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[勝手に芥川研究#4] 増えていく資料や「疑惑」「秋」など4作品について

おはようございます。
芥川龍之介研究を始めてから資料が増えまくっています笑。

資料集めまくり中



芥川関係本

「年表作家読本 芥川龍之介」
「文藝別冊 芥川龍之介」
「芥川追想」
「文藝読本 芥川龍之介」
「追想 芥川龍之介」
「芥川龍之介展(日本近代文学館)」

岩波書店の「芥川龍之介全集全24巻」と宇野浩二の評論上下はもともと持っていますが、まさかこんなに買う羽目になるとは。大学が英文学専攻だったのですが卒論以来ですよ。資料だらけ。ほとんどメルカリや古本屋なので安くはすんでおりますが。しかしこれが楽しい。楽しすぎる。

これ以外に
「文藝春秋芥川龍之介追悼復刻版」
「芥川龍之介考」中村稔
「芥川龍之介」新潮文学アルバム
Kindleでも
「芥川龍之介書簡集」
「田端文士村」
「文豪聖地巡礼」
「文豪が愛した文豪」
等々。
それから前回紹介した、山川直人さんや松田奈緒子さんの漫画。

まだ全部目を通したわけではありませんが、彼の作品を味わうだけなら必要ないですが、研究したいと思うときに欠かせないと思うのは
「年表作家読本 芥川龍之介」河出出版
文藝読本 芥川龍之介」河出書房
あたりでしょうか。
前者は、他の作家のものも評判が良いので、気になる作家を掘り下げたい方にはオススメしたい本です。
後者は古本でしか手に入りません。他の資料と重複するものもあると思いますが、貴重な論説が多数載っています。巻頭が萩原朔太郎の論説、次に小林秀雄ですし、座談会には三島由紀夫と安部公房まで登場します。追悼本とは異なり芥川礼賛というわけではなく、辛口の批評が多めで、芥川が嫌い、あるいはただの秀才と考えるひとと、芥川が好きで歴史に残る文豪だと考えるひとの捉え方の違いがわかるので非情に興味深い。
そもそも萩原朔太郎が巻頭でこう述べています。

芥川龍之介ほど、多くの矛盾した毀誉褒貶の批評を受けてる文學者はない。或る人は彼の文學を典型的の近代小説と評し、他の人はそれを一種のエツセイにすぎないといふ。一方では彼を詩人と稱し、彼の作品を散文詩だといふ人があるに對して、一方では反對に、詩的情操なんか少しもなく、素質的に詩を持たなかつた文學者だといふ人もある。或る人は彼を天才と呼び、或る人は單なる秀才に過ぎないといふ。
(中略)
およそ文學者には、評家から見て二つの異つたタイプがある。一つは「問題を持つてる文學者」であり、一つは「問題を持たない文學者」である。たとへば佛蘭西の詩人の場合で、ボードレエルは前者に屬し、ヹルレーヌは後者に屬する。十九世紀から二十世紀にかけ、いかに多くの評論家が、いかに無數のボードレエル論を書いてることか。これに反してヹルレーヌが、極めて少數の人々にしか稀れに評論されて居ないか。けだしその理由は明白である。前者の詩文學の内容には、時代の一切の問題を含んだところの、無數の宿題やトピツクが實質されてる。さうした文學的實質は、これを分析すればするほど複雜であり、いかに論じても論じ表せないところの、無限の謎と興味を人々に與へるであらう。これに反して後者は多くの批評家が言ふ通り、「眞の詩人中の眞の純粹の詩人」であり、しかもその絶贊の評語によつて、一切が解決され盡してゐるのである。ヹルレーヌの詩については、世界の多くの人々が、ボードレエル以上の魅力を感じて居る。すくなくとも純粹性といふ點では、彼はボードレエル以上に評價されてる。だがそれにもかかはらず、多くの人々は彼に評論的の興味を持たない。なぜならヹルレーヌの詩は、純粹すぎることによつて、問題を含んで居ないからである。

芥川龍之介の小断想

わたしが芥川をどう捉えているかは、作品の感想を持って伝えたいと思うのでここでは書きませんが、確かに芥川は漱石山房と似たように生前田端文士村が自然にできるほど影響力を持った作家であったにも関わらず、自殺後は酷評されたり、かと思うと見直されたり、様々な評論家が芥川論を書いて現在もまだあれこれ言われ続けています。漱石や鴎外のように巨匠としての評価が固まった文豪とはちょっと違うんですよね。太宰治などもそうですが、評価が分かれる文豪です。そこがまた魅力なんです!

