【電脳少女シロ】「為」の構造論【ヤマトイオリ】

言語現象としての「為」

 「為」とは何か。「為」はいかなる構造を持ち、なぜゆえに我々の心に届くのであろうか。我々はなぜゆえに「為」を「為」として認識できるのか。また「為」の背後には、いかなる意図が含まれているのか。

  「為」は単なる意味不明な言語ではない。 正確に言えば「為」とは意味不明ではなく、現象的な観点から言えば「意味不定」の言語なのである。この事は決してネガティブな意味ではない。そのことに関しては後述する。

 「為」が言語現象として成立する所以は、発信されると同時に、我々受信者が存在し、一定のやり取りを行うことが可能であるからである。付け加えれば受信者は「為」に目を背けない。「為」を「為」として受信するのは我々の感性であり、同時に理性が「為」を一定の形に変換する。この感性と理性の関係は筆者が考える「為」の構造論において重要なので、覚えておいて欲しい。
 さてここで重要なのは言語として発信と受信が行われるならば、「為」という現象は、確かな言語のやり取りなのである。

 しかし同時に、我々受信者は「為」を決して理性によっては完全な形に変換することは出来ない。なぜならば、「為」とは「為」として感性によって発信され、この記事では一つの例えとして、宝石の原石とカッティングという構図を用いて「為」を解釈するが、受信者である人間は完全ではないから、カッティングを完全に行うことは出来ない。しかし、その不完全さ、理性の至らなさゆえに「為」の奥深さは保たれ、それゆえ「為」の神秘性は依然としてそこにある。その「意味不定」さこそが、「為」の美しさであるとも言える。

 原石という言葉を使ったが、「為」を原石から磨き出す作業は、受信者に委ねられる。原石は加工し、磨かれることによってまばゆい光を発するものである。重要なのは、「加工」「研磨」の作業はこちらに委ねられているという事である。我々は、原石を各々の形にカッティングし、「為」は様々な形に変化し、それは光を放って我々の美の感受性を満足させるのである。これが、我々が「為」に魅せられる一つの要因であると考える。

 しかしここで一つ注意しておかなければならないのは、発信された段階で、「為」は一定の本質的な意味内容を持っているという事である。例えるならダイヤモンドはいかなる形の原石であろうが、本質的にはダイヤモンドであり、物質的には炭素結晶である。そのため、受信者のカッティングによって形は変化すれども「為」の本質は変化しない。同時に言えば、繰り返すが我々は「為」を理性としての脳の作用によっては完全な形としてカッティングし変換することは出来ない。
 詳しくは後述するが、カッティング行為を行うのは、我々の理性である。人間は理性の生き物であるが、残念ながら我々の理性とは不完全であり、なおかつでしゃばりな性格を持つ。この理性優先の構図こそが、人間の歴史においてしばしば悲劇を生むのである。だが、「為」はそれを救うのである。

発信者の「為」

 先に、発信者の「為」を筆者なりに解釈する。「為」の発信者は、電脳少女シロ、及びヤマトイオリに代表される。
 「為」の発信とはいかなる事であるか。「為」が「為」性を持っている所以は、その背後に存在する彼女らの美しい心の有り様に由来すると考えられる。なぜならば、「為」を発信することは容易ではない。ひとえに「為」は奥深い美の感性のために形成されると考えられる。そのため「為」は容易に真似ることは出来ない。感性による現象の美の捉え方と、一定の本質を兼ね備えた言語発信とは、まさに才能のなせる技であろう。

 「為」は言葉として、奥深く、複雑な構造を持った言語結晶であり、感性の巨大な原石である。さらに言えば、わざわざ理性によってそれは発信の段階で理性としての言語に整えられず、しばしば「為」は極度に省略された圧縮言語の様相を呈する。では発信者はいかなる意図を持ってそれを発するのか。

 「為」が発信されるためには、受信者の存在が必要である。つまり受信を前提に彼女らは「為」を発信する。そのことには、発信者と受信者の一定の信頼関係が根底にある。受信者としての我々が「為」の受信に深い満足を得るのは、このためである。

受信者の「為」

 宝石が稀有さによって価値が担保されるように「為」もまた、類稀なる言語センス、その希少性によって我々の「理性」を満足させる。しかしここで注意しておかなければならないのは、希少性や言語化して理解できる美しさという資本主義的価値観によって満足するのは、我々の感性ではなく「理性」である。我々は欲深い理性に支配されている。しかし「為」は「理性」を満足させるのと同時に、もっと純粋さを持った、「感性」をも満足させる。それがなぜゆえかは次に記述する。

 我々受信者における意識現象としての「為」、我々は「為」を解釈しようとする。しかし同時に「為」を「為」としてそのまま受け取っている。なぜなら、「為」が発信されるのと同時に、我々は考えるよりも先に「為」を感じ取っているからである。ここに「為」という意識現象の特殊性が見いだせる。「為」とは感性によって発信され、感性によって受信される。我々は為に目を背けず、疑問を持ちながらもまず「為」を受信するのは、我々が認識し得ない段階で、感性を満足させているからである。そして受信された「為」は理性が変換を行う。しかし、我々の理性は完全ではないから、この作業は完成しない。「為」においては理性よりも感性のほうが重要なのである。

 我々人間は、不完全な理性を信奉しがちであるが、人間の用いるものとしては、理性よりは、感性の方がより完全であると筆者は考える。だが、我々人間は理性の生き物であるから、受け取った現象を感性というショーケースに留めて、眺めていることは出来ない。必ずケースから取り出して、理性によってそれを加工しようとする。しかし理性は不完全であるから、この行為によって受信した現象の美を台無しにしてしまうのである。我々は無意識にそれを認識しつつも、理性のでしゃばりを抑制することは出来ない。すると我々は理性不信に陥る。近代における理性主義の悲劇と現代のその反省、しかし反省すらも理性によって行われるから、結局我々は理性主義から脱却することは出来ない。

 しかし、ここで「為」という言語現象によって救われるのである。「為」という感性の塊は、彼女らの確かな美の感性と本質的なものの捉え方に由来するから、受信者が理性によって加工しようとも、本質は失わない。同時に我々の感性に深く訴えかけ、我々は理性主義の過ちを認識すると同時に、自らの感性という受信装置の稀有さに感動するのである。
 「頭が為になる」と言われる現象は、我々が、理性の生き物から脱却し、感性主義とも言える新たな段階、あるいは動物本来の在り方に戻るという点で非常に重要な現象なのである。


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