推し文化と信仰

世は大推し活時代。誰もがキャラクターなりアイドルなり有名人を「推す」時代。大きな金が動き、企業や政府までもが乗り出すほどの流れ。人々にとって「推し」とは何か、それらに何を求め、どんな感情を抱えているのか。人によるとは思うけど、一応Z世代の僕が実体験をもとに考えてみた。結論から言うと、今の推し文化は信仰の役割を担っていると推測している。が、残念なことにその根拠となる学術的な知識は一つも持ち合わせておらず、以降経験のみを以て語らせていただくことは最初に断っておく。


1僕にとっての推し

まず僕がどんなオタクなのかを述べさせていただく。僕は中高時代、結構激しめの運動部をやっていた。そんな生活にオタ活なぞ入ってくる余地はない。大学に上がって、一人暮らしを始めて、一人時間が増える中で、ひょんなことからアニメを通じてある人を崇めるようになった。ここで言う人とはキャラクターでなく、生身の人間、声優である。出会いからしばらく経つが、僕は飽きもせずずっとその人にクソデカ感情を抱えてきた。

そのクソデカ感情は僕の感覚で言うと信仰に近い。見た目が好きとか、恋愛的な好きでは断じてなく、仕事や技術から連想される人柄、思考、哲学に心酔しているのだ。普段は疑り深い僕でも、その人の言葉なら9割9分鵜呑みにするだろう。自分もそういう人間になりたいと思う点では憧れに近いのだが、その人は届かないくらいずっと遠くにいて、生涯をかけて目指すような人物なのだ。

最近、某選手権でも推しの定義が話題になった。最優秀をとったのは「人にオススメしたい」であったが、僕は納得できなかった。言葉の原義的にはそうなるだろうが、僕は特段他人に勧めたいとは思わない。僕がいくら語ったところでその人の価値が相手に100%伝わることはあり得ないのだから、そんなことよりこの思いを大切に抱えておきたいのである。本当に大切なものは他人に見せられない、というヤツである。

この感覚で推し活をしている人が全体のどのくらいを占めるのかは見当もつかない。しかし、僕の周りには近い感覚なのではないかと思われる人が高頻度で見られる。以前その人のイベントに参加した時、別の出演者さんが我々観客の表情を「神様にでも祈っているような」と表現した。また、僕のフォロワーさんの一人は「(推しは)常に自分の心の中に居る人」と表現した。どちらの例も、一般的な推しの定義とは少し外れているようだが、僕にとっての推しはこちらに近い。

2推し活とオタ活の違い

推し活が信仰というからには、推し文化とそれが普及する前から存在していたオタク文化との区別を明確にしておきたい。

僕にとってのオタクの代表格は岡田斗司夫だ。文化、宗教、歴史、そして漫画やアニメそのもの、幅広い膨大な知識を以て複数の漫画/アニメを読み解き、批評する。彼らオタクは漫画やアニメという媒体を愛していた。

彼らをオタクと定義するのなら、僕はオタクではない。まず、僕の知識は件の声優、その代表キャラ、そしてそのキャラが登場する作品についてのみだ。守備範囲が狭すぎる。そして楽しみ方もオタク的―つまり知識の蓄積や批評が中心―ではない。原作を読み返す頻度は低く、活動内容は主にツイッターでのその人に関する情報収集、その人が演じるキャラのイラスト投稿、カラオケでキャラソンを歌う、といった具合だ。つまり、漫画やアニメという媒体に拘ることなく、その人及びその周辺のコンテンツをピンポイントで楽しんでいる。

僕的オタ活内容は近年の若者の消費行動としてよく見られる、「トキ消費」というものらしい。「モノ消費」でも、体験/経験を買う「コト消費」でもなく、同じファンやオタク仲間と時間を共有するためにお金を使う「トキ消費」。オタク文化において作品は己を研鑽する閉じたツールだとすれば、推し文化において作品は他人と繋がるための開いたツールと言えるだろう。

アニメ/マンガの楽しみ方としての推し活が目立ってきた理由として、アニメや漫画が普及したことで、ライト層も従来のオタクと違う方法で作品を深く楽しむようになったためと考える。推し活には深い知識はさほど必要なく、必要であったとしてもピンポイントでの履修で事足りるため従来のオタ活より敷居が低い。さらに言えば、アニメ/マンガのライト層と、アイドルや俳優などのジャンル自体が最初から大衆的な層が共通点を持つことで融合し、推し活という一大ジャンルを築き上げたのだと考える。

3推し活と信仰

では、推し文化はなぜ大衆文化として拡散し定着しつつあるのか。それは現代日本では明確に宗教を信仰している人が少ないため「信仰」の枠に「推し」が入ってきたのだと考える。

そのポテンシャルは古来からのものであるように感じている。日本で最も歴史のある宗教は神道であり、八百万の神が登場する。それぞれの山や川にいちいち神がいて、挙句主食である米一粒一粒にもいるという世界観らしい。余談だが、僕は万物に魂を見出す古代日本人の気質は現代で剣やら船やら温泉やらをとりあえずキャラ化したがる気質にそのまま繋がっていると踏んでいる。そんな背景がある現代日本において生み出される作品は、いくら大衆向けであっても登場するキャラクターは多様だ。そして脇役でも悪役でも、作品内でスポットライトが当たる機会が比較的均等に与えられ、受け取り手からも注目され愛される。受け取り手からすれば自分の「お気に入り」を見つけ設定するという楽しみ方ができるということだ。その流れは、絶対的な神というより善悪が曖昧で何をしでかすか分からない妖精のような面を持っている八百万の神が、日本各地、各々の人間に崇められていた状態と重なるように僕の目には映る。つまり、今の日本人にとっての推しは八百万の神なのではないか。神、布教、祭壇、聖地巡礼など一見軽率に使われている言葉は、そう考えるとなかなか相応しい使われ方をしているように思えてくる。

