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【社会Lv.40】障害なんて自分はならないと思う人は現代社会がどう見えていますか?

FPAとして喫茶店などでお客様とお会いしてヒアリングやご提案をさせて頂くことがあります。
最近はコロナ禍でめっきり減りましたが、中には隣の席でも向かいの席でも保険相談ということがあります。

前の予定が早く終わったので軽食を取りながら、隣の座席の保険相談の会話を聞いていました。

どうやらご夫婦の保険提案のようで、夫は保険に加入する事を渋っているようでした。
保険の担当者は何故それが必要なのかを淡々の説明し、奥様はそれになるほどと頷いている様子でした。

人生100年時代、若い人たちにも「働けないリスク」についてきちんと提案をするというFPは信頼できる募集人かもしれません。(ウチで働きませんか?)


しかしその人(夫)は、こう言いだしました。

“私の周りにはそんな人は一人もいないし、働けないリスクなんて起こるか起こらない確率の低いリスクに保険で備えるのは無駄だし、そんな後ろ向きな生き方はしたくない”

私は目を丸くしました。
「起こる確率が低いけれど、一度でも起きると預貯金で補いきれないリスク」(テールリスク)という保険の根幹である考え方について、恐らくその方はまだ理解が及んでいないのかもしれません。

しかしそれ以上にその姿勢に唖然としました。

保険募集人に対してその方は長時間スマホを見て操作していました。
メモをしているのか、それともゲームでもしているのか私の席からは判別できませんが、指先を細かく動かす動作が見えました。

眼と眼で会話をすると言いますが、眼は心の窓です。
会話をしている人と視線を合わせないというのは聴く耳を持たないという姿勢と一緒です。

恋愛において目を合わせずに口説くことがないように、人は目から入ってくる情報をとても大切にします。



これは何もルッキズムや対面での相談だけでなく、オンラインでの相談でもそうですが視線というのはとても重要な情報を持っています。(だからオンライン相談でカメラOFFはあり得ないほど失礼だし、あなたの話を真剣に聞く気はないと言っていることに近しい)


何もガン見しろという話ではありませんが、目線を合わせないというのは言ってしまえば対面で人と会っていても心は寝そべっているのと大差ありません。

私も同じように保険募集をする立場上、常日頃から思うのですが、人の視座・視野・視点というのは本人が育もうという姿勢がなければどんなに水をやっても育てることはできません

本人が成長しない事にはお金も結局は入ってこないし、出て行ってしまうばかりになるでしょう。

ましてやその人の手元・足元でお金が長期的に育つというのはどんなに良い提案をされても、どんなに良い商品を選んだとしても続けることがそもそもかなり難しいだろう(早晩失効や解約されたり)と思いました。

いつも繰り返しのように視座・視野・視点についてこの地図を観るような概念図を引用させてもらっていますが、今回はやや別な角度からのものも用いていきたいと思います。

スポーツや仕事、または人間関係などで「視野が狭い」や「視野を広く持とう」などと言ったり感じたりすることはないでしょうか。

広い範囲ではほとんど同じように捉えられている言葉でも、言葉が違うということはその意味しているものの”厳密な定義”では異なることがあります。

上図は”絵画を観る”という状況におけるそれぞれの言葉の意味を説明しています。

大まかな理解をしている時よりも、どの言葉を選ぶかによって何を指摘しているのか発している側の意図が変わってくる、また伝わるものや文字通り見えてくるものが変わってくることが伝わるでしょうか。

若いうちというのはどうしても視野が狭く、視点もぼやけ、視座もどこに立つ必要があるのかが分からないという課題があります。
社会経験が乏しく、自分の価値判断の基準もあいまいです。

つまり同じものを観てもどの立場から、どの範囲の、どこを見て、何を参考に考えればよいのかが分からないのです。

分からないので長年自分がやってきた延長線で考えるという癖が働きます。

また今の目の前の出来事が人生の最も重大事項であるという遠近感に騙された状態に陥りやすいものです。(遠くの山は小さく見え、手前の小石は山よりも大きく見える)

独身時代の立場の延長で、同じように考えたとしたら長い人生という俯瞰して見る必要のある夫婦として考える必要のあるお金に真剣に取り組む事ができるでしょうか?


