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それ、フェレットかもしれません。-全長版-

1.初診忘るべからず

「……フェレットかなぁ」
 診察にあたった医師がボソリと呟いたひとことは、何処か場違いなニュアンスを含んでいて、所在なげに彼の前に座る僕の心を妙にざわつかせたのだった。
「うん。フェレットかも」
 先刻受けた脳のCT/MR検査と血液検査とその他諸々の検査票一式を眺めている彼は、僕の方を見ないまま、独り言のように繰り返す。
 口に出して、自分自身に云い聞かせている。
 そんな風にも見えないでもない。
 担当医ひとりと、冷たい印象が欠点ではないお付きの看護師。
 プラス神妙な顔で黙ってそこに座ってろと誰かに云われた訳でもない患者、つまりはこの僕。
 今、ここにいるのは、この三人。
 たったそれだけの人数で使うにはあまりに広い診療室は、テニスは無理でも卓球の試合なら2面は取れそうだ。
 そのど真ん中に据えられた作業机の前に陣取った医師が、検査結果が出揃い、彼の手許にそれらが届き、ようやく長考に入って、既に1時間近くが経過している。
 僕が座る患者用の粗末いや質素いや機能的な美を誰か感受性が独特な人なら感じるであろうスツールの位置からだと、そんな医師の姿は後光が射しているかのように神々しくさえ思えた。
 まぁ、単に奥の壁いっぱいを占める巨大なガラス窓から必要以上に燦燦と注がれている陽光が、遮るカーテンもブラインドもない状態故の勝手な立ち振る舞いで、そんな錯覚を醸し出しているだけなんだが。
 さすがは大病院。
 意図的なのか、あるいは偶然そう云う効果がもたらされたのか。
 こう云う演出には手ぬかりがない。
 そんな誰も企図していないこの診察室が患者に与える印象を、手前勝手に解釈してしまったのは、ここへ来ることになる理由になった前の開業医の診察室が、あまりにあれだったからだろう。
 だがしかし、今、僕はここにいる。
 それが幸か不幸かはもはや神ならぬ僕がどうこう出来る話ではないことだけは確かだった。
 後に振り返って、日記の今日の頁を読み返せば、間違いなく、不幸の始まりはここだと云い切れると思う。
 日記をつける習慣など幼稚園や小学校の夏休みに書いた、いや書かされた絵日記を除けば、三行日記も日記代わりのSNSも全く縁もなく、始める気もない僕なのではあるけれど。
 少なくとも昨日あたりから始めておけば、後々、記憶を辿る材料くらいにはなったかもしれない。
 ここら辺からが、二度と思い返したくもない新たな日常の始まりだったと、誰か教えてくれれば良かったのに。
 そんな奇特で親切な人も暇人も、僕の周りにはいなかったし、いたとしても気づかないまま、やり過ごししまった。
 初対面にして、いまだ会話らしい会話もしていないにも関わらず、光と影が織りなす見事なコントラストと、患者の目線を意識した構図越しに見ると、渋い中年、いや演出に照らすならロマンスグレー(死語)な雰囲気の担当の医師が名医に思えてくるから不思議だ。
 多分、その時の僕はどうかしてたんだと、今は心の底から本当にそう思う。
 実際、件の奇特で親切な相手がこの人だと思い込んでいたのは、紛れもないこの時、ここにいる自分に他ならない。
 それが大きな誤解だと気づくのに要する時間は、あと数頁、いやもう何行も掛からないのではなかろうか。
 その出来の好悪はともかく、これが小説の類ならばの話だけど。
 何かふた昔の日本映画でよく主演張ってたよなぁ。
 と、僕の中で脳内補正と補完がなされた彼は彼で、あぁでもない、こうでもないと、眉間にしわを寄せながら、期待に違わぬ名演技に没頭していた。
 まさにこれが映画ならBGMは一切なし。
 空調機から吐き出される通低音と緩やかに部屋を掻き回す微風。
 無音で秒針が滑らかに文字盤の上を滑っていくのに、何故か見ている人間にはその針を動かすテンプが、規則正しく刻む音すら聴こえてくるクライマックス場面のちょい前。
 長い映画なら衝撃展開(実際、この後、とうの僕にだけそれは訪れる)のちょい前のトイレ休憩を促す、例のいつの間にか復活していた"INTERMISSION"のロゴが画面を占める前の出来事だった。
 そんな緊張感漂う場面の真っ只中で、医師は、時々、コキッと実に小気味良い音を鳴らして、首筋のストレッチをしながら、僕の脳みその写真を透過板の上で逆さまにしてみたり、裏返してみたりを繰り返している。
 稀にあらぬ角度から斜めに眺めたりして、都度、その視線の先で、彼にだけは会心の笑みを見せると心に決めているらしい看護師や、今は特に何もするでもなくただ座っていることしか出来ない僕とも目が合ったりするのだが、特に"撮り直し"を宣告する監督の声は聴こえて来ない。
 果たして、その常人と云うか素人には理解し難い仕草と行動と顔色が、名優もとい名医のすることなのかどうか?
 この場ではただひとりの常人とは云えないかもが、少なくとも素人であることについては、生まれてこの方、人後におちない僕は僕で思考を巡らせながら、彼の白衣につけられたネームプレートを盗み見し続けていた。
 しつこいかもしれないが、今は特に他にすることもないからだ。
 そしてこの医師の名前が"後藤"だと云う、今までもそしてこれからも特に役に立つ情報だと思えない、早い話がどうでも良いことを知った矢先、今まではともかく、これからは何か役に立つかもしれない彼の呟きから、その新たな単語を知ったのだった。
 いや正確には初めて聴く言葉ではなかった。
 ただこの言葉を発する相手と聞く場所だけは選びたかったなぁ。
 何故なら、それが……。
 フェレット?
 よりにもよってフェレット……って。
 なに?
 何かの例え? スラング? 医療関係者の符牒の一種か何か?
 それとも最近は僕が知るであろう以外の意味を、いつの間にか持つようになったのか?
 僕が戸惑いの表情を顔に浮かべたことに気付いたのか、気付かないのか、もしくは無名のエキストラになど興味がなかったのか。
 焦ったいほど待たされた末に、ようやく後藤医師はこちらに向き直ると、妙に神妙な面持ちで語れば語るほどに眩暈と失笑とゆるさと場違いと何かの間違い、誤字脱字の類なんじゃないかとしか感じえないその言葉。
 それを明らかに僕に向かって、他ならぬずっと彼が遊びの相手をしてくれるまで、忍耐強く駄々もこねずに待ち続けたこの僕に向かって。
 明瞭に聴こえるように、だが大きすぎず小さすぎず、でも大きめのシネコンの後ろの席のお客さんでも聴き漏らさないくらい声量で、訊き間違えようもない発音で。
 耳触りの良いと云えば褒めすぎか。
 とにかく当たり障りのない万人受けはしそうなバリトン寄りの声で、すっきり、はっきり、きっぱりと告げたのだった。
 「フェレットの疑いがありますね」
 ここ数ヶ月。
 僕は手脚の痺れ、冷えや関節の慢性的な痛みに悩み続けていた。
 だが、この歳のサラリーマンと云うか、入社して最初で最後の昇進で今の職場での立ち位置が確定したうだつのあがらない末端管理職にありがちな、会社を休むことそのものに不安と罪悪感を覚える先天性な悪習、刷り込み、習性、本能の哀しさ。
 僕はあれやこれやと理由をつけては、促す妻の声にも曖昧な返事を繰り返し、病院へ行くことを先延ばしにしていた。
 だがしかし。
 案の定、症状は軽減するどころか、徐々にしんどさを増していき、椅子から立ち上がるのもおぼつかない有様となったのが先々週の話。
 結局、何故か勝ち誇る妻に頼み込んで、頭をさげ、足の痛みを我慢して土下座までして、昼食の弁当代から何とか捻出したなけなしの500円を渡し、100均で歩行介助用の杖を買って来て貰い、それで何とか歩くことだけはできた。
 できたが、そこまでだった。
 これが先週の話。
 当初、自宅にほど近い開業医の整形外科で診てもらったのだが、ベテランの風格以上に寄る年波から来るしょぼくれた感じの方が勝ってる風な院長兼主治医兼以下雑務その他諸々は、多分、もう何年も雑務は放棄しているのだろう。
 仮に咳き込んだとしても、それは病気の類ではなく、この部屋の淀んだ空気のせいだと主張しても、誰からも異論が出ないくらいに埃っぽいそこは、およそ病院の中だとはにわかには信じがたい。
 見渡す程の広さもなければ、採光窓も見当たらず、今どきLEDではないタングステン電球の黄色い光が、かえって仄暗く不健康な印象を与える院長兼務と患者が膝突き合わせるのがやっとと云う診察室に通され、何処か遠くの方で幻聴にさえ思える掠れた声に促されて座った椅子らしきものの上で、僕は漠然と、実は今、咳をしなくてもひとりなんじゃないのかな?と不安になっていた。
 それ程にすぐ目の前にいると思しき彼の存在感は希薄で、あぁ、きっと普段は、患者も兼務してるのかなとさえ思ったのだ。
 それでも院長以下略は、問診票とレントゲン写真(この院長、レントゲン技師の資格持ってるよね?持ってるから写真も彼自らが撮ったんだよね?)とを交互に見比べながら、首をひねってみせ、結局のところ、大きなところで診てもらった方が良い…と云う結論で、一切合切を締め括ろうとして、たしかに僕の前に実在しているのだと云う証明のつもりなのか、一通の紹介状だけは書いてくれた。
 と云うか、それを書くことこそが彼の本来の仕事なんだろう。
 知らんけど。
 とにもかくにも、その院長兼なにがしが云う"大きなところ"に事前に予約の電話を入れると、まる一日、検査になると云うことだった。
 どうやら、ちょっと仕事を遅刻してとか早退して、と云う訳には行きそうにない。
 ちょうど関わっている案件も山場に差し掛かっていたし、ブラックではないものの、ちょいグレーに近いホワイト企業な勤め先で、上司に休みたいと告げるのに、当初の進捗通りに行かないまま、グズグズ、ダラダラ、と4日を要した。
 何しろ、僕は先に述べた通り、先天的量産型サラリーマンの典型なのだから。
 そして、エラく迂遠な嫌味と薄っぺらな気遣いを口にした上司からもぎ取った休みの日は、僕のうちうちの煩悶を気にも掛けず、当初の予約通りに通院日として何食わぬ顔をして、きっちり遅刻せずにやって来たのだった。
 僕が紹介状を出された市内でも有数の公立総合病院は、最近の風潮なのか街中を離れた瀟洒な新築のモデルハウス群や大型ショッピングモールが形成する新都心の一角にかなり広い敷地を占有していた。
 ここまで路線バスと地下鉄を乗り継いで来た僕は、カラフルな原色系が増えて来たお洒落(死語)な車が敷き詰められただだっ広い駐車場を杖を突き、突き、痛む足を宥めすかして、きっとこのまま、県境を越えるんじゃないかと思える程に遠くに聳え立つ病院のビル群を目指した。
 何で公営地下鉄半環状北北東線"公立中央総合病院正面玄関前"駅は、その名前をわざと違えたかのように病院から遠く離れた住宅街の入り口の丘の麓にあり、何で中央総合病院は、街の中央ではなく、こんな郊外にあるのだろう。
 徒労の果てにようやく辿り着いた病院の正面ロビーを抜けた先で待っていたのは、うすうす判ってはいたけれど、やはり次の徒労でしかなかった。
 右を向き、左を向き、ついで正面に戻した視界の範囲全てを使った整形外科の待合室で、予約順な筈なのに先着順じゃないのかと疑いたくなる程、待たされる間、例によって、僕はどうでもよいことを考えていた。
 都(みやこ)でもないのに、新都心とはこれ如何に?とかとか。
 多分、いまだに明治維新がとっくに来たことを知らないままで日々の暮らしを営む某府民(これも彼らには理解し難い呼称のひとつだ)なら同調してくれるかもしれない。
 が、不意に、他の都道府県民全員が納得して"ガッテン!"と叫んで、ぶぶ漬けを食べさせたがるくだんの某府民だけは"ガッテム!"と叫ぶであろう至高の答えを思考の末に思いついたまさにその時、僕の順番はやって来た。
 ぶぶ漬けって、そんなに食べさせたいほどの自慢の名産品なんだろうか?
 地元民があれ程に勧める割には、食レポ的な記事でも見掛けたことがないし。
 ある意味、レアで貴重なもの故に、気に入った相手にのみこっそり賞味させたがるものなのか?
 ぶぶ漬けに絡む意図を明らかに履き違えている僕は、ここが彼の地から見れば、遙か遠くのまつろわぬ民の住む異郷であることに感謝すべきだろう。
 きっと彼らはこんな田舎(彼の地以外の地域全ての総称)まではクレームを入れに来ない。
 そして通された検査区画と案内表示されたその先に、また待合室と同じくらいの長椅子が並んでいて、そこにも多くの患者が座っていた。
 彼らは、新参者である僕を、せいの!と誰かが声を発した訳でもないのに、一斉にジロリと一瞥したかと思うと、すぐに所詮は小者かとでも思ったのか、せせら笑いだけしたら、すぐに興味と表情を失った顔に戻って、また一様に定位置でのアイドリング状態となった。
 長椅子のいちばん端っこの新入りはここ、と牢名主か誰かが決めたであろうひとり分もない空いたスペースに苦労して座る程を装いつつ、僕は立ってる方がマシだったのではと痛む足のことを慮った。
 だが時すでに遅し。
 僕からいちばん遠くに座していた人生の大半をここで待ち続けることに費やした誰かが席を立ち、その流れで座る位置は順々にずれていき、僕のところまでそのウェーブが到着したものだから、仕方なく詰めたら、すぐ空いた隣のスペースに誰かが座り、結局、立ち上がる機会は、あの遥か彼方、今、誰かが立ったあの場所まで辿り着かないと得られないのだと悟った。
 僕があそこへ行けるのはあと何年先のことなのか?
 それはもう完全に苦行以外の何ものでもない。
 例の開業医のところとは別の意味で、ここに座っていると健康とあと何かもっと別な大切なものを損ないそうな気分になった。
 先程の無益だが某みやこびと以外は笑ってくれそうなネタの吟味でもしようかとも思ったが、あれはあれでもう推敲の余地はなかった。
 ならば、別のことを考えて時間を潰そうと思ったのだけれど、往々にして時間と云う奴は、ただただ待ってる時は、こっちと一緒にゆったり、うっとり、のんびり、寛いでいる癖に、僕が時間潰しの妙案を思いつくと、すぐに反転攻勢に撃って出て、光速限界とか物理原則すらものともせず、何の躊躇いもなく掴みかかってくるものだ。
 順番が来て、立ち上がった刹那、西日本全土を敵に回しかねない冗句を思いついたが、忘れた方が良いと、誰かが心の奥で忠告したので、僕はそうすることにして、黙って、案内役の看護師に付き従った。
 そして、西日本の差金か、某府民がぶぶ漬けを駆使する以外の嫌がらせを編み出したのか、もはや苦行を通り越して、刑罰の一種としか思えないような何かの診療用の機械にくくりつけられ、身体をぐるぐる回されたり、そのついでにとばかりに他の診療科へも回されてみたりした。
 この後は市中引き回しの上、一条なんたらの河川敷でシチュー鍋でグツグツと煮込まれるのかと思ったら、別の検査用の賢そうな機械の詰まった部屋へ案内された。
