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勝手に芥川研究#9 短ければ短いほど切れる~「詩集」その他

 芥川龍之介は短編作家です。長編にチャレンジしましたが「路上」も「邪宗門」も未完に終わっています。わたしはそれで良かったと思っています。時代的背景もありますが、芥川が短編作家だったからこそ今の名声があり、もし長編を書いていたら名を残さなかったと思うからです。
 そして芥川の短編は短ければ短いほど切れ味が鋭いというのがわたしの印象です。例えば「詩集」という作品。

彼の詩集の本屋に出たのは三年ばかり前のことだつた。彼はその仮綴かりとぢの処女詩集に『夢みつつ』と言ふ名前をつけた。それは巻頭の抒情詩ぢよじやうしの名前を詩集の名前に用ひたものだった。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
 彼はこの詩の一節ごとにかう言ふリフレエンを用ひてゐた。
 彼の詩集は何冊も本屋の店に並んでゐた。が、誰も買ふものはなかつた。誰も? ――いや、必かならずしも「誰も」ではない。彼の詩集は一二冊神田かんだの古本屋ふるぼんやにも並んでゐた。しかし「定価一円」と言ふ奥附のあるのにも関かかはらず、古本屋の値段は三十銭乃至ないし二十五銭だつた。
 一年ばかりたつた後のち、彼の詩集は新らしいまま、銀座ぎんざの露店ろてんに並ぶやうになつた。今度は「引ナシ三十銭」だつた。行人かうじんは時々紙表紙かみべうしをあけ、巻頭の抒情詩に目を通した。(彼の詩集は幸か不幸か紙の切つてない装幀さうていだつた。)けれども滅多めつたに売れたことはなかつた。そのうちにだんだん紙も古び、仮綴かりとぢの背中もいたんで行つた。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
 三年ばかりたつた後のち、汽車は薄煙うすけむりを残しながら、九百八十六部の「夢みつつ」を北海道ほくかいだうへ運んで行つた。
 九百八十六部の「夢みつつ」は札幌さつぽろの或物置小屋の砂埃すなほこりの中に積み上げてあつた。が、それは暫しばらくだつた。彼の詩集は女たちの手に無数の紙袋かみぶくろに変り出した。紙袋は彼の抒情詩を横だの逆様さかさまだのに印刷してゐた。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
 半月ばかりたつた後のち、是等これらの紙袋は点々と林檎畠りんごばたけの葉かげにかかり出した。それからもう何日になることであらう。林檎畠を綴つた無数の林檎は今は是等の紙袋の中に、――紙袋を透すかした日の光の中におのづから甘みを加へてゐる、青あをとかすかに匂ひながら。
  夢みつつ、夢みつつ、
  日もすがら、夢みつつ……
                         (大正十四年四月)

芥川龍之介全集

 わずかこれだけの短編ですが完璧です。売れなかった詩集の末路の悲しさを歌っているようですが、紙切れとなった詩集が林檎の味わいを深めていると解釈することもできます。「夢みつつ、夢みつつ、日もすがら、夢みつつ……」のリフレインは強烈で読後しばらく頭に残ります。
 しかしこれははたして小説でしょうか。散文詩といえなくもないですね。
 特に晩年の作品に顕著ですが、わたしが一番好きな「蜃気楼」という作品も小説というよりも散文詩のような感じがするのです。
 「蜃気楼」では、蜃気楼を昼間と夜間に友人と見に行くのですが、大した事件は起きません。いわゆる筋がありません。あるといえば、昼間に水葬された若者のタグを見つけること、夜間に土左衛門と見間違える靴を見つけることだけです。自裁する半年前の作品ですので終始不穏な雰囲気は漂ってはいますが、夜間に登場する妻の鳴らす鈴の音がとても愛らしく穏やかな気持ちにさせてくれるので、他の作品のように暗い作品ではありません。

 以下のくだりですね。この部分がなければ陰鬱なだけの作品に終わっていたでしょう。

「あたしの木履ぽっくりの鈴が鳴るでしょう。――」

 しかし妻は振り返らずとも、草履ぞうりをはいているのに違いなかった。

「あたしは今夜は子供になって木履をはいて歩いているんです。」

芥川龍之介全集


 ただ、この作品で何が言いたいのかと言われれば、何もないのです。前期や中期に見られたラストの背負い投げ(志賀直哉曰く)や奇抜な仕掛けは何もなし。「新時代」の到来に意味を見いだすことはできますが、わたしはそこはあまり重視していません。
 重視したいのは海辺の情景とごくわずかなアクションを淡々と描写している点です。つまりこれも散文詩の一種、あるいは絵画(写実主義というのでしょうか)を小説にしたものだとわたしは思います。
 芥川は、萩原朔太郎には酷評されましたが、室生犀星によれば詩人としても優秀だったと言いますし、詩人でありたいと思っていたひとですので、短編に特化していたのは当然だし、短ければ短いほど、余計な部分をそぎ落とせば落とすほど切れ味が増す作家だと思います。そして、特に中期から晩年は、初期の筋書き中心の小説から詩や絵画に近い小説を目指していたのでしょう。そういう意味では彼が力を入れた「河童」は主義主張の塊で、色々な意味で読み応えはあるし芥川研究に欠かせない作品なのですが、個人的にはあまり好きではありません。
 
 芥川龍之介の作品は、短いものほど佳作が多い。
 わたしの個人的な見解です笑。
 今回はこのテーマでさらっと書いてみました。

 それではまた!

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