Audiの場合
彼はアウディと呼ばれていた。乗っていたクルマは時代遅れのカローラだったし、アウディとは何も関係がなかった。彼は音楽と映画を愛していた。何度も彼のカローラでどこかの国の誰かの音楽を聴いた。彼が流す曲はその瞬間地球上で僕らしか聴いていないような曲だった。「このソロがいいんだ、あとは犬に食わせろ」彼は世の中の気に入らないことは犬に食わせた。実際に彼が犬に食わせていたとしたらその犬はケロベロスのように凶暴になるか、発展途上国の道で転がっている痩せ細った野犬のようになっていただろう。彼と僕が会うのは決まって夜中だった。
彼が日中何をしているかはわからないが連絡が来るのはいつも23時を過ぎた頃で電話を取る前に彼だとわかっていた。何度も彼にそれを伝えていたが、彼はいつも第一声で律儀に名前を名乗った「これから出られるか?」僕に予定はなかったし予定がないことが僕の唯一の取り柄だった。「いつもの角にいる」そう言うと彼は僕の返事を待たずに電話を切った。
まだ日中は暑かったが夜になると冷えた。僕はTシャツの上に薄いパーカーを羽織って外に出た。いつもの角に彼のカローラが止まっていた。空色のカローラだ。彼の父が新車を買ったためそれが彼のものになった。夜の道に止まったそれはイヤに目立っていた。かなり離れていたが彼が助手席を開けてくれた。ユーロビートのようなベースのリズムが遠くに聞こえた。彼の隣に座ってドアを閉めると彼がタバコをくれた。「メキシコのたばこだ。親父が買ってきた」僕がそれを受け取り、口に咥えると彼は慣れた手つきでマッチを擦った。彼はライターを使わない。以前なぜ使わないのか聞いたことがある。「ライターってなんだ」彼はひと言だけ答えてマッチを擦ってタバコに火をつけた。彼にとっていらないものは知らなくていいのだ。「メキシコのたばこはどうだ?まずいだろ」彼はそう言って笑った。「今日はどこの国だ?」僕は聞いた。「ドイツだ。ドイツはテクノがいい。同じ敗戦国だ。」僕たちは戦争に負けた。僕らが生まれるずっと前の話だ。「どこにいくんだい?」彼は短くなったタバコを灰皿に押し込めた。「俺たちは間違ってるか?」「正しいことは何もしてないけど、間違ったこともしてない。」僕は正直に答えた。彼は言葉にならないことをボソッと言うとギアを入れた。彼の左手が添えられたシフトレバーはどこかの神を祀る祠のように見えていつも僕を安心させた。車は三鷹に向かい五日市街道を走った。窓から見える景色はいつも遠くのことに感じられる。車を止めてそこに行けば辿り着けるはずなのにまるで映画のなかの街のように一生関わりがないものに見える。僕たちが深夜にあてもなく走り回ったのは多分そういうことなんだろう。