 そして動かないようにと云う指示を簡潔明瞭に僕へ伝えた後は、自身も微動だにしないまま直立不動であらぬ方向を睨んでいる検査技師か政府の拷問担当官の有資格者らしいおっさんに怯えつつ、彼が操作する何かSF映画にでも出てきそうな、つまりは僕には何をする機械か判らないものが、頭の上を何度も通過するのにジッと耐える羽目になった。
 やはり某府民と西日本民とその他の、国、地域の人々を敵に回してはいけない。
 そんな反省を妄想の中でした後も、やはり説明を訊いても、同様によく判らない検査が続き、説明も途中で省かれた何種類かのそれを受けて疲労困憊した挙句、ようやく次の段階へと進み、もうこれは自称、地平線の彼方まで続いているんじゃないかと誇大な表現も大概にしろと怒られそうな程、広い待機区画の長椅子で、ジリジリと尻を数センチ単位でズラす作業を繰り返して繰り返して辿り着いた診察室で僕を待っていた、いや正確には僕の方がきっと待たせていたであろうプロの職業医師の答えが、"フェレット"のひとことだった。
 まぁ、アマチュアの医師と云うのが存在するのかは寡聞にして僕は知らないが、彼は医師の国家資格を持っているからこそのプロなのだろうし、それ故に、これだけの広さを持つ診察室の主人たり得るエラい何かなんだろう。
 「えっと、フェレットって……」
 僕にとっては当然な疑問をさえぎる意図はなかったのかもしれないが、後藤医師は気に掛ける風もなく、傍らのどこにもありそうな、何ならウチの職場にもあるタイプの内線電話の受話器を、人差し指と親指だけで器用につまみあげると、何処かへ連絡を取り始めた。
 「あ、松井さん? うん……そう。例の患者さん、今、基礎的な検査は終わったんだけど……。多分、フェレットだと思うんだわ。いや、そこを何とか……。いや、いやいやいや……。そう、先日の借りごと、ちゃんと精神的にお返ししますって。……。」
 いつのまにか、受話器は、後藤医師の自然体そのままな髭が生えた顎と、歳の割には精悍ささえ感じる無駄な肉がない、有り体に云えば、無精髭が生えた顎とやけに骨張った首筋の間でブラブラしていた。
 例の患者と呼び捨てじゃなく、さん付けだったことにだけは救われる思いがした僕は、やはり何の疑いなのかは別としても、どこかを病んでいる、要するに病人なんだと再認識した。
 そう云えば、”やまいだれ"が付く漢字は"病"の他に何があったかな?
 あぁ、痛があるな…。
 例によって誰得な考察は、はじめに療を思いつかなかった時点で、徒労感を感じたのですぐに断念した。
 そして、あぁ、やっぱり後藤さんが連絡を取る相手って松井さんなんだ。
 と、今度はかなり狭い特定層にしか通用しないような、つまりはかなりニッチなネタを転がしながら弄びつつ、僕は、数分前までは何ひとつ役に立たないと決めつけていた例のネームプレートの情報を、自分なりに活かしてみた。
 そして、その成果が、やはり何一つ役に立たない情報だったなと、あまりにと云えばあまりにもアレな自己完結をする間に、ふたりの裏取引は終わっており、後藤医師は何かの儀式のように丁重にかつ数ミリの狂いも許されないとばかりに、受話器を元の位置にきっちりと置いた。
 無論、測るつもりも予定もないので、実際は誤差があるのかどうかなんて、僕は知らない。
 と、電話の向こうにいる例の松井さんとやらへの精神的お返しのつもりなのか、彼は軽く首を垂れた。
 いるよなぁ。
 電話にお辞儀してるオッさん。
 僕も仕事中、たまにしてるけどね。
 だが、通話が終わってから電話機に向かってお辞儀をした事例ってあるのかな。稀有なんじゃないかと思えた後藤さんはさらに稀有な事例を上乗せしてくるオッさんだった。
 何しろ、さらに続けて深々と2回お辞儀をすると、ついにはパン!パン!と部屋の外にまで聞こえるのではないかと思える程の力強い柏手まで打ったのだ。
 きっと、後藤さんはその後、もう一度、お辞儀したのだと思う。
 先日の借りとやらがどんなものかは知るよしもないが、きっと大きな借りなのだろう。
 それで僕は今の件を納得することにした。
 まぁ、そもそも、彼がお辞儀をしようと、あかんべぇをしようとも、どうでも良かったので、僕は彼の儀式の行く末までは見ていない。
 「ちょうど担当医が空いてました。今から行ってください」
 先ほどの電話越しのやり取りとは打って変わったかのような有無を云わせない、彼のきっぱりとした口調に、僕が少し色んな意味を含みつつ驚いた風に向き直ると、彼の方はもう僕を見てはおらず、クルリと机上のパソコンのモニターを見ながら、カタカタと何やら入力を始めていた。
 「B棟3階の2番の受付です」
 最後通牒のように整形外科医の後藤医師は、自分の出番はこれで終わった。
 これが今回のギャラが記載された請求書だとでも云わんばかりに、プリンターが吐き出した診察票を僕に渡すと、傍らの看護師に次の患者を呼ぶように云った。
 まぁ、大病院なんてのはこんなものなのかも知れない。
 これ迄、大病どころか病気らしい病気や怪我らしい怪我とは無縁だった僕は、ドラマや映画なんかで刷り込まれた勝手なイメージを頭に浮かべ、勝手に納得して、そして勝手に妄想で歪ませた結果は、それはきっと世間一般の常識からはかなりかけ離れた誤解なんだろうけど、とにかく、促されるままに、よろよろと、思えば随分と座り心地が悪かったスツールから立ち上がった。
 最後にチラと偶然目についたスツールの端っこの方に、"消化器内科外来第三診察室備品無断持出無断貸与絶対厳禁特に後藤に要注意"と赤文字の極太明朝体で打ってある黄色のラベル用テープを見た。
 イメージカラーは知らないけど、ここの巨塔には巨塔なりのドラマが裏では展開しているのだろう。
 もう本当にどうでも良いことだし、これ以上の要らないネタ元の垂れ流しは迷惑だから、勘弁してほしいものだ。
 いや後藤さんも、せめてこのテープだけは剥がせよ。
 文字通りの転ばぬ先の杖とか云いながらも実際の歩行以外では何かつまづき始めている状況を無視して、物理的にはその杖を頼って、よろよろと診察室を出ようとした僕に、後藤医師がこちらを見ないまま、もう一度だけ、お付きの看護師に声を掛けた。
 「あ、その患者さん、車椅子に乗せたげて」
 少しの間、待合フロアの椅子で待たされた僕は、指示された看護師が呼んだ別の看護師が持って来た車椅子に乗せられて、B棟3階の2番の受付とやらに向かうことになった。
 何だ、後藤さん、車椅子呼んでくれるなんて、普通にちゃんとお医者さんじゃん。
 などとは夢にも思うべきではなかったことに気づくのは、いつも祭りの後、いや後の祭りだ。
 すでに望むと望まざらぬと"何かの祭り"と云う泥沼に片足どころか両足と杖ごと突っ込んで、進退極まってる感になり始めている僕は、どちらが正しい表現なのか、小学生でも判りそうものなのに、結構、時間を掛けないと思い出せなかった。
 ずっとほぼ無言のまま僕を値踏みでもするかのように、つまりは彼女が敬愛してやまない(患者個人の妄想です)後藤先生の患者として僕がふさわしいかどうか、ひたすらに観察していた診察室の看護師よりは、この案内役の看護師は随分と愛想が良さそうだ。
 何が嬉しいのか、愉しいのかはもちろん、例によって知らないけれど、過剰な笑みを振りまく彼は、僕にも丁寧な挨拶をしてくれた。
 ジム通いが趣味なのか、随分と盛り上がった上腕二頭筋をすれ違う人たちに自慢するかのように車椅子をグイグイと力強く押しながら、どこかの開業医の診察室とは雲泥の差な程に掃除が行き届いて、よく僕の職場が入っているオフィスなどでも見掛ける床磨き機、あれ何て云うんだっけ、とにかくそれで廊下の床をピカピカに磨き上げている掃除の担当者が遠くの方に霞んで見えた。
 あまりに遠くにいるので年齢と性別までは不詳だがとにかく掃除担当者が通った後を、ワックス掛け機を押した別の担当者が着いていく。
 彼らの賃金分に見合うかどうかは不明な成果物の上を、僕は人生初の車椅子に乗せられて、今日、この病院で出会った関係者の中では、いちばん愛想がよい看護師の若いニイちゃんと共に”十戒の紅海”が割れる場面かよとばかりに寄せては返す人の波をグイグイと割って進んでいく。
 いや、車椅子が通るんだから、普通にみんな避けてくれているだけのことだ。
 ただ、想像よりも斜め上の速さで進む車椅子の上から見ると、彼らは好意的に避けていると云うよりは、何かの動く災厄から逃れようとしているように見えなくもない。
 「ここの廊下、いつもピカピカでしょ?」
 今日が初の来院だからいつもかは知らないけど、ある意味、キミの笑顔並みに過剰にピカピカなんじゃないかな?
 何故なら、知らず知らずにドナドナを頭の中でリフレインさせていた僕が、俯きがちな状態で捉えた視線の先には、自分の筋肉の仕上がりを床で確認している彼の姿が写っていたから。
 車椅子を押しながら、随分と器用なことを。
 感心した方が良いのか、呆れた方が良いのか決めかねつつも、
 「え? あぁ、そうですね」
 と何故か敬語で答えてしまった。
 だが敬語だろうとタメ口だろうと、同意を示さないと、彼が車椅子ごと僕を持ち上げて、何かを始めかねない危惧を感じたのは、多分、誇張でも過剰な表現でもない。
「それでよく患者さんが転ぶんですよ」
 にっこりとかつ爽やかな笑みを浮かべつつ、得意げにそう僕に語る彼に、ふと心の中でツッコミかけたが、実際は逆のことを思った。
 ツッコンではいけない。ツッコンではいけない。長生きしたいならツッコむな。
 無論、声には出さないし、そんな素振りを彼に気取られないように細心の注意は払ってのことだ。
 程なくたどり着いた巨大なエレベーターは、大きな病院には大抵は常備されている車椅子やストレッチャーを折りたたむことなく、複数は丸ごと入れるサイズで、だが今は僕と看護師ふたりだけ(僕は心の中で”ゴンザレスくん"と名付けた)を乗せて、まさに目指す3階へと昇り始めた。
 僕も、今、気がついたのだけど、病院のエレベーターと云うのは、通常のビルのそれよりも、ゆっくりと昇降するようだった。
 筋トレが趣味なのか生き甲斐なのか、もしかしたらそっちが本業だと云ってくれた方が信憑性がありそうなゴンザレスくん(仮称)が、やおら暇つぶしのつもりに始めたスクワット100回分ちょうどで、僕らが乗った1階から3階に到着した。
 僕は数えていない。
 彼が元気にカウントしながらしてただけだ。
 役に立たない何かもまた増えた。
 いや、そもそも彼のスクワット100回分に費やした時間が、世間の平均から見て早いのか遅いのかすら知らない僕には、これが役に立つのか立たないのかどうかさえ判断が怪しい。
 彼はある種の達成感で気分が上がっているかもだが、もう随分と前から僕の気分は下降気味だったことは云うまでもないし、これからの展開を想像してみても、やっぱり上がる要素など、何も思いつかなかった。
 その意味でも、僕になにごとかへの正常な判断力が残っているのかさえ怪しいものだ。
 到着してもドアはすぐに開かなかったし、何も起こらない。
 多分、昇降スピードがアレなのと同様に何らかの安全対策としてそう云う仕様になっているのだろう。
 それ以外の可能性はいちばん先に除外した。
 目的階へ到着したことを告げる全米が待望してやまなかったブザーが鳴ったのは、彼がスクワットをもう1セット始めようか逡巡しているまさにその時だった。
 スルスルとドアが開くと、彼は舌打ちこそしなかったが、大事な何かやり残したことがある感を僕に見せつけながら、開ボタンの固定スイッチをオンにしてから、僕と車椅子を外へと押し始めた。
 そして、ふと辺りを見渡し、間違いなく見える範囲に、彼と僕以外は誰もいないことを確認してから、そっと僕の右の耳に息でも吹きかけるつもりかとばかりに顔を寄せて来た。
 僕が考えていることが当たりませんようにと云う意味において、高鳴る自分の鼓動と云うか動悸が確認出来た。
 やや不整脈のきらいがあることも確認出来た。
 「ご存知ですか? この種のスイッチを押すときに最初に動く筋肉って、押そうとして持ち上げる腕の反対側のふくらはぎのヤツなんですよ。」
 彼が呟いて教えてくれたそれは、きっと、世界でいちばん重要な取って置きの秘密とやらを解き明かすために必要な鍵の在処に至る何かのヒントなのかもしれない。
 けれども、申し訳ないが、僕は無言のまま、心の中でそっとツッコんだ。
 うん、ご存知じゃなかったし、知りたくなかったとまでは思わないけど、でも知らなくても僕は一生、特に困りはしないんじゃないかな。
 だから、その顔、近いって……。
 彼がその見事なふくらはぎの筋肉を有効に使ってくれたお陰で、僕らはエレベーターを出て、廊下の壁に貼られた案内指示板に従って、2番の受付へと向かうことが出来た。(と思えば、彼と彼の秘密の鍵も報われよう。)
 そして、途すがら、ゴンザレスくんの本名を確認しようと、チラリと振り返って見た彼の仕草に、僕はようやくある意味、合点がいった。
 あぁ、彼は見習いとか新人なんだな。
 だから、せめてこれから畜産市場へ連れていかれようとしている僕の気分を和ませようとあんな益体もないことを云っていたのだ。
 だけど、まだまだ、看護師として一人前には程遠い彼は、何度か立ち止まって、熱心に案内板を見ているのだ。
 得心した僕は、尚も筋肉の素晴らしさについて説く彼のことばを受け流しながら、少し気楽な気分で車椅子の乗客に徹しながら、今度は車椅子に乗った人間も車上の人と云っても良いのかしらなどと考え始めた。
 角度の関係で、名前は確認出来なかったが、ってか、もうゴンザレスくんで良いや。
 目指す廊下の先に開けたスペースが現れる。
 先程の整形外科のフロアよりは随分こじんまりとしたそこは何脚かの待合用の長椅子が並んではいるものの、閑散としており、と云うか僕以外の患者の姿は見当たらなかった。
 まぁ、後藤医師の口ぶりだと、何か特別っぽい専門の診療科なのだろうし、平日の午后なんてこんなモンなんだろう。
 また案内板を確認する彼に倣って、僕もこれから受診する医科をそう云えば確認していなかったことに改めて気づいた。
 何気に、そちらへと視線を向けたが、タッチの差で、車椅子は脇をすり抜け、ドリフトこそしなかったものの、廊下のコーナーをギリギリ攻めながら、B棟3階の2番の受付の前へと滑り込んだ。
 ゴンザレスくんは、僕が膝の上に置いておいた診察票が入ったクリアファイルを手に取り、無人の受付カウンターの前でチェッカーフラッグよろしくひらひらと振ってみせると、もう片方の手の何処かの筋肉の部位を使って、呼び出しのチャイムを押す。
 奥のパーテーションから若いと云うよりも幼いとさえ思える顔立ちの事務員が出て来て、看護師に挨拶をする。
 「あ、師長お疲れ様です」
 思いも掛けない彼の役職に軽く目眩を覚えたのも束の間、もう余計なことは考えずに、まな板にのった鯉、診察台の上に載った患者に徹しようと僕は心に決めた。
 そうか、師長か。師長って確か偉いんだよな。
 しかもあの感じだとここの病院も長いんだよな。
 あぁ、そうか。
 あの案内板もピカピカだったな。
 彼があそこで都度何をしていたかなんて考えるだけ無駄だったな。
 ただでさえ、手脚は冷えるし、痺れるし、痛いのだ。
