見出し画像

my movie theatre_チョコレートドーナツ

今回紹介する映画は「チョコレートドーナツ」。
この映画をどう紹介すればいいのか正直悩んでいるけど、それでもぜひ見てほしい映画だから、言葉を綴ろうと思います。

※ここから先はネタバレを含むので嫌な方はお戻りください。

この映画は2014年に公開。当時わたしは大学3年生。
一人で劇場に見に行って、涙が止まらなかった。
「美しい」とも「悲しい」とも言えなくて、とにかく心が痛くなって、「それでも」とふりぼって不条理と闘おうと思わせてくれます。

あらすじとしては、1980年代のはなし。ゲイバーで働いているルディと彼に一目惚れしたポール。そんなルディのアパートの隣人は音楽を大音量で聞いてしょっちゅう男とでかける女。ある日も同じように大音量で音楽を流し、男と出かけて行った。それをドア越しみ見ていたルディは、母親が行った先を見つめるダウン症の子供を見つける。彼の名前はマルコ。母親が薬物所持で捕まり、マルコは施設に送られることになるんだけど、見かねたルディがポールと協力して監護権を申請。3人は幸せな時間を過ごすけど、心のない人たちの策略によってマルコは2人から引き離されてしまう。マルコを取り戻すために、自分たちのプライベートをさらけ出してでも、闘うはなし。

この映画は実話をもとにしたお話。40年前のアメリカのブルックリンの片隅で実際に愛が育まれ、そして引き裂かれた。今になってやっと、性について自由になってきたけど、今でも日本では法律のもと同性が結婚することはできない。40年前はきっともっと差別や偏見がはびこる社会だったと思う。

ルディはとっても優しい男性で、ゲイとして生きている自分に誇りを持っている。ポールは思いやりがあるけれど、世間を気にして、ルディとの関係を周りに言い出せない。ルディがどうしてマルコを気に留めたのかはわからないけど、どこか自分と似ていると思ったのかもしれない。「ゲイ」とか「ダウン症」とかそういうレッテルでくくられる世の中だから、マルコをほっとけなかったのかも。

ポールの家にルディとマルコが越してきて、一緒に暮らすんだけど、そこでポールがマルコにすてきな部屋を用意して、たくさんおもちゃを贈るの。それを見たマルコはうれしくて涙を流すんだけどね。まずそこで泣けちゃう。どれだけ、どれだけ、マルコが愛とか優しさを欲していたのかを考えると、切なくて涙が止まらなくなる。2人の愛につつまれて、マルコはびりびりの服ではなく、新しい清潔な服を着て、自分にあった眼鏡をつけて、自分の能力にあった学校に通い、家でも勉強して、たまにだいすきなチョコレートドーナツを食べて、いろんな景色を見て、感情に色をつけていくの。
マルコはね、決してママのことが嫌いじゃない。でもね、「愛」を知れたのは確実にルディとポールがいたからだと思う。

幸せな時間は長く続かず、ポールの上司がポールとルディとマルコの関係を「間違っている」と決めつけ、2人から監護権を奪い取り、マルコは施設に戻ってしまう。それが正当かどうか裁判をすることになるんだけど、その裁判がひどすぎて。それはルディとポールの人間性やマルコに与えた影響を図るものではなく、2人がゲイであることを追求し、ゲイがマルコに与える影響は悪だと決めつけるものだった。

ルディが裁判長に向かって叫ぶの。
「これが正義なの?1人の人生の話だぞ。あんたらが気にも留めない人生だ」って。
この裁判に関係している人たちはマルコの気持ちなんてちっとも考えていなくて、「ゲイに子供が育てらるわけがない」とか「ましてや障がいを持った子どもには不適切だ」ということが言いたいだけ。
そう。マルコの人生がどうなるかなんて気にも留めていない。ゲイが子育てをしてはいけないなんてアメリカの法律で決められていない。けれど、それは世間的に「不潔」とか「気持ち悪い」とか呼ばれるものに分類される。

