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おうちフリースクール運営教師のヤドカリ物語①2LDK築30年賃貸マンション編

わたなべさやこのおうちフリースクール運営の道のりを、”ハコ”の変遷を軸に記録したマガジンです。小さなマンションの1室から始まったおうちフリースクールのナリワイは、まるでヤドカリが成長に合わせて新たな棲家を探し求めるように変遷していきます。
これからおうちフリースクールを始めたい方はもちろん、ご自宅で教室を開いてみたい方、学校教員からの転職の道を模索されている方など、多くの皆さんにお読み頂けたら幸いです。

昨日は天気がよかったので、上尾市の自宅から桶川市のカフェまで歩いて行ってみることにしました。私は現在絶賛自動車運転教習受講中なので、どこへ行くにも徒歩です。自転車はもっていません。今借りている家の玄関周りが狭くて自転車を置く場所がないからです。自宅から目的のカフェまではおよそ45分の道のりです。歩くことは比較的好きだし、私は私の脚に対しては結構な信頼を置いているのでまったく問題のない距離です。コロナが流行る前はリュックひとつ背負って一人で飛行機に乗り込み、数週間地球の裏側を歩き回るような旅もしていました。1日30,000歩とか平気で歩きます。桶川までの6,000歩なんてなんのその。ふん。

桶川。

2019年3月、私は桶川市で埼玉県教職員としての短いキャリアに終止符を打ち、桶川駅前のマンションからおとなり上尾市にバタバタとお引越ししました(勤め先の上司がちょっとアレでして、私の自宅マンション前で私を待ち伏せしたり、連日電話をかけて来て一日の行動や身につけている服の色をしつこく聞いてくるように…。この人から”うるうるおめめのうさぎちゃん”と呼ばれてからはさすがに身の危険を感じたので即引っ越す必要がありました)。


で、上尾市内に見つけた築30年2LDKのマンションのリビングでおうちフリースクールのナリワイを始めました。そのマンションで教室運営をした1年後の2020年4月、今度はスクールドッグを迎えるタイミングでこれまた築古の戸建てに移転、この借家で2021年の現在まで私の上尾でのおうちフリースクール生活は平穏に続いています。

そして2022年4月、われわれは桶川市に戻ります。これが最後のお引越し(たぶん)。年イチで築古賃貸を転々とする遊牧民のような生活を送っていましたが(夫はこの多動な妻と生きることを決めてから計6件の家を渡り歩いている…!)、ついに夫婦で根をおろし、じっくりと腰を据えてナリワイを作り上げていく拠点を決めました。それが埼玉県桶川市です。ハッキリ言って私は桶川市に良い思い出なんて1ミリもないのですが、たくさんの時間をかけて考え、二人でよく話し合った結果桶川市で生きていくことを決めました。というか、「私たちの力で桶川をよくしていこう。新しく桶川を作っていこう」くらいのでかいことを今では言い合ってます(桶川市長さんはじめ関係者のみなさん勝手なことを言ってすみません、最初はヘコヘコ入っていくつもりではいます)。前述のとおり、この決断に関しては結構な紆余曲折がありました。話のネタとしては我ながら結構おいしいと思っているくらいなので、ここらで私たちの3年間を”ハコ(=場所)”という観点から振り返ってみようと思い立ち、今こうしてnoteを書いています。

▼公務員を辞めてフリースクールを立ち上げたことについての考察

ハコの話に入る前に、私が始めてしまったおうちフリースクールというナリワイについて簡単な考察をしておきましょう。おうちフリースクールというナリワイについては、我ながらなかなか素敵なものを思いついたものだよなぁと思っています。始めて本当によかったと思っているし、思った以上に私の個性になじみ、私たち夫婦の理想に合った生き方となりました。

フリースクールを始めてからは「すごいね、起業じゃん」っていろんな人に言われました。まぁ確かに自分で事業をデザインして、開業届を役所に出して、HP作成やら経理(これは夫)やら営業やらしていることを思えばこれもひとつの”起業”の姿なのかもしれません。でも私自身としては私のこれまでの生き方の延長線上にこういう自己実現の仕方があっただけ、という非常に間の抜けた温度感でやっています。

"起業”っていうとたくさんのお金をかけて、MBAやら資格やらたくさんの武器防具をひっさげ、誰も思いつかなかったような新しい価値を生み出し、何より知人友人みんなから「すごい」と言われるような(あるいは嫉妬の対象になるような)スペシャルなことをしなくちゃいけない空気間が平成後期~令和の現代には流れているように思います。でも起業ってホントにそんなすごいことなのか?そんなにすごいことしなくちゃいけないのか?