夫婦観・家族観・結婚観は人それぞれですが、FP的な立場で考える夫婦はネガティブな言葉で言えば連帯責任、ポジティブな言葉で言えばチームです。

独身とはテニスで言えば個人戦シングルスで、夫婦・家族というのはチーム戦ダブルスです。

ダブルスで一人がシングルスを始めたとしたらどうなってしまうでしょうか。
テニスの試合でダブルスなのに、いきなり味方が自分勝手なプレイをし出したら何が起こるでしょうか?

これが許されるのは新テニスという新しい競技の中だけの話です。

私もお客様が来られて仕事が始まったので、このご夫婦と保険募集人の面談がその後どうなったのか分かりませんが、保険相談の場というのはその人の人生観・家族観がモロに出る場だと私自身は思います。

きっと彼らからも私の保険相談が漏れ聞こえているかもしれません。


結婚が夫婦それぞれにとってどんな意味を持つことなのか、社会の仕組みとしての結婚、経済的な結びつきとしての結婚…

もしくは結婚をしてもまだ自分だけの価値観で成り立つと思っているのでしょうか。


独身時代とDINKS、家族への責任の違い

FPの世界に限らないでしょうけれど独身のことをSINGLEシングルと呼び、まだ子供のいない共働き夫婦のことをDINKSディンクス*と呼びます。
子どものいる夫婦のことをFAMLIYファミリーと呼びます。

*”Dual Income No Kids”

近年は結婚して間もなくご懐妊、または授かり婚などシングルからいきなりファミリーという家庭もありますが、今日でも日本では独身→結婚(DINKS)→出産(FAMILY)という流れがまだまだ主流ではないでしょうか。

若い方には信じられないかもしれませんがつい20年ほど前までは授かり婚は「できちゃった結婚」と呼ばれ、今となってはアレですが計画性のないカップルや乱れた性生活のように語られることも決して少なくありませんでした。
歳月を経て、それが責任を取って結婚をするだけマシ、それをきっかけにしないと結婚に踏み切れなかったというやや皮肉を込めた意味合いに変化してきたことは知識の片隅に置いておいた方が良いでしょう。

(私は婚外子であろうと子どもの生まれてきた命と権利は変わらなく守られるべきだと思いますし、もっと日本でも社会的にそれを許容する空気が醸成されることを望んでいますが)

国際的に日韓は婚外子が少ないが、儒教思想が影響しているのだろうか?


保険相談は相談者の家族観・人生観・経済観などの発露

私は現在、FPとしてまた保険募集人として12年目になりますが、保険相談の場というのは良くも悪くも相談者の本性が垣間見えると感じることがあります。

本性というとやや大げさでしょうか。
家族観・夫婦観・子どもへの気持ち、お金に対する価値観が現れると考えて頂きたいと思います。
何もこれらがその人の性格の全てというわけではありません。

何故これらが現れるのかと言えば、保険相談というのはこれらの価値観の上に根ざしているからです。

冒頭で触れたような恐らく、配偶者(妻)が夫に保険について真剣に考えてほしいと思っていても、夫が主体的(能動的)に保険相談のテーブルにつかない場合、または真剣にその保険募集人の話に耳を傾け考えていない場合、夫婦生活がその後、継続する夫婦を私はついぞ見たことがありません。

それがご夫婦にとって望んだ姿なのかは分かりませんが、保険について真剣に考えられない方々には大きく5つの傾向があります。

①お金がない
②健康(健全)ではない
③無知である
④無責任である
(依存している)
⑤社会性・社交性が断絶している

①と②はどうすることもできませんので、夫婦力を合わせてそこからまずは家計簿を付けるとか食生活や運動などを見直して早く抜け出してほしいと思いますが、③④⑤もなかなかにハードルが高いと言えます。

