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[ 穴穴家電(その3)]~創作大賞2024応募作品

            三


 鴉の鳴き声で目が覚めた。毎朝のことである。割れんばかりに雨が窓硝子を叩く土砂降りの朝も、突風でバルコニーのポリバケツや物干し竿が暴れてけたたましい音をたてる朝も同じだ。窓を締め切ってカーテンを二重に下ろしていれば、じめじめした暗い部屋に一筋の朝陽も射しはしないが、鴉の声だけはいかなる騒音をもかいくぐって耳に届く。そうして目を覚まし枕もとの時計を見ると決まって針は六時半を指している。なぜ六時半なのか。この時刻に何か意味があるように思えるのだがどうしても答えが見つからない。しばらく布団の中でもぞもぞしながら考えてみるのだが駄目なのである。そのうち考えることに飽きて布団から抜け出し洗面所で顔を洗うのだが、その頃には「なぜ六時半なのか」という疑問すら忘れてしまっている。長い間洗濯していないためいたるところが染みだらけの寝巻き姿のままコーヒーを沸かし郵便受けから新聞を抜き取り小さな丸テーブルに投げ捨てるように置くと、コーヒーが沸くまでのつかのまの時間、居間の窓を開け放し首を出して外をぼんやり眺めるのが習慣だ。冬のこの時期、この時間、外はまだ薄暗く景色の判別は難しいが、そのままじっと見ていると景色が次第に輪郭をあらわにしてくる。その様子を見ているとまるで生き物のようだと思う。巨大な獣が瞼をゆっくりと開ける仕草に似ている。どうやら今日は晴れのようで空はこうしている間にも青く染まりつつあるが、本当に青いのかどうかわたしには自信がない。この数ヶ月、よどんだ水の中に棲んでいるがごとく視界がどんよりと曇っているからである。部屋は小さな賃貸マンションの三階にあるので窓から下の路地を見下ろせる。路地を見下ろすと丁度出勤の時間と見えて、住宅街であるこの界隈に住む働き手たちが駅に向かっていささか早い速度でぞろぞろと歩いていくのがわかるが、いくら目を凝らしてみても彼らの姿はぼんやりとしたままでようやく人であることがわかる程度にしか判別できない。そのくせ、目を上げてはるか遠くの電信柱を見ると、てっぺんにとまった一羽の鴉が翼をはためかせる姿は羽の震えまで見分けられるほどくっきりと見える。昨日の朝も一昨日の朝も同じ鴉を同じ場所で見たと断言出来るくらいに。鴉のほうもわたしのことを覚えているのか、じっとこちらを凝視している。ほんの数秒か、数分間か、数時間かわからない。その間時間は止まっている。いかほど時間が経ったのかわからないが突然身震いが起きて我に返る。寒空に寝巻き姿で窓から身を乗り出していたがゆえの震えではない。長い時間外を眺めていると何やら得体の知れない恐怖に襲われ不安になるのである。長居は禁物。コーヒーはもう沸いている。急いで窓を閉めテーブルに戻る。愛用のマグカップに注いだコーヒーをすすりながら新聞を手に取る。毎朝の決め事。

 昨日は奇妙な日だった。居間の片隅に裸のまま置かれた黒い電子レンジを見ながら思った。秋刀魚の塩焼きを食べて帰ろうと思ったのだが、揚げ出し豆腐、納豆まぐろと立て続けに注文し、最後の「締め」にてんぷらそばを食べる頃にはビール大瓶を一〇本近く空けており、相当酔いが回って店を出たのは夕方近い四時ごろだった。夕食の支度で買い物に出かける主婦軍団と出くわすのが恐ろしかったが、酔っているために意外と大胆不敵に行動できて、そのせいか見つからずに済んだものの意外な長居をしてしまった。そそくさと引き上げるつもりだったのに、帰る素振りを見せると堀部のオヤジがしょぼくれた寂しそうな目で引き止めるので、まるで子犬を捨てに行ったものの非情に徹しきれずその場をなかなか立ち去れないでいる飼い主と同じ状態となり結局四時間も過ごしてしまったのだ。だが本音をいうと、妙に居心地が良かったというのもある。〈るうずべるとさん〉を除けば常連さんとほとんど言葉を交わすことはなかったが、他人をまるで気にしない彼らの振る舞いがかえって心地よく、慣れるに従って彼らを気にしなくなっていったわたし自身も気持ちよく、ただ席に座ってビールを飲み酒の肴を食することだけで時間を消費していくという行為が当初の居心地の悪さから快感に変わっていくのがはっきりと自覚できたのだった。まるで「穴穴家電」、いや「穴穴酒処」というあの小さな店内の空間だけが、切り絵のように周囲の風景からくりぬかれ、住宅展示場のショーケースに収まった縮小模型のごとく平穏で安全な居場所に居るかのような心地よい安堵感がじわりじわりと胸に染みていくのが実に快感だったのである。

