【小説】虹酔い
光に惹かれ羽虫は月に向かってひらひらと飛び、大気圏を越えられず死んだが、その果てしなく無謀だった軌跡はきっと幸せと言うのに値するだろう。
死者をこの世から切り取るのに思い出という刃物が必要だと思い込んでいる人間は多い。そうして気が済むようにできているんだ。死んだ者の後ろ髪を引きたいような懺悔に近いなにかを聞かされている間、わたしは静かに諦めていた。諦めきれない人が泣いている。泣いたら楽になれるのだろうか。理不尽な死を、いつものどこか苦しげな笑顔で迎えた彼は、強い薬のせいで引っ張るための後ろ髪すら無かった。白い棺の中、制服に包まれて、彼はあまりにもすっきりと死んでいた。
「忘れないであげてね」
誰かが言う。死んでしまった君を入れるために脳みその中で美しい春が桜を咲かせた。自由に舞う花弁一枚一枚に君を思い出すことになる。わたしはそういう仕組みの中で彼の死を保存しようと思った。
君の死さえなければ素晴らしい四月だった。自分もいつか死ぬなら、笑い話になりそうなくらいに完璧な季節に攫われたいし、自分がおいてけぼりにされるくらい美しい思い出にされたいと思う。
そうして春が終わった。
夏だね。受話器にそう告げると、無菌室のガラス一枚隔てた彼は揃いの受話器を耳に押しつけてひどく驚いた顔をした。
「聞いて。今まばたきしたら始業式の桜が若葉になっていたんだ」
「それはもう、旦那ァ、木漏れ日の時期ですよ木漏れ日」
「蝉の鳴き声すら聞いてない!」
「今度抜け殻でも持ってこようか」
お互い一秒先の不安さえ感じぬ振りをしていた。忘れていたかった? 否、忘れて、痛かった。こんな軽口叩いたって、君は、わたしは、ある一点を目指すように絶えず死に続けていたんだ。
「今度大部屋に入るまで良くなったら泡沫の花火の時期よのう。窓の大きな部屋にしてもらいなさい」
相手はガラス越しにううん、という仕草をしたがったように見え、腕から伸びたチューブ、彼がよくエクストラ血管と呼んでいたそれが至極邪魔そうだった。
「戦況は厳しいがいいアドバイスをありがとうフォックス」
「せめて名前で呼んでよ」
「いいじゃんフォックス。したたかなオンナ。かっこいい。あと泡沫の花火って意味的に最初から鎮火してない? 気のせい? 泡沫ってそもそも水のあぶくだよね?」
「泡沫って不思議だよね。ウタでもカタでもない。でも読むときはウタカタ」
「ちょっと意味が分かんないかも。院内学級にしばらく通ってないからかな」
「ちょっと待ってね」
わたしは、ガラスにはあっと息を吹きかけ白い曇りをつくり、指で「泡沫」と書いた。
「これでウタ、カタ。ごめんガラスだから逆向きだよね」
「ああ、うん分かる分かる。なんか見たことある」
それ、見つかったらすごい怒られるよ。彼は受話器を持ったまま、泡沫の文字を透き通してわたしを指さした。
「夏真っ盛り、季節忘れのイマジナリー書初め」
わたしの反省の色がガラスと同じ色をしている。
「ハネが甘い」
「おっとそろそろ時間だ」
「都合のいい時間め。60に刻んでやる。今日もありがとうフォックス」
「苦しゅうない」
同時に受話器を置き、手を振り合った。わたしは空気に解け始めた泡沫を手のひらで拭った。冷房が伝わってくるようで冷たい。清潔なガラスに、泡沫は汚い脂の虹色を残した。
点滴を避けながら息も絶え絶えに横になる君を見ていられなかったわたしは、踵に生えた根を引き千切る思いでナースセンターに向かう。受話器の重さを手首に残しながら。ご家族に挨拶して、いつもの生存率の話になって、君はいつもそんなこと跳ね飛ばしてきていたから、大丈夫だと思った。
あのときのバチが当たるように、先延ばしにしていた初めての夏がきた。君のいない夏。蝉がいのちを震わせて、土の中での鬱屈から解放されめいいっぱい叫ぶ。どこかの子どもが振る手さげ提灯。迎え火に帰ってくるはずなのにこんなに喉がつかえるのは、触れた墓石があまりにも季節と同じ温度をしていたからだ。ぬるい泡沫を墓石の向こうから君が触っている気がした。きっとあのときよりもわたしの指は震えてハネが甘い。叱ってください。こんなわたしを、どうか。墓前の花がしっとりと線香の香りを吸う。わたしを置き去りにした世界がこんなにいつも通りで、桜は正しく若葉になった。わたしだけがまだどうしてもわたしで、君に許しを乞う。君の望まない生き方しかできなくて、ごめんなさい。
感情というものが我慢できないことの表出だったとしたら。正常にそのシステムを働かせていれば、余りのようなものは余り為るすべてを無駄にせず自分にできただろうか。