③については、ソクラテスだけでなく渋沢栄一の『論語と算盤』にも書かれていますが、料理を作ってお膳に盛り付けてあげているのに、それを口まで運んでやれるほど世の中の多くの人たちは暇ではないということです。

乳幼児ではないのですから、自分で箸を持って口に運び、咀嚼して味わう必要があるのです。
それをしようともせずに、「ニンジンが嫌いだ、ピーマンは嫌いだ」という食わず嫌いは精神的にお子様だというのです。

無知が罪なのは、無自覚で問題を問題として認識さえできず、あげくその問題を他責(他人のせい)にしてしまうことです。
つまり④無責任ということになります。


④無責任は、自覚の問題でもあります。
人はいつ覚悟をするのでしょうか。
プロポーズをするとなった時に覚悟を背負っている人もいれば、指輪を買った時、婚姻届けを書いた時、ハンコを押した時、提出をした時、一緒に暮らし始めた時、子どもが生まれた時、子どもが懐いてくれた時、人によって異なります。
残念ながら子どもが生まれても、ある程度育ってきても自覚が持てない人も一定数います。

西炯子『娚(おとこ)の一生』より

“結婚をしたら幸せになれるのではなく、結婚するからには一人でいるよりも絶対幸せになってやるって決めたから踏み切ったのさ”

同僚の結婚報告

これってある意味で真を突いた覚悟だと私は思いますが、皆様はどうお感じ任られるでしょうか。
結婚に何を求めるかは夫婦それぞれ。夫となる人、妻となる人それぞれでも違う事さえあります。

女優の壇蜜さんは結婚観についてこう語っています。
“私にとって「ちゃんと生きられる」の意味は、経済的・精神的に自立して生きられるということです。ひとりで生きられないから結婚するのではなく、自分ひとりでも生きられる自信がついたから誰かと一緒にいられるようになったわけで。“

この考え方はとても今時というか、共感される方も多いかもしれません。
また結婚しない(結婚に踏み切れない)、結婚相手を探そうとしない現代の多くの適齢期の人の価値観にも近いように思えます。

妻を母親代わりに。夫を父親代わりのように思っている何でもしてくれる人のように感じている人もいるでしょう。これがダメなのではありません。
夫婦の問題なので、それを愛しいと思えるか。この人もしかしてマザコンなのかしらとうんざりするのかという話です。

自由と無責任は違いますよね?

夫婦とは婚姻によって経済的な結びつきを社会的に認められた関係であり、単に恋愛感情で好きで一緒に暮らすための契約ではない一面も理解しておく必要があるでしょう。

婚姻後に夫が背負わなかった責任は自覚の有無に関わらず妻が背負うことになり、妻が背負わなかった責任は夫が背負うことになります。
(分かりやすいのは借金などですね…)
夫婦は運命共同体です。(最終手段として離婚して全部半分こにもできますがね…)
知らなかった、学校では教えてくれなかったではなく、結婚できる年齢になった男女であれば自分で調べてでも考えてでも、理解しなくてはならないことが無数にあります。

⑤社交性・社会性はコミュニケーション能力が代表的なものですが、所属している会社や学生時代の部活・サークルなどの人間関係、普段関わっている人たちによって時間をかけて培われていくものです。

私見ですが就職氷河期世代以降(現在のアラフォー以下)は特に極端にこれが未発達な若い人たちが増えてる傾向にあります。
社会に出る頃、物心ついた時から世の中不景気で、社会に対する信頼が希薄な人たちと表現できるかもしれません。
職場や友人たちに恵まれたとしても、生来のコミュニケーション能力によってはこれが育たないこともあれば、コミュニケーション能力が高く、決して恵まれたとは言えない職場や人間関係からも学び社会の仕組みを理解する人たちもいます。

