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「人生百年時代」の偽善~医療が発達しすぎた現代社会に読んでおきたい一冊

昨晩Kindle Unlimitedで読んだ本ですが、すとんと腑に落ちたものですからぜひ感想を書きたいと思いました。
筆者は作家として主に医療関係の小説や評論を多く出していますが、本書は医者である実体験から得た経験をもとに医療が発達しすぎて長生きになってしまった今の人間の死に対する覚悟の薄さと医療の在り方に警鐘を鳴らしつつ、「いかに死ぬか」(つまりはいかに生きるかと同義)を考える本です。
高齢者のみならず、わたしのように病を抱えて医者にかかることが多いひとはもちろん、若い人でも人間いつ死ぬかわからないのですか、らすべての人に読んでもらいたい一冊だと思いました。

最初に本文に出てくる重要なポイントをいくつかあげておきます。

まず「人生百年時代」などというふざけた言葉は以下のようにばっさり切り捨てます。

この言葉の真に意味するところは、「百歳まで生きられる」ではなく、「百歳まで死ねない」ということだと私は思います。それがどれほど恐ろしいことか。

そして、チューブだらけになって長く苦しむ死に方をせず、できるだけ楽に死ぬには病院に行かない、特に救急車を呼ばないことを推奨しています。もちろんケースバイケースですが、ここで平時から「死に対する覚悟」(いわゆるメメントモリ)があるのとないのとでは判断が大きく違ってきます。

悲惨な延命治療を受けないために、もっとも確実な方法は、病院へ行かないことです
(中略)
ても、いざとなったら、救急車を呼んだり、自分で病院へ行ったりするのを止められない人も少なくないでしょう。
(中略)
困るのは、本人は延命治療を望んでいないのに、家族が本人の意思を無視して、病院に運んでしまうことです。

実際の事例をあげて放っておけば楽に死ねたはずの患者を心配した家族が救急車を呼んだために、楽に死ねずに地獄のような最後を迎えることになったケースがいくらでもあることがわかります。

「延命治療不要」とわたしは保険証に明記してありますが、それで大丈夫と思ったら甘いのです。自分が意識を失っている間に家族に救急車を呼ばれてしまうと、救急隊員も受け入れた病院も使命を果たそうとする(ときにはそのフリをする)ので、結果的に酸素マスクや気管挿管、蘇生措置、あっというまにチューブだらけになり苦しむことになると言います。考えただけでも恐ろしいですね。
そこでACP(アドバンス・ケア・プランニング)の重要性、つまりあらかじめ家族や近い人と平時から死について話し合っておき、自分に何かあっても絶対救急車を呼ばない、延命治療をしないことを周知しておくことの重要性を説いています。

思い出すのは、10年前の父の死に様でした。
病弱なわたしと異なり、80歳くらいまで風邪一つひかず病院にかかることすらなかった父が突然肺炎になり高熱を出して救急車を呼んで入院しました。一週間経っても二週間経っても熱が下がらず医師からは覚悟しておいてくださいという旨と同時に「延命治療は望まれますか」と聞かれました。今考えると良心的な医師だったのです(この本によれば家族に誠意を見せるためにできるだけ長く生かそうとする経験不足あるいは要らぬ使命感をもった医師が大半だとのこと)。わたしは「延命措置は不要です」と即答しました。全く迷いはなかったです。なぜかよくわかりませんが、わたし自身死に対する恐怖や忌避感はまったくないし、80年間父は真面目に生きてそれなりに楽しんでいたはずだし、寿命的にもう十分だろうと思ってましたから。
しかし、回復してしまいました。一時期は喜んだのですが、実はそこから亡くなる4年間がつらい時期でした。いったん肺炎は収まったものの、それから数ヶ月に一度肺炎を繰り返すようになり、最初の小さな病院から専門病院に転院してからは検査づけでステロイド治療を続け、良くなったり悪くなったりを繰り返し、ステロイドの副作用に苦しみ、最後の入院はほぼ寝たきりで酸素ボンベを持って用を足す以外は毎日天井を眺めているだけの日々になりました。「生きていても何の意味もない」(父の言葉)状態が1、2ヶ月続いたころです。治る見込みのない患者を早く放りだして他の患者を受け入れたいのでしょう、病院からは転院先を早く探せと催促され、わたしが選んだのは病院ではなく、老人ホームでした。長く入院できる療養型の病院が少ないこともありますが、迷わず老人ホームを選んだのはなぜなのか、よく覚えていません(この本によれば、それは正解だったことがわかりますが)。
そしてホーム側の受け入れ準備を整えて、骸骨のようにやせ細った父を迎えに行って介護タクシーで老人ホームまで搬送し、思ったよりも重篤な父の容態にびっくりしたホームの方と色々相談しました。
そしてベッドから降りて歩いたときに転倒したらまずいので、ベッド下にセンサーマット(触れるとヘルパーさんに連絡が入って付き添いにきてくれる)を敷くかどうかという相談がありました。わたしは「いらない」と答えました。これも即答です。前の病院ではセンサーマットがあったため、トイレにいくたびに看護婦がくるのでうっとおしいと父は盛んに言っていて、ホームの方々にそこまで面倒をかけたくなかったのです。しかしこれがもとで父は亡くなることになります。
ホームに入所してわずか3日後の早朝5時に電話がなりました。
「きたな」とすぐ思いました。わたしは母と一緒にホームに向かい、自分の部屋で倒れてこときれている父の姿を見ました。その後の医師の処置も見ました(母には見せていません)。夜中に自力で酸素ボンベをひいてトイレに行こうとして倒れ、そのまま心不全で亡くなったとのことです。
ホームの方に言われました。「だから言いましたよね。センサーマット必要じゃないですかって」と。その方は泣いておられました。優しい人だなと思いました。わたしは涙一つ出ませんでした。なぜならセンサーマットを拒否した時点で、いつかはこうなるだろうと思っていたからです。いわば確信犯的にわたしは父を死に追いやったことになります。
そのことがずっと心にひっかかっていました。確かに亡くなる寸前まであれこれ面倒を見てきたし、それなりに手を尽くしたつもりだけれども、最終的にはわたしが父を殺したのではないか、という思いがかすかにあったからです。
しかしそのひっかかりは、この本を読んでとれたような気がします。

