見出し画像

[ 穴穴家電(その4)]~創作大賞2024応募作品

           四 

 

 鴉がいつ頃から気になりだしたのか。少なくとも数日前とか数週間前とかごく最近のことではない。二、三ヶ月、いや半年、記憶を遡るに従って最初は着色されていた様々な景色が次第に色を失い景色の数もひとつひとつ消えていって最後にぼんやりとした灰色の渦巻きだけが残る。それ以上は追いかけても追いかけても景色は変わらない。ひたすら灰色の渦巻きが続いているだけ。わたしはその渦の中心をひたひたと歩くだけで進んでいるのか下がっているのかさえわからなくなってしまう。埒があかないのでそれ以上追いかけるのはやめることにした。だから鴉が気になったのがいつ頃からか、なぜ気になるのか、さっぱりわからない。

 鴉、鴉というからさぞかしわたしの住むマンションの界隈には鴉が多いのだろうと思われるかもしれないがそうではない。むしろ住宅地には珍しいくらいこの辺りは鴉が少ない。早朝、特にゴミ収集の朝は空も屋根も路地も鴉一色に染まり、かあかあなどとのどかな鳴き声ではなく猛獣のような声があちらこちらから上がって住民が恐怖すら覚える街もあると聞くが、ここは実に静かなものである。暇つぶしに窓から首を出しているとたまに一羽、二羽、空を横切るのを見かけたり、屋根にぽつんととまっている鴉を見かけるくらいだ。ましてや住民が鴉につつかれたなどという物騒な話は聞いたことがない。にもかかわらず絶えず鴉がつきまとっているような気がするのはなぜだろう。朝必ず鴉の声で目覚めるのはなぜだろう。別に彼らがわたしに危害を及ぼしているわけではない。そもそもわたし自身、鴉を疎ましく思っているわけでもない。ただ鴉にずっと見られているような気がしてならない。気になって仕方がないのである。その理由をずっと見出せないでいる。

 午後六時。丁度日が暮れたところだ。照明のスイッチを入れるのが面倒で真っ暗な居間の床にぼんやりと座り込んでいると、閉め切った窓ガラスからカーテン越しに街灯の薄灯りが差し込んできた。壁にかかった絵が少し揺れる。何の絵か忘れてしまった。大型テレビの歪んだ黒い画面にわたしの顔がかすかに映し出されているが、その顔も少し揺れている。テレビの上には写真立てが伏せてある。何の写真か覚えていない。床の片隅には相変わらず一度も使っていない例の電子レンジ。腹がきゅうっと鳴る。あれから何も食べていない。といっても何時に部屋に戻ってきたのかさえ覚えていない。〈鉄砲玉〉の死に様が強烈過ぎて、何時にどうやってどういう道筋で帰ってきたのかまるで覚えていないのである。だが、相当な空腹感だ。今朝店に入ったのは早朝。この空腹感から察するにあれから今まで何も食っていないのだろう。

 何か食うか。わたしはゆっくりと立ち上がった。冷蔵庫には何もない。買出しに出かけなくてはならない。今朝と同じパターンだ。同じことを繰り返している。いい加減面倒になる。食わなくても生きていける身体にならんものかなといつも思うのだが、科学や医学がいかに発達しようとわたしの存命中に実現することはないだろう。ということは永遠にこの繰り返しが続くのか。ふうとため息をついて玄関に向かいながら思った。どうせなら同じ手順を繰り返そう。新しい手順を踏むのは考えるだけ面倒だ。鉄の扉を開けると廊下の手すりに鴉がとまっている。いつのまにこのような至近距離に近づくようになったのか。近づいたとはいっても鴉の素振りは変わらない。いつものようにじっとこちらを見ている。何でもお見通しなんだぜ、鴉がそう言っている。むかっ腹が立つが、どこかうしろめたさがあって強気になれない。鴉の視線を避けるように廊下を走る。路地に出る。例の店に向かう。本日二度目。堀部のオヤジはさぞ喜ぶことだろう。