FP・保険募集をしているとよく経験するのですが、同じ業界や職場などの人の多くは同じくらいの年齢やタイミングで結婚をして子どもが生まれ、マイホームを購入してというライフイベントやライフプランが似てくる傾向にあります。
同じくらいの年収、同じ業種や職場だと上司や先輩などをロールモデルに考えやすいというのもあるのでしょう。
(そしてこの他人を参考にした生き方は年々、加速的に通用しない時代になってきている)


ステレオタイプな性差のイメージを語るつもりはないのですが、女性は身体的に男性と違って大きな変化を第二次性徴を含めて乗り越えて成人します。

特に妊娠・出産という男性には想像を絶する経験をした女性は、母親としての自覚(母性)への目覚めの機会が多いというのはそうなのでしょう。

一方で男性というのは変化に弱く、様々な面で過去の成功体験や習慣にしがみ付き、もろに夫婦生活やお金の使い方に現れやすい傾向にあります。
父性と母性はテーマが大きく、これだけでシリーズ化できそうなほどなので割愛します。



天涯孤独の人以外は必ず誰にでも大切な人がいる

保険提案でいえばもしも独身時代に、あってはならないですが万が一(亡くなったり)やまた働けない状態(寝たきりや車いす生活など)、ガンなどの大きな病気で長期療養をしたなどの場合があっても殆どの場合にその後の生活を背負うのはその家族である両親ということになります。

これは私の価値観なのでこれだけが絶対に正しいとは思いませんが、少なくとも私は自分が独身であれこう思います。

もし自分が親よりも先に亡くなってしまったら、これ以上ない親不孝だと思う。そうならにように生きるけれど、それが選べないとしてこれからしてあげたいと思っている親孝行としての旅行や介護の世話の足しにして欲しい。


もし自分が事故や災害や病気や何らかが原因であっても、きっと親は自分たちの老後の資産を取り崩して、家や土地を売って、借金をしてでもなんとか助けようとするだろう。

自分が障害や介護、働けない状態になったとしても、これから先の自分の生活の世話を最後までそれが続くようにと年老いた親がなんとかして用意しようとするだろう。
老後を迎えた、大人になるまで愛してくれた両親に一人前の社会人として育ててくれた両親に、もう一度背負わせてしまうことになったら申し訳ないし、親には老後のお金や時間を、そんなことのために時間を使ってほしくない。

独身時代であっても、私は残念ながら事故でそうなってしまった人を実際に何人も知っていますし、彼らは私の学生時代の友人たちでした。
また社会人になってからも、先週末までいつもの職場で働いていたのに、週明けには訃報を聴いたことがあります。

一緒に飲み会で語り明かし、子どもの遠距離恋愛を見守っていると旅行のチケットを照れくさそうに買ってあげた父親が翌月にビルから飛び降り自殺をして亡くなったことも経験しています。

大きな病気で倒れて、麻痺が残って仕事を辞めざるを得なくなった人を知っています。
その後、その配偶者がどんな苦労をして子どもたちを育てたのかを私は知っています。

大学に進学したくても学費を用意できなくて、専門学校へ奨学金を借りてアルバイトをしながら進学をした人を知っています。


私にもし、万が一のことが起きても、きっと両親は、私が独身の内にそんな状態になったとしても見捨てずに世話をしてくれようとするでしょう。親の愛情というのはそれほど深く、また重いのです。