 そんなこんなでビールだけとはいえ店を出る頃には相当酔っ払ってしまっていたわたしは、部屋に戻ると無性に眠くなり抱えてきた電子レンジを床に置くなり眠ってしまい、そのまま夕食もとらずに朝を迎えた次第である。本来キッチンにあるべき電子レンジが無造作に居間の片隅に置かれているのはそういう理由による。

 かれこれ十二時間以上も眠ってしまったのか。腹が空いている道理である。コーヒーを空きっ腹に流しこむと傷口に熱いお湯をかけたように胃がうずく。かといって朝食をとらない習慣が身についているわたしの部屋にパンなどあるわけもなく、冷蔵庫には酒類以外、雑魚一匹入ってはいない。さてどうするか。昨日夕食をとらずに眠りこけてしまったのが悔やまれる。このまま昼まで我慢するのはどうやら無理のようだ。少々面倒だが、朝飯を食いに出かけるか。時計を見るとかれこれ七時過ぎになる。この時間では飲食店といっても喫茶店くらいしか開いていないだろう。近所に喫茶店は思い当たらない。仕方がない。駅の売店でパンでも買ってくるか。わたしはシャツ、ジーパン、冬物ジャンパーといういつもの服装に着替えると、外に出た。廊下からは背の低い民家が数件並んでいるのが見下ろせる。屋根の鴉がふとこちらを振り向いたような気がした。いつものやつだ。わたしは逃げるようにマンションの階段を駆け下りて路地に出た。さすがにこの時間、恐怖の主婦軍団はいない。旦那様を送り出した後の二度寝を決め込んでいるか、子供の朝飯の準備に忙しいか、いずれにしても恐ろしい思いをしなくて済むのだから結構なことだ。路地を兵隊さんの行進のように規則正しく歩くサラリーマンたちの陰に隠れるようにしてわたしは駅の方角に向かった。

 しかし道半ばで妙なことを思いついた。ここまでは「穴穴家電」にいたる道と同じである。今いる交差点を右折すれば駅。左折すれば穴穴。わたしは交差点で立ち止まり考え込んだ。まさか……こんな早朝に……電器屋さんが……いや居酒屋さんが……。

「開いているわけないじゃないか」と呟いてみたものの、どうも胃の中に異物がしこまれたように胸元がすっきりしない。何せあの奇天烈なお店である。万が一ということもある。しかもここから穴穴まではわずかな道のりなのだ。だがおかしなもので、昨日かの店で秋刀魚の塩焼きを注文したあたりまでは、こんなばかばかしい店二度と来るものかと固く心に決めていたのだ。それが翌日、こんな早朝、酒処としては開店しているはずもないような時間に一応覗くだけ覗いてみようかという気になっている。見たいような見たくないような、行ったほうが良いような良くないような、何かに手をつけながら途中で投げ出すときの後味の悪さ、一方で変なものには関わらないほうが良いという心の声も聞こえてきて、実に中途半端で宙に浮いたような嫌な感じなのである。このままこの気分の悪さに無視を決め込んでぞろぞろ行進するサラリーマンたちと共に駅の売店に向かうのは難しいように思えたので、わたしはとりあえずかの店の様子を見に行ってみようと決心した。まあ、まず開いているわけがないのであって、閉まっているのを確認すれば、すっきりした気分で売店に行ける。そうやって食った朝飯のほうが気分がすっきりしてはるかに美味いだろうし、時間にしてさほど無駄にするわけでもないのだから良いではないか、そういう風に自分を説得した。

