形而上学にとどめを

『動物に「心」は必要か』の序文「擬人主義にとどめを」を読んだ。
面白い序文だった。文章が巧みだ。そのうち買って読みたいと思う。

読んで思ったのは、「哲学でも同じことが言えるのではないか」ということだ。曰く、形而上学にとどめを。

時を同じくして、以下のnoteを読む機会があった。「擬人主義にとどめを」のような美文は私には書けないが、このnoteに反論する形で形而上学を批判してみたい。

最初に断っておくことがふたつある。
ひとつ目。私には職業哲学者に対するやっかみがある。私にはどうしても程度が低いとしか思えない研究、言説がメシの種になるなら、その金を何か他の有意義なことに使ってもらいたい。正直に言えば、私の批判が適切であるなら、哲学者が受け取っている報酬を、代わりに私が受け取りたい。
ふたつ目。私自身の思想的(この「思想」という言い回しは業界用語ぽく気に喰わないが)背景は主にWittgenstein後期の言語ゲームとRussellの哲学に依拠している。過去に書いた記事を参照してもらえれば幸いだが、読まなくても問題はない。

批判できる点は多々ある。

ひとつ目。
かなり読みにくい。平易かつ丁寧に書こうとする意図は伝わるが、同じことが再三再四書いてありクドい。また本論に関係ない表現が多く要点が掴みづらい。「正当です」とか「重要です」とか書いてはある(検索したところ、「正当」は11回、「重要」は36回登場する)ものの、正直なぜそうなるのかわからない。「正当です」「重要です」といくら書かれても、理由がはっきりしなければ納得するはずがない。これは私の読解力の問題ではないことははっきり述べておく。私が読んで分かりやすい文章というものは(仮に内容が複雑なものであっても)経験的に相当数存在する。したがって、著述が比較的上手くいっていないか、意図的に論点をぼかしており、結果として混乱させられているかの二択である。形而上学の場合、こういった読解に関する問題は起きやすい。先日の谷村ノートが思い起こされる。
この読解の問題について、もちろん単に文章を書くのが下手という場合もあることだろう。一方で私は、戦術的に手法として採用している可能性を疑っている。読解の難しい文章をわざと構成することで、相手に要点をまとめ解釈させ、その読解が、①好意的な場合は褒め、②批判的な場合は内容の複雑さや相手の読解力の問題にすり替える、といった戦術を採ることが可能である。デメリットは難解にすることでそもそも読まれづらくなることだが、耳目を惹くお題目(今回の場合は「生き方の問題」「入門」など)があれば、ある程度フォローできる。またこの戦術は想定する読者の選別にもなる。「難解な文章を読み解き、分かりやすく再構成し、論述の穴を突く」というような検証のコストは、ある程度以上知的な読者は(ほぼ)払わない。そもそも不必要に難解だと判断した時点で読者であることを辞める。必然的に読むのは穴があっても誤魔化される読者だが、そういった読者はそもそも批判できない。したがって批判を防ぐ効果が期待できる。検証のコストを払うのは主に同業者だが、これについては後述する。また、誤魔化しの効く読者に対しては、耳目を惹くお題目の効果は高いはずである。このような手法は、暗に読者を愚弄していると言わざるを得ない。
穿った見方ではあるが、実際に効果的なら使われないわけがない、と私は思う。この指摘に対する心理学的あるいは実験哲学的な実証が待たれるところである。もちろん一般論であり、今回の記事が該当している、と言う心算はない。ただ、直接この批判を躱したければ書き直すべきだろう。

