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映画『怪物』問題の所在ーセクシャリティは「ネタバレ」ではないー

6/3(土)、是枝裕和監督の最新作『怪物』を鑑賞した。
この作品は、坂元裕二さんが脚本、坂本龍一さんが音楽を手がけ、さらにはプロデューサーにはヒットメーカー・川村元気さんが入った、現代日本映画屈指の布陣が集結した作品である。

先日行われた第76回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門に出品され、脚本賞に輝くなど、世界でも高く評価されている。

しかし、この『怪物』という作品、公開される以前から、とある問題点が指摘されていた。

その問題点とは、物語後半における同性愛(的表象)をネタバレ扱いし、公開するまで触れることを禁じた、という点である。
詳しく説明すると、この映画の作り手と広報が、映画内のとある登場人物の同性愛的なセクシャリティを、物語の終盤に明かされる「驚きの真実」として描き、この「驚きの真実」を公開まで伏せた上で宣伝活動をすることを、映画関係者たち・観客たちに強いたのだ。
(詳しくは、映画執筆家の児玉美月さんの2023年4月20日のTwitterを見ていただければと思う。
https://twitter.com/tal0408mi/status/1648716609857675265?s=46)
要するに、この映画の作り手と広報は、人間の根幹をなすセクシャリティという要素を、物語を盛り上げるギミックの1つにしか見なさず、まるで種明かしであるかのように扱ったのだ。

私自身、『怪物』がカンヌ国際映画祭で「クィア・パルム賞」(LGBTQ+をテーマにした、優れたクィア映画に贈られる、カンヌの独立賞のこと)を受賞したことをニュースで聞くまで、性的マイノリティのセクシャリティを扱う作品であることを知らなかった。
カンヌでのプレミア上映後に行われた是枝監督・坂元裕二さんのQ&Aの中で、是枝監督は「この映画は、LGBTQ+に特化した作品ではない」と仰っていたそうだ。
つまり、作り手がクィア映画ではないと自認しているのにも関わらず、「賞」と名のつくクィア・パルム賞を手にしたのだ。
この作り手の姿勢は、果たして、クィア・パルム賞を受賞するのにふさわしい在り方なのだろうか?
ただ、このインタビューの全貌は観ることができず、いくつかの記事を読んだだけなので、是枝監督自身の発言の意図は不明瞭であり、ここでは推測を述べるだけに留める。

というわけで前置きが長くなってしまったが、まずは『怪物』を鑑賞した上で、この映画の作り手たちが、
・なぜセクシャリティを「ネタバレ」扱いしたのか
・なぜ「クィア映画」であることを発信しなかったのか

という2つの大きな問題点の所在を明らかにしようと思う。

まず物語としては、映画『羅生門』のように、同じ出来事を、異なる登場人物の視点から描く構造になっていて、登場人物の視点が変わるごとに、登場人物への印象が大きく揺さぶられていった。
ひとりの人間の視野の限界と、他者を判断するうえで、社会的な偏見がいかに大きな影響を与えるのかを痛感させられる作品だった。
息をのむほどに美しいショット、俳優陣の芝居の厚み、目まぐるしく展開していく脚本の精巧さ、登場人物に寄り添うような音楽、その全てが見事に重なり合い、深い余韻を残す作品になっていたと思う。

しかし、映画を鑑賞し、『怪物』という作品の魅力を認識したうえで、やはり、この映画は「クィア映画」であると発信していくべきであり、セクシャリティを決して「ネタバレ」扱いしてはならなかったと強く感じる。

この映画は、ある出来事を3人の登場人物の視点から描いていて、3つ目の少年からの視点のパートでは、少年自身が自らのセクシャリティの揺らぎを感じ、葛藤する様が明確に描かれていた。
この葛藤は、決してこの時期(小学校高学年)の少年特有の普遍的な葛藤ではなく、性的指向・性自認に違和感を抱えた人々固有の葛藤であり、社会からの抑圧の鏡でもある。
彼らの苦悩を「謎解き」的に明らかにすることで驚きを与え、あたかも美しい物語であるかのように描くことは、多くの観客の感動を誘い、彼らの存在について考えるきっかけにはなるのかもしれない。
しかし、クィア映画であることを伏せられ、何も知らずにこの映画を観た彼らにとって、同性愛の要素が突然明らかにされることは、単純に驚かされるだけでなく、彼ら自身が経験した苦しみやトラウマをよみがえらせることにつながりかねない。
この映画には、性的マイノリティのセクシャリティを「ネタバレ」的に描くことが、彼らにどのような感情を抱えさせてしまうのか、という当事者性の視点が欠けているように思えた。
結局は、マジョリティによる、マジョリティのための啓蒙映画に留まってしまっていたのではないか。

クィア映画とは、クィアのために存在する映画である。
クィア映画は、肉体的・精神的な痛みを伴いながらも、クィアである自らの想いを、映画という形でクィアの人々に切実に届けなければならないという気持ちから、生まれるものだと思う。
だからこそ、この『怪物」という映画の存在をクィアの人々に届けたいのであれば、「クィア映画」であることを発信すべきだったのだ。

果たして作り手たちは、クィア映画であることを発信することの意味を理解していたのだろうか?

また、この作品における同性愛表象の描き方のもうひとつの問題点としては、物語の最後に登場人物のセクシャリティを明らかにするような描き方によって、物語中に起こる事件の原因が全て「セクシャリティ」に結び付けられてしまい、この映画で描きたかった様々な社会問題(学校の閉鎖性、片親への偏見など)が矮小化されるのではないか、という点である。
このような描き方をしたことによって、全ての問題の原因をセクシャリティに集中させてしまい、極端に言えば、性的マイノリティに罪の意識を植え付けてしまうことになってしまうのではないか。
作り手たちは、このような、極端ではあるが、あり得ないとは言い切れない危険性を認識していたのだろうか?

この映画は、LBGTQ+の当事者団体からの助言を得ながら制作されたようだが、あくまで作り手は「マジョリティ」の立場にあり、ましてや、日本映画界屈指の影響力を持った監督、脚本家、プロデューサー、配給会社が作った映画である。
この映画が、どれほど影響力を持った作品であるか、自分たちでよくわかっているはずだ。
だからこそ、もっと慎重に、当事者視点を欠かすことのない発言・広報の在り方が必要だったのではないか?

この映画をずっと楽しみにしていた観客の一人として、このような作り手の姿勢の在り方によって、この作品を純粋に楽しむことが出来なかったのが悲しい。

最後に、これから、性的マイノリティのセクシャリティを「ネタバレ」扱いするような映画が無くなること、このような広報の在り方が見直されていくことを切実に願っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(見出し写真は『怪物』公式Twitterから引用させていただきました。)


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