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百子おばあちゃんのはなし。

こんばんは。
今日はひめゆり学徒隊のはなしを聞きたくて、首里に住む百子おばあちゃんに会いに行ったときのおはなしです。たぶん、4年くらい前のこと。
沖縄戦のことは勉強していたつもりだけど、ひめゆり学徒隊の歴史を講演で聞く機会があって、そのときに「今聞かないと後悔する」と思って、その講演をしていた方に紹介して頂いて会いに行きました。

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出典:http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20150407/203743/

ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄で日本軍が中心となり、負傷した兵士を看護をするために編成された部隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一女学校の教師と生徒のことを指します。ひめゆり学徒隊以外にも、ずいせん学徒隊など多くの女子学徒隊のほか、男子学生を中心とした、鉄血勤労隊などの部隊が存在し、その多くの学生が犠牲となりました。

正直、「話を聞きたいと言っていいものか」というのは、沖縄に来てからも幾度となく考えました。ひめゆり学徒隊のこと、沖縄戦のこと、きっと、とても悲しい記憶に包まれているもので、わざわざ悲しいことを「話してほしい」と言うのはどうなんだろうと。しかもわたしは記者でもなんでもないわけで。でも、さっきも言ったけど、聞かないと後悔すると強く思ったんです。本当に何があったのか、本人の口から聞けるうちは聞きたい。その記憶をわたしの心に収めて、彼女の言葉を繋いでいける人になりたい。ただそれだけで、わたしは会いにいきました。

今回お話を聞かせてくれたのは、与那覇百子さん。

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ちょこんとした、とってもかわいらしいおばあちゃん。百子さんは17歳(予科3年生)のときに沖縄戦を経験しました。ひめゆり学徒隊は学徒222人、教師18人の計240人が動員され、そのうちの136人が犠牲になっています。

一番最初に、百子さんは夢のお話をしてくれました。今でも、よく夢に、級友の姿が出てくるそうです。あの日、沖縄戦でたくさんの級友を失い、ときには隣にいた級友が銃で撃ち殺された経験もしています。だけど、百子さんは「まただいすきなお友達が会いにきてくれたって思っているの。だからとってもありがたいのよ。」と仰っていました。

百子さんは、あの時のことを思い出したくないとは思ってないそうです。覚えていたいし、忘れたくない思い出。たとえ、その級友との思い出が戦争で亡くなったとしても、それまでの級友たちとの記憶は彼女にとってかけがえのない宝物でした。

百子さんは、音楽がだいすきな女学生でした。ピアノがだいすきで、沖縄戦が始まる前は、よく教室でピアノを毎日遅くまで弾いていたそうです。そんな百子さんにピアノを教えて下さる先生がいました。東京の美術大学を卒業していた東風平(こちんだ)先生です。東風平先生は、他の先生と違って、男子と女子を差別することなく一緒の教室で同じように指導をしていました。そのことにも百子さんは驚いたいたようです。百子さんは東風平先生のピアノがだいすきだったそうで、学校最後の夜、東風平先生に「月光」を弾いてもらい、その音色がいつまでも忘られない美しい記憶だと仰っていました。

また、戦時中は東風平先生の言葉で「生きる希望」が湧いたそうです。当時は軍国主義の時代。教育では「米兵に捕まるくらいなら潔く死ね」と教えられており、当然のように生徒たちもそう思っていました。ですが、東風平先生は「絶対に生きるんだぞ。」と、百子さんに声をかけたそうです。この言葉を先生が生徒にかけるのに当時どれだけの勇気が必要だったでしょう。また、このたった一言がどれだけ希望となったでしょうか。

百子さんは「こんな戦争で生き延びられるんですか?」と尋ね、東風平先生は「生きられるから生きるんだぞ」と強く仰いました。そこまで先生がいうのだから、私はただ、先生の言葉を信じておこう、そう決めたそうです。

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ひめゆり学徒隊は最初に南風原の沖縄陸軍病院に動員されましたが、戦況の悪化から波平壕に移り、生活していました。しかし、6月下旬にさらに戦況が悪化し、食糧も手に入らない状況が続きました。みんなが口々に食べたいものを口にしていると、引率している先生に怒られたそうです。愚痴すらもこぼせない状況で、心が辛かったと仰っていました。

「先生も辛かったんでしょう」と百子さんは言います。「教え子たちを死なせたくはないけど、どうすることもできず、それを私たちも分かってはいました」と。教え子を死なせにいかせることがどれほど辛いことか、そういう先生の心もみんな分かっていたのです。

 そしてとうとう、先生は切り出します。「もうこれ以上逃げる場所がない。どこへでも自分の責任で好きなところへ行け」と。放り出されたことがすごくショックだったと仰っていました。百子さんは「好きなところって言ったって、一体どこに逃げればいいんですか?」と先生に問いました。先生は「班ごとに行動して逃げればいい」と仰ったそうです。