 さてわたしは交差点を左折し昨日と同じ道筋を早歩きで進み、例の小さな路地に出た。昨日は忍者もどきのわたしであったが、早朝の今は周りを気にする必要はない。「穴穴家電」に向かって堂々と歩を進めた。店として当然備えているべき雰囲気が完璧に欠けているので、注意していてもやはり行き過ぎてしまいそうになるのだが、経験というものはさすがに頼りになるもので数歩行き過ぎたところで踏みとどまることができた。そのまま後ろ向きに路地を数歩戻ると例の一軒家が姿を表した。扉は閉まっている。さすがにこの時間では店は開いていないようだ。

 わたしは思わず肩を落とした。ということに気がついて、肩をぐぐぐと無理矢理持ち上げた。余りに両肩に力を入れすぎて、先生に「気を付け!」と号令をかけられた小学生のような直立不動の姿勢になる。店が閉まっていてなぜわたしが肩を落とさなければならんのか。そんな理不尽かつ不合理かつ不条理なことはない。第一、「万が一」などとひそかに期待していた自分に腹が立つ。あんな奇妙奇天烈な店に惹かれた自分が悔しい。しかし精一杯力を入れて支えていても肩はすぐに落ちてしまう。やはり自分はがっかりしているのだということを自覚してさらに落ち込んだわたしは、力なくその場を立ち去ろうとした、そのときである。

「おやまあ、〈からすうたまろ〉さんじゃございませんか。おはようございます」堀部のオヤジの声だ。先ほどまで閉まっていた扉が開いている。わたしを見つけてよほどうれしいのか満面の笑みを浮かべながら手招きしている。家の中からかすかに「穴穴――」という例のテーマ音楽が聞こえてくる。さすがに早朝ということで音量を絞っているのか小さな音だ。「どうぞ、どうぞ。昨日といい今日といい、開店の時間を狙ったかのように来られますね。勘が鋭いというか、四画四面というか」

「単に通りかかっただけだ。ちょっと腹が減ったので駅の売店に菓子パンを買いに行くところさ。大体開店ってなんだよ。まだ七時半だぜ」わたしは路地に立ち止まったまま腕組みして言った。冷静さを装う。胸の高鳴りを悟られないようにするのは骨が折れる。

「だから七時半開店なんで……。菓子パンなんておよしなさいな。朝はちゃんと食べないと元気な一日は送れませんよ」堀部のオヤジは扉を開けっ放したまま、昨日と同じように手招きを続ける。「何だいそりゃあ」わたしの足は無意識のうちにオヤジの方向に歩き出していた。こうなったら止まらない。「昨日は一〇時開店だったじゃないか。今日は七時半かい」

「開店時刻は適当なんですよ。あえて言うならお客様が来られたときが開店時刻ですかねえ。どうです、客商売の鑑だと思いませんか」オヤジは自慢げだ。

「まあいいや。何か食わせてもらおうか」わたしはオヤジの前を通り過ぎ家の中に入った。背後で扉の閉まる音がした。穴穴のテーマ曲の音量が急に大きくなった。家電が置いてある部屋に灯りがついていないため、すっかり夜が明けているのに薄暗いままの廊下をまっすぐに進むと「穴穴酒処」の暖簾が見えてきた。暖簾の向こうから明るい光が漏れてくる。わたしは何だかうれしくなって暖簾を「あいよ」ってな感じで颯爽とくぐった。

 思わず目を疑った。目の前に昨日と寸分違わぬ光景が展開されていたのだ。暖簾をくぐった先、目の前の席には〈るうずべるとさん〉、その右横に金銀の夫婦コンビ、左には一席おいて〈椿姫〉が酔いつぶれていて、奥の席には〈鴎外先生〉が巨大な本を読みふけっている。ただ違うのは〈鉄砲玉〉がいないことだけだ。後ろからついてきたはずの堀部のオヤジさえいつのまにかカウンターの中に立っていてあたかもずっとそこで待っていたかのような顔をしてわたしに声をかける。「おっと、いらっしゃいませ、お客様」

