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尾崎世界観『母影』

 となりのベッドで、またお母さんが知らないおじさんをマッサージして直してる。私はいつも通り、空いてる方のベッドで宿題の漢字ドリルをやりながら待ってた。書くより読む方が得意だから、ふりがなを入れる今日の分は調子よく終わった。 (『母影』 5ページより )

はじめに

 今回は、尾崎世界観さんの新著『母影』についての読書メモを書いていきたいと思います。直近の芥川賞候補作品として、とても話題になった作品です。残念ながら受賞には至らなかったものの、尾崎さんの魅力が詰まった作品だったと思います。これからその魅力について詳述していきたいと思います。
 先に申し上げておくと、僕は、尾崎世界観のファンであり、クリープハイプのファンでもあります。自分の感想には正直に文字起こしをしようと思いますが、ファンの贔屓目のようなものが混じってしまうかもしれません。そちらが嫌な方はページを閉じていただきますよう、宜しくお願いいたします。

あらすじ

 小学校でも友だちをつくれず、居場所のない少女は、母親の勤めるマッサージ店の片隅で息を潜めている。お客さんの「こわれたところを直している」お母さんは、日に日に苦しそうになっていく。カーテンの向こうの母親が見えない。少女は願う。「もうこれ以上お母さんの変がどこにも行かないように」。(新潮社HPより引用)

参照動画について

  本作は、第164回芥川賞候補作として最終選考に選ばれましたが、今回は惜しくも受賞とはなりませんでした。最終選考にて選考委員の方々によって多くの議論がなされました。そちらについては、選考委員を代表して島田雅彦さんがお話しされたものがYoutubeに掲載されていますので、そちらをご参照ください。

 こちらの解説も踏まえた上で感想を書きたいと思います。後は、羽田圭介さんによる解説も参照しています。羽田さんの動画では、『母影』以外にも、直木賞候補作となった、加藤シゲアキさんの『オルタネート』についても語られています。羽田さんの解説においては、どちらかというと肯定的評価を中心にして語られていますので、僕の感想よりも分かりやすく、はっきりしているかもしれません…笑

感想

 それでは少しだけ感想について触れていきましょう。
 取り上げるポイントは、

①巧みな言葉遊び
②色褪せた世界観
③少女主観の物語

の3つとなっています。

 まず1つ目の「巧みな言葉遊び」です。タイトルからも見受けられますが、本作には言葉遊びがとても多く含まれています。ここには、音楽家としての尾崎世界観が顔を覗かせていますね。尾崎さんがボーカルを務めるバンド、クリープハイプの曲を聞いているような感覚になるんですね。本作『母影』は決して明るい話ではないのですが、この言葉遊びなんかは作品を楽しむポイントとしていいんじゃないかと思います。
 言葉遊びとして触れておきたいのは、タイトル「母影」と文章でカギになってくる「言ってもいい?」という表現です。
 タイトル「母影」と書いて面影(おもかげ)と読みます。本文になぞらえて言えば、「お母さんのこと(面影)をお母さんの陰影に触れて理解していく」みたいな感じになるかな?主人公の女の子が、大好きなお母さんの暗い部分(性的な仕事をしていること)についてにわかに感じ取り、性についてお母さんの影を通して考えることになります。作品を読んだら分かりますが、文字通り「影を通して」ですね。
 もう一点、鍵になる「言ってもいい?」という表現については、基本的に主人公の女の子による誤用です。どのように誤用なのかは明記を避けますが、本作の山場でこの「言っていい?」の解釈遊びのようなものが出てきて面白かったです。

 二つ目は、「色褪せた世界観」についてです。羽田圭介さんは、解説動画で「諦念」という言葉を用いて表していましたが、この「色褪せた世界観」というものの演出が素晴らしくも刺さるような作品でした。これはクリープハイプの楽曲を聞いていても思うことですが、尾崎さんの独特の価値観がそうさせているのかなと思います。クリープハイプの楽曲にもエロさ、妖艶さ、とちらでも表せない「危うさ」のようなものや、社会に対する微かな̚カドのようなものや諦めが出ています。2nd シングル「社会の窓」が「色褪せた世界観」と「危うさ」を分かりやすく出しているかな、と個人的に思います。


 最後は、「少女主観の物語」という点についてです。上記の芥川賞候補作の講評において島田雅彦さんもおっしゃっていましたが、語り手、一人称がおそらく小学校低学年かと思われる女の子となっています。この点は僕にとってはとても新鮮でした。
 ただ、芥川賞の選考過程においては賛否両論あったみたいですね、島田雅彦さんが言葉を選びながら丁寧に説明されている様子からも窺えます。
 島田さんが指摘された「少女視点のあざとさ」についてですが、個人的にあざとさとまではいかないものの、小学校低学年の女の子らしからぬ思考回路に「ん?」と思ったりした場面もありました。
 また、本作は一人称主観が女の子であることを意識して、彼女が読める文字を漢字で、読めないものをひらがなで書くというのを、作品を通して一貫させているんです。例えば、

このお店はせまいから、探けんしてもつまらない。(『面影』5ページより)

 探検の「検」の字は未習なんだろうな、きっと分からないからここは平仮名なんだろう、という推測ができます。ここに尾崎さんの努力と創意工夫が表れていました。
 だからこそ余計に、小学校低学年らしからぬ思考を見せたときや、自分の体験している日常に対しての違和感を見つけたら、余計にそれが目についてしまう、「あざとさ」を感じさせるのを助長してしまった可能性があります。(僕のような一般の本好きが解説できるほど簡単な話ではないと思いますが…)

おわりに

 様々な方が感想を付しているのをちらほら見ている中で、100分de名著の伊集院光さんがこんなことを言っていたのを記事で見ました。

 こんな変わったものの書き方、読みやすくてモヤモヤする作品があるんだって、…[中略]…、うまく説明できないんですけど、僕が思ったのは『吾輩は猫である』みたいな小説の発明だなと。子ども言葉でずっと書かれているんだけど、シビアな状況が子ども言葉のまま入ってきて。…[中略]…、僕の中では良い世界を見せてもらった (ORICON NEWSより)

 いちファンとしては、「尾崎さん!よかったですね!」と言いたい気持ちなんですけど、きっと尾崎さんからしたら、それも芥川賞の選考講評もいい意味で「どうでもいい」のではないかと思います。
 僕は本作を通して、小説家の尾崎世界観もまだまだ気になるなぁとおもった次第です。小説家としてももう少し追っかけようかと思いました。皆さんはどうですか…???


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