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「ヨガ日記」 6. The light in me says hello to the light in you.

その男はヨガの神さまだったに違いない。
神さまが穴の空いて襟の伸び切ったトレーナーを着ておんぼろの汚い安物スニーカーを履いてヨガスタジオに現れたに違いない。
ついついヨガをビジネスとしてこなすことに気を取られすぎている私に啓示を与えるためにやってきた神さまだったのだ。

その男が私たちのお洒落なヨガスタジオにやって来たのはオープン2周年のイベントの一環として行ったオープンデーの日だった。
アテンドした10名ほどのインストラクターはみなお揃いの白のトップとモノクロのボトムスで朝から準備に追われていた。
30分のヨガレッスンをワンコインで体験してもらうというイベントでいつもは女性専用のスタジオもその日は男性も子供もご一緒に、と賑わう通りに面した1階の入り口にも大きく垂れ幕を降ろしていた。

「まきさん、ちょっと変な奴が来てんですよ」と困った表情のマネージメントの古田さんがスタジオで準備をしていたシニアインストラクターの私の所にやって来た。
「どういう意味?」
「いやヨガできるんか?ってエレベーターで上がって来て言うんですけどね、明らかに変なんですよ」
「どう変なの?」
「態度も目つきもヤバイし、着てるもんなんかも明らかに普通じゃない感じなんです。前にもエレベーターで上がってきてヨガ、ヨガって言ったことがあるんですよ。男はダメだって追い返したんですけどね」
「で、今日は何て言ったの?」
「まだ始まらないって追い返したんですけど」
「うーん、だけどねえ。今日は男性も歓迎って書いちゃってるもんね」

 人生には時にえいっと賭けの盃を飲み干すしか他にない場面がある。

「分かりました。私が何とかするから通して下さい。だって変に恨みとか買っちゃったらその方がマズいし」
「本当ですか?」
古田さんはかなり躊躇している。
「大丈夫」
「じゃあ通しますよ。もう一目で判りますから。明らかに変な奴」
「OK」

体験レッスンの受付が始まって家族連れやカップルや女性の友達同士で混み合い始めた受付で明らかにその男は場違いだった。
おそらくちょっとした精神疾患を抱えているか向精神薬を服用しているであろうボンヤリとした目付き。無精髭とボザボサの髪。落ち着きのない態度。失業者としか思えないボロボロのパジャマばりのトレーニングウエア。
私のその回の役割は廊下での受付のはずだったがその男の姿を認めた途端に自分の仕事は若いインストラクターのえみちゃんに放っぽりだしてその男ににこやかに近付いた。
「こんにちは!」
「あ、ヨガしたいんですけど」
その男はおどおどしながら自分の肩くらいしか身長のない私に向かって自信なさげに言った。
「はい、どうぞ! 靴を脱いでこちらにお入り下さい」
私はそう言ってその男を素早くスタジオに予め敷き並べてあったマットの一番端っこに導いた。あまり目に触れないように、である。
ここはそもそも若い女性に人気のバッグやアクセサリーを扱うアパレルメーカーの本社ビルの3階に出来たヨガスタジオで、お洒落、高級が売りのスタジオなのだ。
そんな失業者みたいな男がスタジオに居るのに気が付いたらみんなお客さんはドン引きしちゃうに決まってる。
「あ、靴下は脱いだ方がいいですねー」と私は男に声をかけて男は慌てて汚い靴下を脱いで裸足になった。
「靴の中に入れて置きますか?」と言ったらいっそうオドオドしながら男は自分のよれよれのスニーカーまで戻ってそそくさと靴下を突っ込んだ。