 何も好き好んで、頭痛の種まで仕入れる必要はない。
 でもここまでの流れを思えば、もう何も考えまいとする決意はあとコンマ何秒かで揺らぐんだろうなぁ。
 揺らがない方が良いなぁ。
 何で、僕は診察に来ただけの病院と云う場所で、こんなことをぐちぐち考える羽目になったのか?
 無論、その疑問に答えを出す前に、車椅子とその備品の僕は、セットでここの診療科の看護師に引き継がれると、受付の隣に設置された車椅子の幅ギリギリのドアから中へ文字通り、押し込まれた。
 多分、後ろから押している看護師は、この部屋には入りきれていない。
 いや振り向く暇もなかったから、後ろにいたのが本当に看護師だったのか、確証はない。
 案の定、白衣を漆黒のワンピースの上から無造作に羽織った僕と同年代っぽい担当医らしい女性が、正面奥のデスクの前に座ったままで椅子をこちらへクルリと回して、見事な超信地旋回をキメて、こちらに向いた後も、僕の後方のドアが閉まる気配はなかった。
 まぁ、どうせ外には人影もなかったからどうでも良い。
 とにもかくにも目の前の診察に集中することにしよう、いや、是非そうしたい。そうさせて欲しい。
 医者としての職業故なのか、はたまた個人の嗜好の範囲なのか、僕には化粧の経験も知識もないので判断し難いが、必要最小限の化粧をほどこした彼女は、見ようによっては清楚で知的な印象を与える美人だった。
 が、ぶっきらぼうにたくし上げたついでに、まとめ上げて無造作と云う言葉が美辞麗句にすら思えるレベルで、後頭部で結いあげた長い黒髪の生え際あたりを、やおら彼女はポリポリと掻きはじめた。
 どちらかと云うと、いや、どこのどちらかはさて置いても紛れもないオッさんな仕草のコンボ技を繰り出し、彼女は僕が、最初に勝手にこっそり抱いた仄かなプラス方向にベクトルさせた期待を、何の躊躇いもなく無差別に、だが医師らしい精密さと正確さを以って、使いどころは絶対にここじゃないところで発揮させて、爆撃と砲撃と狙撃とをごちゃ混ぜにしながら、手にした引き継ぎの診察票を眺め出した。
 多分、この人が例の松井さんだよな。
 どうして彼女は南雲さんじゃないんだろう?
 どうせなら南雲さんの方が良かったなぁ。
 後藤さんも南雲さんへ連絡してくれれば良かったのに。
 無論、彼女は南雲さんではなさそうだし、先ほどから見ているが、彼女はやっぱり如何にも松井さんで、この仕草や表情からもやはり南雲さんであってはならないと思った。
 もういっそ何なら先の整形外科医が松井さんで、彼女が後藤さんでも良い。
 キャラ的にはそれでも特に違和感は感じない。
 とは云え、個々の具体的な事案をここで詳らかに挙げるのは、患者と云う立場上、軽挙妄動にも等しいので、まずは差し控えたいが、僕が感じているある種の要素の全てをさっ引けば、彼女は南雲さんに見えないこともない。
 などと本気で思った日には、きっと僕はこの病院の敷地の外に出たら、部外者によって、良くて袋叩き、下手したら命を落とす羽目になるだろう。
 そんな不毛を軽々と飛び越えて、もはや焼畑農法でも試した後なのかと云わんばかりの、何かが終わりを告げた原野を切り売りする業者に就職した新卒者のホンネにも似た妄想に、僕がうつつを抜かしている間に、松井さん(予想)は、次いで、後方のパソコンに向かって、大きく伸びをして、映し出された情報を器用に上体だけを反らしたままで覗き込み、ようやく体を戻して、そのまま僕の方に顔を向ける。
 「えぇっと」
 何やら切り出し、顔を僕に向けつつ、視線は手許の診察票の上を泳いでいる。
 羽織った白衣の上で斜に構えているネームプレートをチラと見る。
 とりあえず”井”の字は確認できた。
 この病院に来てからと云うもの、そんなごくごく普通の想像や予想が当たった試しがないことには、とっくに気づいていたが、深く考えると負けな気がしたので、やめた。
 考え事をする時の癖なのか、それとも禁煙中なのか、空いている片方の手の指でもてあそんでいるボールペンのキャップを咥えている。
 人前でそう云うことができるって、お医者さんは自由だなぁと、彼女のオッさんじみたそれを別の視点、つまりは社会一般の人間ならば、ごくごく普通に抱くであろう感想をまとめだした自分の暴挙を追い出そうとしている矢先、ようやく担当の医師はまともに口を開いた。
 「どうも。私が担当する松井です。よろしくいただく。」
 彼女の社会人らしからぬ言葉遣いなど瑣末なことだった。
 今は、彼女が松井さんで、どう云うかたちであれ自己紹介と挨拶が出来る人だった幸甚を、しみじみと、じっくりと、そしてこっそりと噛み締めよう。
 もうそんな幸運はこれからの人生で起こりそうにない。
 今日も半日を過ぎようとし、午后の日差しは先刻よりは傾いていて、やや柔らぎつつある。
 僕の心中以外はきっと全国、全世界、全銀河、全宇宙が平和で穏やかな一日なのだ。
 僕は無意識のうちに、ここまでとこれから起こり得るのことの不幸か不運、もしくはその両方を、全部、このささやかな名前当てゲームと日差しの暖かさで半ば強引にチャラにしようとしていた。
 どんな天秤を持ってこようと、とても釣り合うとは思えなかったが、その考えさえ燃えるゴミの日に出してしまいたかった。
 そして、当たり前の話だが、彼女にしてみれば、そんな僕が味わっている余韻など知る由もないし、知ったところでどうでも良い訳で、すぐに本題に入った。
 「ちょっと簡単な検査をさせていただく」
「はぁ」
 傍から何枚かのパネルボードを取り出すと、僕の方へむける。
 かわいい仔猫が写っている写真が貼られている。
 種類までは知らないが、よくペット関連の番組や何かで見かけるタイプだ。
 これをひどく場違いな写真だと思わない程度には、既に僕も状況に慣れつつあった。
 不本意だけど。
 「今からお見せする写真のうち、一番かわいいと思ったものの番号を最後に教えていただく」
 語尾に"いただく"をつけると正しい敬語になるとでも思っているんだろうか?
 いやいや、そうじゃなくて、これは何かの心理テストなのだろうか?
 先の展開が、ではなくテストの意図が読めない。
 改めて、まじまじと写真を見ると、なるほど向かって右の角に丸で囲ったアラビア数字が印刷されている。
 この最初に見せられている猫の写真の番号が6番とあるからには、無作為抽出の写真を見せての検査と云うことなのだろうか?
 怪訝そうな僕の表情に気付いたのか、彼女も手元のパネルボードを覗き込み、しばしの沈黙の後、ササっと何ごともなかったかのようにその順番を入れ替える。
 あぁ。
 1番目は犬なんだ。
 こうした一連の流れにツッコミたいと云うよりは、もはや諦めついでに、この不毛な流れ作業を済ませて、トットとウチへ帰りたくなった。
 「じゃあ始めさせていただく」
 こうして犬の写真を手始めに、数秒間のインターバルを挟みながら、パネルの写真が紙芝居のように切り替えられた。
 それらを見ているうちに、どうして写っている動物の名前を答えるのではなく番号なのか、そして犬が1番なのに、同様にポピュラーであるに違いない猫が6番なのか、漠然とではあるが、理由が判った気がした。
 多分、その理由自体はこのテストには何の関係性もないのかもしれないが。
 ナンバリングされた動物の写真パネルには、見たことはあっても名前は判らない動物も結構写っていたのだ。
 なるほど見るからに愛らしい動物もいれば、どう云う美的センスがあるとかわいいと思えるのか疑問に感じてしまうような動物も写っていた。
 僕にとって幸いなのは、正視出来ない程、奇異な動物はいなかった点だろうか。
 ここまでの流れで、そんな動物をかわいいとする写真を見せられる可能性を否定できようか?
 いや、出来まい。
 この表現が反語として正しいのか、そっと考えようかと思い悩むうちに、とにかく、50枚くらいの写真を順繰りに見せられ、確認のためと称して、今度は逆の順番で見せられる。
 かくして検査は犬で始まり、犬で終わった。
 担当医は無言で、パネルを脇に片付け、あたかも圧迫面接こそ我が人生と勘違いしている人事担当よろしく、例のボールペンを咥えた仕草のまま、僕をジッと見つめた。
 ここで見つめ返して、僕が睨めっこか我慢比べをしたところで意味がないことは誰の目にも明らかだ。
 視線に気圧されながら、思い浮かんだ番号を答える。
 「42番です」
 彼女の瞳の奥で何かが光った気がしたのは、もちろんただの錯覚だ。漫画やアニメや(検閲削除)じゃないんだから。
 「……」
 彼女は僕から視線を逸らさずに、片付けたパネルボードを再び取り出し、時折、視線を落としながら、目指す番号の写真を一番上に出した。
 「42番……。ですね?」
 「……はい」
 永遠に続くかと思われたボケとツッコミの応酬はそろそろ終わりを告げ、ようやく待望のシリアスな時間が始まるらしい。
 相変わらず、この検査の意図は読めないが、確かに彼女が掲げて見せたのは、42番の写真であり、僕がこの中では一番かわいいと思えた動物の写真であった。
 「もう一度だけ訊かせていただく。42番。……ですね?」
 どうやら大事なことなようで、二度、確認をされた。
 改めて、それをしげしげと眺めたが、やはりかわいい。
 見ていると和みさえするし、心なしか目尻もさがる。
 「42…番」
 松井医師は咥えていたボールペンを白衣の胸ポケットへ差し戻しながら、写真と僕の表情を交互に眺めた。
 まるでどちらの方がかわいいか確かめるかのよう……な訳がある筈もないか。
 「42番で間違いないですか?」
 もう一度だけと伝えて2回訊いてから、3回尋ねるのもテストの一環なんだろうか?
 それとも何か景品か記念品でも貰えるのかな?
 それは絶対ない!と脳内ひとりボケツッコミしていると、ついに彼女は、日本語が妙な松井医師は、勿体つけつつ、こう云うことを患者に云いたくて医者になったのだとばかりに、僕の病名を高らかに宣言したのだった。
 「フェレットですね」
 違った。彼女が宣言したのは病名ではなかった。
 この写真、42番の写真に写っている動物の名前だ。
 一瞬にして脱力しかけた僕だったが、ここで数刻前、階下の整形外科でも同じことを云われたことを思い出した。
 だいいち、あの時はフェレットの写真などその一部ですら見せられてもいない。
 彼が見ていたのは整形外科医の指示で脳外科へ出向いて撮影した僕自身のCT/MR検査写真と検査票だ。
 実を云えば、CT/MR検査が何なのかは知らない。
 知らないが、それでもこの検査よりは余程、現実的で医学的で、きっと理性的な何かだ……とは思う。
 すぐに自分の中でちょっとした軽い混乱が始まった。
 具合が悪くて病院で診て貰ったら、動物の写真を見せられて
 「フェレットですね」
 と医師に告げられる。
 あなたはそんな経験はないだろうか?
 残念ながら、僕は今までなかった。
 残念な訳あるかい!
 あってたまるか!
 だがしかし、僕は無意識に42番を選んだ時点で気がつくべきだったのだ。
無駄な行数稼ぎとも思えるボケとツッコミの嵐の中で忘れがちだったが、あれほど明確に、ちゃんと前振りもあったではないか?
 きっと、ただただ、ひどく疲れていたんだと思う。
 検査を行った担当医は、僕とは正反対の涼しげな笑みさえ浮かべながら、再び写真を片付けると、ついに宇宙の真理とそれ以外の何かについて語り出しそうとしている。
 ああ、いちいちボードを片付けるのは、この部屋がそれ程に狭く、出しっぱなしだと邪魔くさいからだ…と宇宙の真理とそれ以外の全てに興味を失っていた僕はそんなことを考えていた。
 だから彼女がことばを発した時、僕はただだらしなく口を開けただけだった。
 「正確に云いましょう。いくつかの検査の結果、あなたは”フェレット可愛い病”の疑いがあります」
 「……」
 こう云うことを患者に云いたくて医者になったのかもしれない彼女のドヤ顔をボォっと眺めているうちに、僕はようやく彼女が云ったことを理解した。
 勿論、意味を理解したと云うことではない。
 あくまでも彼女が今述べた一言一句が右耳から入り、左耳にへ抜ける途中で脳みそに寄り道しただけだ。 
 「”フェレット可愛い病”……」
 これまた医師に病名を告げられた患者のステロタイプよろしく、僕も思わずその言葉を口にした。
 しまった!
 期待していたシリアスな展開は、作者腰痛悪化のため無期限休載中だったらしい。
 一瞬のためらいがあった後、もし目の前にちゃぶ台があったら是が非でもひっくり返したい衝動に駆られた。
 そうしなかったのは、無論、そこにちゃぶ台がなく、あっても置き場所はないだろうが、何よりも彼女の方が、僕の機先を制したからだ。
 「まぁ、本当はもっとそれっポイ小難しい正式な病名がありますが、一般的には”フェレット可愛い病”で通ってます」
  一般的には。
 彼女は病名よりもそっちにアクセントの重きをおいて、僕の開き掛けた口を封じた。
 一般的には。
 そう説明される多くの事柄の殆どは、常識と云う担保を持ち合わせている。
 ガラガラと僕の中の常識が崩れ始めた。
 正直、今日ここまでの出来事を経ても尚、音を立てて崩れる程の常識が、僕の中に残っていたことの方が衝撃だった。
 「お気を確かに。いや、驚くのも無理はない。実際、病名を告げられた患者さんの反応は、貴方と五十歩百歩、そう大して変わりません。」
 僕の茫然自失になっている理由を誤解したまま、松井医師は慰めてくれているのだと思った。
 だがな。
 そのリアクションには慣れているのだ。
 だから自分の説明を神妙に聴くが良い。
 口調と表情がまるで噛み合っていないが、彼女は明らかにそう無言の圧を掛けてくる。
 松井医師は身体の位置を少しだけずらし、後方のデスクに陣取るパソコンのモニターを、かなり控えめに云って、ある意味、投げやりになり始めた僕へと指し示した。
 「これは今朝方、整形外科で行った検査結果データの一部です。この……」
 と再び胸ポケットから取り出したボールペンの先端で映し出されたリストを画面越しに軽く小突く。
 既に老眼が始まっている僕に、やや離れた場所にあるモニターのリストの小さなフォントの数字など見える筈もないが、彼女にとってはどうでも良いことのようだ。
 多分、彼女はボールペンの先端でモニターを小突きたかっただけなんだと思う。
 どうしてなのかは知らないし、僕は知りたいとも思わない。
 彼女は構わずにコツコツと小刻みにボールペンで小突き続ける。
 自分は説明をしたいではなく、小突きたいのだと僕の内なる問いに答えるかのように。
 「フェレトニンと呼ばれている物質、これは体内で生成されるタンパク質の一種ですが、あなたの場合、通常の人間よりもとても多いことが判りました。一般には20〜50が正常値です。が、あなたはこれが480もあります」
「フェレ……トニン…ですか?」
 トンチキすぎる病名を置き去りにしたまま、ようやく出現したシリアス展開は、一気に医学的な裏付けの取れた数値ともに、遅刻した手土産代わりにと、僕を不安にさせるには充分な異常さを示していた。