秋分の彼岸会があける。どんぐりを踏みながら自然公園をあてもなく彷徨う。紅葉も見える。落葉も始まっていて、夏の若葉に隠れていた荒々しい幹が透いて見えるようになってきた。木も木らしく寒さを耐えることがあるなら、うまく笑えなくなった自分も自らの若葉が隠してくれるまで生きることができるだろうか。葉っぱだけが木じゃあないもんな。幹だけでも生きているんだ。行ってしまった季節を偲ぶように。
一人で花火を見れるようになったよ。でもどんな感情を当てはめたらいいのか分からないんだ。それでね、それこそが辛いんだ。
死んだら虹の橋を渡る、とか言っておいて、虹はいつも裾野から始まって裾野で終わるじゃあないか。虹通り帰って来てよ。馬鹿だなあ、誰もかも。そもそも子どもだった頃にみんな虹の麓には永遠にたどり着けないことを履修している。
今の自分には空が重くて俯く。円滑に進むためには、綺麗な景色を見ない方がいい。トンネルより、開けた夜が、暗く、果てしなく深いと言っても、誰が信じてくれるだろうか。わたしは怖い。言い訳のようにトンネルに息吹いている。それが正しい過ごし方だと今は信じるしかない。誰も信じてくれないし、そうだ、君なんて、真っ直ぐ指さして馬鹿笑いしてくれる奴だ。君こそが必要だった。わたしの人生から君が引き算されてこのかた、まるでゼロなんだよ。
木の梢からか、雫が一粒頬に落ちる。虹が出た。いよいよ駄目だと思った。
「わたしの心は今の体にはあり余り過ぎている。」
これは、眠りか覚醒か、とにかく自分が間違いなくスマートフォンに書き残した奇文です。象は涙を心に保存できますか? 蟻は心を蜜と流せますか? 先生は心を身体の中に収めていることができますか? わたしの書いているこれはいったい何ですか?
わたしは多分、彼の運命ごと愛していました。でもそれは他でもない彼が自分の運命ごと生きた証でもあります。あの人の努力はまるで等身大のあの人が裏切ってしまいました。
桜が咲かないようにいくら懇願しても、春の前では圧倒的に無力です。木の枝は律儀に蕾を養い、このままでは残酷に綻んでしまいます。明日を正当化させる木々の当たり前さに自分の胸の軋みを感じます。
これは多分、遺書です。先生に書き送ったすべてが、今日のわたしまでの遺書。先生を観測者にした、わたしの人生です。そしてこんなことは分かりきっているのですが、認めたくなくても、きっとわたしは明日も易々と遺書を書きます。生涯が遺作なので、細胞が更新するのをやめるまで。
終わりの景色に先生、貴方がいる風景を望んでしまってごめんなさい。そしてあのひとの近くに行きたいと願ってしまったことを、懺悔させてください。皆が葬式で済ませたことを涙で洗えないで、いつまでもあの会場で、わたしだけが座っています。
送信。
◇
Re:
君の涙を乾かさぬように
右手を右手にかさね
左手を首の後ろに添え
両手に息を通わせる
君の涙と泣き声が
その瞼の裏と呼応して
自覚できない恐怖の在り処を
確かに目覚めさせるまで
そこは たぶん言葉のない
細胞の震え
君が君になった場所
涙と泣き声だけが
君をそこに連れ戻す。
重ねた右手と
延髄に添えた左手に
辿り着いた
君の印が届くとき
君の凍りついた年齢が
春立つ風に ほどけるように
君を君に連れ帰る
それまでは
言葉は
沈黙すること
しかできないのだから
右手を右手にかさね
左手を首の後ろに添え
両手に息を通わせる
君の涙を乾かさぬように
◇
四月。懲りもせず巡ってきた春。わたしは色んな君を咀嚼してきた。君を探している。言葉の中に彷徨っている。すると、一日の間に君を思い出す時間が増えていく。君はどこにでもいる。しかし、ほら、桜が咲いた。車椅子に収まっていた君は今、随分と背が高くなった。
花が咲く。人生が囁く。咲いている間は生きているのだと。だって死者も漏れなく、散り行った花弁がなりを潜めていても、次を暖める細胞の行く手が風から愛されるのと同じようにできているのだから。
わたしも身ひとり身ひとつの命の重みを心いっぱいに抱えて、過たず行けば、道草をくっても秩序の列から外れても、いつかいっぱいいっぱいに死ぬことになるだろう。少し、遠回りをしようと思うんだ。恩返しをしなきゃいけないから。
わたしの命の恩人に、返したいものがたくさんあるんだ。
公園を歩いていた足が止まる。虹が出ていた。裾野が見つからないのなら、わたしはまだあそこへは行けない。
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