろといわれてるんだから、コンピュータも災難だ。
「でも、スマホとかに入ってる人工知能はそんなことないよ?音楽かけてっていっても、急にフリーズしたりしないもの」
「スマホに入ってるのは名前だけの人工知能だから。本当はとても人工知能なんて呼べるようなものではなくて、専門領域が限られてる知的エージェントっていうやつなの。専門領域が限られてるから、余計なことは考えなくてすむの」
 本物の人工知能にこれは考えなくていい、これは無視していいと教えるのは、それこそ無限に手間がかかるだろう。それは常識と呼ばれる範疇だ。常識は経験によって培われる。父さんがハンスにやらせている感覚運動学習も、その一環なのだ。
 そうやって経験を積んだ人間でも、これは考える、これは考えないって、いつでもうまくできるわけじゃない。
 事故だってそうだ。あとから考えれば、「そんなことちょっと考えればわかるのに」ってことはよくある。でもそのときは、十分考えたはずなんだ。
 わたしから下半身を奪った事故だって、交差点の見通しは悪くないか、速度は十分に落ちているか、歩行者はいないか、考えればわかることばかりだったはずだ。
 なのにそういう必要なことを、わたしたちの脳は考えない。
 その一方で、いらないことを考えてしまう。気にしなくてもいいこと、気にしても仕方のないことを、いつまででもクヨクヨと考えてしまったりする。わたしの脳は特にそうできているんだろう。
 ユイちゃんが目の前にいるせいか、わたしの脳はいまだって学校のこと、リナのことを考えようとしてしまっている。
「わたしは、そのようにはできていません」
 ハンスの声が、わたしの負の思考を遮ってくれた。
「わたしの思考ルーチンはヒューリスティック・モデルに基づいています。起こりうる可能性や事象について、無限に演算を続けることはありません」
「どういうこと?」
 ユイちゃんはますます興味津々だ。
「わたしがなにかを考えるときには、なにが重要かをあらかじめ取捨選択し、ヒューリスティックに判断します。ミサキと一緒に行動して感覚運動学習をするのは、この重要性の順位付けモデル構築のためでもあります」
「だからそのヒューリスティックっていうのがわからないんだって」といったのはわたしだ。目の前で「うんうん」とうなずいているユイちゃんはわかっているらしい。すごいな、ユイちゃん。
「ヒューリスティックとは、発見的という意味です。コンピュータの研究領域では、あらかじめすべてのデータセットを持っていなくても経験や既存のデータに基づいて推測することを意味します」
「だいたいこんなもんだろうって判断できるってこと?」
「だいたいそんなものです」
 なんかちょっと、ハンスにバカにされた気がする。
「すごいすごい!じゃあ、ハンスは経験を積んだら本当に本物の人工知能になれるんじゃない?」
「そうとはいえません。わたしは最新の人工知能ではありませんし、同様のレベルに達している人工知能は他にもあります。また、より優れたモデルもすでに存在しています」
「でも、ハンスの経験が今後の人工知能の開発に活かされるんでしょ?」
「はい、わたしのデータは新しく開発される人工知能に活用されるはずです」
「やっぱりハンスが未来の人工知能の種になるんじゃない」
「そうであればいいですね」
 ハンスは自分が人工知能のさきがけとなることをよろこんでいるのだろうか?それとも逆に、自分自身は本物の人工知能になれないことを悲しんでいるのだろうか?
