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好きな曲を掘り下げると自分が見えてくる

頭の中に映像が浮かぶ曲が好きだ。それはきっと、自分の経験と歌詞をリンクできているのだろう。過去の喜怒哀楽が頭の引き出しから取り出され、歌詞に乗せてくれるのが、私にとって心地いい曲なのだ。

私の好きな曲を掘り下げると私が見えてきた。何かひとつの「好き」をきっかけに自分を知るのはとても健全だ。今回はそんな作業を皆さんに読んでいただきたい。

竹内まりや「駅」


良い音楽は時代を超える。30代の私でもこの曲の歌詞は胸に突き刺さり、学生時代の恋愛をありありと思い起こさせる。

あの頃の私はとても自分勝手で、自分だけの言葉を相手に投げてばかりいた。その結果、当然フラれる。私が面白いのはこの後で、どんどん離れて行く相手の足にすがり、行かないで泣きながら乞うのだ。こうやって文章にすると典型的なダメ男だ。相手に恐怖を与えたことは神に誓って無かったことを添える。そして、そんな羞恥を晒してやっと「自分にできることはやった」と、妙にスッキリと次の恋に向かえたのだ。

『ひとつ隣の車両に乗り うつむく横顔見ていたら 思わず涙 あふれてきそう』

有名な曲であるため説明は省かせていただく。この「となりの車両」というのがグッと脳内映像を際立たせる。相手の視界に入りたいのか、話しかけたいのか、気づいて欲しいのか、自分でも分からないのだ。これは未練という言葉では片付かない、とても曖昧な気持ちだ。その恋は自身の中でも終結しており、再びの進展を望んでいる訳ではない。しかし、当時の記憶が相手を数駅だけ追いかけさせる。たまらん。

数年前の話に脱線するが、勤めていた会社の出張で福岡に行ったことがある。学生時代に連絡をとりあっていた女性が、卒業時に「福岡空港で働くことになった」と言っていたのを思い出し、その僅か、ひとかけらの情報を頼りに、空港内を探して歩いたことがある。私はまさに「駅」の世界感の中にいた。

既婚の大人にも、過去の恋愛感情が蘇るときが、確かにある(ごめんなさい)。いや、蘇るという言葉は大袈裟で、煙がムクムクと立ち上り大きくなるのではない。秋になると漂う金木犀の香りのように「さりげない」もので、気持ちが高揚するのではなく心地よくなるものだ。

「竹内まりやの駅現象」とでも呼ぼうこの感情は、浮気の一部に入るのかもしれない。しかし過去の記憶がその感情を呼び起こす以上、人間の本能であり自然な感情なのだ。金木犀の香りを楽しむように、そんな自分をひとり楽しんでも文句は言われないだろう。


DISH「猫」


馬鹿みたいに自己中心的だった学生時代の恋は、私に大きな後悔と復活を繰り返させ、成長させてくれた。同じような失敗を繰り返すこともあったが、20代前半というのはそんなものだ。むしろ、少しづつでも相手の立場に立って物事を考えられるようになっていけたのは、若者としては優秀だ。そういう意味では、青年期における恋愛という要素は私にとって必要不可欠だったのかもしれない。

「猫」という曲を知ったのはつい最近のことだ。TVはニュースしか見ない生活は、いつのまにか私の人生から流行を追うことを無くしていた。インターネットから得る情報は個人化が進み、勝手に私が興味ある話題だけを目の前に差し出してくる。そんな閉鎖された視界に両手をねじ込み広げようとしなければ、この曲を知ることは無かったのかもしれない。随分と遅れてでも私のアンテナがこの曲に反応したのは奇跡だ。

『会いたいんだ忘れられない 猫になってでも現れてほしい           いつか君がフラッと現れて 僕はまた、幸せで』

この歌詞の前は「もし戻って来てくれたなら誠心誠意あなたに尽くしますので」という内容になっている。だから猫になってでも現れて欲しいのだ。僅かな希望を捨てきれず、戻った恋人との幸せな日々を想像する最後は、泣きながら縋り付いた私の若かりし日々とリンクする。

「残念ですが戻りません」と、夕焼けの染まる帰り道にフラフラと歩く若者に投げつける言葉は沢山浮かぶ。しかし大切なのはそこじゃない。他人からの言葉で終結するような恋では無いのだ。切り替えるには「自分」が最後までやり切らないとダメだ、というのが私の持論だ。つまり、もう一度だけ彼女に泣いて縋り付き、土下座して謝り、彼女の冷静で人間味の無い最後通告に刺されなければ、次には進めないのだ。