 似たような脳内物質をどこかで見聞きしたような気もするが、正確な名前もどんな物質だったかも思い出せない。
 これがどれくらい不安にさせるものかは、そのフェレトニンなる聞き慣れない物質名を、取り敢えずの例として、悪玉コレステロールとか血糖値とか、そんな割と日常的に知っている医学検査でもお馴染みの名称に置き換えてみれば、たやすく理解できる。
「フェレトニンは主に中枢神経に作用する物質です。この物質自体は長年の研究の末、ようやく90年代に発見されたばかりで、実を云えばまだまだ解明されていない。まぁ、本当に中枢神経に作用しているのか、そもそもどう云う物質なのかもまるで判ってないんですけどね」
「はぁ」
 もはや松井医師のちゃらんぽらんな語法が徐々に普通な口調になりつつあることなど、どうでも良かった。
 語法はともかく、その言葉の持つ意味そのものに、僕も差し迫るものを感じたからだ。
 ただ、感じている切実さを実感していることと、彼女が云ってることを理解できるかどうかは別の次元の話だ。
 時々、冷静さを取り戻すと、明らかに云ってること変だし。
 だが、そんな僕の冷静さなど無かったことにしたいのか、彼女の説明は淡々とではあるが、ある種の熱を帯び始めていた。
「とにかく神経関係に何らかの作用を及ぼして、何らかの症状、例えば、あなたのような症状、つまり手脚の痺れや冷え、痛みを顕在化させます。実際、この症例が一番ポピュラーではありますね」
「あ……えっと、つまりよくある病気だと?」
 首を傾げつつ、僕は思ったままを口にする。
 すると、途端に彼女の顔に険しいものが現れた。
 「よくある病気ではない!」
 「あ、すいません!!」
 気圧されて、つい頭を下げる。
 「間違えないでください。これはとても重要なことなのです。私がポピュラーだと申し上げたのは、あくまでもこの病気の症状として、の話しとしてです。何しろ、この病気自体は全くポピュラーではありません。むしろ厚生労働省が指定する難病のひとつです!と云えば、ご理解できるでしょうか。実際、国内での発症確率は五千万人にひとりいるか、いないか……。まぁ、もう少し多いか、少ないかってところでしょうか? 統計上の数字なんてのは所詮はまやかしみたいなものですけどね」
 どっちやねん?
 そして、そんな五千万人にひとりって日本の今の総人口で割ったら何人なのか判りそうなものだが、既に冷静さとかその他諸々を剥奪された政府公認の難病患者である僕は、何故に説教されているのだろうかと、そちらが気になっていた。
 いや、待て。
 重要なのはそこじゃない。
 そもそも、ボケたりツッコンだり、脱線したり、話の腰とかフラグを折っている場合でもない!
 厚生労働省が指定する難病?!
 急にスケールが大きくなりすぎてないか?
 盛るにしても少し盛り過ぎなんじゃないのか?
 ちゃんと落としどころは考えているのか?
 後で伏線とか全然拾えなくて事態の収拾が出来なくなるんじゃ……。
 ゴクリと唾を飲み込んで、無言のまま、その説明の先を促す僕を見ると、彼女はその患者の表情が見たくて医者になったのだと云わんばかりに得意げに語り出した。
 「”フェレット可愛い病”の症状は、実際には多岐に渡ります。患者さんによっては全く痛みを感じない方もいますし、あなたのように複合的な症状が出る方もおられます。とにかく、現在、判っているのは、ある特定の条件下で発症し、先ほど述べたように”フェレトニン”と云う物質が過剰に生成されて、身体のあちこち、色んな器官や臓器などに悪さをする…と云う点です。」
 「特定の条件……」
 今は自分のターンだ。全部説明してやるから、それまで黙ってろ!と云う視点を彼女は僕に向けた。
 彼女はいつの間にか、それなりに正しい敬語表現で語り出している。
 僕はそんなことにすら気がつかない程、理性と冷静さとついでにそれによって裏打ちされた正常な判断力をも失っていたらしい。
 もはや、そんなものを持ち合わせていたかどうかの自信すらない。
 僕はまさしく蛇に睨まれた蛙、いやノロイに睨まれたガンバよろしく再び口を閉じた。
 「先ほどお見せしたパネル写真での診断についてですが。そもそも、あなたはフェレットと云う動物をご存知ですか?」