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班ごとにわかれたひめゆりたちはどんどん山の中へと入っていきました。移動する道中の中で、すぐに3,4名の級友が亡くなりました。隣の人がすぐに死んでしまう。次は自分じゃないかと怯えて逃げ惑う。逃げている途中で大雨が降ってきたので百子さんたちは近くの防空壕雨宿りしました。そこには生き延びた日本兵が何人かおり、水をくれたりと優しくしてくれました。

百子さんと一緒にいた友達が兵士に「何か殺せる道具を持っていません?」と尋ねました。彼女は死にたかったのです。もうこんな状況が耐えられなくて。日本兵は「手榴弾なら持っているよ」と答えました。彼女は「死ぬときは一緒に殺してください」と願い出ました。このとき、彼女たちの中では死ぬことに恐怖はなかったそうです。「今死ぬか」「あとで死ぬか」その違いであって、選択肢に「生きる」は含まれていませんでした。

しかし、百子さんには信じる言葉がありました。東風平先生に言われた「絶対に生きるんだぞ」の言葉です。百子さんはどうにか友達を説得させようとしていました。その最中に、兵士の1人に「貴様ら出ていけ!出ていかないと叩き切るぞ!」と、怒鳴られました。びっくりした百子さんたちは急いで防空壕を出ました。その直後、防空壕は爆発し、日本兵は自決していました。

 「多分私たちを助けてくれたんじゃないかな」百子さんはとっさにそう思いました。そして、彼女たちが防空壕の前にいると、目の前に米兵がやってきました。「やっぱり死ぬのか」と悟りましたが、片言の日本語を話していたので、そのまま言うことを聞きました。

その後、北の部落の収容所へおくられた百子さんは、県の指導主任の先生のお手伝いをしながら文教学校の一期生を卒業し、地元首里の先生になりました。

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お話の最後に、百子さんは大切なことを教えてくれました。

「戦争はすごく大変だったわ。多くの学友を亡くしました。死ななくてもいい人がただ殺されました。戦争は絶対にやっていけないことだと思うの。なんとも言えない気持ちになるし、そんなこと本当にあっていいのかって全てを疑いたくなる。二度と起こしてはいけないって心から願っています。

当時は軍国主義の中の教育で、学校から「お国のために死ね」と教育されたらそれを真に受けるしかなかった。死んだ方が国のためになるなって、日本だけの変わった考え方です。教育の恐ろしさを体験しました。でもね、先生たちも国の教えを真に受けていて、そういう教え方しかできなかったと思います。先生たちもきっと立場がなかったんでしょうね。

だから、私の知っていることは分かっていただきたい。隠すことはしたくないんです。これからの若い人たちのために。二度と住民が殺されることのないように。どうか、平和な国を創っていって欲しい。そして、若い人がこういう勉強を進んでしてくれること嬉しいです。後世にこの話を伝えていってください。」

昼すぎに伺って、3時間近くお話を聞かせてくれました。沖縄戦を経験したのは17歳のとき。今で考えると高校2年生。わたしは何をしていたかと考えると、受験勉強が始まって、それでも学校でみんなと会うのが楽しくて、それが当たり前で。

あの暗くて狭い悪臭の壕の中で、懸命に働いていました。きっと目の前で数えきれないほどの死を経験したと思います。追い打ちをかけるように解散命令が出され、戦場に放り出されて、死ぬことに恐怖すら抱けず、ただ逃げて逃げて逃げた。

ああ。想像できないなって思っってしまった。あまりにもわたしの現実とはかけ離れすぎていて。17歳のときにそんなことできこないって。青春時代の思い出が戦争だなんてあまりにも悲しすぎるし、夢に出てくるのが級友が亡くなった場面なんて、想像するだけで涙が出てくる。それなのに、それでも会いたいと願う百子さんの笑顔を、わたしは辛くてちゃんと見れなかった。

百子さんは明るく優しく生きています。予科生だったころにだいすきだったピアノをずっとやって、一回はブランクが空いてしまったのだけれど最近また弾こうと思っているの。と笑顔で話してくれました。

こんな辛い話をしてくれるのは「未来のためだ」と百子さんは言っていました。これって被爆者の人と一緒なんだよね。わたしは未来の一部を託されたと思っていて、だからこれからもわたしの見ることは出来ない未来のために、歴史を繰り返さないために一歩一歩進んでいきたい思う。

沖縄でそんなことがあったなんて信じられないくらい今では観光地になっているけど、とてもとても悲しい歴史があって、その上で悲しみに耐えて今の沖縄を作っていった百子さんのような人たちがいることをちゃんと覚えておきたい。ひめゆりを巡って沖縄を巡るのはとても悲しいけど、できたら多くの人のその足跡をたどってほしい。もう二度と歴史を繰り返さないために。

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