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「叱らない」が子どもを苦しめる【BOOK”ぷ”レビュー 7】

長かった…
この国の「叱らない」ブーム…

ネッ友さんから「もう読みました?」とご紹介頂いた”「叱らない」が子どもを苦しめる”を、早速本日購入してまいりました。


今回は”レビュー”ではなく、あえて読み始める前にこの本を取り上げてみました。さて、どんな内容かな。楽しみ!

呪いの言葉

叱らない指導。
叱らない子育て。

「コイツぁスゴイ時代が到来したな…」と戦慄した日から早十数年。
それ以来、われわれ”時代の少数派”たちは、大声でモノ言えぬ日々を長らく過ごしてまいりました。

まずは本の影響を受けていない段階においての自分の言葉を整理したいので、あえてまだ中身は1ページも開いていない状態で、今この文章をつらつら書いています。

あぁ、やっとこんなタイトルで書籍を出版してくれる先生が出てきてくれるようになったんだという事実に、それだけで大きな安堵を覚えている次第であります。

ハッキリ言わせて下さい。

巷にはびこる「叱らない○○」。

「…おいおい勘弁してくれよ…」って、わたしはずぅっとそう思っていました。
少数派が叩かれるのは目に見えていたので大きな声ではとても言えませんでしたが、ず~っとそう思っていました(あ~やっと言えた~)。

確かに、「叱らない○○」で本当に子どもを良く伸ばすバケモノみたいなプロや菩薩みたいな親御さんも、いるにはいます。
ただし、この人たちは「叱る」という行為に相当する(またはそれ以上の)向き合い方をきちんとしていて、我々凡人が形だけ真似してみたところで同じようにうまくはいかないため、安易に取り入れるのは危険。

もちろん、叱る必要のない子を、叱る必要のないシチュエーションで叱る必要も、これはないですよ。まったくない。

同様に、叱る必要が見いだせないような性質をもって生まれてきて穏やかに生活している子どもだってたくさんいますから、こういう子達を、よくわからない理屈でもってケチョンケチョンに叱る必要など、まったくありません。それは私も同意するところです。

ですが。

叱る必要のある子に対し、叱る必要のあるシチュエーションにおいて本気で向き合うということは必要ですよ。
本気で向き合うというのは、別に圧のある態度で臨めというのではなく、いろんなやり方があります。

せいぜい100人かそこらの中学生(9割男子)を叱った経験しかない私がエラそうなことを言うのも大変恥ずかしいことですけれども。

子どもを叱った結果その子が良くならなかったのであれば、それは「叱ったからダメだった」のではなく、「叱った人間そのものに原因がある」ということがほとんどです(何を隠そうこの自分自身が嫌というほど失敗してるから断言できるのであります)。

原因というのは…例えば、叱ってる大人自身が未熟だったり、叱り方がヘタクソであったり、叱る目的が子どもの成長ではなく大人のメンツのためであったり、そもそも叱ってるつもりが、ただ感情をぶつけているだけになっていたり。

叱ってうまくいかなかったなら、大人自身が自分の普段の言動行動を謙虚に振り返って、また頑張ればいいんじゃないですか?
まずは子どもたちにとって「叱られても納得できる大人」になれるように日々鍛錬する。シンプルに。
あとは、「ちゃんと子どもの言い分も十分に聞けただろうか」とか、「説教が長すぎやしなかっただろうか」とか、ちゃんと反省する。

うまくいかなかったからって、自分と向き合うことをせず(あるいは子どものせいにして)耳に心地よいメソッドに傾倒していくのは危険だと、個人的には思っています。

特に支援者は、子どもの親御さん以上に「叱ること」を諦めてはいけないと思っています。
子どもが悪いことをしてしまったら、支援者が学校や社会で適切に叱って、親御さんにおうちで温かくフォローしてもらうという流れが理想的だと、個人的には考えています。

叱らないことのリスク

叱ることをまったく止めてしまうことの一番のデメリットは、子どもの感情や、想像力が育たなくなってしまうこと。

人は、こういう時に怒るんだ、傷つくんだとか、他者はこういうものを命と同じくらい大切にして生きているもんなんだという”標本”みたいなものを、子ども時代にある程度はストックしておいたほうがいいと思うんです。
大人になってからの失敗は大事故になりがちですから、子どもの頃のうちに判例をそろえてあげる、人の多様な価値観に触れる機会を用意してあげる、これが叱るということの根本なんじゃないかなと思っています。