判決が下る前の日にルディがマルコに電話越しに「もうすぐ会えるから、荷物をまとめて準備しておいてね」って言って、マルコはうれしくて荷物の準備をして、施設の入り口にずっと立ってるの。でも2人は現れなくて、そのマルコは泣きながら寝るの。そのシーンを見たときに涙が止まらなくなった。ちなみにこの文章を綴っている今も思い出して涙が止まらない。

このときのマルコの気持ちを想像してた人は、あの裁判をしていたときに、ルディとポール以外にいたんだろうか。いないよ。もし、マルコがダウン症じゃなかったら、もしポールとルディのどちらかが女で世間から認められる関係かだったら、3人は幸せになれたと思う。でもゲイだから、ダウン症だからそうじゃない。この世界がかたくなに守っているものって、正義ってなんなんだろう。それは、多くの人が満たされればいいもので、少数の人が心張り裂ける思いをすればいいものでは絶対にない。

同性同士の結婚が認められないのが子供が産めないからだというなら、それはクソくらえって思う。「目の前にいる人愛している」それ以外になにが必要なのか。同性結婚が増えて、わたしの日常に何の関係があるのか。関係ないよ。むしろ少し幸せな気持ちになるだけ。レッテルで決めつけるくだらない社会とさよならしない限り、人間の今後の進歩はありえないと思う。

2人はその後控訴するんだけど、母親が監護権の回復を申し立てて、結局マルコは母親のところに戻ることに。ちなみに薬物所持で3年の服役の予定だったけど、ポールの上司の検察官が仲介した。「親権を取り戻したいと訴えれば、仮釈放を早められる」って。つまりね、ゲイより薬中でセックスしまくっている母親のほうがマルコにとって環境がいいってみんなが判断したの。どこが?って泣き叫びたくなるけど、当時の正義はそうだったらしい。

マルコは母親のもとに戻って、相変わらず母親はドラックやって男とヤってて。マルコは自分の家を探して、つまりルディとポールと住んでいた家を探して家を出るの。そして3日間寒空の下を歩いて、歩いて、歩いて、ある橋の下で眠っているのを発見される。彼が3日間、家を出ていることを母親は気に留めていないし、亡くなったことをルディとポールを目の敵にしたやつらは知りもしない。

ポールは裁判に関わった人たちにマルコが亡くなったことを伝える新聞記事の小さな切れ端を送る。「ガソリン高騰、大統領選など一面を飾る報道の陰に小さく埋もれた記事です。」という文章から始まった手紙にはマルコが独りで亡くなったことといかにマルコが素敵な少年であったかが記されている。

この映画は決してハッピーエンドなんかじゃない。もしかして誰も救われてないとすら思えるほど心が痛む物語。ルディとポールの愛はとても美しい。2人に囲まれて笑っているマルコも。それと同じくらいせ差別と偏見が苦しい。この世界に正義なんてちっともなくて、「ふざけんな」って、「おかしいだろう」って思うことが山のようにあって、そんな理不尽な社会で死んでいく人もたくさんいて。それだけを考えるとひどく無機質でむなしくて意味のない世界に見えるけど、「それでも」と闘っている人たちがたくさんいて、だからそれを糧に世界を美して愛のあふれるものにしようと頑張れる。

わたしの妹はマルコと同じくダウン症です。
でも母は出生前診断もせず、ダウン症とわかっても変わらぬ愛情を育み続けています。「ダウン症」って別にわたしと見えているものは何も変わらなくて、あなたと一緒です。妹が生まれた時代がもっと遅かったら、親が違っていたらマルコのようになっていたのかなと考えるだけでとっても怖い。
もう二度とマルコのような思いをすることがない世界にしたい。

わたしは「チョコレートドーナツ」を人生を前に進んでいくための大切な糧の1つにしています。気軽に「見て」と言えるほど優しい映画ではないけれど、せめてわたしの大切な人には見てほしい。あわよくばこの記事に出会ってくれた方お見てほしい。そして、今の世界がどうなっているか、どういう世界で生きていきたいのか、深く、長く、考えてほしいです。ぜひ。

もっと文章読みたいなあと思っていただけたらご支援をお願いします!わたしの活力になります〜。