 一体どうなっているのか。わたしは思わず左腕の腕時計を確認した。午前七時半。暦は間違いなく一日進んでいる。なのに店の中の風景は何一つ変わっていない。昨日ここで飲んで食べていた時の絵がそのまま持ち越されている。風景に切れ目がない。まるで昨日この店を出てから今までの時間が空間ごと切り取られたような感じだ。

 口をあんぐりと開けたままわたしは昨日と同じ席に座る。布地が擦り切れた安っぽい小さな椅子はわずかに左に傾き、その傾き加減さえ昨日席を立ったときとまるで変わっていないように見える。しかも座ってみるとまるで一〇年来通いつめた店の馴染みの椅子のように尻にしっくりくる。椅子だけではない。小さなカウンター、垣間見える厨房のコンロ、煙で焼けた天井、手入れの行き届かない薄汚れた壁、すべてに愛着を感じる。昨日初めてここを訪れたばかりだというのに、内臓に染みわたるようなこの懐かしさは一体何なのか。

「どうも」〈るうずべるとさん〉が、横顔を向けたまま挨拶した。左手に徳利、右手に杯。テーブルには空の徳利が何本も倒れている。お馴染みの風景。

「あ。お、おはようございます。み、みんな早いですね」呆気にとられているところに平素と何ら変わらない調子で声がかかったものだから、間の抜けた返事になってしまった。後悔しているところに「あんたまた来たの」と〈椿姫〉が毒づく。左頬は相変わらずカウンターにつけたまま、水晶玉のような目をぎょろぎょろさせている。いつも同じ姿勢で左頬はさぞ疲れることだろう。床ずれのような有様になっているのではないだろうか、と思いながら「オヤジ、いつもの」とこれまた間の抜けた言葉をオヤジにかけてしまい思い切り後悔する。

「あいよ。ビールに秋刀魚の塩焼きだね」堀部のオヤジは上機嫌だ。

「え。ビール?」

「いつものでしょ」

「まあそうだが朝からビールはちょっとその」

「朝からビールのどこがいけないんだい」

「いや、なんともうしろめたい気が」

「四角四面だねえ」

 堀部オヤジはニコニコしながら、わたしの意見など構わず目の前にグラスを置き、ビールをみちみちと注ぐ。こうみちみち注がれてはもう我慢ならない。わたしは抵抗を諦め、グラスを一気に飲み干した。冷たいビールを流し込んだ瞬間、空っぽの胃袋が大きな音をたてた。

「腹が相当減ってなさるんだねえ。ちょっと待ってくださいよ。しばらくこれでもつまんでおいてくださいな」堀部のオヤジが、目の前にお通しを置いた。何かの和え物のようだ。ようだ、というのはテーブルに置かれたと同時にたいらげてしまったからで、何を食べたかも忘れるほど本能的、瞬間的な行動をとっていたからである。胃袋の片隅に食材のかけらが居座って心なしか腹が落ち着いた。

「じゃあ二本でどうだ」

「三本ね」

「二本半じゃどうだ」

「二本四分の三本ね」

「ああ面倒くせえ」

 右隣から金さん銀さんのやりとりがいきなり耳に飛び込んだ。といっても今に始まったわけではなく、昨日もそうだがこのふたりはひっきりなしに何かしら大声で問答している。右を見ると〈るうずべるとさん〉がいない。彼が小用か何かで席を立ったために、これまで音を遮っていた障害物がなくなり、金銀夫婦の声量が増したのだろう。いうなればこれまでは〈るうずべるとさん〉が、衝立のような役割を果たしてくれていたのだ。それにしても奇妙な会話である。二本だ三本だと口から唾を飛ばしながら、いい歳をした男と女が熱論を交わしている。

「オヤジ。何なの、あの二本とか三本ってのは」あおるようにビールを飲みながらオヤジに話しかける。まったく朝一番のビールってのは死ぬほど美味い。

「それがわたしにもよくわからないんですよ。本と言っている日もあれば枚と言っている日もあるし、いつにするとか、どっちにするとか、とにかく朝から晩まで言い争いをしているんですよ」

