【寄稿】一般社団法人ほうせんか理事・愼 民子さん/朝鮮人大虐殺 記憶と継承で新しい100年の始まりを
近くの小学校教師の絹田幸恵は「あんな大きな川を人間が作ったなんて信じられない」という子どもたちの疑問に答えるため、1975年頃から地域を歩き、当時の様子を調べ始めました。
墨田区辺りで聞き取りをすると、1923年に起きた関東大震災時の話が何人もの人から出てきました。家族にも話さなかったことを、小柄で優し気な絹田を前にして、心に閉じ込めていた幼少期の記憶をついに語りだしたのでした。
●「追悼する会」の発足
「旧四ツ木橋の下手の川原では10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。橋の下手に3カ所くらい大きな穴を掘って埋めた。ひどいことをしたもんです。今でも骨が出るんじゃないかな」「1日の夜から、始まった」「死体を埋める穴を掘らされた」「遺体を焼くにおいがひどかった」「あの仏さんたち、よっぽど丁寧にお弔いしないと浮かばれねえな」などと。
聞いてしまったことに戸惑い、絹田はあちこちに相談し、つてを頼って「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」を立ち上げます。会の仲間たちと、遺骨を見つけるために河川敷を掘ってみましたが、見つかりませんでした。
実は、その後の調査で、1923年11月、荒川河川敷に警察官と乗馬憲兵が厳戒態勢を敷き、遺骨を掘り出してどこかへ運び去ったとの新聞記事が見つかったのです。朝鮮人の遺体が100数体も埋めてあったことが明らかになりました。
関東大震災の時、墨田区付近で何が起きていたのかを調べ上げ、それを『風よ鳳仙花の歌をはこべ』という1冊の本にまとめました。当時、そこに生きていた人、殺された人、殺されかけた人、見てしまった人、それぞれの記憶を、記録に残すことができたのです。その記録は「新しい記憶」となり、今、語り継がれています。
●追悼碑のある共生の町へ
遺骨探しはあきらめましたが、会は追悼碑の建立を次の目標に定めました。現場の河川敷に建てるため、地元墨田区の理解を求める陳情などをしましたが、ことごとく否定されました。公の責任として、せめて土地の提供を期待しましたが、それもかなわず、2009年、やむなく私有地を求め、荒川の土手の外に追悼碑「悼」を建てました。
地域に住む方々が朝に夕に駅に向かう道沿いに、その碑はあります。「町中から『反対しよう』という声があったけれど『本当のことだからいいんじゃない』と、言っといたわ!」と教えて下さった方もいます。今では道行く方が「お花きれいね」「お掃除有難う」と、声かけて下さいます。
碑の隣には、小さな資料館を作りました。事件の写真展示をし、説明もします。ここは、地域の交流の場所にもなっています。
私は「追悼碑のある町」と呼んでいますが、悲惨な事件があった場所だからこそ、記憶し、繰り返さない共生の町にする意味が大きいと思うのです。
●「殺される側」の人間として
私は、東京の品川区で生まれ育った韓国籍を持つ朝鮮人二世です。20代で事件を知りました。ひとたび地震などが起きたら、隣近所の人たちが私を殺しに来るという恐怖は大きかったのです。「20数年間の生きづらさは、殺される側の人間だったからだ」と合点しました。そして、殺されないために何ができるかを考え始め、殺さない人を増やすしかないと、本名「」を名乗りながら日本人社会を生きることにしました。
そうして、その20年後に、「追悼する会」に出会いました。会の日本人たちは加害者責任を問おうと、この事件に取り組んでいました。水を得た魚とは、当時の私のことです。うれしくて、「追悼する会」の仲間に入れてもらいました。
近頃、事件をなかったことにしたい人たちが声を上げています。朝鮮や韓国人へのヘイトスピーチと重なり、100年前の恐怖が今の事となって甦っています。「殺される恐怖」と「殺してしまうかもしれない恐怖」が再生産されています。これは、必ず止めなければいけません。
それでも、希望はあります。20〜30代の韓日の若者が「百年(ペンニョン)」というグループを立ち上げたのです。そこでは、この問題を学び共有し、繰り返さないための取り組みを始めています。国籍や出自や性別、どんな差別も暴力も許さないという思いが大きなパワーとなり、広がり続けています。これは大きな希望です。彼らは、新しい100年の始まりを歩み始めています。
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