 気がつくといつもの席に座っていた、常連客もいつもの顔ぶれ。〈鉄砲玉〉は当然いない。おかしなもので常連席が空だとそこからすきま風が入ってくるようで妙な寂しさを覚える。たった二度ほど顔をあわせただけなのに人間とは不思議なものだ。いつもあるところにいつもあるものがないと言い知れぬ不安に襲われる。

 その他の常連客は相変わらずだ。この店と店の外では時間の流れが違うらしい。店の中の様子は今朝とまるで変わらない。ただ〈鉄砲玉〉が流した大量の血はきれいに洗い流されている。〈鉄砲玉〉の死体も丼茶碗もない。堀部のオヤジは後片付けに大変だっただろう。床も壁も血だらけ。なんといっても客のひとりがこの場で壮絶死を遂げたわけだから警察の事情聴取や現場検証など大騒ぎだったに違いない。堀部のオヤジの心中を察して余りある。と思いながらオヤジを見てがっかりした。いや呆れた。極めて穏やかににこやかに金銀コンビと談笑している。ときどき腹を片手で押さえながら大笑いさえする始末だ。まったくどういう神経をしているのか。常連客も堀部のオヤジも。右を見ると〈るうずべるとさん〉がきゅきゅきゅとやっている。見慣れた光景。

「オヤジ」わたしはげらげら笑い転げている堀部のオヤジを叱るように呼びつけた。「いつものやつだよ」

「へええい」オヤジは踊るように冷蔵庫からビールを取り出すと冷えたグラスと一緒にわたしの目の前に置いた。「秋刀魚の塩焼き、すぐできますからね」

 グラス何杯分のビールを一気に胃に流し込みながらわたしは考えた。おかしい。今日の今日である。今朝人がここでひとり死んだのである。しかも尋常な死に方じゃない。〈鉄砲玉〉の異様な死に様から察するに刺されたか撃たれたか、喧嘩か出入りか強盗か、とにかく道で転んでするような怪我じゃない。警察の取調べはかなり大掛かりなものになったはずだ。ここは死体の第一発見者がいる現場なのだから当然念入りな調査が行なわれる。みんな何食わぬ顔で飲み食いしているが、そもそも今ごろ通常通り営業しているほうがおかしいのである。それにあの大量の血はどこにいったのか。堀部のオヤジは相当念入りに掃除をしたのだろうが、床だけじゃない、壁も椅子もテーブルも血だらけだった。ところが今見渡しても壁に血痕ひとつ見当たらない。そんなに完璧に洗浄出来るものだろうか。大体、〈鴎外先生〉にせよ、〈椿姫〉にせよ、〈るうずべるとさん〉にせよ、いつもどおりいつもの場所で平然としているが、普通は気持ち悪くなってしばらく店に立ち寄らなくなるものじゃないだろうか。彼らの様子を見ているとまるで何事もなかったかのように見える。気にしているわたしが異常なのかと錯覚してしまう。いや錯覚ではなく本当にそうなのか。わたしは夢でも見ていたのか。

 自分がおかしくなっているのかもしれないという発想に到達してわたしは吐き気がした。堀部のオヤジや〈るうずべるとさん〉、〈椿姫〉の横顔、すべての景色が今にも崩れ落ちそうに思えた。誰でも自分が正気であるという前提のもとで生きている。自分は狂っているのかもしれないと思い始めたら、すべての世界が成り立たなくなる。太陽も星も空もみんな落ちてしまう。確認しなければならない。そうしなければわたしの存在が危うくなる。