「喧嘩をしているふうには見えないがね」

「そうなんですよね。わたしも店の中で喧嘩されちゃあ困りますんで最初は気にしていたんですが、肩を抱き合ってがははと笑ってみたり、おでこをくっつけてひそひそ話をしてみたり、仲の良い夫婦の図ってやつを散々見せつけられたもんで最近では放ったらかしです。心配するだけ損でした」堀部のオヤジが定番の品を目の前に置いた。秋刀魚の塩焼き。

「なるほど。まあいいや」金銀コンビのことなど一瞬にして忘れて秋刀魚に飛びつく。頭から攻めるか尾から攻めるか思案していると、こつこつと杖をつく音とぎごちない靴音がした。「よっこらしょ」と〈るうずべるとさん〉が席に座る。慣れない杖を使って一本足で歩くのは相当手間なようだ。

 秋刀魚は結局頭から食うことにした。何度か箸を運んだところで〈るうずべるとさん〉に目を向けた。身なりは昨日とまったく同じよれよれのスーツ姿。いつのまにか失った左足。横顔では見えないが、同じくいつのまにか失った右目。心なしか今日は昨日より弱々しく小さく見える。足を無くしたせいか。いいや違う。何か変な感じがする。秋刀魚をつついていたわたしの箸が止まった。背中を冷たい汗が数滴這う。

「〈るうずべるとさん〉、あの……」

「なんだね」声を聞いて疑問が確信に変わる。

「どうしたんですか、その声」

「ああ、声ね。聞き取りにくいだろう」〈るうずべるとさん〉の語り口にいかにもおかしくてたまらないという響きがにじむ。「確かに聞き取りにくいだろうねえ」

「なんだか顔が小さくなられたような、いや顎のあたりかな」

「なかなか鋭いお方だ。よく観察してなさる」くくくと笑いをかみ殺している。杯を一杯。

「口のあたりをどうかされたんですか」

「まあね。今朝起きたらねえ」くくく笑いがひひひ笑いに変わる。充分に「ため」を作ってから言った。「口の中が空っぽだったんですよ」

 不思議と驚きはなかった。意味がよくわからなかったからかもしれない。何かを無くしたには違いないのだろうが、一体何を無くしたのか、すぐには思いつかなかった。「口の中?」

「舌とね。歯茎ごと歯を持っていかれちまったんですよ。入れ歯をつくるったってあなた、そうすぐにはねえ。舌もないし、口から空気がすうすう漏れるんで、うまく発音できないんですよ。まったく困ったもんです」いかにもおかしそうに笑う。「おかげでつまみも食えやしない。まあ酒が飲めるからいいんですがね」

「相変わらずの馬鹿ね」ちらりと横目で覗くと〈椿姫〉が目をかっと見開いて〈るうずべるとさん〉を睨んでいる。その顔が一瞬赤く染まったがすぐに普段の青白さに戻り、わたしは呆れましたといわんばかりの顔をして目を閉じる。

「舌と歯ですか」そりゃ喋りにくいだろう、と思ったがわたしはあえて口に出さなかった。そもそもそんな問題ではないからだ。この五十をとうに過ぎたと思われる初老の男は一体何なのか。昨日は片足を無くした。その前は目を無くしたという。そして今日は舌と歯を無くした。身体の部品を破れたポケットから小銭を落とすみたいにこうもぽろぽろと無くすのはなぜなのか。しかも痛がる風でもなく惜しむ風でもない。無くなるのが当然だといわんばかりの自然体でちびちびと酒を飲んでいる。誰でも死ぬまで身体の部品すべてが完全無欠であることは不可能だが、〈るうずべるとさん〉のような失い方は異常だ。近所の派出所にでも行けば、目玉とか足の一本や二本、落とし物として届いているのではないかと思わせるような異様な日常性を感じる。そもそも毎日のように身体の一部を無くしていたらその先は一体どうなるのか。

「探さないんですか」わたしはくぐもった声で聞いてみた。

「探す? 歯茎をですか? 目玉をですか?」〈るうずべるとさん〉は驚いた様子でわたしを見た。暗い右の眼窩とは対照的に左目が怪しく光る。「そんなことをして何になるのでしょう」