4なぜ人間に信仰が必要なのか

人間の行動指針になりうるものは何か。ぱっと思いついたものだと、外的要因としてはリターンがあるか、社会的に認められるか;内的要因としては、自分がその行動を好んでいるか、その行動をする自分が好きか、などが挙げられる。

一つ目に挙げた要因は内容も行動も限られている。お金が欲しければ働かなくてはならないし、商品が欲しければお金を渡さなければならず、そこに選択の余地はない。二つ目の社会的な承認に関しては、個人の分断と価値観の多様化が進んだ現代では、自分の行動が身近な人々の価値観にそぐわないことも多い。その場合、今の社会でなく神や来世で認められることを期待することもできるが、特段宗教を持たない大多数の日本人にとって「神様が褒めてくださる」「来世で良いことが起こる」と考えることは難しい。三つ目に関しては、望まれる全ての行動を根底から好きになれってのは無理な話だ。以上のことから、僕は人が自分の行動に対し自由にモチベーションを設定できるとしたら最後の自己肯定感に縋るしかないと考える。

しかし、自己肯定感を維持するためにはまずは自分がどんな人間で有りたいかの具体的なイメージが必要になってくる。読書は良いことだと分かっていても長続きしない場合、読書が似合う知的な人間になるのだと思えれば持続できる。そしてどんな人間になりたいかを決める際に、手っ取り早いのは誰かをロールモデルとして掲げてしまうことである。その誰かを思い浮かべて、この行動によりその人に近付けそうか否か、その人物ならこの状況でどうするか、で自分の行動を決めるのである。フリーレンが言っていた「ヒンメルならそうした」ってやつだ。

そして僕にとってのヒンメルは件の声優なのだ。死後の世界や神といったファンタジーを信じなくても、心の見えるところに置いてくと、生きる指針、人生の教科書、バイブルになってくれる。だから推し=信仰=良く生きていく為に必要なもの、なのだ。そして推しを道標にする一番のメリットは柔軟性にある。自分の感性に合ったキャラ/人を信仰の対象に選べる。自分の理想が推しの姿と離れてきたときは違う推しを探せばいい。推しと自分の間には物理的、社会的、次元的な距離があり、把握しきれなければ直接関わる機会もないことが一般的であるため、ある程度なら推しを想像し自分の理想を押し付けることも許される。こんなにも現代人にぴったりな宗教は他にはあるまい。

5僕にとってその人はなんなのか

推しという言葉は色んなベクトルの感情を内包する。「顔がいい」も「タイプ」も「貢ぐのが生き甲斐」も全部含まれるが、推しであることの必要条件ではない。僕は今その声優さんを推しと呼んでいるが、それは推しという言葉の器の広さに甘えているだけで、必要十分にその存在を表現する言葉ではない。では何か。僕はicon、つまり崇拝の対象となる偶像、イデアを現象として見せてくれる鏡像だと思う。こうなりたい、のこうの部分は一人で捉えることが難しいため、それを体現して見せてくれる存在。

こんな考えを思いついたきっかけははっきりと覚えている。少し前に欧州の大きな教会へ訪れたことだ。一歩足を踏み入れると、荘厳さ、巨大さ、天から降るパイプオルガンの音に圧倒され、感情が昂った。そして昔、初めてディズニーランドに行った時の感情と重なることに気付いた。教会もディズニーもイデアを再現しているiconという点では同じなのではないか、宗教と娯楽は案外同質なのではないか、と思い至った。

現実的に考えたとき、同じ推しを共有しているコミュニティに身を置いたからと言って、その場の全員のイデアが一致しているとは限らない。我々は薄っすらと各々が持っているイデアと、眼の前にずらりと並べられたキャラ/人とを見比べて、最も近しいものをicon=推しとして選ぶという過程を踏んでいる。だから同一のキャラ/人の多面性のそれぞれ別のところを気に入って選んだ可能性も大いにあるし、そこを拡大解釈して「マイキャラ/人物像」として心に掲げているかもしれない。そのせいで解釈違いはよく起きるし、内面に入り込みすぎているせいで争いも起きる。先に推し活はコミュニケーションツールでもあると述べたが、同じ信仰の人とコミュニティを作るとそれはもう居心地が良いものなのだ。しかしそのために乗り越えなくてはならないハードルがあるのも確かで、友達になるまでは慎重にならざるを得ないし、それ以前に自衛や棲み分けは必須になる。僕は推しを布教したり大っぴらに見せびらかすこともしない。それぞれがそれぞれの推し=信仰を抱えていると思うからだ。

最近では一昔前に比べ、キャラが作中で身に着けているものや概念系のグッズよりもキャラの姿が印刷されたグッズの方が売れ行きが良いらしい。僕はこれも信仰が関係していると睨んでいる。例えばアクスタなんかは特に「ご本尊」感が強いというか、偶像そのものではないだろうか。彼らの姿そのものがイデアの概念であり、毎日眺めることで自らの生活を引き上げるためのアイテムなのである。

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