しかし未練というのはそう悪くない人間の心情だ。未練たらたらの自分を客観的に見つめる思考は、そのみっともない自分をも認め、年輪となって成長させてくれる。未練とはなかなか表に出し辛いものだが、本当は誰しも持っているはずなのだ。問題になるのは、それが「みっともない」と気づかない場合であって、離れようとする相手を力で繋ごうとする者は、マジかっこ悪いのである。

今の世の中は感情を表に出すことを避ける傾向だ。しかし抑え込んだ感情は抑え込んだままでは蒸発などしない。誰かに漏らす、一人で漏らす、綴る。そうやって自分の未練を見えるようにし、自分の中から引っ張り出して対面することが必要なのだ。

フラれるのも、未練を持つというのも、ちょっとカッコ悪いかもしれない。しかし自分のカッコ悪さに向き合う人は、めちゃくちゃカッコ良いのである。

松崎ナオ「川べりの家」


私は人間の営みを感じられる曲が好きだ。それは歌詞やメロディーで表現されるだけでなく、声色、声量、前奏や間奏、様々な方法で感じ取ることができる。しかし「川べりの家」を語ろうとすれば、NHK「ドキュメント72時間」の『映像』を外すことはできない。それは松崎ナオさんの望むところなのかどうかは分からないが、私にとってはその番組に出てくる沢山の人の言葉や表情がこの曲の雰囲気を際立たせている。

この番組を見ていると、人は語りたい生き物なんだなと強く感じる。NHKのカメラが突然目の前に現れて、最初は驚き、しどろもどろになりながら答える人も、いつの間にか自分の辛い現状や身内の自慢、過去の自分について饒舌に語り始める。それはひとえにインタビューアーの技術で引き出されるのだが、それでも現代の時代背景としては孤独な人が多い印象だ。誰しも自分の話を聴いて欲しいのだ。

『とても儚いものだから 大切にして 一瞬しかない 一瞬しかない』

以前にこの番組でこの曲がエンディングテーマに選ばれた経緯が紹介された。番組プロデューサーがある店舗に立ち寄ったとき、BGMとして流れていたのを耳にし直観的に決定したとのこと。なので番組より先に曲は完成していたのだが、この曲はまるでカメラの前に立つ人々の言葉を集めたかのように、番組と雰囲気が重なる。

「一瞬しかない」という歌詞の繰り返しは「あなたは本当にそれを分かっていますか?」と問われているようだ。孤独な人に寄り添うかのように、優しく丁寧に、そして少し悲しく聴こえるこの曲は、人間の一生はいつ終わるか分らないことを改めて突きつけて来る。

人生があって音楽がある

いま3歳の息子は戦隊ヒーローが大好きである。そのテーマソングを夢中で聴いて歌っている。しかし8か月の娘はそれに全く反応しない。兄が歌って踊る様子をポカンと見つめた後、早くおっぱいをよこせと金切り声を上げる。僅か数年の人生でも、人間は曲を選んでいるということだ。

その人が聴いている音楽は、その人自身を映す。音楽を選ぶ心の根底には、それを選ぶ要素がある。これまでの経験や記憶が、偶然耳に入ってきたメロディーに反応し、誰の歌だろうかと検索する。「この曲が人生を変えました」というエピソードもあるが、その曲を選んでしまう自分が居た方が先なのだ。その歌詞が自身を肯定し、メロディーが背中を押したことに他ならない。

それを選んでしまうのは何故かと考えることは、自分の根底を見つける方法になる。「音楽」という一つのカテゴリーでも気づきはあったが、これを様々な分野、例えば本や服、恋人などについて考えることで、自分を深堀りできる。それによって自分の浅はかさに気づくことも前向きな発見だ。これからの道を考えるヒントになるだろう。

私は今日も息子のヒーローごっこに付き合わされる。娘を抱きながら悪役をこなし、ヒーローの行く手を阻みながらも勇気と正義の歌を奏でる。60kcalを消費する大変なタスクだ。しかしながら、そのストレート過ぎる歌詞が妙に心地いい。

子供の頃に夢中になった私の記憶がそうさせるのか、それとも大人になり過ぎた自分に足りない「まっすぐ」を求めているのか。

どちらにせよ、これまでの経験と記憶がその曲を選ばせている。



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