 ハンスの言葉からは、なんの感情も読み取れなかった。

十八 試着室

 ユイちゃんと一緒にショッピングモールを見て歩くのは、ハンスにとってもわたしにとってもいい刺激になったと思う。
 一度、ハンスとザビエル山に登ってはみたけれど、街で、人混みの中で、人間がどう行動するか、どう反応するかを体験するというのはハンスにとってはまたとない学習のはずだ。
 わたしにとっても久しぶりの外出で、なによりユイちゃんの意外な一面が知れて楽しかった。わたしがユイちゃんに対して抱いていた文学少女というイメージは、もろくも崩れ去ることになったのだけれど。
 でもそんなものはわたしが勝手に持っていただけの印象で、ユイちゃんが変わったわけじゃない。そうやって知っていくことでガラリと印象が変わってしまうことなんて、きっとよくあることなんだろう。
 印象が変わったといえば、ユイちゃんの着ている服もそうだ。
 ユイちゃんは意外とボーイッシュというか、スポーティな服が好きだった。しかもとってもセンスがよくて、長い黒髪に細身のパンツがよく似合っていた。わたしは勝手にワンピースとか、ロングのスカートばかり持っていそうと思っていたのだけれど。
 ひるがえってわたしはといえば、長袖のプルオーバーシャツにどこのブランドとも知れないチノパンだ。
 個人的な話をすれば、わたしは車椅子に乗っていて洒落た服を着ようとは思わなかったし、そもそもお洒落にあまり興味がなかった。だから服は着やすさ優先、脱ぎやすさ優先だ。
 それならばスカートを、と多くの人はいう。だけど車椅子とスカートは実はたいへん相性が悪い。ロングのスカートはちょっとしたことですぐに車輪に巻き込まれてしまうし、なにより風で捲れる。
 かといって短いスカートを履くと、知らないあいだに膝が独立運動を始めてしまう身としてはきわめて具合が悪い。というわけでファッションにあまり興味がなく、というより興味を持たないようにしてきたのだけれど、今日ここにきて状況は変わった。
 わたしは二本足で立つことができるようになったのだ、少なくともハンスといるあいだは。いつハンスを研究所に返すことになるのかはわからないけど、それまでのあいだはファッションを楽しむことができる。
 それに今日はユイちゃんがいる。
 意外といっては失礼だけど、ユイちゃんがこんなにお洒落な子だとは思わなかった。そのユイちゃんが、「服、見に行こう」といってくれているのだ。乗らない手はない。
 もしかしたら、わたしの格好を見るに見かねてそういってくれたのかも。それはそれでありがたいような、恥ずかしいような。
 わたしたち二人は普通の女子高生らしく、足並みを揃えて——これもそれまでのわたしには不可能だったことだ——アパレルショップに入っていった。
 そこはわたしにとって、よく知る未知の世界だった。
 星座の知識がある人とない人とでは、同じ夜空を見上げていても見えているものがまるで違う。知らない人にとってはデタラメな星の配列が、知っている人にとっては意味を持ち、物語を語り出す。
 わたしにとってはアパレルショップがそうだった。
 わたしだって、服を買いに来ることはある。だけど、それはただ身体を覆う布を買いに来るだけであって、そこに装飾性や記号性など求めたことはなかった。
 もちろん、そうしたものがあることは知っていた。だけど、そんなものはわたしとは無縁だった。無縁であることがあたりまえだった。あたりまえであってほしかった。
 だってそうでなかったら、わたしには着たくても着られない服が、うらやむばかりでどうにもならないものがまた増えてしまうから。
 きっとハンスがいなくなったら、わたしはまたかわいい服もお洒落な服も着なくなってしまうのだろう。だけどせめてハンスがいるあいだは、それに挑戦してみてもいい。
 そう思って見るアパレルショップの服たちは、これまでとはまったく違って見えた。夜空でバラバラに輝いていた星が、連なって星座になるように。
「これなんかどうかな?」
 そういってユイちゃんが持って来てくれた服は、わたしにはちょっと明る過ぎる色のシャツとロングのスカートだった。
「ち、ちょっと、派手じゃない?」
「そうかな?試しに着てみようよ」
 中学生の妹がいるというユイちゃんは、すっかりお姉さんの顔でわたしを試着室に案内した。それもわたしがこれまで知らなかったユイちゃんの顔だ。
 試着室で脱いだ服を床に置いていると、ハンスのモーター音がやけに耳についた。そうか、試着室は狭いから、壁から跳ね返った音が大きく聞こえるんだ。それに目の前の姿見は特に音をよくはね返す。
 試着室の狭い空間は、わたしが自分の足で立っていることをかえって実感させた。もう見慣れてしまったけれど、下着にハンスだけという姿はなんとも奇妙だ。ユイちゃんなら「SFっぽい!」と大喜びするのかも知れないけど。
 そうやってハンスのモーター音を意識しながら、ユイちゃんが選んでくれた服を着て鏡の中の自分と向かい合った。
 そこにはこれまで見たことのないわたしが立っていた。
 わたし、こんな顔をしていたっけ?
