小説『桃源郷』(作:親王)
土曜の夜。サイドテーブルに置いていたスマホが鳴り出した。ぶるぶると身震いして存在を誇示する薄い板に、僕はベッドから手を伸ばした。
スマホを手に取ってみると、画面には『安藤美香』の文字があった。大学で同じサークルだった女性だ。
あまりに唐突な連絡に、僕はベッドから身を起こした。安直な期待が頭によぎる。しかしそういえば、彼女は今年の年賀状で結婚を報告していた。相手は僕の知らない男性で、大学卒業後に出会った男性だろう。
まさか不倫? なんてな。
僕は間違い電話と踏んで、平板な声で電話に出た。
「もしもし?」
『あ、もしもし幸介くん?』
美香特有の、明るい声が耳に響く。スマホから耳を遠ざけたくなるほどに、溌剌とした声だ。
「そうだけど」
『久しぶり! いま大丈夫?』
間違い電話ではなさそうだ。しかし、三年も連絡をとってなかった僕になんの用がある?
僕が大丈夫と言うと、彼女は続けた。
『あのさ、幸介くんにお願いしたいことがあって。まず、明日空いてる?』
空いている。僕は頭の中で即答した。考えるまでもない。この半年ほど、日曜日にプライベートな用事が入ったことなどないのだ。
「えーと、明日は……」
しかしプライドがそうさせたのか、気がつくと僕はもったいつけるような言い方をしていた。
美香は僕の回答を静かに待っている。
「あ、明日は特になにも」
僕は据え置きのカレンダーを手に持って言った。無論、カレンダーにはほとんど何も書かれていない。
『ほんと! よかった』
美香はさも嬉しそうに言った。そのあと、美香の声が少し遠くなって言う。『駿ちゃん、幸介くん来れるって』
「駿ちゃん?」
僕は聞き返した。
『ああ、ごめんごめん。夫の名前。去年結婚したの』
「ああ、なるほどね」
美香の返答を聞いた途端、僕は自分の表情が暗くなっていくのを感じた。胸に抱いたあわい期待は、あまりにあっけなく打ち砕かれた。
僕は声に落胆の色が滲まぬよう、丁寧に言葉をつないだ。
「それで空いてるけど、どうして?」
『ああ、それなんだけど。山登りに、付き添ってほしくて』
「山登り?」
意外な頼みに、思わず復唱した。
『そう、山登り。幸介くん山登るのが趣味だって、大学のとき言ってたでしょ。私たち二人じゃ不安だから、ガイドしてもらいたくて』
頭が混乱してきた。山登りだなんて、前日に頼むことか?
「ええっとそれは、どのくらいの高さの山なの」
『うーん、たぶん600メートルとかそんくらいじゃないかな』
600メートル。高尾山と同じくらいだ。それくらいであれば、それほどの準備がなくても登ることができる。
『山頂ってわけじゃないんだけど、すごく綺麗な桜の木があって。ほんとう、嫌なこととか全部忘れられるくらい綺麗なんだよ』
美香は嬉々とした声で続けた。
僕は少し迷った挙句、美香の頼みを引き受けることにした。600メートルで、しかも山頂ではないとなれば、それほど負担の大きい話でもないと思ったからだ。
明日の集合時間と集合場所を確認して、僕は電話を切った。
こんなことになるなら、引き受けるんじゃなかった。
切り立った崖道の上、僕は声を上げて泣く美香を抱きしめて、その背をさすっていた。
ほんの一瞬だった。一瞬目を離しただけだった。
後ろをついてきていたはずの美香の夫――駿ちゃん――が、姿を消したのだ。
なんの音もしなかった。後ろを確認しようと振り返ると、そこには美香の姿しかなかった。
美香も気づかなかったらしい。彼がいないことを知ると、美香は取り乱した。
「幸介くん、どうしよう。駿ちゃん、駿ちゃんが」
僕は取り乱す美香の背中をさすりながら、思考を巡らせた。
どこか途中で置いてきた……はずはない。ついさっきまで、一緒だった。
なら考えられるのは――。
僕は切り立った崖の下を見下ろした。生い茂る緑が遠くに見える。
その深緑の遠さに、息を吞んだ。
考えたくはないけど、一番確率が高い。
「とにかく」
僕は美香の肩をつかみ、美香に向き直った。美香は目を真っ赤に腫らしている。