結婚をしたらこの親に代わって配偶者が世話をすることが婚姻における夫婦が助け合うという関係に変わります。

子どもがいたら配偶者が助けられない場合には、子どもがそれを支援してあげることが古いと言われながらも今日まで続く日本における婚姻であり多くの方の家族観でしょう。

シングルであっても、DINKSであっても、ファミリーであっても私は根本的なものは何も変わらないと思います。

ただ働き、生きていくという覚悟と責任を自覚できるかどうか、そこに誰が関わっているのかの違いでしかないと思います。

親を早くに亡くしたなど、いざという時に頼れる人がいない人や親には頼りたくない人には自分がなんとかするしかないという覚悟があります。

世の中が自分に合わせて上げ膳下げ膳などしてくれないことにいい大人としていい加減目を覚ます必要がありますし、自分が世の中の変化に対して合わせられなければいけないことも腹を決めなくてはなりません。

何のために結婚をするのかは人それぞれ。
結婚しないのも人それぞれ。
ですが、配偶者はママではありません。

『深夜のダメ恋図鑑』佐和の毒舌は癖になる…痛っ…

自分自身が背負っている責任の大きさと、それに無自覚な人、そのプレッシャーを自分の強みに変えられないのであれば結婚などしない方がお互いにとって幸せではないでしょうか。

そして保険とは、起こるか起こらないかという確率の高さ低さではなく、避ける努力を最大限して、それでも避けようもなく起こってしまった時の両親や兄弟、配偶者・子どもなどの大切な人への愛情と責任を肩代わりをしてくれるものであり、自力だけではできない他者の力を借りる最も合理的な方法になります。

もったいないとか、無駄とかそういう次元の考え方ではそもそもないのです。

100%誰にでも起こるリスクだとすれば支払う保険料はその保障額の100%以上でなければ保険会社は保障を提供できません。

いざという時に備えて保障重視型(掛け捨て型)であれば数千円の保険料、共働きの現状でさえこれさえ負担できないのは言い換えるともっと大きなお金の負担をいざという時に配偶者一人に負わせることに何の罪悪感も感じないとすれば楽観主義ではなくて単なる無責任ではないでしょうか。

誰にいつ起こるか分からない、頻度は決して高くないけれど、一度でもそれが起こった時に預貯金では補いきれない経済的リスクに対する備え

起こらないようにするのは当然の努力であり、前向きか後ろ向きかという話でさえないのです。

むしろいざという時の責任を自分で背負わず妻に背負わせ、夫として敬え、男を立てろというのであれば、それ相応の稼ぎなりをしてきてくれないのであれば、結婚は妻(女性)にとっての奴隷契約ではないでしょうか。


自分の周りにそんな人はいないと言いますが…周り、観えていますか?

全く出かけないという人でもない限り、社会でこの30年かけて大きな変化が起きていることに気づいているでしょうか。


高齢になって杖を突く人という意味ではなく、まだ老齢年金を受け取っているだろう年齢ではない人たちの中で、車いすや杖を突いて歩くそうした人たちが社会に関わって暮らしていけるように変化してきています。


私は映画に行くのが趣味の一つですが、皆さんも映画館を予約される際、近年劇場の座席の中で一区画凹んだところが設けられているのを見たことはないでしょうか。

これは車いすの方用の座席シートをわざと減らしているスペースを設けているという構造を意味しています。こうした映画館もかなり増えていますよね。

また『バリアフリー上映』と呼ばれる案内が上映開始時にアナウンスされることが最近は当たり前になりつつあります。

聴覚障害がある方がスマートグラスを付けて字幕付きで映画を楽しむことが出来たり、視力に障害のある方がイヤフォンなど補聴機能で映画を楽しめる環境が整備されつつあります。

ビルやマンション、デパートやショッピングセンターなどでエレベーターに乗る際に車いすマークのボタンがあります。

単に車いすの方が押しやすい位置にあるだけであれば、健常者の方向けのボタンと併用する必要性はあまりありません。健常な方が少し屈んで押せば済む話ですから。

このボタンは到着時などのドアの開閉時間の長さ*を調整して、車いすの人が挟まれずにゆっくりと乗り降りできるようにするためのボタンでもあります。

*通常3~5秒を10秒ほどに延長

また鏡が付いているエレベーターもありますよね?
これは車いすの人が中で回転できない時に後方確認をするためのものとして備え付けられています。
複数機稼働している場合、車いすマークの呼び出しボタンにはこの鏡が付いている方が呼び出されるなど連動しているものもあります。