「〈るうずべるとさん〉」片足を失った初老の男に声をかけた。「お聞きしたいことがあるんですが」声が震える。

「はい、何でしょう」

「け、今朝のことなんですが」

「今朝のこと? 何でしょうか」〈るうずべるとさん〉が怪訝そうに首をわずかにひねる。

 鼓動が早まる。やはり〈るうずべるとさん〉は今朝のことを知らないのだろうか。

「て、〈鉄砲玉〉さんのことですよ」

「〈鉄砲玉〉さん?」〈るうずべるとさん〉の杯を持った手が止まった。天を仰ぎ、何度も首をひねる仕草を繰り返す。「〈鉄砲玉〉さんのことねえ」と今度はうつむいてむむむと唸り声を上げ始めた。と急に思い当たったのか膝を叩いた。いや正確にいうと無い左足の膝を叩こうとして空を切った左手が椅子に当たった。鈍い音がした。

「いててて。はいはい、思い出しました」

「思い出しましたか」

「〈鉄砲玉〉さんが死んだ件ですな」

「そうですそうです」わたしはほっと胸をなでおろした。夢ではない。事実だったのだ。

「それがなにか」

「はあ?」

 わたしは〈るうずべるとさん〉の横顔をぽかんと見つめた。

「なにかって、〈鉄砲玉〉さんがああいう死に方をして、それで……」

「それで」

「いや、だから、その、あの」

「何か気になることでもあるんですか」〈るうずべるとさん〉は真剣だ。なんでそんな質問をするのかわからないといった表情が横顔にありありと出ている。気がつくと堀部のオヤジも不思議そうな顔をしてこちらを見ている。

「そりゃ、気になるでしょう。気になるのが普通でしょう。血だるまになってこの店で死んだんですよ。それもつい今朝の話なんですよ。あれは普通の死に方じゃない。きっと刺されたか鉄砲で撃たれたか。とにかくまともじゃない。この店も大変だったでしょうに」


 わたしは堀部のオヤジに救いを求めた。

「全然大変じゃなかったですよ。まあ掃除は手間でしたが」とオヤジ。

「何を言ってるんです」必死のわたし。「人がひとりここで死んだんですよ。あの死に方じゃあ、きっと殺されたんですよ。なのに気にならないんですか」

「別に気になりませんが」と〈るうずべるとさん〉。

「別に気になりませんよ」と堀部のオヤジ。

 椅子から転げ落ちそうになるのを何とか踏ん張る。息を整えて改めてふたりを交互に見ながら「本当に気にならないんですか」

「はい」ふたりは同時に首を縦に振った。頭にかあっと上った血が足首まで急降下していくのがわかった。

「はあ、そうですか。気になりませんか。はあそうですか」

「死ぬことがそんなに珍しいんですか」堀部のオヤジがおしぼりを差し出した。わたしの額の汗に気づいたのだろう。

「いや、そういうわけじゃないけど……。死に方があまりに酷かったもんだから」

「死に方ねえ。そりゃあ、人それぞれですからねえ。そんなに酷かったですかねえ。わたしは昔電車の飛び込み自殺をもろに見たことがありますが、あちらのほうがよほど酷かったですよ。バラバラ、ぐちゃぐちゃっと」オヤジがそのときの擬音を身振り手振りで説明しようとする。「なんていうか、あ、そうそう、ひき肉ですな、あれは」

「あ、もういいよ、オヤジ。わかったから」

 わたしは気分が悪くなった。

「そうですか。じゃあこのへんでやめておきましょう」オヤジは物足りなさそうにカウンターの奥に引っ込んだ。

 この人たちと話しているとこっちが変になる。おしぼりで額の汗を拭う。これ以上〈鉄砲玉〉の件を追及するのはやめよう。〈鉄砲玉〉は今朝死んだ。妄想ではなく事実だったことが確認できただけで目的は達したのだ。

「あれ、まただわ」いつの間に目を覚ましていたのか〈椿姫〉が小さく呟いた。テーブルに張り付いた横顔が白く光る。黒い瞳に〈るうずべるとさん〉が映っている。「また無くなってる」