「しかしこんな風に毎日どこかしら無くしているようではいずれ……」わたしは言葉をとめた。

「いずれ? いずれ何です」歯茎を無くしてだらしなく緩んだ口元からひゅうひゅう空気が漏れる。「いずれ、わたし自身が無くなると?」

 ほんの数秒ふたりの間に沈黙が訪れた。わたしは返事をしなかった。〈るうずべるとさん〉はしばらくわたしを見つめていたが、ゆっくりとカウンターに向き直ると話を始めた。

「いつからだったか、それさえも忘れてしまいそうになるのですが、わたしだって最初からこうだったわけではありません。温和な性格に見られますが、これでも結構短気で直情的でそのせいで損をしたこともありましたが、逆に成功したこともありました。生まれつきそそっかしかったせいか、忘れ物や落し物の類は多かったのですが、すぐ取り返しましたし、なかなか見つからないときも一生懸命探しました。そういうことって誰でもあるでしょう。忘れ物や落し物。ときには自分に過失がなくても相手の悪意で失うこともありますしね。盗まれたりして。でもちゃんと取り返してきた。まあ当たり前といえば当たり前なんですが、そうやってちゃんとやっていた時期もあったんです。でもいつだったかなあ。ううん、やっぱり時期は思い出せない。急にそういうのが面倒くさくなってしまって」

「そういうのって」

「落し物を探したり取り戻したりすることですよ。別に落としたものは落としたままでいいんじゃないかって。盗まれたものを取り返す必要はないんじゃないかって。そんなことにあくせくするよりも自然に楽に生きたほうがいいんじゃないかってね。何かそう考えるきっかけがあったはずなんですが、それも今となっては思い出せません」

 〈るうずべるとさん〉は笑っていた。その横顔が一層青白く見えた。柔和な顔をした早朝の幽霊といったところか。

「あなたのいうように、探せば落し物は見つかるかもしれない。でもたとえ見つかったとしてもわたしにどうしろというのです。目玉がなくても足がなくても歯がなくてもここでこうやって美味い酒を飲んでいる。そうやってわたしは幸せに過ごしている。ということはそれらの落し物は最初から不要だったということになりませんか」誰に喋っているのでもない。〈るうずべるとさん〉の目はカウンターの上の空間を見つめている。空気に対して彼は喋っている。「逆にあっても困るんですよ。使い手がなくてね。あるものは使わなければいかんでしょうが。かえって邪魔なんですよ」ふふふと笑う。

 わたしもいつのまにかカウンターの正面を向いていた。〈るうずべるとさん〉に言うべき言葉が見当たらなかった。別に彼の言うことに得心したわけではない。むしろ、何か反論しなければとずっと言葉を探していたのだった。だが途中で諦めた。彼の言うことに説得性があるかどうかは別問題として、わたしがどうこう言ったところでこの人を翻意させることは無理であることを悟ったからである。何事にも境界線というものがある。〈るうずべるとさん〉は境界線を越えてしまっていた。境界線を越えて相当遠くまで足を進めていた。もはや他人の手の届く場所ではない。

 なぜだろう、妙に胸元にこみあげてくるものを感じた。慌ててビールを喉に流し込みこみあげてきたものを押し戻す。空きっ腹にアルコールが効きすぎて胃が荒れたのだろうか。見るとビールが空だ。ビールをもう一本追加する。堀部のオヤジが何食わぬ顔でへいと応じる。

 水滴を光らせながらビールが到着。無言でグラスに注ぐ。そのとき背後で暖簾を擦る音がした。

「はいよ、いらっしゃいませ」オヤジが右手を上げる

「おうさ」背後で威勢の良い声がした。〈鉄砲玉〉である。

 しかし威勢の良い声と姿が釣り合わなかった。迷彩色の野球帽にカーキ色のジャンパーと装いは昨日とまったく変わらないが足取りが異様に重そうだ。壁に手をつきながら一歩一歩足をひきずるようにしてようやくいつもの席にたどりつき腰をおろすなり「ふう」とため息をついた。帽子を目深にかぶっているため表情が見えない。両肘をカウンターにつき手を組むと深呼吸をひとつして、うつむいたまま「オヤジ、いつものを頼むぜ」と低く呟いた。