ふたつ目。
「生き方の問題」には誇張がある。まず以て例に出されているような疑問は、哲学者だけがそう(疑問に)思うわけではない。かなりの人は大なり小なり疑問を抱くような事柄である。哲学者だけが「当たり前」を疑問に思うわけではない。哲学者だけが「当たり前」を(哲学的)問題にするのだ、と言った方が適当だろう。実際私は疑問を持つが問題にはしない。疑問を持つことと、それを問題として扱うことは違う。哲学者にはネガティブ・ケイパビリティが足りない疑惑がある(これは皮肉である)。
このような事態の誇張によって、哲学者だけが「当たり前」を疑うことができる、その能力を持つ、という特権的地位を与えていると言ってよい。ご丁寧に、哲学者はそうしないこともできるという断りも入れている。実際には哲学者でない人でも疑問に思うし、やろうと思えば問題にすることもできるのだから、哲学者だけが特別なわけではない。この誇張によるメリットはふたつある。ひとつは疑問を持つ読者に「自分も哲学者と同じように特別なのだ」と錯覚させる効果。もうひとつは同業者の批判を躱す効果である。
この効果を増すために、当該の記事では主語に「哲学者」という名称を使っている。哲学にも様々な専門分野があり、形而上学を専門としない哲学者、学説的にはむしろ形而上学に反する立場の哲学者がいる。そういう人たちは言説の責任を取れないので、一括りに形而上学者と同じ扱いをされることは避けたい。職業哲学者たる著者もその点は知っているはずである。正確を期せば、主語はせめて「形而上学者」にするべきだが、実際にはそうなっておらず、「哲学者」の名称を使っている。読者への効果の程については、「あなたは哲学者だ」と褒められた時と、「あなたは形而上学者だ」と褒められた時、どちらがより分かりやすく、また人口に膾炙しやすいかを考えれば一目瞭然であろう。また、同業者への効果については、内容が基本的に哲学者を擁護し賛美するものであることを考えればよい。「あなたは普通の人ならスルーしてしまう『当たり前』を疑問視できる特別な人間だ。(相手の専門分野の問題)のような問題に取り組むことは形而上学者から見ても素晴らしいことだ」と(暗に)言われて悪い気はしないだろう。鼻白むかもしれないが。あえて「哲学者」とすることで、「形而上学者」と書いていればスルーされてしまう事態を避け、同業者の関心を惹く効果も期待できる。同業者から追及された場合にも、「この”哲学者”は”物事をよく考える人”くらいの意味だ」という弁明ができる(かなり苦しいが)。
これらの誇張は学問に携わる者なら当然持つべき学術的正しさへの希求を欠き、読者や同業者を騙す手法であると言わざるを得ない。

三つ目。
論点がズレている。当該記事の「生き方の問題である」という論は、著者が挙げている形而上学への三つの批判、「恣意的である」「科学的問題である」「議論の価値がない(どうでもよい、の意訳)」についての解答になっていない。この論に対する上記三つの批判は依然として有効である。
まず「恣意的である」という批判について。先の誇張もそうだが、続く「当たり前に対する両態度が、客観的には良し悪しが決まらない対等なものである」とする主張もまた恣意的である。態度の違いが生き方の違いだと論ずるのは個々人の価値観の問題へのすり替えであり、価値観の問題であれば、客観性を持ち出して両態度が対等であることは当然でしかない(そもそも主観的な問題なので客観性を問えない)。当該記事でも認められているように、哲学者も普段の生活においては疑問を持っても問題にすることはない。したがって少なくとも実生活上には形而上学的問題についての知的重要性は存在せず、ここに当たり前に対する態度は関係しない。実生活上に重要性がないにも関わらず、なおそれを問題とすることに重要性があると示さねばならない。だが、この「生き方の問題である」という論はこれに先だって解説されている形而上学の活動(問題と解答)から導出されたものではなく、またそこに導入される概念の根拠になるものでもない。解説にある形而上学の問題の定式化のように、突如降ってわいた恣意的な定義と何ら変わりない。したがってこの「生き方の問題である」という論は、形而上学が重要であることを示す目的で逆算的に持ち出されたものであり、まさに「恣意的である」という批判に足るものである。

次に「科学的問題である」という批判について。例に挙げられている異同の問題であれば、そもそも脳が感覚器官からの情報をどうにかして処理し認知が生まれ、異同の差異を何らかの方法で検知している、という科学的解答があるのに対し、それでもなお形而上学(的な問い)が重要である事由を解答せねばならない。ここで具体的な脳の情報処理の仕方、検知の仕方が未知であることは重要ではない。「生き方の問題である」という論は、全くこの批判への解答になっていない。また、「科学的問題である」という批判に曝された時、生き方の問題は、当たり前への問題提起の有無という態度の違いから、科学的事実に対する態度の違いの問題へと後退する(念のため、これは交代の誤変換ではない)。この問題は「生き方の問題である」とするよりも、明示的で複雑な問題である。
電子レンジを例にとって考えてみよう。電子レンジの動作原理は科学的には解明されていると言ってよい。マイクロ波の振動によって水や油の分子運動を加速することで温かくなることは私も知っている。電子レンジ(の動作)を科学的事実として認め疑問を抱かないことに対し、なおそれに疑問を抱き問題化することに重要性がある、と言うことは、むしろ不当であると私は言いたい。別に電子レンジでなくともよい。雨が降ると公園の砂場が泥んこになるとか、水たまりは蒸発してそのうち無くなるとか、食べ物は放置すると痛んだりカビたり腐ったりするとか。そのような経験的事実と知的探究との接合が生活を支えている。人間は生活において疑問に思う数々のことを、知的探究と技術的研鑽、そして近代においては教育によって言わば潰してきたのであり、今日の発展と生活を支える基盤とは脈々と続くこれらの努力の結果である。この歴史的事実を無視し、余人が少々疑問に思う程度のことを重要だとすることは明らかに不当であろう。
形而上学が公然と批判されるようになったのは、私が知る限り論理実証主義からである。歴史に鑑みれば比較的近代になるまで、形而上学の有効性、重要性が疑われることはなかった。形而上学への批判は、近代化すなわち科学の興隆と呼応していると言ってもよい。これに照らして、「なぜ人は科学的探究やその教育によって疑問を(形而上学的)問題にしなくなるのか」という問題(あるいは逆問題でもよいが)について、この問題自体が究極的には科学的問題であると批判することは、「生き方の問題である」とする論に対しても依然として有効である。