「え」わたしは〈るうずべるとさん〉を見た。思わずあっと声を上げる。

 〈るうずべるとさん〉の左腕が無くなっていた。スーツの袖が左肩からぶらりと真下に垂れ下がって揺れている。確かに先ほどまではあったはずだ。左手に徳利、右手に杯というお決まりのポーズを覚えている。いつのまに……。

 当の本人は気づいているのかいないのか、右手一本で酒を飲んでいる。顔色ひとつ変わっていない。

「る、〈るうずべるとさん〉、あの……」

「なんですか」

「左腕が……」

 〈るうずべるとさん〉が四十五度首を回して自分の左肩を見た。一瞬驚きの表情が浮かんだが、すぐ元の表情に戻り「やれやれ」とため息をついた。杯をテーブルに置くと右手で左肩をさするような仕草をした。「徳利が持てないじゃないか」とぼやく。

 そういう問題じゃないだろう、と言いかけてやめた。どんな返事がかえってくるか大方の見当はつく。

「だんだん早くなってくるなあ」〈るうずべるとさん〉は寂しそうに呟いた。

「早くなるって」声をかけずにいられなかった。〈るうずべるとさん〉が何かを無くすと必ず妙な恐怖感に襲われ全身に悪寒が走る。気持ちを静めるには話をするのが一番だ。

「無くなる間隔ですよ。昨日は足、今朝は口、今度は腕でしょう。前はこんなにとんとん拍子に無くなることはなかったんです。ひと月にひとつとかでね。それが最近は段々早くなってきてねえ。一日にふたつも無くすなんて。しかも左腕ってのは不自由ですなあ。左足がないから杖を買ったのにこれじゃあ杖もつけやしない」〈るうずべるとさん〉がさすがに困ったような顔をした。

「一体これまでどれくらい落し物をしたんですか」恐る恐る聞いてみる。

 〈るうずべるとさん〉が顔を向けた。底の見えない右目の暗い空洞はそのままだ。眼帯くらいすれば良いのに。わたしは正視できずに目をそらしグラスをあおった。

「よく覚えていないんですがね。最初は右足の親指だったかな。多分半年、いや一年くらい前のことです。ある朝目覚めて洗面所に行こうと立ち上がったらつるんとこけてしまって。足元を見たら親指が無くなってたんですよ。足の親指ってのは結構大事でね。歩くときに体重がかかるもんだから、無いととても歩きにくいんです。慣れるのに時間がかかりました。それからしばらくは何事もなかったのですが、今度は右手の小指がなくなりましてね。まあ小指はなくてもどうってことはないのですがね。それから右の耳。これも慣れるのに随分苦労しました」

 そう言って〈るうずべるとさん〉は白髪だらけの髪をかきあげ右耳を見せてくれた。ぱさつき黒ずんだ皮膚に小さな穴が開いていた。

「聞こえにくくてねえ、耳たぶが無いと。人間の部品ってのはうまくできてるもんだなとつくづく思いましたよ。あとは何でしたかなあ……無くなるのは大きな部品だけじゃないんですよ。眉毛とか爪とか指紋なんかも無くなりました。あ、乳首やへそなんかも。もっともこういう細かい部品は無くしたことになかなか気づかないんですがね。そうそう、忘れてた。小さな部品いうか大きな部品というか微妙なんですが、恥ずかしながらナニも今はありません。ちょっとお見せできませんがね」〈るうずべるとさん〉は股間を指差した。

「はあ、ナニですか」こういうときは返答に困る。

「まあもういい歳ですからあちらのほうはどうでもいいんですが、用を足せるのかとそれが心配でねえ。でも不思議と慣れると何とかなるものです。想像していたほど不自由はしませんでした。たださっきも言いましたように、ひと月にひとつとか短くても一週間にひとつのペースだったんですが、ここに来て毎日何か無くしてますからね。さすがに足が無くなったときは困りましたよ」

