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生きることを忘れないために山へ行く。

登山が、山が好き。なぜ、山に登るのか?
「そこに山があるからだ。」そんなことは無い。

自分は、職業登山家でもないし、長期縦走するわけでもなければ、難度の高いルートを登るわけでもないし、毎週のように登っているわけでもない。登るのはもっぱら近郊低山やグレーディング3C以下の山。そもそもちゃんと山に登り始めたのは約3年くらい前。全然最近の話。
それでも山が好きで、山へ行けない新型コロナウィルスによる今の状況がもどかしい。

土を踏むことすら苦手

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登山をするようになる以前、元々は好んでアウトドアなことをするタイプではなかった。整備されていない場所の土を踏むことすら嫌。森とか林とか意味不明。

そんな自分が、なぜ山を好きになり、山に登るのか。
いや、そもそも山が好きなんだろうか…?

なんとなく始めた、ただ苦しいだけの登山

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最初のきっかけは友人に誘われたバーベキューから。
そのバーベキューで子どもが自然を凄く楽しんでくれて、そこから徐々にハイキング、キャンプ、親子で低山ハイク。そして気づけば友人に誘われるがまま子どもを連れずに普通に登山へ。

初めてのちゃんとした登山は途中撤退。いま考えると体力もあまり無いのに5Bのルートを日帰りピストンしようとしていた。ただただ苦しかった記憶しかない。

しかし、それだけ苦しかった記憶しか無いのに1ヶ月後にはまた違う山へ行っていた。奥武蔵の低山縦走。多分3Bくらい。

そこから気づけば多少間が空いても年間12座前後のペースで登っている。

登らない理由を探す。それでも登る。

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登山の日の朝は決まって憂鬱になる。山行予定を決めるまではうきうきしている。なのに、朝になると行かない理由を探してしまう。
腰が痛いんじゃないか?風邪気味なんじゃないか?天気が悪くなるんじゃないか?
しかし、そんなこと無いのは分かっているので山へ向かう。そして登り始め序盤も大体辛く下山が頭をよぎる。

未だにそんな感じなのに約2ヶ月山へ行けない現状がもどかしい。ゴールデンウィーク山へ行けない日々。山へ行きたい。辛いはずなのに。
なぜ自分はそうまでして山に登りたいのか。登れない今だからこそ考えた。

なぜ山へ行くのか。

壁を避ける日々

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自分の人生は困難な壁に対して回避することが多かった。
高校受験、大学受験、就職活動、仕事でも極力リスクヘッジを心がけ冒険はしない。何をするにも余計なことを考えてしまい冒険することは滅多にない。途中で投げ出すことは基本無いが、予め困難なことは避ける。しかし理不尽に与えられた困難は必要が無ければ投げ出す。
最後までやりきったとしても、それは絶対に達成できることであり、達成感とは違う感覚を得る。また、理不尽な困難を乗り切ったとしても、達成感よりも虚無感を覚えることの方が多い。

ただ何のために働くのか分からない事が多かった。

シンプルに生きることだけを考える

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山は登頂しようが、途中で諦めようが、その瞬間に終わるわけではない。下山する必要がある。無事に下山して初めて終わり。途中で逃げることはできない。その間はただひたすらに生きることを最優先に行動する。しかも大体苦しい。
日常では苦しければ逃げることもできるし、余計なことを色々思考をしてしまう。山ではそういったことは無く、ただシンプルに生きることだけを考える。

なぜ山に登るのか

1日1日を、その瞬間を精一杯生きる。いつからかそんなことを意識もせず、ただ時間を無駄にすることの方が多くなってきたように思う。何かを成し遂げても達成感もなく、虚無感を覚え、ただ生かされている。

いまは昔ほど虚無感を覚えたり、流されるだけな事はないが、まだその瞬間を精一杯生きているとは言えないだろう。

無意識にそんな現状に危機感を覚え、精一杯生きることを忘れないために、常に生を意識し、それ以外の余計なことを考えないように、逃げ出さないように、山に登るのかもしれない。山に登るようになってからは仕事のやり方も私生活も変わったと思う。


コロナが明けたら、また山に行くだろう。
登ろうと思っていた山もまだまだたくさんある。見たい景色もあるし、歩きたい尾根もある。しかし、どれも本当の目的ではない。違う山でもいい。

ただ、生きることを忘れないために山へ行く。

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