最後に「議論の価値がない」という批判について。形而上学では電子レンジの動作原理のような、科学的に明らかで、取るに足らないと見做される問題は扱われない。このことは、形而上学自身が何らかの基準に照らして扱う問題を選り好みしている事実を示している。つまり、常識的に考えてより根源的で、普通考えられる範囲で重要で、一般の人からしてもそのように(哲学的に)見えるような問題を選好しているのである。なぜなら、特に大学のように公金を投入する機関に対しては、探究する問題が社会的に重要であることが要請されるからである。また同時に、出版や研究者のキャリア等における利益を考えた時、アピールのために重要性を強調することは当然である。当該の記事ではまさにこの通り、形而上学が社会的な圧力に抗するために、また自身の利益のために、形而上学の重要性を強調していると言ってよい。
このように、学問がその公的立場と従事者の利益とによって社会的指向性を持つことは、形而上学に限らず一般に見られる。ある学問やその従事者が自身の重要性を強調することは自然であり、したがって仮にその学問に本当は知的重要性がなかったとしても、この強調は行われ得る。立場上重要だと主張するインセンティブがあるならば、その主張を鵜呑みにすることはできない。問題は、形而上学がこれらのことを越えて、真に知的重要性を持つか否かである。
「生き方の問題」論に議論の価値がないことは、これまで述べてきたことから既に明らかだと思われる。表現が「生き方の問題」とは違っても、個々人の価値観に帰着するような議論にはすべて知的な価値はないことを断っておく(ただし、なぜその価値観に帰着するのか、というメタレベルの議論は充分価値を持ち得る)。なぜなら、そのような議論は常に恣意的な基準を採用でき、如何なる解釈も許容可能で、したがってその主観性において完全な知的体系を構築できるからである。このような体系はほとんどの場合(※)経験的事実に基づかず、恣意的に選ばれた基準という、いくつかのテーゼから演繹される。そしてその演繹的性質から、ある経験的事実に照らして前提となるテーゼがひとたび否定されると、たちまち演繹されたものすべてが瓦解するのである。この様を以て、Russellはこの種の体系を”逆ピラミッド”と呼んだ。「生き方の問題」論が逆ピラミッドであることは論をまたない。そしてこの論を導入した以降の(演繹された)議論は、形而上学の知的重要性を示す根拠にならず破綻している。また、恣意的な定義であることを加味すれば、解説された形而上学の諸説も、同様に逆ピラミッドである。
※私の知る唯一の例外は数学である。数学は極めて強固な逆ピラミッドだと言える。

