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3.「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい。」岡 檀『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある(講談社 2013)』

2020年8月から1ヶ月間、オレゴン州、ポートランド州立大学の教授主催のプログラムを受けている。ポートランド市の”全米で最も住みやすいまち”、といわれている由縁をプログラムで解き明かしていっているその途中だ。
一方でこの本は、”日本で最も自殺率が低い”、徳島県海部町の理由を解き明かしていく。論文が本になったもので、それでいてとても読みやすい。

ポートランド州立大学のプログラムと、そしてこの本『生き心地の良い町』を同時並行で読み進めていくことは、正解を求めるよりも、自分なりの納得解を求めていく、ということに近い。
では私は何についての納得解を求めたいだろう。
一つには、ずっと心にある、多様性について。

海部町の人々は異質なものに対し寛容である。コミュニティにいろんな人がいてもよいと考えている様子が伺えるし、そればかりかむしろ「いろんな人がいたほうがよい」という思考回路が透けて見えることはすでに述べた。不思議である。なぜその方がよいのか。その方が互いに居心地がよいからなのか。しかし人間というのは本来似た者同士で寄り集まっている方が安心を感じる社会的動物ではなかったか。
海部町がいろんな人がいた方が良いという言葉をあえて、選び長年に渡り維持し続けてきたのだとしたらそこには何かしらの成功体験”報酬”があってのことではないかと私は思い長い間考え続けていた。

彼らのこの弾力性こそが海辺町が多様性を重視したコミュニティづくりを推進してきた根拠となっているのではないか。もちろん、海部町の先達がこうした因果関係を意識していたとは考えにくく、多様性を認めざるを得なかったという町の成り立ちから知らず知らずのうちに身につけた処世術であった可能性は高いのであるが。

そうした社会に生きる人々は社会=多様性という図式を刷り込まれそのことがデフォルト(標準仕様)であると思って育つ。結果として、異質な環境に放り込まれた時にも使える弾力性と順応性が備わっていくのではないだろうか 。
(途中抜粋箇所あり P99 第3章 生き心地を求めたらこんな町になった -無理なく長続きさせる秘訣とは)

今私は、うつ状態と診断され、手を止め、自宅で療養している。7月上旬ごろだから、もう1ヶ月と少しが過ぎた。いわゆる多様性、というものに悩みすぎてしまった結果だ。(本文中にときどき自殺の話が出てくるのだが、あまりひとごとの話と思えずにいた状態に当たる)

私にとっての多様性は、15歳で入学した夜間定時制高校のクラスだ。
27人のうち、同い年は数人。あとは全員年上。祖父と近い年齢の同級生もいた。

この夜間定時制高校の環境は、自ら選び取ったものではなかった。ここしか進学できる先がなく、諦めからの選択肢。
その選択肢の中で感じたのは、「いろんな人がいてもいいけど、こんな人にはなりたくない」という反骨心だらけだった。思春期真っ只中だったということもあるけれど。
こんな人にはなりたくない、という人ばかりの中で、ほんの一握りの気の合う人たちと出会えたことは幸運だったけれど、もし出会えていなかったらゾッとする。いろんな人という渦の中に飲み込まれていったような気がする。

でも、でも。
もしかしたら15歳の私の足掻きすら、夜間定時制高校に通う、不良の溜まり場、悪の巣窟のような中にいる1人の人、という風に周りから括られていたのだろう。似た者同士、安心をどこかで感じていたのかもしれない。こう言葉にすると、ひどく矛盾している。まあとにもかくにも、私の多様性についての体験は、いいものとは呼べなかったかもしれない。

「いろんな人が”いたほうがよい”」から話を始める人を、私は疑い始める。
「いろんな人が”いてもよい”」から話を始める人を、私は信用し始める。

自殺率が低い理由を解こうとしている本を読み終え、私はこう感じている。

このnoteで1つ目に引用した箇所で岡さんが述べているように、結局は人は同質性を求めるのだと思う。大切にしていることがこうだとか、好きなこと、趣味だとか。目指すところはこうだとか、そういった類のもの。最低限の意思疎通を行うことができて、共通項で括り、自分は1人ではないのだというもので満たし、何かしらの安心を得て、そこから、初めて「いろんな人が”いてもよい”」という話になる。

自分がこのコミュニティの中できちんと存在している、愛されている、ということが満たされていないと、「いろんな人が”いてもよい”」、なんて言葉出てこない。自分の存在が脅かされる異質のものや、排除されてしまうかもしれない可能性を、誰が求めるだろう?

さて。その中で、様々な出来事があって、足掻いて、いいことも、悪いこともあって、結果論として「いろんな人が”いたほうがよい”」という話になる。この言葉は、前者(= いろんな人が”いてもよい”)と同じ言葉ではない。経験則がないと、嘘になる。最初からひとっ飛びにここまで来れない、と思う。

「いろんな人が”いたほうがよい”」は、結果論。そこで得ることができる「信頼」も、結果論。そうか、多様性を語ることが結果論か。”全米で最も住みやすいまち”も、”日本で最も自殺率が低いまち”、も、結果論。

ちゃんと自分の気持ちを表現しているか?相手は自分の気持ちを表現しているか?お互い、努力できているか?
ここはお互いによって、心地よい場所になっているか?安心できるか?安心させられているか?お互いを好きか?
を、ちゃんと問いたい。

ここまで書いていても、私の多様性への眼差しは、ひん曲がっているかもしれない。ずっとてこずっている。こんな欠陥人間が、人の生きることや生きるを終えることに関わっている。これも多様性の1つか。はたまた許されないことないことなのだろうか。

もう年齢のせいにもできない。15歳だった私と、もうすぐ35歳になる私。

プロセスを大切にしたい人と、プロセスを大切にしたい。多様性はその先に待っている。


これは2020年夏から秋ごろまでの、本にまつわる記録です。本来ならば、何冊と決めて記録したいと思っていたけれど、思いの外私は本をよく読んでいて、そしてその本を読む行為が、ここ数年は不本意ながらすっかり止まってしまっていた。きちんと取り戻すかのように、この記録を書いています。

本。読むのも好き、そしてとうとう共著として2019年6月に、守本くん、西さんと『ケアとまちづくり、ときどきアート(中外医学社 2019)』を発表。8月現在、重版も決まりましたと、出版社の方からご連絡をいただいた。
書き手がワクワクして書いたもの。読み手の方たちにも、ケアのこれからのワクワクを、伝えられますように。

藤岡聡子
株式会社ReDo 代表取締役/福祉環境設計士
info(@)redo.co.jp
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