あとは、感情表現のお手本としてもね。
昨今、”(AIみたいに)理性的であること”、”感情を出さない事”が人間としてオシャレ、みたいなのが流行っていますが、私は「どうかな…」と思っています。
子ども達はこれから生きて行く上で、強い怒りや悲しみ、失望…いろんな感情と出会っていくと思います。
そこは怒るでしょ、みたいな場面でも余裕顔で諭してくるだけの大人ばかり見ていたら、その子は初めての感情に出会うたびに、気持ちの表現に迷ったりしちゃうんじゃないかな。
人様に見せないだけで、案外みんな怒ったり泣いたりする事もあるんだなぁなどということを予習する意味でも、大人が(適度に)泥臭いところを見せておいたほうがいいんじゃないかと思うわけです。

これはあくまでも仮説ですが、子どもって、自分の行為に対して大人が何らかの感情的反応を示してくれるのって安心するんじゃないかな。うまく言えないんですけど…。
自分のしたことに対して、自分の親が動揺したり、涙を流したり、ちょっと怪訝な顔をする瞬間って、ある種の”快”の信号が入力されるような気がするんだよな。
逆に感情が見えないのは不安な感じ。どなたかこういう研究している人いないかしら?

ちなみにこれはあくまでも私の偏見ですが…

「私は子どもを叱らない。叱らなくてもこんなにまともに育っている」と涼しい顔をしている大人もいますが、9割の場合これは信じてはいけないと思っています。
あなたが叱らないかわりに、あなたの知らないところで、他のひとが嫌われ役をかって出て叱ったり、眉をひそめたりしてくれてるんだよと心の中で思っています(笑)

何より私が一番思うのは、目の前にいる一定の人間関係にある子どもが何かしらよくない行為をしてしまったときに、いったいどうしたら向き合わずにいられるのだろう?ということです。

スルーできないのはわたなべが未熟だから、と言われればそれまでなのですが、私には(まだまだ?)スルーするスキルがありません。

よく、「生徒が先生になつく」って言い方をしますが、それは大人の側だって同じで、毎日とか、週1回とか月1回とか顔を合わせる子どもに対しては、どうしても愛着がわいてくるし、もはや他人とは到底思えなくなってくる。

そうすると自然、「生きていく上で、あなたには、これはちゃんとわかっていてほしい」という暑苦しいお節介の情ってどうしてもわいてきちゃうのよね。

叱るという行為は、一種のお節介な伝統継承みたいなものだと思う。

「あなた達の世代にはこんな価値観ないかもしれないけどね、私たちは、こういうことをずっと大切にしてきたんだよ。私のじいちゃんの世代なんかからは、よくこんなことを言われたもんだよ。今のあなた達にはわからないかもしれないけど、一応頭には入れておきなさいよ。いつかわかるときがくるかもしれないからね」

昨今、受容が上手な支援者は増えたと思う。
でも、子どもが今固執している価値観から彼らを引きはがして、「もうちょっと視野を広げてみない?」「こういう考え方もあるわよ」ってある種否定して、枠組みを広げてあげられるようなアプローチまでしてあげられる人って少ない気がします。
学校にはそういうのがすごく上手な先生が結構いたけど、学校の外にはあんまりいないなぁ。

私もまだまだ。
受容するだけじゃ子どもって育たないと思うんですよね。
教育って奥が深いです。もっと上手に支援できるようになりたいと思う日々。

叱られてよかった

私はまだまだこの境地にはいたっていませんが。
子どもの頃、「あぁ、叱ってもらえてむしろありがたかった」と思う経験を何度かしたことがあります。

飛びぬけて良いところも悪いところもない平凡な子どもだったから、大人に叱られた経験なんてほとんどなかった私ですが、だからこそ、叱ってもらえたときには「私を見つけてくれた」「見ていてくれた」と思ったし、言われた内容は、大人になった今とても役に立っている。

あの頃はわからなかったけれど、大人になってふとした瞬間に深い感謝の念が湧いてきます(しかしながらその感謝の言葉の大半は、すでにもう伝える術を絶たれていることが非常に惜しい)。

子ども達の心の中に、こういうさわやかな温かい記憶として残る”叱り手”にいつかはなりたいですね。
修行修行。

それにしても積ん読たまりすぎ…(笑)

読むぞー!



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