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映画日記#8 『私の少女』

今日はAmazonプライムで韓国映画『私の少女』を鑑賞。
信頼のおける映画評論家・児玉美月さんが以前から推している映画で、ようやく観ることが出来た。
韓国のチョン・ジュリ監督のデビュー作で、『バーニング 劇場版』(18)などで知られるイ・チャンドン監督がプロデューサーを務め、2014年のカンヌ国際映画祭ある視点部門に正式出品された作品だ。
主演は是枝監督の『空気人形』(2009)や『ベイビー・ブローカー』にも出演したぺ・ドゥナで、韓国屈指の子役キム・セロンが共演した。

<あらすじ>
とある港町の派出所へ左遷された、ソウルのエリート警察官ヨンナム(ぺ・ドゥナ)は、母親が蒸発して継父ヨンハと義理の祖母に虐待されている少女ドヒ(キム・セロン)と出会う。ドヒを救おうと奔走するヨンナムだったが、自身のある過去が明らかにされ、窮地に陥ってしまう。そんなヨンナムを救おうと、ドヒはある決断をする。
(映画.comより引用、一部追記)

登場人物たちの痛みが、画面いっぱいからひしひしと伝わってきた。痛くてたまらない。
全部にムカついて、画面越しに世界をぶん殴りたくなるほどに腹が立った。

閉鎖的な村社会の中で起きる暴力を、村の中の誰もが当然のものだと思い、何もしない、という暴力をふるう。自分たちの偏見に気が付かず、無難に、村というシステムを維持させることが一番だと思い込んでいる。
しかし、外部から来た人間が村の調和を乱そうとすると、徹底的に袋叩きにする。

この映画自体はフィクションでも、物語の中で起きている抑圧はフィクションではない。
このような村社会の抑圧は、世界中の至る所に、はびこっている。
だからこそ、この作品は普遍性を帯び、世界中で評価されているのだろう。

そしてこの作品はクィア映画でもある。
クィア映画であることが、村社会の中の偏見を、社会全体への偏見へとスケールアップさせているように思えた。
この作品では、同性愛に対する偏見は、個人の偏見ではなく、個人個人が構成する社会全体が生み出した偏見であると、ヨンナムを通して、改めて伝えていた。
個人の抑圧は、社会の抑圧であり、個人の偏見は、社会の偏見・差別なのだ。
一人一人が、自分自身の偏見に気が付かなければ、何も変わらない。
誰かの上げた声に対して、耳を傾けなければ、何も変わらない。

残酷ではあるが、何を言っても変わらない人というのは一定数いる。
今作でいうと、ドヒの継父ヨンハのような人物だ。
だから、他の人が変わることに頼り切ってはいけない。
まずは自分自身が、声を上げることから始まる。

ヨンナムは、声を上げた。そしてドヒも、声を上げて、行動した。
自分自身が声を上げることと、誰かの声に応えること。
この地道な連鎖が、社会の抑圧や偏見を変えていく力になりうる。


私はこの映画を観て、どのような行動をとるのか?
自分は、やはり福祉に携わりたいと思う。自己実現だとか、お金を稼ぎたいという価値で、生きていない人間だと思う。気づいているのに、目を背けることが出来ない。そういう風に生まれたのだから、福祉に携わり、抑圧されている人たちを守る役目があると感じている。


この作品を観たという経験は、自分にとって大きな支えになる。そんな映画だった。

(画像はFilmarksより引用)


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