「その人」と私と僕

ー本記事は2022年10月に執筆したものを元のアカウントから本人が移転したものです。ー

私は親に「あんたは先生運が良い」とよく言われる子だった。実際、小中高と尊敬できる先生に薫陶を受けた。大学こそ教員と密な関係になることはなかったが、「その人」と出会い大きな影響を受けることになる。

コロナ期。人と会うことを制限された多くの人が交流を求めてネット社会へ繰り出した。私もその一人で、好きなジャンルの絵師をフォローしては、描き始めたばかりの稚拙な絵を投稿した。私にはお気に入りの絵師(以下その人)が居た。多くの絵師がデジタルでバリバリに加工した派手な絵を上げる中、その人の絵はペン一本で描かれたアナログ・モノクロの絵で一見地味だった。しかし線の一本一本が洗練されていて、一枚の絵からキャラクターの前後の動きや文脈が見えるようだった。手や表情の表現がクールかつ繊細だった。それでいて、多くの絵師が柔らかい、かわいい、セクシーさといったキャラへの願望を絵柄で表現させる一方で、その人の絵には雑多なニュアンスがなく透明感があった。

ある日、私の絵にいいねがついていた。絵が下手なのに加え、人と繋がることが億劫な私の当時フォロワーは3人ほどで、いいねがつくことは極稀だったので驚いた。いいねの主がその人であったことに更に驚いた。フォロワーを沢山抱え神絵を量産するその人に私のクソ絵が見られてしまったと思うと恥ずかしくなった。

暫くして、界隈のコミュ力の高い数人とリプを飛ばし合う関係になった。その勢いで、私はその人の神絵にもリプを飛ばし始めた。普通神絵師というのは一つのリプにあまり時間を掛けないものだが、その人は私のような弱小垢にも丁寧にお返事を下さり、時には会話が複数のツリーで同時進行するまでにもなった。

その人は丁寧な方なのでファンからのリプ全てにそのような対応をしていた訳だが、なぜか私は大きな勘違いをした。もしかしたらお友達(相互フォロー)の関係になれるかもしれないと。欲に目がくらんだ私はひとかけらだけ残った理性をフル稼働させ、どうしたら振り向いてもらえるかを考えた。DMが使えない状況で、その人にだけ思いを伝える方法…思いついたのは暗号を使うことだった。私とその人と、あと界隈の限られた人しか読めない暗号だ。幸いこの頃もフォロワーは少なかったため、自分のタイムラインには好き勝手な事を流すことができた。そしてその頃、その人は私をフォローしていないのにも関わらず私がクソ絵を上げる度になぜか嗅ぎつけていいねをくださっていたので、タイムラインで流しても届く自信はあった。暫くしても反応が無いときはそっと投稿削除すれば誰も傷つかないだろう。

すぐにその人からDMが届いた。例の暗号が手書きで送られてきた。ホーム画面からは思いが通じたことが確認できた。人生初のラブレターは大成功を収めたのだった。

私はやっと繋がったDMに、ここぞとばかり色々なことを書いた。ある時、恋愛の話になった。その人は「僕は恋愛しないタイプの人なので」と言った。何かがカチッとかみ合った音がした。数年前にアセクシャルとXジェンダーを自認して以降、コロナ禍の人恋しさから同期の男性と「付き合う」の契約(実態は小学生以下の内容だったが)をしたことでしばらく頭を離れていたアロマンティックアセクシャル(以下アセクシャル)の概念が、急に目の前に舞い戻ってきた。私にとって自身とほぼ同じ性自認を持つ人間との初めての出会いだった。

私はその人のことを男性だと思っていた。絵柄が女性らしくなかったのと、一人称が僕だったからだ。その頃の私は一人称は自分、文脈に適さない時は私を使っていたが、どうにも使いづらさを感じていた。「私も僕を使ってもいいと思いますか?」と聞いてみた。「一緒に僕を使っていきましょう」とその人は言った。その日から、私は僕になった。