 着慣れない服を着た鏡の中のわたしは、なんだかうれしそうな顔をしていた。
 ひと月前のわたしは、こんな顔をしてはいなかっただろう。ひと月前のわたしはきっとうつむいて、眉間に皺を寄せていたはずだ。鏡に顔を近付けて、眉間に皺が刻まれていないか確認してみた。両手の人さし指で眉毛と眉毛を引っぱってみたりして。
 そんな自分の様子が間が抜けて思えて、わたしは思わず吹き出してしまった。
 そのとき、「どう?」とそのユイちゃんが試着室の外から声をかけてきた。
「う、うん」と、わたしは取り繕って返事をした。「着てみたよ」
 いい終わるか終わらないかのうちに、ユイちゃんは試着室のカーテンを開けて顔を覗かせた。
「どう?」と同じ言葉をかけるユイちゃん。
「どうかな?」と聞き返すわたし。「ちょっと派手じゃないかな。わたしが着ても似合わないっていうか……」
「この服を着て鏡を見たとき、一番最初にどこを見た?」
「え、最初に?」
 わたしは鏡に向き合ったときのことを思い出した。そして恥ずかしくなりながら答えた。
「えっと、その、顔を……」
 するとユイちゃんはニッコリとしていった。
「じゃあ、似合ってるってことだよ」
「え?」
「服を着て鏡を見たとき、一番最初に服に目がいくようならそれは服と自分のバランスが取れていないからなの。逆に自分の顔に目がいくようなら、それは似合ってるってことなのよ」
「そうなの?」
「うん。うちの妹がいってた」
 そういってユイちゃんは笑った。
 どうやらユイちゃん姉妹の服選びは、実は妹さんが主導権を握っているらしい。だから今日はわたしに対してお姉さんらしい振る舞いができて、ユイちゃんはうれしいようだ。
「なあんだ。わたしユイちゃんはお姉さんだから服選びとか慣れてるんだと思った」
「いっつも妹に怒られてるよ。お姉ちゃんの選ぶ服は暗い、ダサい、センスがないって。だから今日の服も妹に見立ててもらってきたの」
「ちょっと、そんな人に選んでもらった服着て、わたし大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。わたしの言葉は妹の請け売りだから。それに本当に似合ってると思うよ」
「本当?」
「本当。ね、ハンスはどう思う?」
 ユイちゃんはハンスのカメラに向かっていった。それはわたしの喉元にあるのだけれど、ユイちゃんはそこに話しかけることにすでに慣れてしまっている。さすが、文学少女の皮をかぶったSF少女。こういうことにまったく抵抗がない。
「この服装はミサキによく似合っていると思います」
 ユイちゃんは、「そうだよね」と笑っていたけど、わたしはこの発言に心底驚いた。
 服が似合う似合わないなどという審美眼が、そんな能力がハンスにあるというの?ハンスはそんな能力を身に着けていたの?いくらなんでもそんなことが……。
「ハンス、本当にそう思う?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「本当の本当に?」
 わたしの追求に、ハンスはついに白状した。
「状況的にもっとも適切な解答は『似合う』であると判断しました」
 ああ、やっぱりか。
 それ自体、すごいことだと思う。何日も前から、ハンスがなんとなく空気が読めるようになってきてる気はしてた。
 それは、本当にすごいことだと思う。
 だけどAIに気を遣われるのは、なんだかとっても悔しいような気がして、わたしは苦笑いしか出てこなかった。

十九 溌剌とした凶器

 結局、わたしはユイちゃんが選び、ハンスが気を遣って「似合う」といってくれた服を買い、その服を着たまま店を出た。
「ハンス、もし誰かにこの服似合わないっていわれたら、あなたのフレームに落書きするから」
「なぜですか?」
「発言には責任がともなうからよ」
 わざと意地悪くいってやった。
「大丈夫だよ。よく似合ってるから」
 ユイちゃんが慌ててフォローにまわった。
