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6.「私たちは本来、心を踊らせて生きていきたいものでしょう?生きて老いるプロセスに寄せる心と行動を、1人1人が続けていく集合体で在ろう。」 アラン・ケレハー/竹之内裕文 堀田聰子『コンパッション都市 公衆衛生と終末期ケアの融合 (慶應義塾大学出版会 2022)』

「老人ホームに老人しかいないって、変だと思う。」と話す私を、初めて真っ当に話を理解しようとし、満面の笑みを浮かべた人が、べにさんだった。

5年前の今日(2017.11.25)一緒に現場である『診療所と大きな台所があるところ ほっちのロッヂ』をつくっているべにさんこと紅谷浩之さんが、当時私が運営していた場を訪ねてくれていた

この5年間で、ものすごい人の数と出会っていると思う。私たちの活動に関心を寄せてくれる人も増えてきた。今やちょっぴりユニークな医療を学ぶ学生たちが私たちと話そうとして全国各地から集まってくれるようにすらなった。
互いに1人では到底来れなかった遠さまで来ているかもしれないし、かと思えば牛歩のようなものかもしれない。
でも、「Compassionate cities」という言葉を今年9月半ばにきいてから、にわかに胸が高鳴った。

もしかしたら私が本能的に感じた違和感を少しでも解消するように場をつくってきて、これからもつくろうとしている行為を言い当てているような気がしたから。

原題 『Compassionate cities Public Health and End-of-life Care』の著者アランさんは医療社会学者。ほぼ私が生まれた年に大学を卒業してからオセアニア、日本、欧州に欧米。南米/南アフリカは記述には見当たらなかったけれども、たまげるほど世界をぐるりと巡っている。 

解説を除いても296ページ。ページをめくるたびに線を引いている。こんなことは久々で、一体どこが本当に「!!!」となったのか言い当てることがけっこう難しい。296ページに加えて解説まで線を引いている。

線を引きながら、私はこの本が意味する表現に大きく救われた気持ちでいた。美術館の名だたる画家たちの作品、10代がスケボーをする様子同様に、私にとってずっと大事な大事な表現の1つであることが間違いなくなったなぁ、そんな嬉しさを込めて。

「コンパッション」という言葉は数年前に出会っている。
『コンパッション都市』を読みながら、頭の中でこれまで読んできた
本の中身があれこれ入れ替わる。関連するものを一旦思いつくまま手に取った。
まだ本当は足りないのだけど、誰かに貸してそのままだ。

劇場に関わる人のためのアーツマーケティング・ゼミ あーとま塾2022 step2「社会包摂」のタームにて、『コンパッション都市』監訳者であり私の敬愛する堀田さんとご一緒する機会を得た。

医療では解決できない課題を抱える患者に時間をとられている----。医療の行為”だけでは”、人の暮らしの全てのことは解決できない。(専門職であれば実は全員がそう気づいているだろうけれど、でもきっと発露する場所がない。それはとっても巡りが良くないだろうなぁと思う。)

そうした背景を受けた取り組み。堀田さんは人口26,000人、英国Frome townにて、ある女性が児童演劇のバックグラウンドを活かしたCommunity developmentをやり続けた事例を伝えてくださった。
この女性は私と同様、医療者ではない。
代わりに自分の得意なことをまちの中にドスンと下ろし、人と人の関係性、物事を生きている情報に変えていった。そうして、人が持っているunmet needs(潜在的なニーズ)までしっかり掘り出していく。そんなクールな事例。

堀田さんが現地で抱いた疑問。
同じような属性や症状、経験を持った自助グループ内のモチベーションは続きづらい。自分が(本当は)認めたくない場所に、人が多く集うか?っていうこと言われているけれど、実際は?と。その現地での得た言葉が印象深い。

医療介護福祉は、困りごとには詳しい。だけど、掛け合わせる何か、があるとより(1人1人が)ハッピーにつながっていく。地縁・関心縁、美味しい、楽しい、なんかおしゃれ。そこに集ってくる。そしてそんなことってまちじゅうそこらへんにたくさんある。いかに自分がワクワクするか?ということと、医療介護福祉の「困りごとに強い」という人たちが一緒に掛け算して(場をつくって)いく。

あーとま塾2022 step2「社会包摂」にて

アランさんが『コンパッション都市』を書き下ろしたのは2005年。
大きなメッセージとしては、「コンパッション」とは 共感と、共感に留まらず具体的なアクションを生み出す様であること。その行為を指すということ。
もう1つは、「専門職によるサービス提供」から「コミュニティ形成」へ、終末期ケアのモデルを転換する時期を迎えているのではないか」、という呼びかけ。しかもそれをあらゆる人、宗教、Civic plan/仕組みを想定して練られた総称を「コンパッション都市」と定義をつけているのが本著であると理解している。
(さすが世界の大陸をまたにかけた人だなぁと発想の深さと経験値に脱帽する箇所が多すぎて、、読むたびに線が増えているのはそんな理由から。)

さて、この「専門職によるサービス提供」から「コミュニティ形成」へ、終末期ケアのモデルを転換する時期を迎えているのではないか」。
この言葉を口語にすると、私には「症状や状態、年齢じゃなくって、好きなことする仲間として出会おう」と聞こえてくる。
これは私とべにさんが5年前の今日話をしたことに端を発する、『ほっちのロッヂ』の呼びかけ文と、なんと重なってくる。

専門職としての課題解決の強みを持つ人がいる。でも私たちは弱いところも持ちながらも、もっと本来は心を踊らせて生きていきたいものでしょう?生きて老いるプロセスに寄せる心と行動を、1人1人が続けていく集合体で居ましょうよ、そういう呼びかけでもあるわけです。そしてこの一文は、堀田さんとの語らいの中で生まれてきたものでした。なおさら愛おしくてたまらない気持ちになる。

2019年、階段の急な高田馬場のカフェで堀田さんと。
カレーを食べた気がする。
聰子と聡子。ダブルさとこ。

そうした集合体で在るために、まだまだできることがあるのだと勇気をくれた本。私自身に関心を寄せてくださっている方がいれば、一緒に持ち寄って読解話で盛り上がりましょう。そうそうこの表現ね、そうそうこれ難しい表現。これって何?
そうしたcommonをもてるなんて、最高にロマンチックですよね。そうそう、訳もとってもチャーミングな箇所があって、すごく素敵です。ぜひロマンチックでチャーミング探し、してください。そこじゃないか。ぜひともに実行する人でありましょう、自分自身の持ち場で。


藤岡聡子
ほっちのロッヂ 共同代表 / 福祉環境設計士
info(@)redo.co.jp