生まれて初めて金子眼鏡店に行ったら「メガネを選ぶ」という概念が変わったはなし

 私は3歳からメガネとは切っても切れない縁である。メガネ選びはもう人生で何十回と経験している。だが今日のメガネ選びは今までとは全く異なる体験だった。

 メガネは顔の一部,なんならメガネの方が本体では?というほどメガネは私にとって重要なアイデンティティ。しかしながら今までメガネにはあまりお金をかけておらず,街中でよく見かける某店のレンズ込みn千円のメガネを3,4年使い倒していた。今回もご多分に漏れずn千円のメガネを3,4年使い倒し,塗装は剥げレンズには傷,鼻には緑青,おまけに放っておくとだんだん落ちてくるという体たらく。私のめんどくさがりも相まって調整にも行かず,それはもうボロボロになっていた。そういう状況だったのでそろそろ買い換えと思っていたが,買い換えるなら最近よく見かける流行のウェリントンやらボストンやらも気になるくらいにはオシャレにも興味があった。そしてメガネも少し良い物が欲しいなというお年頃。そうしたこともありお店の選択肢として挙がったのが,行動圏内にある金子眼鏡店だった。前を通り過ぎることは多々あったものの,自分のお財布ではそこまで出せないし……と入店すらすることなかったのだが,今回は最初から「金子眼鏡店に行くぞ!」と決めて金子眼鏡店に足を運んだ。

 まずお店の入り口でアルコール消毒のボトルをプッシュ。これはこのご時世もう慣れっこである。遠くの方から「ご協力ありがとうございます」の声かけが聞こえる。店員は明らかに私のことを認識している。しかしすぐに寄ってくるわけでもなく,まずは自由に見させてくれる。それに従って店内をざっと一周する。新しい本が届いたらまずは目次を眺めるかのように,ぱっと見で気になるものがないか物色。店先にはいかにも最近のオシャレそうなジョンレノン眼鏡が所狭しと並んでいる。しかしジョンレノン眼鏡は「人を選ぶ」という噂もあり,またどうも冒険を躊躇う自身の性格もあり,自然と足は自身のかけているメガネのタイプであるメタルフレームのコーナーへ。と,ここで後ろから声が飛んでくる。

「メタルフレームをお探しですか?」

たまたま私がそこに居たからなのか,私の入店時からの行動を見てそう思ったのかは分からない。ただ,どことなく強者の気配を感じつつ振り向くと,これまたオシャレなジョンレノン眼鏡をかけたお姉さんが立っていた。この時点で夕方の18時手前であっただろうか。

 繰り返しになるが,私は冒険が苦手である。加えて,我が強いのに自己主張が苦手というやっかいな性格の持ち主。あんまり顔の印象を思い切って変えるつもりはないが,ほどほどの冒険もしたいというなんともワガママな客である。とりあえず今かけているのがメタルフレームで四角い横長のレンズだったので,まずはメタルフレームの話を聞く。名前を覚えていなかったので調べてみたが,どうやらSPIVVYというラインのようだ。全体的に四角く横長のレンズで,頭の良さそうなエリートサラリーマンがかけていそうなメガネたちだ。だが,店頭の配置も中央ではなく端っこだったことや,金子眼鏡店といえばべっ甲みたいなイメージがあるように(私はそんなイメージだった),やはりラインとしてはメインではない模様。店頭の中央にあったのはウエリントンやボストン,オーバルといった「金子眼鏡っぽい」ラインナップである。これらのフレームにも興味があったし,流行っているというのもなんとなく認識していたので,「この辺が流行りなんですか?」と切り出してみる。このあたりから予想外の展開が繰り広げられる。

 まずは的確に質問に回答する店員さん。Yes/No questionを投げてYes/Noで回答が返ってくることほど安心することはない。ただ,その後が違った。正確な言い回しは覚えていないが,いわく「流行りよりも,ご自身にしっくり来るかどうかのほうを大切にしてください」という趣旨のことを伝えられたのである。何度も繰り返すが,私は冒険が苦手である。我が強いのに自己主張も苦手である。それは何よりも「人の目」を気にしているからに他ならない。その性格を見事に看破したかのような発言だった。何もかも見透かされたような,そんな気持ちになった。

 そこからはまさに共同作業であった。というよりは,二人で行う科学実験だったというほうが適切かもしれない。店員さんが数本のメガネを引き出しから取り出す。私はそれをかけてみる。そして鏡を見る。それを繰り返す。そのときに店員さんが見ていたのは「私の顔」ではなく「私の反応」である。正確に言うと,顔も見ていただろうが,見ていたのは私の顔に似合うかどうかではなく,その時の表情や確認の仕方,そして鏡を見ていた時間などであろう。まさに私が「しっくりきている」反応を示しているかが見られていたわけである。