 堀部のオヤジの丸い目がきらりと光った。「へい」と答えると、〈鉄砲玉〉に背を向け冷蔵庫から各種食材を取り出し忙しそうに手を動かし始める。〈鉄砲玉〉はうつむいたまま動かない。野球帽のつばで暗い影が落ちた顔面から口元がわずかにのぞいているが、少し歪んで見える。歯を食いしばっているのか。〈鉄砲玉〉を取り巻く空気が異様な緊張感で震えている。

 だが店内の他の連中はまるで気にしていない様子だ。金銀コンビは相変わらず騒々しいし、〈るうずべるとさん〉は喋り過ぎて疲れたのか杯を置いて居眠りをしている。〈椿姫〉は相変わらずわたしのほうに横顔を見せたまま眠っているし、奥の先生は本をひたすら読みふけっている。皆、〈鉄砲玉〉が入ってきたことにすら気づいていないかのようだ。

 こつんと音がした。〈鉄砲玉〉に気をとられて手元の割り箸を床に落としてしまった。わたしは腰をかがめて床を見た。さっと血の気が引いていく音が聞こえた。目の前が真っ赤に染まった。赤赤赤。相当量の赤い液体が店の入り口から〈鉄砲玉〉の足跡をたどるように筋を引いて続いているではないか。何箇所か大きな血だまりが出来ている。壁を見ると真っ赤な手形が数箇所。「オヤジ!」わたしはそう叫ぶと席を立ち、椅子に座ったまま動かない〈鉄砲玉〉の姿を改めて注視した。赤い血がジャンパーの内側から黒い綿パンをつたってとめどもなく流れ出し、緩んだ水道の蛇口のように靴先にぽたりぽたりと落ちている。既に〈鉄砲玉〉が座っている椅子の下には真っ赤な血溜まりができている。

「オヤジ!」わたしは再度叫んだ。誰も返事をしない。

「大変だ、オヤジ! こいつ大怪我してるぞ」じれったい思いを抑えながらわたしは繰り返した。だが他の客には何の反応もない。ただ堀部のオヤジだけはわたしのほうをちらりと見た。寂しそうに笑うだけで調理の手を休めない。わたしは何がなんだかわからなかった。

「何してるんだ。救急車呼ばなきゃ。見ろよ。この血。すごい出血だぞ。早くしないとやばいぞ」必死に叫ぶわたしを制するように、〈鉄砲玉〉の前に堀部のオヤジが丼茶碗を叩きつけるように置いた。「あいよ、一丁上がり。いつもの特性丼飯!」

「おうよ、待ってたぜ。これが食いたくてよ」〈鉄砲玉〉は顔を上げるとニヤリと笑った。その横顔を見てわたしは思わず大きな声を上げた。紙よりも白い顔面を血が何筋にも分岐し川のように流れていた。いつのまにか肘をついたテーブルにも血だまりができている。頭を隠している野球帽のところどころに黒ずんだ染みが広がりつつある。帽子の中は血の海か。わたしは自席にへなへなと座り込んだ。〈鉄砲玉〉がとても生きた人間のようには思えなかった。大量の出血。血の通わない白い顔。血の赤さと顔の白さだけが頭の中で紅白模様を作った。

「美味いぜ、オヤジ」〈鉄砲玉〉が絞り出すように言った。丼茶碗を持ち上げる力さえないのか、左手はだらりと下げたまま丼をテーブルに置き、血だらけの右手で箸を持って飯をかきこんでいる。血に塗れたテーブルの上を丼茶碗が音もなく滑り、テーブルから落ちそうになるのを胸で押さえながら〈鉄砲玉〉はひたすら食い続ける。「うめえうめえ」とときどき呟く。そんな〈鉄砲玉〉を堀部のオヤジが黙って見守っている。心なしか笑っているように見えるが、目にはときおり真剣な光が宿る。