 質問に答えることは許可されているらしい。
「ペット用のイタチ?……ですよね? まぁ、それくらいの知識は……」
「そうです。野生種ではなく家畜種として長い歴史を持ち、その起源は古代エジプトまで遡る、由緒正しいそれはそれはとても愛らしいイタチ種です。これまでにお飼いになられたご経験はありますか?」
「え? フェレットを……ですか? ないです。と云うかペット自体飼ったことは一度もありません。」
「まぁ、そうでしょうね。」
 ま、判ってたけど……と云うしたり顔で語られると、少しムッとするが、ここはとにもかくにも説明を聞きたい。
 端々に何か違和感もあるが、要約してみると、まともなことを云ってる風にも聞こえるからだ。
「この病気はとても特異な病気で、過去にフェレットの実物または写真などを見たことがある方が多く発症するのです」
「感染症?」
「違います。実物ならいざ知らず、写真に何かが付着してたと云うのならばともかく、見ただけでどうやって何に感染するんです。あなたホラー小説の読み過ぎじゃないんですか? もしくは映画ヲタクの類、いや端的に云って莫迦なんですか?」
 だんだん、容赦のない口調になって来ているが、ここが我慢のしどころなのかもしれない。
 そうではないとは思うけど。
 「まぁ、確かに写真を見ただけでも発症する点では、些かホラー感はあります。あなたがにわかには信じがたいことも理解できます。しかし、これは空想の産物でもなければ、絵空事の世界の話しでもありません。信じる、信じないはあなたの自由です……などと云うそんな都市伝説的な曖昧さもありません。私は、紛れもない医学的事実だけを端的にかつ明解に申し述べているのです。要するに、写真を見ただけでも、患者の体内ではフェレトニンの過剰生成が行われると云うメカニズムの話です。それと近年の研究では、例えば、以前からペットとしてフェレットを飼っていた人に発症した例はただの一例もないことも判っています。少なくとも今、現在、今日、この時、ただの一例もです。それからフェレットよりも、犬や猫、その他、他の動物の方がかわいいと思っている人にも患者はいません。」
 ここまで一気にまくしたてた彼女は、一旦、ここで言葉を切ると、またしても例によって、今日何度目かのこれを患者に云いたくて医者に(以下略)。
 「つまり”フェレット可愛い病”は、さまざまな動物の中でフェレットがいちばんかわいいと意識していようとしていないとにかかわらずに、とにかく、そう思いながらも、実際にはフェレットを飼ったことがない人がなりやすい……いや!なる病気なのです!」
 いったい、この医者は何を云っているんだろうか?
 色々と見失っていたせいで、最初はふむふむと大人しく聴いていたが、彼女は得意げにトンデモない屁理屈で、今まさに僕を丸め込もうとしていないか?
 もしそうだと疑ったところで反対する人は世間にはただのひとりもいないのではないか?
 「えっと、つまり心理的な何かが原因なんですか?」
 「さっきの説明聴いてました?」
 いつのまにか仁王立ちでこちらを睨みつけている担当医を見上げるかたちになった僕は、こう云う狭いところではやめてくれないかなぁと思ったけど、まぁ、それは云わぬが華なのだろう。
 「これは精神疾患などの類ではありません。まぁ、イギリスのビクトリア朝時代あたりには心理療法の類も試されていたようですが……。」
 彼女はまたボールペンの先で、今度はCT写真と思しきものをモニター越しに小突いた。
 よくもまぁ、ふり向きもせずに、自分の後ろにあるターゲットの一点をドンピシャで指し示せるものだ。
 実に手慣れてらっしゃる。
 こんな妙な点に感心でもしていないと、やっていられない。
 酒飲みが"酒でも呑みたい気分だ"とボヤくのはこんな時なのだろう。
 僕は下戸だから思わないけど。
 「この大脳皮質のここ。判ります? ここです。この皮質脊髄路、錐体路とも云いますが、とにかく、この皮質延髄路と云うのは、延髄にある錐体交叉で交差していて……。ここまでは良いですか?」
「良くないです。」
「私の説明の何処が不満です?」
「いや、そうじゃなくて……。大脳皮質とか云うのはともかく、エンタイ…何です? 何かもういきなり専門用語飛び交ってませんか?」
「何か問題ですか?」
 困った!
 この人、困った人だ!
 患者への説明と医学生への講義の区別がついてない困った人だ!
 これがSNSなら唖然とする顔文字が何行か飛び交う系だ。
 「日本語で説明してください」
 ほんの少しだけ抗議の皮肉を込めて、ダメ元で頼んでみる。
 「日本語ですが? それともドイツ語で説明しろとでも?まぁ、私も医学者ですし、留学経験もありますから出来ますよ?何ならフランス語とロシア語とラテン語、もちろん英語も当然ですが、イケま……」
 このさらなる不毛な無限ループを脱するにはどうしたら良いのだろう?
 ふと、莫迦げてはいるが、患者と云う一般人、素人だから許されるかも知れない打開策が閃いた。
 僕は、その成否を検討するよりも先に、慌てて、かつ理解したかのような口ぶりを装って、ご機嫌斜めな松井医師に問い掛ける。
 「つまり! つまり先生が、先ほど僕のCTで示されていた部分に、その異常が見られると云うことなんですね!」
 僕が息を飲む前には、もう結果は光の速さでダッシュして来た。
 もう比喩も何でもなく、実際に僕の耳には、彼女の表情が見る見る明るくなっていく、パァァァッと云う"希望の音"が聴こえた程だ。
 「そう! その通りです! いやぁ、私も可能な限り、懇切丁寧な説明を繰り返してきた甲斐がありました」
 僕は、いつそんな場面があったのか聴きたいくらいだったが、蒸し返しては全てが台無しになりかねない。
 何しろ、僕は紛れもない病人で、それも病名はともかく、さておき、ちょっと脇に置いてみたところで、厚生労働省が指定する難病の類を患っている事実は動かないのだから。
 目下の懸念事項は、彼女が云う厚生労働省と、僕が知っている厚生労働省は果たして同じ省庁なんだろうかと云うことくらいか。
 とにかく、ここまでくだらない展開に延々と付き合ってきた甲斐があった。
 少しだけホッとしたのも束の間、とにかく(以下略)医者になった彼女は、割とシビアな現実を突きつけてきたのだった。
 「ですが、そして、これはとても残念なことなのですが、現時点での医学の技術では完治は期待できません。寛解、つまり、あくまでも症状を緩和できると云うレベルです。この病気は、発症した以上は、一生、死ぬまで根気よく付き合っていく病気なんです」
 ぬか喜びだったと嘆くよりは、症状を緩和する術があることを明るい材料だと思う方が、よほど前向きな考え方だと僕は思った。
 そうでないと、ここまで徒労にも近い、いや苦行にも似たボケとツッコミに耐えた意味がない。
 「とにかく、まずはこの病気について正しく理解をしてください。」
 そう云って、彼女は小冊子を取り出して、僕に手渡す。
 また聴いただけは漢字が想像できないような医学的専門用語辞典の羅列が始まるのかと思ったが、渡された冊子をぱらりとめくった限りでは、これを作成した厚生労働省に松井医師との間で血判を交わした同志はいないようだ。
 「次回の通院予約票と診断書。それから処方箋を出しますので……」
 どうやら、今日の診察はこれで終いになるようだ。
 終わる時は、ずいぶんとあっけなく終わるんだな。
 僕は今一度、先ほどからついて回る不安について尋ねてみた。
 「あの……。さっき確か、公的な難病に指定されているって、おっしゃってましたが……」
「えぇ。ですから公的な医療扶助制度を活用できる。その点はポジティブに捉えていただく。」
「はぁ。」
 また日本語が怪しくなり始めた彼女も、取り敢えずは前向き思考の人間のようだった。
 それ以外の点で分かり合える要素はまだ見つからないことに不安は覚えるが……。
「全額公費負担で、定期的な通院と、公認臨床フェレット士のカウンセリングとアドバイスも受けていただく」
 待て?
 公認臨床フェレット士って何だ?
 また彼女の変な日本語か?
 と思ったが、慌ててめくった”厚生労働省”発行の小冊子”フェレット可愛い病の手引き”冒頭にある目次の、わりと最初の方で"公認臨床フェレット士について"と云う項目を見つけた。
 どうやらこの小冊子は。
 名前はともかく信頼しても良いのかもしれない。
 きっとこの先、この主治医と付き合っていくための方法も何処かに載っていそうな気がしないでもないし。
 などと、冊子の中を拾い読みしようとしているうちに、次回の通院予約のスケジュールを確認されたので、いくら何でも国が認める難病なら上司も首を横にも斜めにも振りはすまい。
 僕は、一般的な通院サイクルを尋ね、驚いたことに、彼女からまともな答えが返って来たことに、逆に眩暈すら覚えたが、とにもかくにもそれで診察日を押さえて貰うことにした。
 そして、こちらに常駐している看護師と思われる誰かの手で、車椅子ごと診察室から引っ張り出されると、そんな待合スペースの片隅で、診断書と処方箋が出来上がるのを待つことになった。
 退室する刹那、またしても超信地旋回をして定位置に収まる彼女を見た。
 そんなに超信地旋回が得意なら医者ではなく戦車になればよかったのに。
 だが、とにもかくにも、ようやく僕は帰れるんだ。
 色んな意味で、長い濃い一日が終わったと思った。
 吐息を漏らしたついでに、あたりを見渡すと、ここへ来る時に見逃したこの診療課の名前を冠した案内板が、受付カウンターの上にあった。
 “フェレット科”
 マジか……。
 確かに"フェレット"と云う限定ワードばかりがクローズアップされている現場ではあるが、捻りも何もない。
 いくら役所がすることとは云え、直裁に過ぎやしないか?
 ああ、きっと、まだ、この長くてウネウネした出口を作り忘れた感があるトンネルのような一日は終わらないんだろう。
 そんな漠たる不安が、邪気に満ちた赤い目を光らせ、白く神々しくも禍々しい光をまといながら、次第に僕の背後で、首を擡げ出しつつあるのを確認したくなかったので、僕はもう一度ため息をついた。
 そして、診断書やらの書類一式が出来上がるまでは、絶対に後ろは振り向くまいと、そっと決意した。

