「自分ひとりの部屋」ヴァージニア・ウルフの感想
ヴァージニア・ウルフの「自分ひとりの部屋」を読了しました。
非常に素晴らしい読書体験になりましたので感想を書かせて頂きます。
まずこれは一九二九年にケンブリッジ大学でウルフが行った「女性と小説」という講演をもとにして書かれた随筆です。時期的には、「ダロウェイ夫人」と「灯台へ」で小説家としての地位を確立し、ウルフが最も作家として充実していた時期です。
またフェミニズム運動としては、婦人参政権が一九一九年に成立したものの、それが逆に戦前の家父長制時代の価値観への回帰を刺激し、「女は家にいて飯を炊いて掃除洗濯子育て。芸術に口出すな!」みたいな風潮がむしろ高まっていたそうです。そういう時期にケンブリッジ大学で行われた講義がこれで、ウルフは「自分の部屋とお金を持て」と主張するわけです。
この随筆の中では、大学で瞑想にふけったり、大英博物館で過去の資料を漁って、歴史的に芸術において女性が置かれている立場の厳しさについて追及します。様々な疑問が彼女の頭に浮かんで追い続けます。
例えば、次のような一文があります。
これはマクベス夫人、ロザリンド、アンナ・カレーニナ、エマ・ボヴァリーなど、男性が書いた小説の中での女性は要人なのに、現実には軽んじられていることを意味しています。それはなぜかと問い続けるのです。
あるいは、シェイクスピアにジュディスという名前の妹がいたと仮定したりもします。シェイクスピアはグラマースクールに通い、勉強したあと外の世界に出て役者となりさまざまな人と会い、貴重な経験を積みます。一方、妹のジュディスは学校にも通わせてもらえず、兄と同じように才能と冒険心と好奇心あふれる女性だったにもか変わらず、家にとじこめられ裁縫や料理ばかりやらされて、外の世界に出ても相手にされず悲観して自害します。
モームの世界十大小説にあがる名作「高慢と偏見」(わたしは未読です)のジェイン・オースティンについての記述も意外でした。ジェインは一八世紀の作家ですが、もちろん「自分の部屋」などなく、女が芸術など!という時代ですので、隠れて書いていたそうです(甥の言葉)。
そして、シャーロット・ブロンテも登場し、「エマ」「嵐が丘」「ジェインエア」「ミドルマーチ」等々の作品は、堅実な牧師の家でつめる程度の人生経験で書かれたこと、自分の部屋がないので皆がいる部屋で隠すように書いていたこと、自分の小遣いが限られているので、最低限の紙を買って書いていたこと、などを知ります。信じられないですね。そんな状況で小説を書くなんて今の時代では考えられません。
さらに女性の文章と男性の文章は異なるため、女性がバルザックの文章を真似ようとしても失敗すること、そのあたりから両性具有の話も出てきます。長くなるのででここでは割愛します。
結論から言えば、女性が小説を書くなら「自分の部屋と金」を持て、ということになるのですが、その主張自体は既に時代遅れですのであまり重要ではありません。この本の素晴らしいところは、前述したような女性の文学の系譜をウルフの深く果てしなく広がる瞑想(このあたりはいわゆる小説の「意識の流れ」と同じですが読みやすいです)によって美しく語られるところです。
この本のなかでわたしが一番気に入った一説を引用しましょう。
つまり、歴史も何もない中に突然傑作が生まれることなく、長い歴史を経て、先人の作品を踏んで、いわば歴史の作家全員が一体となって生み出されるということです。逆に言えば、過去の作品を読んで勉強しないのに書けるわけがないということです。
「すべての女性はアフラ・ベーン(英国初の劇作家)の墓に花束を撒くべき」とウルフは言いますが、彼女の気持ちはその一言に集約されています。
最後にこの本を買うなら紙の本よりも電子書籍をオススメします。なぜなら訳注が極めてよくできていて、なんと本の四割を占めており(訳注読むだけでも文学史の勉強になります)、頻出する作家名や作品名、引用について丁寧に説明してあるのですが、電子書籍だと簡単に確認できるためです。紙の本だとページをめくる必要がありますからね。
以上、今回はウルフの「自分ひとりの部屋」の感想でした。
長文失礼しました。