その人は僕のクソ絵の山から比較的マシな絵を見つけると褒めてくれたり、リツイートしてくれた。そのおかげで、僕のフォロワーは急増した(と言っても下手なものは下手なのでたかは知れているが)。多くの人の目を意識したことで、僕の絵はクソ絵から下手絵にグレードアップした。

僕らはDMで、そのうちラインで、週一のペースで5-6行のメッセージを10通ほどやり取りした。ビデオ通話もした。初回、初めてお会いしたにも関わらず四時間も話した。僕らはいろんなことを話した。まず趣味が合った。オタク趣味以外にも好きなものがいくつも被った。互いにちょっと変人だった。僕自身もなかなかと自負しているが、その人は僕から見てもかなり、いや、すごく変わっていた。だからこそ人とは違う作品を生み出せるのだろうと妙に納得した。社会の見方が似ていた。同じマイノリティに属すせいか、注目する社会問題や理想が近かった。そして人付き合いの距離感がちょうどいい。自分にとって心地よいペースが相手にとっても心地よい(と信じている)。

半年に一度のペースのビデオ通話では近況報告に始まり趣味の話に移り最終的にはジェンダーや哲学的な重い話になる。一回につき四時間は超えるその対話は、僕にとっては半年間の思考の成果を披露する場であり、師匠との禅問答だ。たまにピンとこない話があると、その後しばらくその言葉の真意を考えることになるし、後から違う経験を通して意味が実感できることもある。

例えば最近だと、僕が「優しい人は傷付けてしまいそうなので本気で向き合えない」と言ったところ、その人は「優しい人は真意が読めずコミュニケーションがとりずらい」と言った。意味が良く分からなかった。他人に配慮することと真意を伝えることは両立すると思ったからだ。僕はシャワーを浴びながら、「優しい人」の定義を「自己犠牲をする人」と捉え直し、やっと自己解釈を通した。自身の意志より他人の意志を尊重するような人間に対し、どうして他人が本人の本来の意志を読みとることができようか。

その人は僕より少し年上でその分人生経験が豊富だ。つまり、僕がぶち当たる大抵の問題に、近い価値観を持つ者として一足先に攻略した人生の先輩なのだ。そしてその人は年齢性別関係なく接する、がポリシーなようで、僕に対しても対等に接してくださった(その人をリスペクトしているので、僕も勝手にそのポリシーを採用させて頂いている)。僕に合った知恵を持つ人間が、年下の僕のために時間を取って、なおかつ対等に話をしてくださる。なんてありがたいことなのだろう。僕はこの関係性の利益のウエイトが僕の方に大きく傾いていることを分かっている。だけど僕はまだまだこの関係性を維持したい。僕は普段はマメな連絡も、手紙なんかは尚更送るような人ではないのだけど、今回ばかりはちょっと真面目に関係性のメンテナンスに励んでいる。

さて、僕とその人のお話はここまでだ。ここで終わらせると僕がただ神絵師と仲良くなっただけの自慢話に聞こえるので、二つ、恋愛に絡めた考察を入れようと思う。

まず、僕はその人のことをとても好いているが、最初はその人の絵に惚れこんだ。そして絵から感じ取ったその人への直感は間違っていなかった。今でもその人の新規絵を見ると心臓に刺さったように感じることもあるくらい好きだし、同時に気持ちが膨張して本人への思いで胸が苦しくなったりする(某声優にも同じ感情を抱くことがある)。体験してみて、この気持ちと恋心は本質的には同じものではないかと考えている。ただ恋愛にはこれに加え性欲と独占欲が絡むだけで。

二つ目に、その人との流れを書き出してみると、SNSで出会い、ラブレターを送り、メッセージや手紙、濃密な対話を交わす、であり、巷の恋人並みに深い関係と見ている。僕には性という欲望から切り離された今の関係が美しく尊いものに見えて仕方がない。アセクシャルという特性は愛が無いとか寂しい人だとか誤解を受けやすいらしいが、僕はアセクシャル同士だとある意味どんな関係性よりも純粋で深い繋がりが生まれることを知っている。この一点があるだけでも、自身がアセクシャルに生まれて良かったと心から思う。

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