2.フェレット可愛い病の手引き 

 「……。ごめん。判んない」

「……ですよねぇぇぇ」

 片道十四万八千光年にも及ぶ長い長い道のりの果て、艱難辛苦を乗り越えて、ようやく我が家へと辿り着いた僕は、玄関先で出迎えてくれた妻に、道すがら、地下鉄の車中、バスの車中、ずっと読み込んでいた”厚生労働省”発行の小冊子”フェレット可愛い病の手引き”を、黙って渡した。

 そして、きょとんとした曖昧な表情で、その手引きの表紙にあるデフォルメしてキュートな笑みを、医者に渡されて読む羽目になった人なら、誰もが戸惑うであろうレベルの無邪気な笑いを振りまく愛らしいフェレットのイラストと、何かにすがるっぽい想いを浮かべる僕の顔を何度か見比べたあと、妻は残念そうな笑みを浮かべながら、頁もめくらずに、頭を振って、そう呟いたのだった。

 もしかしたら、ずっと在宅で仕事している割には、いや就いている稼業からか、僕よりは一般的な諸々に詳しいかもしれない妻に対し、一縷の期待を込めて、手引きを渡しては見たものの、やはり無駄だったか。

 もしかしたら、もしかしたら、今日から僕の主治医となった松井医師よりも、僕と妻は、一般的な何かが欠けている可能性もあるかもだが、今はそこは深く考えまい。

 「……取り敢えず、お茶にしたいです」

「うん。だろうと思って、用意だけはしといた」

 一旦、小冊子を僕の手に戻し、そして、妻はポンと僕の肩を軽く叩いた。

「お疲れ」

 リビングへと続く北欧調の青と白が柔らかな安心感を与えてくれる廊下の壁と、そっと僕の肩を右手で抱き、空いた左手を添えてくれる妻に支えられながら、僕は壁と同じデザインで統一されたフローリング貼りの廊下を、よろよろと歩き、玄関から入ってすぐ右手にある部屋の扉を開けた。

 本当は襖か障子貼りのそれにしたかったのだが、どう考えても廊下のデザインとマッチしないので、妻とふたりで思案して妥協点を探した結果、扉を開けた先に、一畳程の上がり口を設けることにした。

 そこから先が、我が家で唯一の純和室であり、僕専用の極めてプライベートな空間となっている。

 「でも……。大丈夫なの? 正座なんて無理でしょ?」

 妻は、上がり口の小さな段差にすら躓きかねない僕を気遣いつつ、そう尋ねる。

 彼女は、僕が転びそうならいつでも、と両手を差し出して、ゴロでもフライでもどちらでも対応出来る姿勢になっていた。

 実際、足が痛み出してからと云うもの、妻の云う通り、僕は正座はおろか、足を折り曲げること自体がもう苦痛でしかなく、とてもこの和室な個室なプライベートルームで何かをする気分にはなれなかった。

 でも、今日は違う。

 僕は少しでも気を紛らわせてくれ、そして何より”癒し”が欲しくてたまらなかったのだ。

 「うん。だから、今日は”フリースタイル”ってコトで良いです」

「ほんと? やりぃ!」

 当時通っていた大学のサークルの先輩、後輩くらいの関係でしかなかった、まだ若かりし頃。

 大学在学中から始めていた仕事が卒業を目前にしながら、思うようには軌道に上手く乗らず、行き詰まり掛けていた先輩、つまりはのちの妻、今、僕の隣にいる彼女の愚痴を訊くため、3個下の後輩たる僕は下戸なのに素直に誘われるまま、酒席に付き合った。

 「はい、はい」

 呑めない代わりに、せめて相槌くらいはと、頷いていた僕を、明らかに酔っ払い特有の据わった目つきで、彼女はぎろりと睨みつける。

 そして、傍から回ってくれば良いものを、居酒屋のテーブルを、わざわざ対面から文字通り乗り越えて来て、

 「あたしがぁ欲しいのはぁ癒しなのぉ!」


 と喚き、そのまま、テーブルと上に乗った料理と皿とお銚子などなど共々、彼女は、僕に掴みかかり、その勢いで押し倒した。

 幸いだったのは、朝チュン後、とっくにシラフに戻っていた彼女が、ひどく照れた笑いを浮かべながら、改めて、結婚を前提に……とファースト・ステップからやり直したい旨を告げたことだった。

 僕は僕で、先輩たる彼女のことは憎からず想ってはいたし、そも何の興味もなければ、酒の席に同伴する筈もないので、そこから僕が大学を卒業して、いく年か経たのち、何とか公私ともどもやっていけそうだと思い始めた頃、僕は改めて、押し倒さ、いや、彼女からのプロポーズを受けた。

 いや、別に僕の方からプロポーズをしても良かったのだが、子供の頃からの夢だったと、常々熱く語る彼女を知っていたから、その機会を譲っただけの話し。

 ただひとつだけ、僕は彼女に約束をして貰った。

 結婚したら、愚痴はシラフの時に。僕にだけ。

 野暮な酒呑みは嫌いだったのだ。

 以来、彼女はその一点は守ってくれている。

 などと誰も訊いてもいない僕らの馴れ初めなど、今はどうでも良い。

 そして、今の僕の足の具合では、どうしたって作法通りに、上がり口の先にしつらえた小さなにじり口から、身体をかがめて入れる筈もなく。

 こんなこともあろうか(もちろん嘘である)と、その隣にさり気なく、しかし、云われないと気が付かない程度には主張しないデザインで作っておいた、人ひとりが立って歩くのには支障がない普通サイズの障子戸、又の名を貴人戸(今入ろうとしているのは貴人などではなく、奇人の方かもであるが)から、中へ入った。

 入ってすぐ目に入る床の間には、僕が病院へ行っている間に、妻が掛け軸を掛けておいてくれていた。

 今、掛かっているそれは、彼女が、以前、全く別の用件で訪ねた骨董品店で、偶然出くわし、衝動的に買い求めたもので、趣味としては悪くないし、風流な程もあるが、特に骨董的価値も何もない代物だった。

