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窓辺と振り子時計

結露した窓ガラスが外灯をくもらせて、霧が路面と空気との境界を滲ませている。マホガニーの木枠からこぼれ落ちた雫が床を濡らした。遠くの森で歌を転がした鳩が、ゆったりと羽ばたき市街へ向かっている。ほとんど消えかかった影が私の足元でくるりと踊り、中途半端に閉められたクローゼットが心を波立たせた。珊瑚色さんごいろの爪がじわりと冷える朝はどこかせわしなくて、こんな時に限って掛け違えた襟元えりもとのボタンは無造作に巻いたマフラーで誤魔化すことしか出来ない。

メトロノームの遊錐ゆうすいを六十の目盛に合わせ、深呼吸してスティックを構える。グラウンドに飛び交う号令はもうすっかり聞き慣れてしまって、ともすれば生活の一部に組み込まれかねないリズムをこっそり口ずさんだ。肩を丸めてマウスピースを温める横顔を盗み見つつ、きりきりと螺子ねじを回す。階段を登るローファーの足音がソロからトゥッティになった頃、私の両手は四本のマレットを転がしていた。

つい数日前に配られたばかりだというのに、ファイルにじられた楽譜にはもう私の筆跡がそこかしこに刻まれている。ガラス越しに音階をなぞるクラリネットが軽快にはしゃぎ、隣でティンパニが空気を震わせた。誰もタクトを振るう人なんていないのに、この空間を飛び跳ね、弾きまわるフレーズはそれだけでコンチェルトのようだ。無造作で生まれっぱなしのような音楽に片足をかけて、白と黒の譜面に身を委ねれば、夢のように心地良い。しかし、それもそっけないチャイムに遮られて霧散した。

湿度が高いこの国では、窓が切り取る稜線りょうせんを見つけるにも苦労する。空を覆い隠す靄はまるでベールのようにはためいて、雲の反対側に思いをせるのもまた一興なのだけれど。むせかえるほど密度の高い暖風がぶわりと髪を揺らして、頬ばかり重たくほてるのがわずらわしい。コントラバスの開放弦からはじまり、ようやっとホルンのhiFが高らかに鳴る。手持ち無沙汰にマレットを回せば、「行儀が悪い」と嗜められた。仕方が無いから膝を抱えて腰を下ろすと、窓の外はもう見えなくなってしまった。

心がいつものところに無いような、すわりの悪い浮遊感ばかりが先歩きする季節だ。雨まじりの雪が溶けるのはとても早い。つるりと湿る廊下も、思うように炭が乗らないノートも、ネズミがチーズを啄むように少しずつ私の日常を削っていく。跡形も無くなってしまえばいっそ綺麗かもしれないけれど、ほんの少し見え隠れする意地がそうすまいと抗うのだ。だから、皿に残ったチーズの欠片が際立って、一層平常心がざわめく。

前髪にまとわりつくナーバスをどうにかしようと出窓を開けたは良いものの、地平線がおぼろげな景色はあまり爽快とは言えなかった。刺すような十二月の風がただ辛くて、またすぐに隙間無くカーテンを閉める。うららかな太陽光にしゃんと背中を押されたいときもあるし、わざとらしい白熱灯に腕を引かれたいときもある──そういう風に思えば、悶々とたゆんだ冬さえ好きになれると信じたい。とにかく、私は律するよりも鼓舞する方が性に合っているから、自由に縛られないように息を吐く。

夕暮れにクロノスタシスを感じる帰り道は、つい刻み足で落ち葉を踏んでしまう。何に駆り立てられているわけでも無いけれど、迫り来る清算の日から逃れたくて、無意識に体がそうしているのかもしれないと思う。顔を上げればアイボリーの外套がせっつかれているかのように交差して、正面から風をあびたマフラーが強くはためいている。磨かれたハイヒールが石畳を蹴る音があまりにも規則的だから、それがあの部屋のメトロノームを思い起こして気分が和らいだ。あいにくと足を止める余裕は無いけれど、幾分か自分のペースで前に進むことが出来る。残雪を踏み柔らかくなったローファーで体重をかける爽快感が今は何よりも救いだ。足跡がぐじゅりと潤むのを振り返る気は不思議と起きなかった。

湿気と疲労がのしかかった荷物を床に下ろし、冷え切ったブレザーも脱がないままでソファに腰掛ける。出掛けたままのリビングはやたらに寒くて、慌てて火をつけたけれどまだ歯の根が合わない。様々なアクセサリーで飾られた壁で一際存在感を示す振り子時計を見やり、どうやら刻限に間に合ったようだと胸を撫で下ろす。ぱちりと薪を燃やす暖炉に瞬きを一つして、おもむろに一冊のノートを取り出した。そこに記されているのは日々の所感や小説の走り書きなどではなく、ある人物の記憶である。めくるめく感情と風景に結びついた歴史を辿り、こうして文字を綴っている。ページを捲り、白紙の罫線に目線を落とす。ここに、今から新しい過去を刻むのだ。

カーテンの隙間を縫って溢れた夜空は、朝日色の焚き火に包まれてキャンドルの灯りに溶ける。
メランコリーを巻き込んだ雪解けのような蝋が、ゆるやかに燭台を撫でた。

ノートが途切れる日が来るまで、記憶は終わらない。

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