以上、「生き方の問題」論に想定されている批判が依然有効であり、この論が形而上学の知的重要性の論証にならないことを示した。では、知的な重要性とは、知的に価値を持つとは一体どういうことなのか。
かつて形而上学が有効だったのはなぜかを考えてみよう。古代ギリシャでは元素について、四元素説や何やかやの論が唱えられていた(これは形而上学である)。これら諸説のうち、原子論(※)は現代にも通じるものである。原子論が如何に生まれたか、その変遷はさておき、原子論は結果論ではあるが、部分的には科学的に正しかったと言える。
事実として、”Meta”PhysicsがPhysicsに成った、と言い得ること自体が象徴的であると考える。このことを省みた時、過去の形而上学の有効性は、理論的あるいは技術的に(すなわち科学的に)アクセスできない知的探究領域に対するアブダクション、仮説を推論することにあったと言ってよい。実際、原子論者が原子というアイデアだけでなく、真空という概念を生み出した点、質量の差異を遠心力に求めた点は特筆すべきである。世界が目に見えない小さな物質によって構成されること、そしてその間に空隙があると想定したこと、質量の差異を既知の遠隔作用に当てはめたことは、極めて合理的な推論である。それが分割できない最小単位だ、という想定には若干の飛躍があるものの、極小の世界に今日の素粒子物理学にあるような階層構造を見出すことは、当時の水準に照らせば無理があるだろう。
歴史的経緯の詳細は私にはわからないが、原子論者たちの態度は経験的だったと言える。岩が砕けて石に、石が砕けて砂になるように、物を砕けばどんどん小さくなり、それがどこかで尽きるだろう、そしてその最小のモノが積み上がれば、自分たちの見ている世界のモノが出来上がるだろうとする想定は、経験に裏打ちされたものである。前述の遠心力を重さに当てはめた点も同様で、自分たちの見ている世界で起こる、物を振り回すと重く感じられることが極小の世界でも同様に起こるとする想定は経験的である。原子論者はまた「魂は火である」とも言っている。これが原子論と繋がりを持つ、という想定自体は荒唐無稽ではある。しかし、人が普段感情について「怒りに燃える」とか「情熱」とか表現し、意気消沈となることが鎮火に似るように、日常的な感覚を魂と紐づける発想そのものはストレート(些か安直ではあるが)で、これも経験的なものの見方だと言ってよい。これらのことを加味すれば、原子論者たちの経験的態度があったからこそ、彼らの論は現代でも通用するものとなったのではないか、という推察はあながち間違ったものではないだろう。
こと原子論者においては、彼らの形而上学は経験的事実に裏付けられた、未知の世界へのアブダクティブな推論だった。これは形而下(経験・現実)から形而上(アクセスできない知的領域)を推論することである。原子論者が経験に反する推論を認めなかった事実を考えると、彼らの形而上学においては、その形而上と言う名称とは裏腹に、実際にメタレベルに置かれているものは経験すなわち現実だったと言ってよい。このような種類の学究を形而上学とするならば、現代において形而上学を推進しているのは、形而上学者ではなくむしろ科学者である。例えば、物理学における宇宙論や素粒子論を考えればよい。超弦理論などは観測事実に適合し得る数学的仮説体系であり、ここで言う形而上学に該当する。原子論者の知的探究における方法論は、まさしく科学的な方法論なのである。
プラトンやアリストテレスに端を発し、現代形而上学に繋がるところのいわゆる伝統的な形而上学は、その方法論に関して原子論と逆行している。元素が四つのものから成るという想定はまだしも、四元素のそれぞれが正多面体に対応する、という想定に一体何の根拠があるのか不明である。どうも美と結びつけて考えられていたようだが(真・善・美に繋がるものだろうか)、wikipediaにある”同時代の学者が目的と真実と美を探していたのに比べると夢の無い原子論は支持されず……”という記述を鑑みるに、伝統的形而上学の想定はまさに現実に根拠を置かぬ夢想と呼ぶに相応しい。夢想、想像、幻想、妄想、何でもよいが、これらのものは本質的にフィクションなのであって、それが経験や現実に照らしてどうあろうとも、フィクションはフィクションとして成立し得るのである。同時に、ここにバイアスが存在することは否定できない。フィクションへの耽溺や、自らが真理や美に奉じているという自認は、それ自体楽しく快いものだからである。加えてこのフィクションが人気を博すとなれば、それがどんなに現実や経験に合致せずとも、その不一致に対する新しい解釈を繰り返すことによる、その体系の保持へのインセンティブが生ずる。この人間に元来備わった欲求による負のスパイラルが、伝統的な形而上学の正体である。
※もっとも、原子論はプラトンやアリストテレスが唱える形而上学とは「唯物論」として反対する立場だったようである。これは、現代の形而上学者が「科学に反する説を提示しない」と主張していることを省みると興味深い。現代形而上学がプラトンやアリストテレスの形而上学の正統であるならば、この主張は偽であり、実際科学的には成立しない学説を提示しているように思える。逆にこの主張が真であるならば、現代形而上学はプラトン的、アリストテレス的な形而上学の伝統を欠いており、反対する原子論者的な、すなわち唯物論的な手法を受け継いでいるかに受け取れる。どちらにしても皮肉なことである。なお、現代形而上学の実態は前者だと考える。