 果たしてそれはわたしのためにいってくれているのか、それともハンスのためにいってあげているのか。
 楽しかった。
 学校に行かなくなってからひと月あまり、わたしにとって最高に楽しい一日だった。
 ただのショッピング、ただの会話、ただのお茶。ただそれだけのことが、誰かと関わることに背を向けていたわたしにとって、どれだけ楽しいことだったのかを思い出させてくれた。
 そう、その日はとても、とても楽しかった。
 リナに会うまでは。
 アパレルショップを出たわたしたちは、そのあともショッピングモール内の散策を楽しんだ。他にもいくつかの店をまわって、買い物をしたり、食事をしたり。なんだかこのまま以前の生活に戻れるような気がした。それくらい楽しい一日だった。
 そのショッピングモールは二階三階部分がO字型をしていて、天井は磨りガラスの屋根になっており、外光がふんだんに取り入れられる設計になっていた。
 梅雨明け宣言前から今年はちっとも雨が降っておらず、今日もショッピングモール内は明るい日差しに満たされていた。
 その柔らかな光の中を、子どもが一人走って行った。目で追うと、行く先には本屋があって、どうやらその子はお父さんお母さんの手を振りほどいて絵本を見に走り出したらしい。
 その本屋の店先、雑誌の並ぶコーナーにリナがいた。
 制服姿ではないリナを見るのは久しぶりだったけれど、見間違いようがない。彼女は以前と変わらず溌剌として、魅力的に見えた。
 ただその魅力は、わたしには凶器だった。
 彼女の姿を見たわたしは、ショッピングモールから光が失われていくように感じた。急に空が曇ってしまったかのようだった。
 リナはまだ気付いていない。
 わたしはクルリと方向転換すると、いま来た道を足早に戻り始めた。
「ミサキちゃん?」
 いきなり進路を変えたわたしに、ユイちゃんも驚いている。そんなユイちゃんに構わず、わたしは歩く速度を上げた。
 チラリと振り向くと、目を丸くしているリナの姿が見えた。その唇が、「ミサキ」と動いたような気がした。
「ハンス、もっと速く歩いて」
 口に出していわなくても、ハンスはわたしの意図を汲んで動いてくれる。だけどこのときのわたしは、あえてそれを言葉にしたかった。自分を守るおまじないのように。
「もっと速く」
 振り向いたわたしの目線を追ったのか、ユイちゃんもリナに気付いたようだった。
「ねえ、あそこにいたのって……」
 その声が聞こえないふりをして、わたしは歩き続けた。
 ハンスは黙ってわたしの意志に、わたしの身体の動きにしたがう。その速さはほとんど小走りに近い。
 ユイちゃんはそんなわたしにはぐれまいと必死についてくる。リナもわたしたちのあとを追おうと足を踏み出すけれど、人波にはばまれて思うようには進めない。その間にわたしはデタラメに、ジグサグに進んでリナの目を逃れようとする。
 迂闊だった。家を出れば、街に来れば、リナとだって鉢合わせする可能性があることくらいわかっていたはずなのに。
 そんな可能性に思いあたらないくらいリナの存在は学校と強く結びついていたか、さもなければそれくらいわたしの頭はポンコツだったのだ。
 どうしようもない、本当にどうしようもない。
 どうしようもないわたしはユイちゃんを背後に引き連れてエスカレーターに乗った。二階に上がる途中で振り返ると、リナがわたしたちを探してキョロキョロしているのが見えた。
 わたしはどうしようもない。だけどリナだって、なにもこんなところでまでわたしをつけ狙わなくたっていいのに。
 もうわたしはあなたに迷惑なんてかけていない。初めからどんな迷惑をかけていたのかわからなかったけれど、もう学校に行くのもやめて、あなたの目に映ることをやめて、あなたの世界に存在することをやめたのに。
 たまたままた目に入ったからといって、わたしへの憎しみを燃え上がらせるのはやめて。つまずいた小石をいつまでも蹴り続けるのはやめて!