 まだレッスン開始まで30分もある。
この男はさっき古田さんに追い返されてから受付開始時間まで路上で待って一番にまたエレベーターで上がって来たのに違いない。

  私は30分間この男に目立った行動をさせないためにはこれしかない!と咄嗟に
「ではマットの上に仰向けで横になって下さい」
とリラクゼーションのポーズ、シャバサナのインストラクションを始めた。
「はい、そうです。足を腰幅に開いて腕は優しく身体の横に置いて下さい。脇を少し開いて。はい、そうですね。」
男はおっかなびっくりで私の言う通りにポーズを始めた。
仰向けになったのは良いけれどリラクゼーションとは程遠い緊張した顔でキョロキョロと回りを見回している。
悪いことにインストラクターのお姉さん達はみな美女ばかりで綺麗な身体にぴったりしたレギンスや露出度の高いヨガブラなんかを着て彼の頭の上を歩き回るものだから視線も泳ぎまくってしまう。
「はい、それでは軽く目を閉じて下さいね」
私は彼のマットの横に座って辛抱強くインストラクションを続けた。
「目を軽く閉じて鼻から深―い呼吸をしてみましょう。そう、口はしっかり閉じて鼻からですよ。はい、まず軽く吐いてから吸い始めます。少しずつゆっくりスムーズに吸って下さい」
彼は一生懸命に私の言う通りにしようとしているのだが、肩や腕はますます緊張で硬ばってくるし、綺麗なお姉さんが床を歩き回ると薄眼を開けてその方向を思わず見てしまう。

 私はその一生懸命な表情を見ていたら思わず笑いそうになってしまった。まるで落ち着けない子供のようなのだ。
 それでも安心は出来ない。色んな事件が起きている昨今だから。この薄汚いジャージのズボンのポケットに何が入っているんだろうと気になったり、突然この男が暴れ出したら私が思いっきりタックルして、などとシミュレーションしてみたりしながら「落ち着け、落ち着け、落ち着け」と祈るように彼にリラクゼーションのインストラクションを送り続けた。
「はい、深い呼吸に慣れてきたらそのひとつひとつの呼吸をよーく観察してください。吸う息吐く息ひとつひとつ、どれとして同じ息はありません。その一度きりの息をひとつひとつ味わいましょう」

 スタジオにはぼちぼちと人が入り始めていた。カップル、家族づれ。マットも徐々に埋まりつつある。私は彼のとなりのマットに誰かが座ることを阻止するために自分がそこに座ることにした。彼のとなりのマットに私も同じ仰向けで寝たポーズを取ってみせた。彼はまだ薄眼を開けて私や周囲をチラチラ見ながらも一生懸命にシャバサナで呼吸に集中しようとしている。私は自分のシャバサナに集中している振りをしながら全身で彼に向かって気を送った。

 そうしているうちに美しいインストラクターのゆみさんによるヨガレッスンが始まった。私は彼の横でインストラクションに従って安楽座から始まり手首足首のストレッチ、首や肩のストレッチなどを始めた。
 時々彼の方を見るとおどおどしながらも見よう見真似で一生懸命に動いている。その姿を見ていたら「ああこの人は本当にヨガをしたくてやってきたのだ」と分かった。
ヨガをしたい一心でこのとんでもなく場違いにお洒落で高級なビルに一人で何度も入ってきて受付の古田さんに邪険にあしらわれながらも戻ってきたのだ。
 
 私はいつしか彼の横で涙を流しながらヨガをしていた。
お洒落なヨガウエアも痩身美肌もクソ喰らえだ。こんなに魂の救済を求めている人がヨガを求めている。この人がたった一度きり私のとなりでヨガをやっている今どうぞ少しでもこの魂が癒されますように。私が今までやってきたすべてのことがこの30分で伝わりますように。

 レッスン最後のポーズで再びリラクゼーションのシャバサナポーズに入った時には彼は完全にリラックスした状態でそこに静かに横たわっていた。私はまだ涙を流しながらその人の身体から流れてくる静かな波動と私の波動が一致するのを感じて横たわっていた。

 最後にもう一度安楽座になり胸の前で合掌する。私はお決まりのインストラクターに向かってするナマステではなく横に向かって座り直して彼に向かって深々と頭を下げた。


「ナマステ」 The Light in me says hello to the light in you .
顔を上げると、まるで神々しいほどに澄んだ目が私を見ていた。


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