 だが、そう云うことには、夫婦揃って気にしてないので、特に差し障りはない。

 何よりも大切なことは、これが彼女お気に入りの掛け軸で、それを僕のことを想って、ここに掛けてくれたと云うこと。

 そして、僕がそれに気づき、何とか楽な姿勢で席につかせようと悪戦苦闘する妻へ、感謝の目線を送ったこと。

 阿吽の呼吸の境地には到底及ばないが、暗黙のうちに、僕も妻もそう云う空気感みたいなものは共有出来ているのだった。

 取り敢えず、あぐらもきついので、両脚を投げ出す格好で、この季節に合わせて炉が切られた手前の席に座った僕は、やはり妻が掛け軸に合わせて事前に用意した道具を眺める。

 もしかしたら? と何かを期待してる感が透けてる視線を送っている誰かには、申し訳ないが、これらの道具も掛け軸同様、二束三文の代物でしかない。

 成る程、ちゃんとやるなら道具もちゃんとしろ、と憤る向きもあるだろうが、そこは身の丈を知る、足るを知ると云う奴だ。

 そう云うノリだって、じゅうぶん作法にかなっているし、理にかなっているし、何よりも、クールだ……とさえ思う。

 もし、ここにある品々に風流を感じ、何らかの価値を見出すとしたら、それは僕らであって、他の誰かではない。

 ただ、それだけのことだし、たかが趣味だ。

 とにもかくにも、今は湯を沸かし、茶を点てよう。

 僕を座らせた後、妻は掛け軸の前、つまりは床前に胡座を掻いて、楽にした。

 考えてみるに、妻は日頃からその立ち振る舞いが、随分とオトコマエ(この表現には性差別の意図はない)なのだが、それを僕はオッさんくさいと思ったことはただの一度もない。

 まぁ、アバターもエクボの類かもしれないけど。

 炭を熾した茶釜からシュンシュンと湯気が立ち始めるまでの間、僕らは取り止めもない話に興ずる。

 やれ、昨夜やってた新作のアニメは今期いちばんの出来だとか、やれ、今日の昼間、仕事中に聴いていたラジオでやってた落語がどうとか、そんな類の会話だ。

 彼女が酒席に愚痴も含めたネガティブな話題を持ち込まないのと同様に、僕は僕で、ここにはそう云うものを持ち込まないことにしている。

 互いに吐き出したいものがある時は、リビングやダイニングでちゃんと向き合ってシラフで正気で。(なお、別に冷静である必要はない。)

 それがルールなのだ。

 実際、僕は疲れていたし、早く病気のことも妻に云わなくてはならない。

 でも、その前にまずは落ち着きたかった。

 妻は妻で、そんな僕の気持ちを察して、足が痛いと云い出してからずっとこのささやかな茶室に続く納戸にしまったままになっていた道具類を、彼女なりに吟味して用意しておいてくれたのだ。

 茶は僕の趣味であって、彼女のそれではない。

 暇な時、そして、折々のこんな時には付き合ってくれるが、おおむね、僕の方から誘わない限りは、ここには用事がなければ立ち入らない。

 共通の趣味もあるが、互いに自分だけの世界もあり、妻には妻で、この家の別の場所におこもり部屋を持っているが、そこは相手の聖域で禁忌でアレだからなどと云うそんな後ろ向きご大層な動機ではなく、ただただ、単純に尊重しあってのことでしかない。

 でなきゃ、お互いを生涯の伴侶とする筈もないだろう。

 物事はそんな風にシンプルが一番なのに、何で今日のアレは全くを以ってシンプルではなかったのか?

 むしろ、ギトギトでクドクドなラードとマヨネーズと胡麻油とこってりバターの合わせ技を延々と喰らい続けたに等しい。

 何度か何処かで僕のギブアップを告げるゴングが鳴り響いてたんだけどなあ。

 あ、だから、シンプル・イズ・グッド(ベストとは限らない)な世界に身を置きたくなったのか。

 今日はフリースタイルと宣言したからには、格式、様式にこだわる茶こそが野暮の極み。

 ざっくばらんに点ててこそ、今日の気分に相応しい。

 何処かで抗議している誰かに弁解でもするかのような想いは、そっと胸のうちにとどめ置いて、やはり妻が茶入れの壺から棗へ移し替えておいてくれた本日分の抹茶を、以前、僕自身が暇に任せて削って作った竹製の茶杓ですくい取って、一見、織部好みの、つまりは”なに?作るとき失敗した?”とツッコミたくなる程度には、縁が歪んだ燻んだ灰色で無地の茶碗に入れる。

 色合いからいって、濃茶用の抹茶を入れてくれたらしい。

 そうね。


 疲れてる時は熱くて濃いお茶が旨いよね。

 ちなみにこの茶碗、より織部好み風にしたいがために、僕は買って来たその日に、自宅の玄関先の三和土に落として叩き割り、その後、1ヶ月を費やして、全ての破片をチマチマと金継ぎと云う方法で貼り合わせ、自分なりの”イイ感じ”にしたモノだ。

 逆にこの金継ぎをしたいがために余計な模様がない無地の茶碗を選んで買ってきたくらいだ。

 これを出して来るあたり、やっぱり妻は判ってらっしゃる。

 そしてお湯が沸いた頃合いで茶釜から柄杓で湯を大雑把にすくい、茶碗にザブンと目分量で注いだ。

 多分、履歴書の趣味欄に、茶道と書いたことがある粋な方々の九割九部九厘までを、敵に回した瞬間だと思う。

 茶筅通しはどうなった?

 と茶道師範代の絶叫にも似た悲鳴が何処かで聴こえるが、気にしないったら気にしない。

 重ねて云うが、今日の僕が飲みたい気分のお茶はこれだったのだから。

 茶筅もシャカシャカと気分のままに、泡立て器かよと云う感じで使う。

 お世辞にも旨い茶を点てたなどとは思ってもいない。

 抹茶が多くて苦すぎるか、濃茶のくせにテキトーに入れた湯で薄くなってしまったか。

 まぁ、二択問題だろう。

 いや、この茶筅の使い方なら、どっちつかずのマダラ模様な?抹茶が湯に溶けきっていない粉っぽい茶になってるかもだ。

 じゃあ、三択か。

 茶筅を元の位置へ置き、今日は普段にも増して、がっつり付き合ってくれている妻の前に茶碗を差し出す。

 気の毒に。

 彼女が、日本茶自体、抹茶も含めて嫌いではないと判ってはいるものの、それは何処までも飲んでおいしいお茶であって、エグい後味が残りかねない苦すぎ系か、これなら出涸らしの煎茶を飲んだ方がまだマシと思えるだろう薄ぅぅい緑色の何か、もしくはそれ以外の後味の悪い不味い液体を、最初に飲む羽目になるのだから。

 考えてみるまでもなく、これでは口に出さない迄も、ネガティブな愚痴をそのまま表に出したも同然だった。

 それではルールを違えるではないか。

 僕はそんなことも判らないところまで、自分を見失っていたとは!

 そして、よりにもよって、それを妻へ、八つ当たり的にぶつけようとしていたなんて。

 「待って!」

 割と痺れが少ない右手を突き出して、今まさに差し出された茶碗を手に取ろうとした妻を慌てて制する。

 「待ってください。それは僕が先に飲みます」

「え? そうなの?」

 一番に出された茶は自分が飲むものだと、床前席、つまりはこの場の上座に座った妻は小首を傾げてこちらを見返した。

 その彼女の手から、突き出したままの右手で茶碗を受け取り、その動作の流れのまま、自分の口許へと運んで、中の茶をゴクゴクと一気に飲み干す。

 もはや味わう気はなかったが、飲み切ったタイミングで、少し痺れを感じた右腕を下ろして、自然な動作で、茶碗をトンと床においた時、やおら、口中に爽やかな、想像よりは多少は爽やかで滑らかな香りが広がった。

 「あ、旨い」

 意外なお点前の結果に、僕は狐につままれたような表情を浮かべ、その僕の一連の動きを無言で見ていた妻がようやく微笑む。

 「それは良かった。で? あたしの分は?」

 「あ、ただいま……」

 その言葉に二重の意味を込めて、今度は妻のために、きちんとガチな茶を点てた。

 幾分、気持ちが落ち着いてきたようだ。

 少なくとも帰宅した直後に比べれば、自分でも余裕が出てきた感がある。

 職場で嫌なことがあった時など、帰宅するなり、まずは玄関から真っ直ぐにここへ直行し、一服点ててから、おもむろに妻が待つリビングへ向かうことも一度や二度ではなかった。

 ある意味、そのために、玄関にいちばん近い場所にこの部屋を拵えたとも云える。

 とにかく、今も多少なりとも自分を取り戻した僕は、また妻の手を借りて、道具を綺麗にして、納戸へしまってもらうと、また再び、世俗(笑)へと舞い戻った。


 独身の頃から、平日9時5時土日休みで仕事することに拘っている妻は、僕が帰宅した時間には、もう公の自分からすっかり切り替えて、私の状態へトランスフォームしている。

 もっとも僕は僕で 平常運転の時は、基本、9時前に出勤のために家を出るし、5時前に帰ることは稀なので、実を云えば公の妻については、殆ど知らない。

 何の仕事をしているのか、ではなく、仕事中の彼女を殆ど見たことがない、と云う意味だ。

 在宅ワークながら、彼女は仕事部屋に使っている家のいちばん奥の8畳間と6畳間のふた部屋から外へ仕事を持ち出すことはないのだ。

 それはある意味、徹底していて、彼女の仕事関係者で我が家(正確には彼女の仕事場)を訪ねてくる人々用に、仕事場にダイレクトで入れる専用の玄関がそちら側についている程だ。

 ちなみに彼女のお籠り部屋は、妻が主な仕事をするための机を置いている8畳間の方から入る間取りになっている。
 とは云え、普通に会社勤めをしている人間だって、その点は同様だと思う。
 例えば、オフィスに身内が訪ねてきたからと云って、果たして自分が普段仕事をしているデスクへ案内するだろうか?
 まぁ、会社の規模にもよるだろうけれど。

 元々、結婚する前から”自分の飲み代は自分で稼ぐ”が信条だった妻は、ようやく仕事がかたちになって、僕と結婚した頃には、月収の一割だった飲み代分は、その比率のままでも、飲みに行くよりも、飲み屋を自前で経営する運転資金を捻出できるレベルになり、やがて妻の月収≒僕の年収を超え始めたあたりで、妻は自宅を建てることを決意した。

 すぐに何処かで話を聴きつけたらしい地元の地方銀行やめったに動かない都市銀行の支店長クラスが、妻を訪ねてきては住宅ローン契約を取り付けようとあれこれと有利な条件を提示して、商談を成立させようとした。

 なるほど、自由業と云うか、ある種フリーダムな妻のような職種では、銀行行っても門前払いか、商談途中に職業を明かした途端に、鼻で嗤われた挙句に塩を撒かれて、店外へ追いやられると云う話しは枚挙にいとまがない。

 だがしかし。

 彼女はすでに社会的に、十分認知されるクラスまでその立ち位置を確立しており、しかも、随分と前から、そこから上こそ目指しこそすれ、下へ落ちる材料はまったく持ち合わせてはいなかった。
 実際、その成果を見れば、誰でも、それこそ、そう云う社会的な常識に無頓着な大手金融機関の地元支店の長が、妻の首を縦に振らせようと、お百度を踏めば満願成就するとばかりに、我が家へ日産しては、けんもほろろに追い返されるレベルだった。

 妻に云わせれば、地元新聞の勧誘員の話しなら何なら訊くが、金融機関のうまい話、殊に向こうから持ち込まれる系には、耳を貸す気は昔から今に至るも、そしてこれからの将来においても、全くないらしい。

