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沖縄戦をめぐる

もうすぐ4月も終わりますね。
さて、今日は沖縄に住んでいた時に戦跡案内をしたいただいた思い出を少しご紹介します。
今年の沖縄全戦没者追悼式はコロナウィルスの影響で縮小されることが発表され、おそらく沖縄で慰霊の日(6月23日)を迎えることはできないと思いますが、住んでいる場所で沖縄のことを想う日にします。
そういえば沖縄に住んでいた時に話や、おばあに聞いた話も書いて書いてなかったと思ったので、6月までにあげたいと思います。

※以前はてなブログを使っていてそっちにあげていたもののリメイク版です。

今回は、沖縄のガマ・戦跡案内をしている松永さんにお願いしたのですが、実はFUNKISTの西郷さんにご紹介していただきました。西郷さんもいつも沖縄に訪れる際は松永さんにお願いしているみたいです。

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↑こちらFUNKISTの染谷西郷さん。長崎のイベントでお世話になりました。松永さんとは初対面だったのですがすぐに仲良くなれました笑
案内していただいた戦跡のいくつかをご紹介します。

①南風原文化センター

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ここは沖縄戦のことや、南部戦線のこと、動員された学徒のことなどを、たくさんの資料を使って展示してあります。沖縄の南部の戦跡をめぐる際には一番最初に立ち寄っておきたい場所です。

作りものですが、この近くにある南風原陸軍病院を模した壕があって、そこに当時使われてたとされる二段ベッドがあって、それに寝てみることができるんです。当時を思うと、暗いし、狭いし、悪臭なども交じってとても休めるような場所ではなかったと思います。

②前川民間防空壕

こちら民間の壕です。実は、戦時中に実際使われていた民間の防空壕に入るのは初めて。この防空壕は1944年の十・十空襲後に作られ、民間防空壕としては沖縄最大の大きさです。なんと山沿いに1kmほど連なり、60の壕で約600人が生活していました。1945年5月頃。沖縄本島を南下していたアメリカ軍は前川地区に迫りました。

 「捕まればひどい目にあう」

当時の日本人は「アメリカ兵に捕まるくらいなら死んだ方がまし」という考えが主流で、捕まるのを恐れた住民の半数以上がこの壕を逃げ出しました。しかし、壕の外も阿鼻叫喚。艦砲射撃の嵐の中で生き延びられたのはその半数だそうです。また、この壕では残った住民20人余りが集団自決をしています。

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こちら壕の一部ですが、この写真のところには水が溜まっていたそうで、それを使用して生活をしていたみたいです。この前川民間防空壕、ぜひみなさんにも行っていただきたいんですけど、本当に山の中にあって、ガイドの方ではないと入り口も分からないような場所にあるんです。アメリカ軍から身を守るための壕だから当たり前なのですが。転ばないように歩くのに必死で壕の中の写真は撮れませんでした。実際に1つの壕の中に入りましたが、とても狭くて暗くて暑い。そして意味わからないくらい虫がおりました。ここに入った瞬間、少なくとも20か所は蚊に刺されて大変なことになりました。

でもそんな悪条件しかないところで、大勢の住民が生きるために生活をしたんです。別の壕には貝殻が山のようにありました。松永さん曰く、今となっては食べられないとされる貝さえも貴重な食糧だった、と。南風原陸軍病院にも入ったことはありましたが、民間の防空壕は違った意味で衝撃的でした。しかも、「防空壕」だから、これ全て住民の手で作ったものです。多くの男性が徴兵に行っている中で、これは誰が作ったのか考えるとお年寄りや病気などで兵隊を免れた男性。そして女性と子供です。とてもわたしにはできません。住民の沖縄戦を目の当たりにした瞬間でした。

③第24師団第一野戦病院のガマ

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こちは八重瀬公園駐車場付近にあります。ここでは主に白梅学徒隊看護活動に当たっていたため、ガマの入り口付近には「白梅学徒看護隊之壕」という碑があります。

白梅学徒隊は沖縄県立第二女子高等学校の学徒たちのことです。ここには56名(のちに体調不良などで10名除隊)の白梅学徒が動員され、看護活動や雑務などをおこなっていました。この壕はもろい地層のため、落盤があり全体像を確認することはできず、現在は安全性のため立ち入り禁止となっています。白梅学徒は除隊した10名を含めて22名が亡くなりました。壕の入り口付近まで行ってみましたが石がころころしていてもろい地層が見た目で分かりました。でも、当時の人たちはそれどころじゃなかったのかな。

④摩文仁の丘

摩文仁の丘とは平和公園のことです。今ではきれいに整備され、慰霊を行う場所になっていますが、当時は激戦地でした。摩文仁の丘の頂上に牛田満司令官の慰霊碑があるのですが、それまでの道のりに各都道府県の戦死者を祀る慰霊碑があります。

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例えば、こちらは北海道からの碑。実は沖縄県外の兵士の死亡者数は北海道が一番多いんです。自分たちの故郷とは一番離れている兵士が何万人もなくなりました。こんな感じで各県とっても大きく慰霊碑を作っています。

この道を過ぎて少しすると見えるのが勇魂の塔。これは沖縄戦で戦死した約600名の第32軍司令部将兵、軍属を祀っています。

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そして摩文仁の丘の頂上に立つのが黎明の塔。これは第32軍司令部司令官牛島満と参謀長を祀っています。

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牛島満は沖縄戦で司令官務め、1945年6月23日に「生きて虜囚の辱めを受けることなく、悠久の大義に生くべし」と言葉を残し司令部壕で自決しています。彼が自決したことによって日本軍の組織的な戦闘は終わったとされ、この日が沖縄の終戦日になっています。

しかし、彼の残した言葉によって沖縄県民は縛られることになり、多くの犠牲を出した原因の一つだと思っています。本土と離れているからこそ、8月15日の終戦を知らずにガマや山でアメリカ兵に怯えながら生き永らえた沖縄の人たちがたくさんいますし、本当は自決なんてしなくてよかった人々が大勢います。沖縄戦を経験した人たちは「戦争が終わった」と思う瞬間がそれぞれに異なっているのはこのためです。

 牛田満が実際に自決した壕はこの丘から見ることができます。

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「見る」「知る」「感じる」
この日は朝から夕方まで案内していただいて、今まで以上に沖縄戦の実相に触れられたように感じます。歴史を振り返ると、そこで生きていた人は「数」や「団体」として現されてしまいますが、あの時沖縄で亡くなった一人一人にストーリーがあって、家族がいて、大切な人がいたことを忘れないようにと、いつも思って勉強しています。

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この他にもガマや、慰霊碑、一家全滅の家など紹介しきれないほどの場所に連れて行ってもらいました。ぜひ沖縄に来た際は、松永さんに案内を頼んでみて下さい。普段、「勉強してみよう」と思ってもなかなか自分じゃ行けない場所に連れて行ってくれます。

沖縄は海が美しく独特の文化と伝統が続く素晴らしい島です。今となっては探そうとしたり、行ってみようとしないと75年以上前の戦争の跡は見当たりません。もちろんわたしも沖縄の海でシュノーケリングするのも、アイスを食べることもだいすきです。でも、ふと、思い出してほしいんです。「沖縄でなにがあったのか」を。それは今の基地の問題にも繋がっています。ぜひ沖縄に行けるようになったら、こんな歴史をめぐる1日も過ごしてみてはいかがでしょうか?

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