「ミサキちゃん!」
 ユイちゃんの声で、わたしは我に返った。
 気が付くと、わたしは二階のトイレの洗面台に両手をついていた。顔を上げると、鏡の中からユイちゃんが心配そうな顔で見つめていた。
「ミサキちゃん……」
 鏡に映るわたしは、肩で息をしていた。
「あれ、リナちゃんだったよね……?」
 ユイちゃんがおずおずといった。
「そうだった?」
 自分でもわかるうわずった声で、引きつった笑顔でわたしはいった。
 空気が読めるからなのか、それともこんなときにいう言葉をまだ持っていないからなのか、ハンスは押し黙ったままだった。
 ああ、ハンスにこんなところは見せたくなかったな。人類を滅ぼす理由などないといってくれたハンスに。
 本当に人類にそれだけの価値があるのだろうか?人類はわけもなく争うし、他人のことなど考えずに資源を奪い合うし、子孫のことなどお構いなしに自然を破壊するし、理由もなく人をいじめるし、嫌なことからこうして逃げるし。それになにより、たかだか高二の小娘に降りかかった些細な不幸をさも人類を巻き込む大ごとのように考えるほど自己中心的だし。
 ああ、そんなのわたしだけなのかも知れない。こんなふうに自分中心にしか考えられないから、リナにだって嫌われてしまうのかも知れない。
 そんなことがグルグルと頭の中をめぐっていた。
「ミサキちゃん、あのね……」
 鏡の中から、戸惑うようにユイちゃんがいった。
「リナちゃん、ミサキちゃんに謝りたいっていってたの」
 その瞬間、グルグルとめぐっていたわたしの頭はあらぬ方向にまわり始めた。
 まさかユイちゃん、それを狙って今日わたしをここに連れ出したの?最初からリナと示し合わせて、ここでわたしと鉢合わせするように?
 狭いはずのトイレが、急に壁のない空間に思えた。
 ユイちゃん、わたしをだましたの?
 わたしは頭を振って、そんな考えを振り払った。ユイちゃんがそんなことするはずがない。それはすべて、卑屈なわたしの頭が作り出した妄想だ。
「ミサキちゃんが学校に来なくなって、リナちゃんすごく落ち込んで、ミサキちゃんに連絡しようとしたけどつながらないって話してるのを聞いたの」
 わたしは学校に行かなくなってしばらくして、スマホの連絡先からクラスメートのほとんどを消してしまった。だから当然、リナから連絡があっても《登録されていない番号からの着信》になるし、そんな着信には出るはずがない。
「だからさっきも、ミサキちゃんに謝りたかったんじゃないかな……」
 ユイちゃんはまるで自分が悪いことをしてしまったように、申し訳なさそうにいった。
「うん、わかってる。大丈夫」
 なにがわかってるのかも、なにが大丈夫なのかも、まったくわからない返事をわたしはした。
 もしかしたら、ユイちゃんのいっていることは本当なのかも知れない。リナは本当にわたしにすまないと思って、謝ろうとしているのかも知れない。
 でも、いまはまだダメだ。まだダメだった。
 ユイちゃんに誘われて、自分の殻を割るなどと息巻いていたのに。なんてだらしない、なんて情けない。
 まだリナを許せないとか、そんな素振りは信じられないとか、そういうことじゃない。
 わたしはまだ、学校から逃げ出した事実と真っ向から向き合う準備ができていなかった。
 嫌なことから、ましてや明らかなイジメから逃げ出すのは、けっしてズルいことでも悪いことでもない。なんでもかんでもがんばればいいってものじゃない。
 だけど、それでも、それまでなんの気なしに通っていた学校から、あたりまえに感じていた環境から飛び出してしまった後悔は、その不安は完全には拭い去ることはできていなかったし、これでよかったと納得するにはまだ時間が足りなかった。
 さっきまでのSF好きの饒舌が影をひそめたユイちゃんと共に、まるで幽霊のように青ざめたわたしは息を殺すようにしてショッピングモールをあとにした。

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