『ゴンドラの唄』

黒澤明監督の映画『生きる』(1952)が外国でリメイクされ話題を呼んでいる。先日CSでオリジナルの『生きる』を放映していたので録画して毎日少しづつだけれど鑑賞している。全部通しては以前見ているのだが、ゆっくりじっくりと見るのは初めて。この映画2時間23分あり、けっこう長いのだ。でもさすがは黒澤明監督は飽きさせないどちらかというと深刻なテーマなのだが冒頭から軽いコメディタッチなのだ、ワタシはそう感じる。主人公が初めて訪れるキャバレーとかストリップショーとかの多数が画面に映る場面でもすみまで演出が行き届いている。ある場面、一瞬クラブの女の子がまったく演技無しでカメラを見ているようなシーンがあったのだが、その女優さんがセリフをひとこと言ったらその娘にふさわしいキャラがちゃんと表現されていたのには驚いた。最初あんな無表情だったのが、あ、こんな子いるよなって納得させる演出。女優さんの無表情まで計算していたのか、すごいなと感じました。そんなすごい黒澤さんが作る映画にはほとんど原作があって、その原作も名の通った傑作小説文芸小説だという。この『生きる』も原作がトルストイの『イワン・イリイチの死』という小説らしい。黒澤さんはロシア文学好きらしい。あまり有名でない映画だけど黒澤映画にはドストエフスキー原作の『白痴』という作品もありこれも数年前CSで鑑賞したことがある。『生きる』を見ながらトルストイの『イワン・イリイチの死』という小説を読みたくなった。当然読んでません。ドストエフスキーなら何冊か読んだんですけど。それでネットでその小説のあらすじとネタバレ検索しました。ネット時代の読書もどきですね。トルストイの『イワン・イリイチの死』という小説はロシアの中流階級の裁判官のイワンさんが順風満帆な人生のさなか怪我により死ななければならないという状況でのイワンさんの苦悩が描かれていると言う。死を宣告され、家族には疎まれ、自分の人生は成功しているように見えて実は失敗だったという思いに駆られたイワンさんは自分の周囲の人間たちを憎んだ、がしかしあるきっかけで、自分が死ぬまでの間その短い時間の中でも誰かのためにできることがある、自分の「死」でさえもそれが訪れることによって家族や世話を焼いてくれる下男たちの負担を開放することになる・・・そう思って死んでいくのである。ってこれで合ってるのかなあらすじ。これって『生きる』もそうだけど『羅生門』もちろん映画のほうね、のラストにも通じるんですね。飢えた戦国難民とも言える杣売り(そまうり)のこれも演じているのが志村喬さんだが、羅生門に捨てられていた赤ん坊を抱き上げ「ひとり育てるのも、ふたり育てるのも同じ苦労だ」と言って赤ん坊を抱いて去っていくラスト。これは「一人殺しも二人殺すも同じだ」「死刑になりたかったから見ず知らずな人を殺してみた」という現代の殺人者の論理の対局にあるものですね。その時人間はどちらを選ぶか?いきなりそばに現れて「それはちがうだろ」と諭してくれる超越的な第三者=「神」などいないのですから。杣売りだって泣いている捨て子の肌着を剥ぎ取って自分の子供に着せることも出来たのでしょう。その時あなたは、わたしは、どうする?という問いかけ、もしくは訴えかけが映画や小説に感動をもたらすのでしょう、逆にこれらの小説・映画見てもなんも感じない退屈なだけという人もいるでしょう。でもそんな人でも「その時」はお腹すかした赤ん坊を抱き上げるかもしれないんですね。

ということでまた長くなりました、この『生きる』で志村喬さんが夜ブランコで歌う『ゴンドラの歌』・・・ワタシ、アルコール入ってこの場面見ると画面の中の志村喬さんと同じ涙目になってしまいます。そしていまこの『ゴンドラの唄』を自分のレパートリィにいれようと耳コピを試みています。昔の歌だからと侮ってはいけません、けっこう難しい歌です。歌えたら一度志村喬さんのように涙目になるくらい感情移入してステージで歌えたらな、と思います。

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