「とにかく、救助隊だ。泣いてても仕方が無い」
僕はスマホを取り出した。アンテナを見ると、ぎりぎりつながっている。110を押し、耳にスマホを押し当てた。
頼む。つながってくれ――
しかし僕の願いとは裏腹に、スマホからは無機質な女性の声が流れた。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか……』
僕はスマホを耳から外し、もう一度電波状況を確認する。
するとそこには、『圏外』の二文字が表示されていた。
「電波の届くところまで下りよう」
僕はスマホをポケットにしまい、美香の手を引いて、来た道を引き返そうとする。しかし、美香は動かなかった。
「早くしないと、ほんとうに手遅れになるぞ!」
美香を振り返り、僕はきつく言った。安請け合いした自分にも、責任の一端があると思った。
「ちがうの!」
すると、美香は大きな声をあげて首を振った。
僕は驚いて、美香の顔をまじまじと見た。
「ちがうって?」
「このもうちょっと上に、目的の桜の木がある。小さい頃、その桜の木の下でラジオを聞いてたから、電波がつながるはず」
言い切った美香の目は赤く潤んでいたが、凜々しかった。もうただ取り乱しているわけではなさそうだった。
僕は来た道を振り返った。
ここまで、かなり長い道のりを歩いてきた。美香の言うとおり目的地で電波がつながるのであれば、そちらに向かった方がいい。
僕はもう一度美香に向き直って、頷いた。
「わかった。登ろう。案内してくれ。危ないときは僕が後ろから声を出す」
僕と美香はスピードをあげ、目的地を目指して崖道を登った。ずんずんと前を行く美香に、僕は必死でついていった。愛する人を思う気持ちは、ときとして莫大な力を生むようだ。
最後は軽いロッククライミングだった。
「安全な道もあるけど、これが一番近いの」
そう言って岩に足をかけた美香に、僕は黙ってついていった。
そしていま、僕は最後の岩に右足を掛けた。そして右足を起点にぐっと身体を持ち上げると、突如として僕の前に色彩が現れた。
背の低い草花が茂っていて、青や紫の小さな花が風に揺れていた。さっきまで茶色い岩肌一色だった視界に、その色は鮮明に映った。
僕は身体を持ち上げて、崖を登り切った。土に汚れた手をはたきながら立ち上がると、先に登っていた美香が呆然と前に立っていた。
「あれ」
美香は静かに言って、人差し指で前方を示した。その先を目で追って、僕は思わず
「すごい」
と言葉を漏らした。
一面に生い茂る草花の中央に、大きな桜の木が一本立っている。風が吹くと枝がたわんで、散るピンク色の花びらが一本の川のように空を流れている。
無名な山に、こんな景色があっただなんて。
僕はしばらく、その光景に見とれていた。やがて我に返って美香に言った。
「あの桜のすぐ下なら、つながるんだよね」
僕は美香の返事を待たず、下生えを踏みつけながら桜の木に駆け寄った。
息が切れた。標高が高いからか、パニックになっていたからか。
桜の木が作る陰に入り込んだところで、僕はスマホを起動した。
『圏外』の二文字が、僕の目に飛び込んで来た。
「くそっ」
僕は大きく舌打ちした。
「ここもだめだ。やっぱり引き返そ……」
言いながら顔を上げると、僕は言葉を失った。もっと後ろにいると思っていた美香が、既に目の前に立っていたのだ。
しかし僕が絶句したのは、それだけが理由ではない。
美香の顔には、うっすらと笑みが浮かんでいたのだ。
美香は何も言わず、僕の手にあるスマホをすっと取り上げた。
「なにを――」
僕が言いかけると同時に、美香はスマホをつかんだ指をぱっとひろげ、スマホを下生えの中に落とした。
「だめって、何が?」
彼女は不気味に首を傾げた。不自然な微笑みが張り付いたその顔は、僕の知っている美香の温かい笑顔とは似ても似つかない。
僕は恐ろしくなって後ずさった。しかし背後には桜の木があり、僕は行き詰まる。
「言ったじゃない。嫌なこととか全部忘れられるって」
彼女は言って、静かに、一歩ずつ、僕に近寄ってきた。