考えてみてください。ちびまる子ちゃんやドラえもんの世界では、かなりゆるいテンションでみんな自営業やっているじゃないですか。ジャイアンちだってまる子んちだって八百屋だし、むしろお勤めに出ている野原ひろしや波平のほうがハイスペックなオーラを放っている。昭和ってそんな感じでみんな結構気楽なノリで自営業で生きていたと思うんですよね。

私は「カネないコネないタレントない」の3ないぞろいの超凡人です。大学時代に親が契約しちゃった奨学金の返済だってまだ毎月続けているし、実家も全然太くない(むしろ貧乏な母子家庭育ち)、勉強も運動もチュウのゲ特別な資格も才能もないことは自分が一番わかっていました。そんな私なので、「自分で事業を始める」といったら断然イメージは”昭和の剛田家”です。別に自分の身の丈にあった規模で自分にできる範囲のことをやればいいじゃないと思っていました。だから私のフリースクールの教室は私の家=”おうち”です。見栄を張って駅前一等地にテナントなんて借りていたら、今もこの仕事が続いていたかどうか怪しいです。ダサくていいやん、教育なんて結局中身が大事なんだからって思って人様からの評判なんて全然気にしていませんでした。インターネットが普及したからといって、みんながみんな世界をフィールドに戦わなきゃいけないなんてそんなわけない。HPは一応作りました。多分アメリカ人もボスニアヘルツェゴビナの人もその気になれば私のフリースクールのHPを見ることはできます。でも私はせいぜい私の半径10kmの人々の幸福に寄与することさえできれば「あたしにしてはよくやったじゃないか」と、そういう気持ちです。こういう覇気のないゆるい気合いでやっています。

昔から「今あるもので何かをつくる」ということに関しては結構得意な子どもでした。しつこいようですがなかなかに貧乏な家で育ったので、欲しいモノがあってもすぐには「買って」とは言えないわけです。だから、家の中にあるモノでなんとか用を済ませようと子どもながらに工夫する習慣がつきました。親の笑いを取りたければセロテープで鼻の穴を広げてモノマネをするし、なりきりたいアニメキャラがいれば母親のお古を改造してコスプレしてました。トースターがないのでパンはフライパンで焼く。高校生になるとみんなアナスイとかエテュセでメイク用品を買ってくちびるを赤く染めてみたりしますが、バイト禁止の公立高校でお小遣い無しの生活を送っていた私にはファンデーションを買い続ける経済力はない。ならば肌の健康を保つことが先決と、母親のドレッサーから日焼け止めを拝借してそれだけは毎日塗っていました。洋服は母と祖母のおさがりをもらい、”なんちゃってアンティーク娘”を気取っていました。ピアスだけはしっかり開けて、それっぽいアクセサリーをぶら下げてみれば安物でも何となく雰囲気がでます。時々男の子とデートをするときには”アンティーク娘”だとウケが悪いので、姉の部屋に忍び込み洋服やアクセサリーを拝借していました(そしてしばしば深刻な姉妹喧嘩に発展)。
なんか話が全然違う方向に行ってるな。まぁとにかく当時はなかなかミジメなものでしたが、今となっては良い経験が積めたし確実に今につながっていると思っています。「貧乏はヒトを作る」これは真理だと思います。

▼おうちフリースクール教室の変遷①マンションLDK時代

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↑2019.4~2020.3まで使用していたマンションLDK時代のおうちフリースクールぃありす上尾教室

あんまり長くなってもしょうがないので、今回はおうちフリースクールでぃありす上尾ヤドカリ教室移転記①LDKマンション時代のお話までにしておきましょうか。

ヤドカリフリースクール最初の教室は、先にもお話したとおり築30年の2LDKのマンションでした。内見時に「なんかこのリビングの光の入り方いいな」と気に入って契約しました。家賃は64,000円/月+駐車場費。教室兼自宅なのでなかなか現実的な価格です。難点は風呂がタイル貼りなので冬はヒィッとなるのと、古い規格のため天井が低く、長身の夫はよく角に頭をぶつけていました。

その他、生徒さんを自宅にお招きするとなるといくらかの工夫は必要です。プライベートなモノを置きすぎない、毎日隅々まで掃除をするなどなど。でも慣れてしまえばそんなに大変なことではないし、毎日ピカピカの家に住めるのも結構いいものだなと感じるようになりました。LDKが10帖くらいの一つの空間に集まっているので、生徒さんとの話の流れで「じゃぁ味噌汁でも作ってみようか」とお料理教室が始まったり、疲れたら大き目のソファーでゴロンとできたり、思った以上に理想的に教室運営をすることができました。このマンションの教室には、ゴールデンレトリバーのポターテンを迎えることになる2020年4月までの1年間お世話になりました。

(つづく)

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