これまで見てきたように、二つの方法論、形而上学的方法論と原子論的方法論の差異は、その基準あるいはメタレベルに置くものの違いである。形而上学的方法論は、思惟や理性(要するに頭の中)を基準あるいはメタレベルに置く。対する原子論的方法論は、現実や経験的事実を基準あるいはメタレベルに置く。四元素説が捨て去られ、原子論が残ったことを鑑みるに、どちらの方法論が真理の探究にとって妥当なものであるかは明らかだと思われる。原子論がフィクションではなく、現実についての妥当な推論であったのは、まさにその経験的態度に因るのである。どんな理説であれ、それが世界についての、すなわち現実についての理説であるならば、現実や経験的事実を基準にすることは必須の要件である。現実を離れた理説はフィクションであって、それがどんなに美しく、どんなに真に迫り、また人間の欲求に合致していようとも、そこに知的な価値はない。逆説的に、フィクションがどんなに現実に合致するとしても、そこに何らかの必然性を見出すことに何の意味があるのか?(無意味である)
形而上学は思惟、すなわち「およそ考え得ること全て」を重視しているようだが、思惟も理性もスタージョンの法則(※)から逃れることはない。すなわち、人間に考え得るあらゆるもののうち、その九割に知的な価値はない。
※”Ninety percent of everything is crap”:”あらゆるものの九割はクズである”

四つ目。
以上の点を考慮すれば、当該の記事は入門としては不適格であろう。基本的に形而上学の立場に寄っており、これから学ぼうとする立場への配慮は、文体および多少の解説とその選別くらいにしかない。もちろん主たる目的が形而上学の重要性を示すことにあるならば、この点は多少お座なりになっても仕方ない面はある。が、それを考慮しても入門を謳うには配慮が足りていない。この点でも著者の知的誠実さへの疑義があることは述べておく。

五つ目。
悲哀云々について。否定する心算はないが、ここまで来ると「市井でやってはどうか」と言う他ない。つまり、知的重要性がないことを認め、芸術として立て直してはどうか、という意味である。実際創作の類いはほぼ市井で行われている。例外に美大があるので、形而上学は美術部か美術科に編入すればよい。あくまで芸術(悲哀その他文学性)の表現とその技法について探究し、知的探究を奉じず科学に口を出さないのであれば、形而上学への批判は生じない。形而上学を批判する必要はなくなり、形而上学が批判されることもなくなる。win-winである。
現在の社会情勢と今後の少子高齢化社会を考えると、大学の予算が増額されることはまずあり得ないように思われる。谷村ノートのような批判は今だからこそこの程度の影響で済んでいるが、これが十年後、二十年後に起こるとなれば、形而上学に分配されている予算を、別のもっと有意義な部門に回せという議論へつながることもあり得ないことではない。そのような事態に備え芸術に逃避することが、形而上学の生き残る道ではないかと考える。実際既に一部の聡い哲学者は市井に逃避している(ゲン○ンなど)。

終わりに。
これだけ批判すれば一般の読者には充分だろう。形而上学者にはもちろん充分ではないだろうが、私の与り知ることではない。
付言しておくと、他の形而上学の仕事には当該記事より巧妙なものもある。大抵の場合、論述と構成が巧みで一見して納得できる程に練られているか、専門用語を用い難解さを嵩上げすることで反駁のハードルを高くしているかの二つの方法が採られている。これらの仕事に対して真っ当に批判を展開するためには膨大なコストが必要(※)である。この点で当該記事は批判のためのコストが低く、形而上学のモデルケースとして優れている。私には本格的な形而上学への批判を呈するほどの知的胆力はない。言い方は悪いが、手品のタネさえ知っていれば、もはや内容はどうでもよく、即座にコミットする=コストを払う気が失せるのである。実際、当該記事を読むにも、この記事を書くにも、相当の苦痛を伴った。私でさえそうなのだから、私より能力があり、かつ知的に誠実な人間が形而上学へコミットすることはあり得ないことに思われる。この種のフィクショナルな議論を野放しにすることによって、学究に携わる人材の時間と能力とを浪費することは人類にとっての損失であり、知的誠実さへの叛逆だと言ってよい。一掃されることを強く望む。
またこの損失を避けるためのリテラシーとして、相対する議論が真剣に取り合うに足るものかを考えることは常に重要である。この記事で示したようにいくらかのパターンがあり、見破る方法もあるが、詳細は機会があれば別記事に譲りたい。
最後に。これは忠告として捉えてもらいたいが、虚業に詐欺師がのさばるのは世の常である。人には「知的に見られたい」とか「自分の考えていることが価値を持つと思いたい」といった欲求がある。こうした欲求を持つこと自体は自然なことであり恥ではない。しかし世の中にはその欲求を利用して自分の利益に変えようとする悪意が存在する。読者諸氏がそうした悪意ある甘言に騙されずに済むよう願っている。
※『知の欺瞞』や谷村ノートなど。

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