小説『夏みかん』(作:雅哉)

 僕は、あの子の素顔を見たことがない。あの忌々しいウイルスから僕たちを守るため、大人たちはマスクの着用を義務化した。だから僕は好きな女の子どころか同級生の顔もまともに見たことはない。不便かって言われたらそりゃ不便だけど、病気になりたくなければするしかないよね。コミュニケーションはもっぱら目の部分を見て。ただ人と目を合わせるのはなんだか気恥ずかしい。そんな状況だから、くしゃっと目を細めて軽やかに笑うあの子に、僕は強く惹かれた。あの子の笑顔をずっと見ていたいと思う。たとえマスクの下が見えなかったとしても。僕はあの子に恋をしてる、んだと思う。でもさ、実際のところマスクの下って結構重要じゃない? 「マスクを外したらこいつこんな顔なんだ」と若干引いてしまうことも、正直言って何回かある。僕はそれが怖い。

「美術室の鍵、借りまーす」
 放課後、僕は美術室で絵を描く。一応部活だからなんだけど。美術室は三階にあって、グラウンドの運動部員が良く見える。あの子は陸上部だということも、この教室から見下ろしたことで知った。短距離走の選手なのだろう、いつも短い距離を走っている。その時もマスク。運動しているときくらい外してもよさそうなものを、外さないのはマスクに慣れすぎて気恥ずかしいからだと、僕は考える。なぜなら僕もそうだから。気が合いそうだな、そんなことないか。僕は書きかけの絵に向かう。どの絵の具を使おうか。悩んだ末に赤と黄、白を手に取る。あの子の笑顔を思い浮かべながら、納得いくまでそれらを混ぜ合わせる。オレンジ色に染まった筆は、キャンバスの上を走り、あの子の笑顔を色づけていく。マスクの下はまだ描かない。僕が、彼女に思いを告げたら、直接描きたいから。