 そして、そんな連中の下心を見透かすかのように、その目論見を完膚なきまで叩き潰すかのように、妻は全額キャッシュで土地を買い、家を建て、その将来的維持費すら先に用意して、それは日常、買い物に行く近所の商店街の店主たちが口を揃えて、その誠実な人柄を保証した地元信用金庫の若いヒラの信金マンへ託した。

 むろん、旧宅だった中古マンションの自室へ呼びつける筈もなく、自らその彼がいる支店へ赴いて。

 その後、まことしやかに、この一件で、この街の金融機関の勢力図が大きく変わったと、囁かれたとか、尾鰭がつきまくったとか、何とか。

 そして、そんな些事など馬耳東風な妻と僕は、知り合いの建築設計士と結託し、ノリノリで、決して建築基準法には抵触しない範囲で好き勝手した、この家をゲットした。

 まず、妻が拘ったのは、外から見ても如何にも金持ち然とした豪奢な邸宅には見えないことだった。

 まぁ、確かに趣味優先、住み心地優先で、諸々とアレやこれやと遊びはしたが、誓ってこの家は豪邸ではない。

 城持ち大名になりたかったのだと、妻は笑ったが、だからと云って、僕がそんな彼女に引け目を感じたり、鬱屈して卑屈な態度を取る理由もなかった。

 確かに僕の現在の年収では実現できる代物ではない。

 だが、僕ら夫婦はどちらが上でもどちらが下でもない。

 それは年収とか就いてる仕事などで変わるものではないからだ。

 僕は彼女と結婚して本当に良かったと思っているが、それは彼女が無職で生活力ゼロだったとしても、揺らぐことはない。

 そう云うことを考慮することもなく一緒にいたい相手だからこそ結婚したのだし、それは妻も僕に対しそう思っていることに同意している。

 とにもかくも、妻と僕の城は、共に暮らすには存分に心地よかった。

 だが、それでもなお、この事態はまだ想定してはいなかった。

 手摺がない廊下をリビングへ向かって歩くのに、これ程、時間が掛かるとは。

 室内用の杖があっても良いかも知れない。

 また百均で買ってきて貰うか。

 ちなみに前回、妻へ土下座したのは、病状を心配する妻の気持ちを僕が軽んじたからであって、杖を代わりに買ってきて貰うためではない。

 部屋着にしているお気に入りの水色の木綿地のロングワンピースの上に白地のカーディガンを羽織った妻は、例によって僕の肩に右手を回し、空いた左手をやはり僕の空いている左手に添えて、歩調を合わせて、リビングへと導く。
 そんなワンピース姿なのに、茶室で胡座をかいても違和感を感じさせない妻のお茶目なところが僕は好きだ。

 まぁ、それは今は関係ない。

 僕は僕で、右手を壁に添えてそろそろと両足の関節になるべく負担を掛けないように一歩一歩、そっと歩みを進める。

 先に述べたように、この家は決して無意味な広さを誇る成金趣味な豪邸ではないが、それでも尚、廊下は間取りの都合上それなりの長さがあり、歩くのがシンドい病人には、やはりちょっとした苦行を強いる結果になっている。

 多分、僕同様に、妻は手すりは何処に取り付け工事を頼むべきか思案している風だった。

 まぁ、その前に、僕らには話し合い、これからの生活のために、共有しなければならない知識と情報がある訳で。

 こうして、僕らは夕食をともにした後に、食器を洗い、全ての片付けをさっさと済ませて、後顧と向後の憂いをなくした上で、いよいよ本日のメインイベントへ取り掛かることにした。

 即ち、フェレット可愛い病の件である。
 さて、どうしたものか。
 リビングのふたり掛けソファに並んで座り、今度は妻が淹れてくれた紅茶を、まずはひとくち啜りながら、話の糸口を探す。
 ま、良いや。
 百均で買って来たロイヤルコペンハーゲン風のティーカップとソーサーセットを、ソファの横に据えてあるサイドテーブルに置き、いま一度、例の小冊子を妻へ手渡す。
 「僕は帰りの地下鉄の中とかでひと通り読みましたんで。と云うか、病院で聞いた話しを説明するにもしても、補足出来る資料が必要ではないかと思いまして……」
「あぁ、そう云うことだったんだ。でもさ……」
 改めて、表紙絵のラブリーなフェレットと対峙した妻は怪訝そうに右隣に座る僕の顔をしげしげと見つめる。
 「キミが今日行ったのって自分の病院だよね? それが何でフェレット? 間違えて獣医さんへ行ったとか? 」
 うん。
 いっそのこと、そうだったら。
 何かの間違えだったら、どんなに良かったことか。
 取り敢えず、冊子の頁をめくるように促しつつ、冊子の記事に絡めて、主治医から聴いた話しを取り混ぜてながら、まずは病気のことを説明することにした。
 初めは驚きの表情を浮かべ、次いで話の端々で、笑いそうになるのを必死に堪えながら、時に真剣に、時に呆れ顔になり、それでも妻は僕の話しの腰を折らずに、ひと通り口を挟まないで聴いてくれた。
 どの途、とても一気呵成に話せる内容ではない。
 話しを一旦、切った僕に先を促すでもなく、妻は彼女の側にあるサイドテーブルの上に冊子を置くと、代わりにお揃いの百均のティーカップとソーサーを手にした。
 組んだ膝の上でソーサーを持った右手を安定させてから、そっと、しかし手慣れた風に、僕が話しをしている間に少し緩くなってしまった紅茶を口に運んだ。
 彼女の流れるような紅茶を飲む仕草には、この百均で買ったカップですら本物のロイヤルコペンハーゲン製のそれに見える不思議な説得力?があった。

 試したことはないが、僕が本物のロイヤルコペンハーゲンでもウェッジウッドのカップで紅茶を飲んでみせても、百均で買ったカップに見えることだろう。

 全く。
 学生の頃からずっと隣で彼女のことを見ているが、こんな風に時には優雅に、時には子供じみた無邪気さで、そして時には酔っ払い全開モードで、コロコロ変わる様をあけすけに隠しもせずに、僕には見せてくれる。
 これこそ、彼女の配偶者たる僕の特権だ。
 だが、カップをソーサーへ戻すと、彼女は再び、ティーセットと小冊子を持ち替えて、ここまでの話しを整理したいのか、何かを考える時の彼女の癖でもある小首を傾げる仕草をした。
 そして、おもむろに割と最初の方の頁を開いて、僕の方へ視線を向けた。
 「この説明にある厚生労働省指定の難病である、と云うのは、まぁ、きっとそうなんだろうけど。国内だと、なに? 五千万人にひとりって。つまりは全国で五人もいないってこと?」
 ああ、やっぱり、そこはすごく引っ掛かるよね?
 松井医師の診察室では、多少なりとも自分を見失ってて、この本当に単純な事実に突っ込まなかったけど、我に返ってみれば、これがいちばんアレな箇所でもある。
 「多分、この……フェレット可愛い病。とにかく、ここ迄、大仰な冊子やらを国が作ってるんだから、さっきも云ったとおり、本当にある難しい病気なんだとは思う。」
「うん……」
「でも、それを裏付けるこの数字の怪しさは何なんだろうね? そんな一桁の、四、五人の患者のために、この国が動くってことの方が、よっぽど不思議。」
「ですよねぇ」
「でも、この見るからに怪しい病名をでっち上げて迄、こんなツッコミどころ満載の何かを画策するにしても、その意図もまるで判らないのね」
「うん」
「実際、キミの手足が痺れていて、冷えを感じていて、何より痛いと云う事実こそが大事な訳で」
「……」
「だとしたら、怪しい病名とか、説得力に乏しい諸々のあれこれも、あたしは取り敢えず脇に置いて考えたい」
「……え?」
 ここで彼女は小冊子もテーブルへ戻し、少しだけ潤んだ瞳で僕の顔を覗き込むと、昼間のゴンザレスくんよりもさらに距離を詰めてきた。
 無論、妻の場合はゼロ距離まで接近されても全くオッケーだ。
 僕の両頬を、その柔らかな両手で包み込み、真っ直ぐな視線を向けたまま、彼女は僕に向かって、そっと呟いた。
 「キミの病気が治らない迄も、少しでも楽になるならそれこそが一番だよ」
「ありがとう。そう云って貰えると今日のアレやコレやも報われます」
「うん」
 ここからは思わず12行削除せざるを得ないような展開へ行きたいところだったが、残念ながらそうはならずに、彼女は、ニコリと心底嬉しそうな笑みを浮かべたあと、姿勢を戻すと、また、冊子を手にして、次の項目へ話しを進めた。

 「で、この公認臨床フェレット士って云うの?この病気の症状に苦しむ患者さんに寄り添って、カウンセリングなどをおこなっています……って、何も具体的なことを説明してないよね? これ?」
「あぁ、確かに」
 妻は右腕で頬杖をつくと、その右肘を左でつかみ、視線と顔を正面へ戻して、僕らが座っているソファの対面、つまりは壁いっぱいの横幅を占めるテレビ台兼DVD、CDラックの上に鎮座する今は特に何も映っていない大型の液晶テレビを見つめた。
 「ここだけじゃないよね? 詳しくはお住まいの地域の担当窓口まで、とか、厚生労働省の公式ホームページをご覧ください、とか」
 僕は夫婦だから許される格好、すなわち、少し猫背気味に上半身を屈ませて、頬杖ついて正面を向いている妻の肩へ片手を乗せて、痛む手足に負担にならない程度に力を込めて、妻に寄りかかるようにして自分の身体を持ち上げると、彼女の向こう側にある小冊子に手を伸ばそうとした。

 チラリと何気に左を見たら、正面の何も映っていないテレビ画面越しに、悪戯っぽい笑みを浮かべた妻が映っていた。

   案の定、夫婦だから許されるちょっとした意地悪の誘惑に彼女も勝てずに、僕を振り落とそうと体を少しだけ揺らしてみせた。
 まぁ、本気で振り落とそうとしている訳ではないのは明らかで、ほぼほぼ、これはお互いがお互いにジャレついてるだけの話しだ。
 なので、彼女が動きを止めた刹那に、一気に体と腕を伸ばして、何とか、冊子を掴むと、元の位置へ戻った。

 無論、こちらを見ないままでニヤついている彼女の横顔に無言の抗議の視線を送ることも忘れない。
 彼女が何より厭がるのは、僕がリアクションしないことなのだから。
 とにかく、改めて、頁をめくると、確かに大抵のことはそれぞれの窓口へ質問するようになっていた。
 市区町村の福祉窓口に医療フェレット課なる組織があるとは知らなかった。
 と云うか、全国でひと桁しかいない患者を対象に全市町村にそんな担当部署があるのか?
 老眼が始まった視力では読めるか読めないかギリギリの細かいフォントサイズで、注意書きがあり、そこをよくよく読むと、あるかどうかも含めて問い合わせろと書いてあった。
 こうして改めて隅々まで読んでみた結果、病院の診察室で松井医師から手渡された時に抱いたささやかな期待感は、ささやかどころか過大なそれであったことに気がついた。
 結局は、他の多くの事物同様に、先回りして、痒いところに手が届く説明などは何処にも書いてはおらず、結局、まずは担当窓口(があるならば)まで行って、自分は”痒いところがある”と申し出なければ、何も始まらないのだと云う、これまでも、そしてこれからも行政改革が何度行われようが、結局はいつのまにか元の状態へ戻るお役所体質と格闘することになるのだ。
 ただただ、そのことを確認出来ただけだった。

(続く)

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