さて資料の話はここまでとして、ここ数日読んだ短編について感想を述べます。

「疑惑」(大正八年)


明治24年の濃尾地震で家屋が倒壊し下敷きになった妻を、迫る火災の中、生きながら焼かれるよりはと瓦礫で殴り殺した男が、本当に安楽死を目的として殺したのか、妻の身体の不自由さを不満に思っていたから「殺意」をもって殺したのか自問自答して苦悩するさまを描いた短編です。本当のところどちらかわかりません。本人もわからない、もちろん問いかけられた主人公や読者にもわかりません。そして男はその「疑問」に苛まれて人生を棒に振ってしまいます。少し鴎外の「高瀬舟」を思い出しました。芥川の場合は結末に正解を用意しないことが多いのですが、そこが妙だと思います。また男の指が一本欠けている理由が最後までわかりません。

しかしたとい狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでいる怪物のせいではございますまいか。その怪物が居ります限り、今日私を狂人と嘲笑っている連中でさえ、明日はまた私と同様な狂人にならないものでもございません。

疑惑

最後の男の台詞です。「人間の心の底に潜んでいる怪物」。誰しもが人を殺す可能性がある。そんな心理を奥底に抱えて生きている。一本欠けた指は人間として何か大事なものを失ったことを意味しているのでしょうか。理解不足ですが、好きな作品です。

「秋」(大正九年)


仲の良かった姉妹。同じ男性を好きになり、姉が暗黙のうちに妹に譲る格好で、別の男性と結婚したものの、結局のところ妹に対する残酷な嫉妬心が残っており、男への未練も断ち切れておらず、姉妹の複雑な関係と微妙な女性心理を描いた作品。三島由紀夫や谷崎潤一郎あたりなら長編にして、どろどろした姉妹の世界を描きそうですが、芥川は男と女のすれ違いと端正な心理描写で最後にさらっと「秋...」で流して終わります。芥川はこの作品で従来の自分の作品とは違う新境地を開きたかったらしいです。よくできた作品ですが、今の多くの読者は三島文学その他この手の文学を読んでいるのでその立場から読むと平凡な気がします。わたしはやはり芸術至上主義の鬼気迫る芥川のほうが好きですね。

「蜜柑」(大正八年)


最初身なりがみすぼらしい少女と一緒の列車に乗り合わせて迷惑がっていたわたしが、様子を観ていると実はその少女は奉公に出されるところで、見送りにきた弟たちに窓から蜜柑を投げる。その光景を見て現実の陰鬱な気分に苛まれていたわたしは心が洗われる。梶井基次郎の「檸檬」を思わせる掌小説です。当時の世相も反映されています。芥川はこういう心温まる話も書けるんだなあと思う一作です。

実はこの「蜜柑」と次の「沼地」は新潮に「わたしの出会ったこと」という題のもと連作で掲載されたものです。つまり、主人公は芥川自身であって私小説です。

「沼地」(大正八年)


ある絵画展覧会場で、見向きもされずに片隅に置いてあった絵画に惹かれ、「傑作」と表するわたし。新聞の美術記者は、それは狂人の描いた絵で価値がないと言い切ります。


「気違いででもなければ、誰がこんな色の画を描くものですか。それをあなたは傑作だと云って感心してお出でなさる。そこが大に面白いですね。」
(中略)
「もっとも画が思うように描けないと云うので、気が違ったらしいですがね。その点だけはまあ買えば買ってやれるのです。」  記者は晴々した顔をして、ほとんど嬉しそうに微笑した。これが無名の芸術家が──我々の一人が、その生命を犠牲にして僅に世間から購い得た唯一の報酬だったのである。

沼地

芸術を見る目のない評論家に対して再度「傑作です」と言い切るわたし。命を削って創った芸術なのに評論家はぞんざいに扱う。そんな自分たちを嘆きつつ、後期に通じる芥川の芸術至上主義がよく出ている逸品だと思います。わたしの好きなタイプの作品です。

四作紹介しましたが、いずれも大正八-九年のもので中期の作品です。時期が近いにも関わらず作品のジャンルや傾向がみな違うことに驚きます。これ以外にも児童文学もあるし、キリシタンものもあるし、今更ながら幅広い題材で書いていたことがわかります。一番のっていたときですね。

長くなりましたが、資料集めの状況と、最近読んだ作品について感想を述べさせていただきました。
読んでいただいてありがとうございました。

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