髪型を直したり、化粧するためではないのですよ

(´_ゝ`)車いすの人がいるときは遠慮してね。

車いす関連で言えば様々な施設や建物にはスロープが設けられることも増えてきました。
駅のホームに降りる際にエレベーターが設置されていない場所などでは階段昇降機と呼ばれる普段は畳まれている機械の設置されているところもよく見かけるようになりましたね。

また「だれでもトイレ」と呼ばれる障害のある方でも利用しやすいトイレ。
空間が広いからと言って着替えや某芸人のようなことをするための場所ではありません。

手すりや手洗い場、オストメイト*対応の洗面台が設けられています。

*人工膀胱・人工肛門(ストーマ)の方のこと。排泄物を貯める袋から排泄処理などができる。

オストメイト対応設備の設置は2006年にバリアフリー法によって言っての要件を満たす施設を建てる場合に義務化されましたが、それ以前に建てられた施設の場合には努力義務に留まっています。


また電車やバスの中でも見かけるものとしては席の譲り合い。優先席に限らず高齢者や杖を持った方、妊婦さんなどに譲ることがありますよね。

優先席には妊婦マークのシールと共に、赤地に白い十字とハートのロゴがあしらわれた「ヘルプマーク」も貼られています。

車いすや白杖、または高齢者のような見た目で分かるものと異なりオストメイトもそうですが、眼に見えにくい障害、理解してもらいづらい人というのも世の中には思いのほかいます。

今や全国に広まっているヘルプマークの普及状況


皆さんが生活をしている中でとても疲れている時に電車で目的地まで立って移動となった時を思い出してほしいのです。
これが身体に障害のある方の場合、日常的にこの状態やそれ以上に辛い事を。
眼に見えずらいためになんで席を譲らず、寝たふり、スマホをにらめっこしながら知らんぷり…こんなことしていませんか?
こうした時に自分のちょっとした行動で助かる人がいます。

何も優先席の近くにだけ彼ら彼女たちがいるわけではありません。
普通の座席のところにも立っていることもあります。
「ヘルプマーク」は何も席を譲れというマークではなく、手伝えることはありますか?(May I help you?)という声掛けを必要としていることを発信しているのです。

そうした時にこのヘルプマークを身に着けている人を見かけたら、できるだけ声をかけてあげて欲しいのです。


【参考】韓国の電車内優先席の工夫

優先席は日本では車両の両端の方にあることが多いようですが、韓国などでは更にこのようなシートの両端など乗り降りしやすい席を妊婦の優先席*としていますが、そこへ近年更にクマのぬいぐるみを置くようにしました。
*日本における優先席と同じで障害のある方や高齢者なども優先して座れる席。譲り合う席。

韓国は先進国の中で最悪の少子化、2020年には出生率0.84(日本1.34)となり、妊婦や乳幼児がとても大切に扱われる社会的な取り組み*が行われています。

*0~1歳までの児童手当30万ウォン(日本円で約3万円)を2025年までに50万ウォン(約5万円)に引き上げる方針。また2019年からは6歳未満の子ども一人当たり月10万ウォン(約1万円)を支給。
日本では0~3歳未満までは1.5万円、3歳~15歳までは1万円の児童手当を支給。


障害年金・障害手帳・公的介護認定対象者数はどれくらい?