筆者は、余計な延命治療を避けて楽に死ねる方法として、病院に行かない、救急車を呼ばない、つまり在宅で死ぬ選択肢ともうひとつ、施設で死ぬという選択肢を示しています。施設もあらかじめの合意は必要ですが、できる医療措置に限界があるので救急車を呼ばないことで合意しておけば、訪問医が来るだけですので病院死よりもはるかに楽に死ぬことができます。
わたしが父をホームに転院させたのは間違いではなかった、そう思わせてくれました。

 当たり前の話ですが、自宅にいれば悲惨な延命治療を受ける心配はありません。だから、ぜったいに悲惨な延命治療を受けたくないと言うのであれば、助かる見込みがあっても病院に行かない覚悟が必要です。  
 逆に、助かる見込みがあるのなら、病院で治療を受けたいと言う人は、悲惨な延命治療になるリスクを受け入れる必要があります。
 助かる見込みがあれば治療を受けたいけれど、悲惨な延命治療はぜったいにイヤというのは、両立しないのです。

そのとおりです。都合のよい話はないのです。どちらに転がるかはわかりません。だから死を当たり前のように受け入れて恐れない覚悟を常に持っておく必要があるのです。

実は父の死後、そのショックからか母が精神的におかしくなり大変な事態が発生するのですが、それはまたいつか書くとして、現時点で一番死に近いのはわたしです笑。神経症状が山程あって大学病院その他で2年以上検査づけですがいまだに原因不明、60キロあった体重は40キロを切ってしまい、フラフラ状態。幸い夜は眠れますが、次第に眠剤が増えており、まるで研究中の晩年の芥川のようです。もっとも当時と違って、今の眠剤は大量に飲んでも死ねませんが。
ただ最初にも書いたようにわたしは死を恐れていません。還暦過ぎたばかりですが、少し前までは70も生きれば長生きでしたし、本書の著者がいうとおり、100歳なんてこりごりです。若い頃に相当無茶苦茶してますし、くるしいときもありましたが楽しいこともたくさんあったので、悪い人生ではないし、いつ死んでも全然構わないと思って色々な用意は随分前にしてあるのです(遺言書とか相続とか家族のこととか)。ですので、毎晩床につくときは明日の朝目覚めなくてもいいよと思いながら寝ているのです。ただ割と最近までは何かあれば自力で救急車を呼べるように携帯を枕元に置いておりました。今日からそれはやめにします。苦しくても救急車は呼びません。
ただ家族とは話をしないといけませんね、「救急車呼ぶなよ!」って笑

長くなりました。もし興味があったら手にとって見てください。
わたしはこの著者の小説もおもしろそうなので時間があったら読んでみようと思います。

それではまた!

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