「このままじゃ……」

「今度は左腕。このペースだと。明日あたりかな」〈るうずべるとさん〉は天井を見上げた。どんよりと濁ってはいるがいまだ健在の左の眼球がぐらりと動く。

「明日あたりって……」このまま進めばどうなるのか、それが知りたかった。

「消えるってことよ」背後から声がした。〈椿姫〉である。背筋が総毛だった。振り返ると〈椿姫〉の瞳がぞっとするような悲しみをたたえていた。その視線の先にあるのは意外にも〈るうずべるとさん〉ではなかった。わたしだった。なぜわたしを見るのか。彼女の視線を振り払うように〈るうずべるとさん〉に顔を向ける。

「……」

「そうですな。いよいよというわけです」〈るうずべるとさん〉が笑った。凄惨な笑顔だった。正面から見たその表情はとても正視に耐えるものではない。実験室の骸骨を見るほうがまだましである。くくくと小さく笑いながら正面を向く。杯を口元に運ぶ。だがその杯は唇に触れることなく垂直に落下した。床を直撃し鈍い音を立てて粉々に割れた。

 最初は何が起きたかわからなかった。おそらく〈椿姫〉も〈るうずべるとさん〉自身も同じだったろう。しかしごく数秒間の沈黙を挟んで大きな笑い声が店内に鳴り響いた。〈鴎外先生〉となにやら話し込んでいた堀部のオヤジも、雑音をまき散らしている金銀夫婦もみな笑い声の主を探した。

 笑い声の主である〈るうずべるとさん〉は、空っぽの口腔を裂けんばかりに開けて椅子にのけぞり肩を揺らして大笑いを続けていた。一斉に彼に集中した視線はすぐにすべてを理解した。わたしも〈椿姫〉も事態を理解した。

 ――今度は〈るうずべるとさん〉の右腕が消えていた。支えを失い砕け散った杯が床に散っていた。

 堀部のオヤジがゆっくりと近づいてきた。笑いが止まらない〈るうずべるとさん〉の両肩を軽く揺すると新しい杯を用意し酒を注ぎ彼の口元に運んだ。笑い声がとまった。〈るうずべるとさん〉は堀部のオヤジをしばらく見つめると「ありがとう」と呟いて杯をなめるようにすすった。「これが最後の酒だね」そう言って杯を見つめる〈るうずべるとさん〉の左目はこれまでになく暗く虚ろだった。

「すみませんが」堀部のオヤジの声がした。「もしもし、すみません」思わぬ事態に茫然自失の状態だったわたしは最初誰に声をかけているのかわからなかったが、堀部のオヤジが肩をぽんと叩いたので、話しかけている相手がわたしであることを了解した。

「〈るうずべるとさん〉を家まで送っていってあげてくれませんか」堀部のオヤジが申し訳なさそうに言った。

 そりゃそうだ。〈るうずべるとさん〉に残された四肢は右足だけ。これでは酒を飲むどころか、身動きひとつとれない。歩くことも這って帰ることもできない。誰かが家まで連れて行かなければどうしようもない。もちろん背中におぶっていかなければならない。常連客を見る限りわたしが適任だろう。〈るうずべるとさん〉とはたくさん話をしたし、妙な共感さえ覚える相手だった。堀部のオヤジに言われなくても、そうしていただろう。彼をおぶって家に連れて帰りたい。彼を家に帰してあげたい。そんな衝動に駆られた。

「わかりました。今すぐ出ましょう。さあ〈るうずべるとさん〉、わたしの背中に」わたしはしゃがみこんで〈るうずべるとさん〉を背負った。相手の両手がないので非常に背負いづらい。堀部のオヤジがどこからか細手のロープを用意してきた。ロープでずり落ちないように〈るうずべるとさん〉の体とわたしの身体を縛りつけようやく安定した。〈るうずべるとさん〉が力なく「悪いね」と言った。

 立ち上がると〈るうずべるとさん〉の身体は子供のように軽かった。老齢ということもあるが、手足を失うとこれほど人間の身体は軽くなるのかと思わず胸が締め付けられるように痛んだ。そのまま暖簾をくぐり廊下を通って店の外に出る。玄関までついてきた堀部のオヤジの「頼んだよ」という声が冷えた夜の外気を震わせた。

