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言葉にするのは、おもしろい。

「言語化」の大切さは、もう多くの人が感じていることだと思います。

僕がそのおもしろさを意識したのは、大学生の頃でした。
たまたま授業で履修した芸術論で、梅本洋一さんという映画批評家と出会います。
とてもクセの強い方で、

彼は「批評家の仕事は、映画をいい、悪い、おもしろい、おもしろくないと感想を言うことではない。新しく生まれた映画の、それが何なのかまだ誰もわからないものに言葉を与え、わかるようにすることだ」といいました。

実際に彼は、当時世界で一番多くの「無名の映画監督」を世界に送り出した批評家でした。日本でいえば、北野武監督を、TAKESHI KITANOと、初めてローマ字にしたのもこの方です。

誰かが「いい」と言い、評価が確定した(=誰かがすでに言葉をあたえた)作品ではなく、なぜそれがいいのかわからないものを映画的な文脈の中から読み解き、言葉を与える。
そんな彼の大学の講義は、決して他では聴くことができないといえるほど、魅力的でした。

僕は経営コンサルタントです。
仕事の中で、「このビジネスは、何が優れているんだろう」「何が問題なのだろう」という問いと、いつも向き合います。
最初は、「確かに何かがいいけれど、何がいいのかわからない」「確かに何かがまずいのだけれど、何が悪いのかもわからない」からはじまる。

そのときに行うのは、
目の前の出来事をよく見聴きし感じ、改めて捉え直すことです。
そして、何が起こっているのかに、言葉を与えることです。

言葉をあたえることで、ビジネスは変わっていきます。
それは、言葉があるから物事と向き合いやすくなり、考えることができるから。言葉のおかげで、僕らはこの世界とつきあいやすくなるのです。

言葉にすることの危うさも、もちろん感じます。
これだけ言葉に囲まれていると、世界を「言葉そのものとして」捉えるようになることもあると思う。
「この世界は、弱肉強食だ」とラベルをつければ、そういう出来事ばかりが目に入るかもしれない。
言葉は少しずつ脚色されて使われることも多いですから、脚色された言葉で考えるたび、「世界はその分脚色されて」いきます。そうなれば、言葉に振り回されることも多くなる。

一見とても怪しいと感じる陰謀論のようなものに振り回されるのは、ある程度、文章を読める人だそうです。
その情報が言葉で提供されることも一因ですが、言葉に慣れ親しむ人は、世界を「言葉で切り取って理解する度合いが高い」からでもあるのだと思います。
刺激的な言葉で頭の中がいっぱいになると、そのうち、「世界」よりも「言葉」が優先されていく。

世界よりも言葉が優先されると、息苦しさが増すと感じています。
言葉はおもしろいし大切だけれど、世界はもっと、豊かなんだと思う。

言葉と世界は別物です。だから僕は「言葉を知る」ではなくて、「言葉をあたえる」というスタンスが、より好きで心地いいと感じているのだと思います。
このスタンスの時、優先されるのは「世界」だから。
自分の外側に、まず世界があって、それをどんなふうに表現するかという問いを持って向き合うことを意味するからです。

自分は、いい仕事に就けたなと思います。
次々と「出来事」や「期待」と出会い、その本意を言葉にする必要がある。お付き合いする経営者が、その言葉を道具に、どんどん前に進んでいく。言葉と現実がリンクして、何かが生まれていく。そのおかげで、人の喜びに触れることも少なくありません。
まだ言葉が与えられていない世界と向き合い、
言葉にすることは、とてもおもしろい作業だと感じています。

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