 そして数本をかけた後に,こんなことを聞かれた。

「今出してきたこのメガネの中で共通の要素はなんだと思いますか?」

意外な質問だった。知識を持つ者にありがちな「説明してしまう」のではなく客の「気づき」を促した点も特筆すべき点だが,重要なのはそこではない。店員さんはメガネを更に「細かな要素」に分解し,その上で私の顔とメガネで仮説検証を繰り返し,かけている人自身が「しっくりくる」要素を反応を見ることで抽出しようとしていたのである。そして,その精度は回を重ねるごとに良くなっていく。たしかに回を重ねるたびに,比較対象の中での「しっくり具合」の差が僅差になっていくのだ。そして絞りに絞られた2本が残り,最終的に1本が決定されたのである。いや、これは二人で「決定した」と言うべきであろう。

 これはまさに科学実験そのものである。まるでオーヴィルとウィルバーが科学的な知見から飛行メカニズムの研究を行い,実験を繰り返して人類初の有人動力飛行を達成したときのような営みが,まさに今「眼の前」で行われていた。今でこそ飛行機の飛行を可能にする「揚力」は翼の上面と下面を流れる空気の速度の差によって生じるということになっているが,当時は揚力など知られてはいなかったであろう。彼らは飛行を足らしめる様々な要素を既知の文献や予備実験等から仮説設定し,少しずつ要素を変えながら実験を繰り返し,最終的に飛行できる飛行機の形を作り上げたものと想像できる。これまでの私にとって,「メガネを選ぶ」という行為は,「お店にいって何本か手当り次第試着をし,とりあえずしっくり来るものを探す」という単純作業に過ぎず,精度のレベルといい,反応の検出の仕方といい「科学実験」とは到底言えないようなものであった。それがプロの手にかかるとあっという間に実験室での実験に早変わりしていたのである。

 ちなみに,その後に更に視力測定というもう一つの実験が待っていた。詳細に記すと長くなりそうなので割愛するが,脱着可能なレンズを入れたり抜いたりして度を少しずつ調整していくアレである。体験したことがある人ならば,フレーム選びよりは実験的な要素は感じやすいであろう。そして視力測定とお会計を済ませ,お店を出たのがほぼ20時。総じて2時間の実験であった。

 「実験」以外にもいくつか「プロ魂」を感じた点を挙げておく。個々に語ると永遠に完成しない論文と同じになりそうなので,ここでは列挙にとどめておく。

・最後まで「似合う」という言葉を発しなかった(他人の似合うという感覚よりも自分のしっくりくるという感覚を優先してほしいという哲学を感じた)
・「高いものが良いものとは限らない」と断言
・無理なオプションを勧めない。最初にオプションの存在は提示されるが,予算の話をしたあとは一切提案されなかった(レンズ片面非球面か両面非球面かみたいな話)
・こちらから「そういえば両面非球面と片面非球面どちらがいいですかね」と切り出すと,逆に意外そうな反応だった
・「予算は確かに気になるが,両面非球面も気になっていて」という話をすると「(視界のゆがみなどが)特に気になっているわけでないなら,また次回以降でも全然構わないと思います」とのこと

総じて販売のプロという言動である。目の前の高い売上よりも長い付き合いを優先する。なんとも商売人である。

 こうして私はいつもより(かなり)高いお金を払って,新しいオシャレなメガネだけではなく,「メガネ選び」という科学実験を,自身を実験台にしながら体験することができた。それに加えて「信頼できるプロ」というかけがえのない繋がりまで得られたわけである。

 若い頃は「高いモノの価値」が分からなかった。どうして同じものなのにこんなに値段が違うのだろうと。メガネなんて使えれば安くて長く使えればいいじゃないかと。そしてそこまで金銭的に余裕がなかった私は,今の今まで,それこそほんの数時間前までそう思っていた。しかし最近は金銭的な余裕が少しずつできるにつれ,実際に少しずつ「高いモノ」を買うことも増えてきた。そして次第に気づきつつあるのは,我々はモノのみに高いお金を払っているわけではないということである。もちろんモノ自体の良さもあるだろうが,それだけではない。そのモノに付随する「体験」にお金を払っているのだと。そしてその体験を可能にしてくれる「プロ」にこそお金を払っているのだと。

 私は今回のメガネ選びでお金を余計に払うことで「メガネ選びという科学実験」を「メガネのプロ」の手ほどきをうけながら共に体験することができた。これは単に店頭で手当り次第試着して店員さんに軽く確認してもらうという単純作業の中では到底味わうことのできない体験である。こういった体験を味わうにつれて,モノに高いお金を払うことに抵抗がなくなっていくわけだが,そこから自身の金銭的余裕が増えたのを感じ取ると同時に,自身の価値観の変化を改めて知り「少し歳をとったな」と改めて実感した。どおりで店員さんに「それは完全に眼精疲労の症状です」と言われるわけである。




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