 何時だろうか。慌てて部屋を出てきたせいか腕時計を忘れてきたので時間がわからない。だがさほど長い時間店にいた覚えはないからまだ宵の口のはずだ。しかし通りにはまるで人の気配がない。街灯に弱々しく照らし出された路地がのっぺりと横たわっているだけだ。〈るうずべるとさん〉が耳元で自宅への道順をささやく。店からさほど遠くないマンションに住んでいるらしい。わたしは黙々と歩いた。荷物は軽いが、足取りは重い。とてつもなく憂鬱だ。相変わらず理由の知れない恐怖感が蔦が足首をからめとるように尾を引いている。

 数分歩いたところで「その交差点を右です。もうすぐですから」と〈るうずべるとさん〉が弱々しくささやいた。大丈夫だろうか。先ほどまで酒をしたたか飲んでいたときの陽気さはまるで感じられない。まるで死人のようにかぼそく抑揚の無い声色である。

 交差点に来てわたしは思わず立ち止まった。おかしい。なにやらとんでもなく不思議な感覚がわたしを襲った。見覚えのある交差点。ここまでの道順、これからの道順。信号機の黄色い点滅。この信号機は夜になると黄色の点滅に切り替わる。よく知っている信号機。いつもの信号機。

「この交差点を右ですか」わたしはもう一度確認した。

「はい、もうすぐそこです」マンションの三階に住んでいるという。マンションの三階? 交差点を右? 〈るうずべるとさん〉は交差点を曲がった後の道順をささやいた。交差点で立ち止まったまま身体が硬直する。首筋は汗でぐっしょり濡れている。冷たい汗が止まらない。この道順は……。見慣れたこの道は……。

 交差点から一歩が踏み出せない。ここから先は進んではいけない領域のような気がする。覗いてはいけない深淵。超えてはならない一線。今立っているこの交差点はその境目のような気がするのだ。

「ううう」〈るうずべるとさん〉が苦しそうに唸った。わたしは首を回して背負った〈るうずべるとさん〉の顔を見たが暗くて表情が確認できない。具合が悪いのだろうか。だとすれば急がなければならない。だが金縛りにあったように交差点から一歩も動けない。

「ううう」〈るうずべるとさん〉がまたうめき声をあげた。心なしか背負っている重さがまた軽くなったような気がしてわたしは嫌な予感に襲われた。

「〈るうずべるとさん〉!」わたしは後ろに回した手で〈るうずべるとさん〉の足元を探った。肉感のない薄い服飾生地の感触だけが手に残った。無い。最後に残っていた右足もなくなっている。それだけではない。背中にかかる荷重はさらに減り続けているではないか。首をひねるだけひねって〈るうずべるとさん〉の身体を確認する。顔をわたしの背中につけたまま小さなうめき声をあげている。落し物はまだ続いているのだ。四肢を無くしながらも依然何かが〈るうずべるとさん〉の中から消えつつある。凄い勢いで荷重が減っていく。何が起きているんだ。どうすればいいんだ。わたしの心臓が今にも血を吹きそうなほど激しく脈打っている。〈るうずべるとさん〉が……。〈るうずべるとさん〉が……。

 うめき声が途絶えた。と同時に〈るうずべるとさん〉とわたしを繋ぎとめていたロープがふっと緩み足元に落ちた。背中の荷重が消えた。先ほどまで背中に感じていた息遣いも消えた。わたしはふらつきながらゆっくりと後ろを向いた。薄闇に路地が細く伸びているだけだった。うつむくと足元だけを街灯が明るく照らし出していた。地面に落ちたロープが不規則な楕円形を作り、楕円の中央の土がわずかに濡れて黒く光っていた。

 わたしにはその染みが〈るうずべるとさん〉の涙のように思えた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?