「働けない状態」という定義は何を基準にするかによって異なってきます。保険会社によっては60日以上などの入院や在宅療養中を働けない状態と定義することもあります。

また障害年金や公的介護保険制度などの所定の認定を持って「働けない状態」とする場合もありますし、生活福祉のための障害手帳の所定の等級の交付を持って「働けない状態」とすることもあります。

障害や介護には様々な定義があります。公的年金制度における障害年金は認定をされるまでの時間がかかりますが、障害年金という現金給付が受けられるのが大きな特徴です。

障害年金1級または2級の対象となっている20~64歳までの人は日本全国に約129万人、このうち先天性の知的障害や精神障害を除いた後天的に障害を持たれた方は65歳未満で約78.8万人となり、40~64歳までの死亡者数の約6倍に迫ります。



人口の規模で言えば熊本市の総人口74万人、浜松市79.7万人、静岡市71.9万人、相模原市が71万人、東京都練馬区73.13万人、江戸川区が67.4万人なので政令指定都市に住むくらいの人口以上の人が全国で障害と認定されているという事になります。
これって結構すごい人数だと思いませんか?


障害手帳という自治体が認定する生活福祉における住民税の減免や公共交通機関の割引などを受けられる基準(現金給付なし)の場合には65歳未満は74.7万人と障害年金に近い水準。
障害手帳は1日に全国で800人以上に発行されているペースで増え続けているとされています。

40歳以上が対象となる公的介護保険制度の第2号被保険者は特定16疾病で所定の状態になった場合のみ認定対象となりますが、40~64歳の死亡者数とほぼ僅差。

※それぞれの制度は独立した制度のため、それぞれに重複しているケースも考えられます。

こうした障害・介護などの該当者が増えている背景には医療の進歩があります。少し前までは助けることが出来なかった命を、つなぐことができるようになりました。
しかし命は助かったけれど、身体に何らかの障害が残った状態のまま人生100年時代を生きていくことになる…これが今、日本が直面している大きな課題であり、そのために社会のバリアフリー化が積極的に進められているのです。

単に高齢者が増えているからではないのです。


若い人ということで考えると障害手帳や障害年金の対象者である70万人超というのは人生の中で出逢ってきた全ての人の数よりも殆どの人にとって多い人数ではないでしょうか。

幼稚園、小学校・中学校・高校・大学、就職した会社、取引先…自分が会話したその全ての人の数はどれくらいでしょうか。

人と積極的にかかわる人と、あまり積極的には関わらない人がいるでしょうけれど早稲田大学会計研究科教授の豊泉洋氏によると人が一生の中で接点を持つ人の数は8.76万人(1日平均3人、人生80年として)だそうです。

障害年金または障害手帳認定者数は両親・兄弟・仲の良い友人、上司・先輩・後輩…など一生のうちに出逢う人の数のおよそ10倍の人数になるとも言えます。

またこれが30歳前後などもっと若い人だともっと少ないということになるでしょう。

(死亡は死んでしまえばもう何もしてあげられないが、障害は基本的に継続するため認定者数は死ぬまで増え続けていくことになる)

私は保険募集の仕事を30歳の時に始め、驚いたことがあります。
健康な人というのは思いのほか少ない…職場で車いすで働いている方や白杖を持っている方、食後にインスリン注射をしているような人は分かりやすい方で、健康診断の数値や飲んでいる薬の数、過去の疾患などは年齢が上がるほどに増え続けていきます。

私のすごく大雑把な感覚ですが20代で20%以上、30代で30%以上、40代で40%以上…この方達は保険会社が定める健康状態を満たせず加入はできません。

障害年金・障害手帳などの70万人超というのは見ようとしていないだけで、また目に見えづらいだけで、世の中には実に多くの人が障害などを抱えて生きていると考えることができます。

あの席で愛する配偶者の隣で「私の周りでそんな人は一人もいない」は「私は甘やかされて育ったボンボンで、視野も狭く何か起きても親と妻になんとかしてもらうから保険は勿体ないと思う」と宣言しているようなものです。

内心どうか知りませんが、配偶者の前で強い自分を見せたいのか知りませんが、本人が自覚していないのだとすればこんなに皮肉なことはないでしょう。


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