 なぜだ。なぜ救急車を呼ばない。店の中は血だらけ。〈鉄砲玉〉も血だらけ。カウンターも丼茶碗も血だらけ。理由は知らないが瀕死の重傷を負っていることは誰が見てもわかる。それをなぜ黙って見ている。しかも丼飯なぞ作りやがって。他の連中も見向きもしないし、一体みんな何を考えてるんだ。わたしは半ば放心状態で席にのけぞって座ったまま思いを巡らせた。何度も何度も繰り返し周囲を見渡しても常連客の誰ひとりとして様子が変わらない。〈るうずべるとさん〉は居眠りをやめて再び杯を重ね始めた。金銀夫婦は「二個でどうだ」「いいや三個」「じゃあおまけつきでどうだ」てな具合で意味不明な問答を続けている。〈鴎外先生〉は不動。気がつくと〈椿姫〉がこちらを見ていた。お目覚めのようだ。テーブルに頬をつけたまま上目遣いで呟いた。

「気にしても無駄よ」

「え。無駄ってなんだ、無駄って」

「だから無駄なのよ」〈椿姫〉の瞳が妖しく燃える。「あのひとどう思う」

「え。どう思うって、どういう意味だ」わたしはのけぞってた背中を何とか直立に戻し努めて冷静に話した。

「生きているって思うかってことよ」〈椿姫〉が眉をあげた。

「どういう意味だ」

「そのままの意味よ。彼は生きていると思うか」

「〈鉄砲玉〉がし、死んでるってのか」みぞおちに杭を打ち込まれたような痛みが走った。

「聞いているのはわたし。あなたがどう思うかでしょ、肝心なのは」〈椿姫〉はそう言うと小さなあくびをしてまた眠りについた。

「おおい、ちょっと待て」といってももう遅い。お姫様は軽い寝息を立てている。

「うめええ」〈鉄砲玉〉が叫ぶ。しかし声に力がない。

「おかわりはどうです」と堀部のオヤジ。

「ちょっと待ってくれ。食べるからよ。必ず食べるからよ。ちょっと待ってくれ。まだ半分しか食ってねえんだ」と〈鉄砲玉〉。

「急がなくてもいいですよ。ごゆっくりお食べなさいな」とオヤジ。

「ああ、わかってる。ゆっくりとな」と〈鉄砲玉〉。

 必ず食べるから、必ず食べるから、と〈鉄砲玉〉は盛んに繰り返しながら箸を動かす。しかし両手の自由が利かないうえに、動作そのものがビデオのコマ送り再生のように遅く、なかなか食が進まない。目が見えねえ、目が見えねえ、とそのうちぼやき始めると、箸が虚空を彷徨い始めた。箸を使うのが無理と諦めたのだろう、今度は手で飯をかきこみ始めた。必ず食べるから、相変わらずそう呟きながら。そのうち面倒くさくなったのか、丼茶碗に顔を突っ込み始めた。丼茶碗が〈鉄砲玉〉の顔を飲み込んだままガタガタと動く。突然動きが止まる。〈鉄砲玉〉の声が途絶えた。丼茶碗に顔を突っ込んだまま、彼の両手がカウンターの下に力無く落ちた。そのまま微妙なバランスを保ちながらぴくりとも動かなくなった。

「おかわりは無理でしたね。残念だ」堀部のオヤジは〈鉄砲玉〉に向かって両手を合わせた。目を閉じて何か呟くとそのまま何事も無かったかのように、調理の手を動かし始めた。

 〈鉄砲玉〉は死んだ。丼飯を食いながら。理由は知らない。死んだという事実だけが残った。瀕死でここまで来たのは丼飯を食いたかったからか。最後まで丼飯にこだわって死んでいった。

 わたしは奇妙な格好をした〈鉄砲玉〉の死体を見てふと感じた。あるいは彼はここに来たとき既に死んでいたのかもしれない。彼を見て得体の知れない恐怖を感じたのはそのせいかもしれない。

 〈椿姫〉の安らかな寝顔を見ながら、珍しく常識はずれなことを思いつくものだと自分ながら不思議な気持ちになった。そんな自分が少し愛しく思えたのはなぜだろうか。


(続きは数日後に公開予定)

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