見出し画像

ドイツリートにおける「音画」って?

梅の香りがもう春の訪れを告げていますね。一月は行く、二月は逃げる、三月は去る…と言いますが、本当にあっという間に時間が過ぎゆくこの頃。頭と心がついていけてないです。おまけに花粉が…悩ましい。

ところで、皆さんは「音画」という言葉を聞いたことがありますか。ドイツ語で「Tonmalerei」。直訳すれば「音の絵画」、すなわち音で描くこと。これは音楽史の用語で、自然の風景、情景などを音で描写する手法のことです。わかりやすい例でいえば、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集〈四季〉やハイドンのオラトリオ〈天地創造〉に見られるような「鳥の声」だったり、ベートーヴェンの第6交響曲に代表されるような「嵐の情景」だったり。さらにベルリオーズの幻想交響曲以降になると、さらに具体性のある写実的表現が音で展開されるようになります。いわゆる「標題音楽」の土台にある手法ともいえるでしょう。

こうした音画の手法は、ドイツリートとも無縁ではありません。19世紀にドイツリートが芸術的に大きく花開いたのは、ピアノパートが詩の世界の表現に介入するようになることと深く関わっています。歌詞である詩がまさに「標題」となって、ピアノがその描写に参与する…とも言えるかもしれません。ハイドンやモーツァルトの歌曲では、それ以前の時代の通奏低音歌曲からの過渡期にあって、ピアノは控えめな表現に徹するものが多いですが、それでも、モーツァルトの〈ルイーゼが不実な恋人の手紙を燃やしたとき〉K520では、めらめらと燃える火中に手紙をくべる「炎」の情景がピアノパートの音型に見て取れます。

さて、音画を積極的に歌曲のピアノパートに用いたのがシューベルトです。作品1の〈魔王〉では、嵐の中での馬の疾走、作品2の〈糸を紡ぐグレートヒェン〉では糸車を回す様子が、首尾一貫して続けられるピアノの音型によって描かれます。〈魔王〉の詩は、「この夜おそく風の中を馬で駆けていくのは誰?」という語り手の言葉から始まりますから、あのピアノの激しい音型が風の中の馬の疾走であることは自然に想像できるでしょう。作品2は曲のタイトル〈Gretchen am Spinnrade〉に「糸車 Spinnrad」の語がありますから、繰り返し回転するピアノ音型が糸車の描写だと連想できます。しかも恋しいファウストの姿を想像するグレートヒェンの思いが最高潮に達したとき、その音型は止まってしまう(=彼女の糸紡ぎの手が止まってしまった)…そして、そこから途切れ途切れに動き出す…そこまでシューベルトは「描いた」のです。(以下、アンナ・ルチア・リヒターの演奏でどうぞ。昨年彼女はメゾソプラノに転向しました。)

そのほかにも、《美しき水車小屋の娘》第17曲〈嫌いな色〉で登場する「狩人」を象徴するピアノの音型(ホルン5度)や、《冬の旅》第13曲の「郵便馬車」のピアノの音型も典型的な音画であり、それぞれ印象的な情景を作り出すのに一役買っています。

このような「音画」の手法は、シューベルトの直後、それをまねてリートの作曲に取り入れる作曲家が続出したようです。ただ、当時は「標題音楽」に対して「絶対音楽」という考え方(音楽は音楽外的な要素には依らない、自律的な音の構築物だとする思想)が根強くあり、音楽が描写に走ることを快く思わない向きもありました。シューマンなどは、尊敬するシューベルトといえど、このような音画手法(特に、ひとつの曲にずっと一貫した音型を使うこと)を後の作曲家たちが追随するのを批判しています。(もっと詩の細部に敏感に反応すべき…というのが彼の主張。)

ただ、この「音画」という手法は絵画、つまりは写実的な描写なのでしょうか。ここでシューベルトの音楽をよく思い浮かべてみましょう。シューベルトの音楽から聞こえてくるのは、まさに目に見える光景のようでありながら、同時に何かそれ以上のもの…とは言えないでしょうか。〈魔王〉の馬の疾走は、同時にもしかしたら、父親の、あるいは息子の不安、恐怖、焦燥の現れ?…グレートヒェンの糸車は、もしかしたら彼女の重苦しい心の内の堂々巡り?…に他ならないのではないでしょうか。さらに興味深い例としては、ゲーテの詩集『西東詩集』(1819年)所収の詩に作曲された「ズライカ」の歌があります。実のところは晩年のゲーテが恋した人妻マリアンネ・ヴィレマーによって書かれた詩であり、シューベルトは2曲(東風と西風)を作曲しました。この〈ズライカ〉第2番(西風)の詩をここに訳出してみましょう。(以下の訳、無断転載はしないでくださいね。)

ああ、西風よ、お前の湿った空気を
私はどんなにうらやんでいることか。
別れを悲しむ私の気持ちを
お前は彼に知らせることができるのだから!

お前の翼の羽ばたきが
この胸に秘やかな憧れを呼び起こす。
花々も、草地も、森も、丘も
お前の吐息に触れ、涙にくれている。

けれど、お前の穏やかな柔らかい風が
腫れたまぶたを冷やしてくれる。
ああ、悲しくて息絶えてしまいそう
彼にもう二度と会う望みがないのなら。

あのひとのところへ急いで行って
優しく心に語りかけて。
でも彼を悲しませることはしないで、
私の悲しみは隠しておいて。

彼に言って、でも控えめに。
彼の愛こそが私の命、
二人の喜びの感情があれば
彼のそばに、私はいられるのだと。

この詩のテーマは「西風」です。離れた恋人に私の心を伝えて…と、昔から人は風に寄せて歌ったものです。「湿った」「穏やかな柔らかい」風が吹いている様子を思い起こさせるピアノ音型で、シューベルトはこのズライカ第2番を開始します。ところが、この詩の第4節「あのひとのところへ急いで行って Eile denn zu meinem Lieben」以降(つまりこの曲の後半部分)、このピアノ音型はがらりと変わります。ここからの新しい音型は、シューベルトを聴き慣れた方なら自然と思い起こすであろう…「馬のギャロップ」なのです。明るく駆け抜けますが、最後の第5節「彼に言って、でも控えめに Sag ihm,aber sag's bescheiden」とあるように、ときどき手綱を引きブレーキをかけるようなリズム変化を覗かせます。

この詩には、そもそもどこにも「馬」は登場しません。この「ギャロップ」を生み出したのはシューベルトの天才的創造力です。ズライカは、恋人と遠く離れていて動けない。でも空想の中で、彼女は馬に乗って恋人のもとに向かっている。ときどき心にブレーキもかかってしまうのだけど(「彼に言って、でも控えめに」)…そんな悩ましい恋の心境を、シューベルトは「馬のギャロップ」という音画的手法で見事に表しているのです。なんという創造性でしょうか!

かの有名なベートーヴェンの第6交響曲の初版楽譜(1809年)には、「田園交響曲、あるいは田舎の生活への思い出 ー 音画よりも感情の表現」と、タイトルが記されています。ここにわざわざ長い文言を入れたベートーヴェンのこだわりの気持ちがよく表れていますね。作曲家が「音画」的な手法を使うことにより、もし聴き手の解釈の幅が狭まってしまう(個々の事象に限定されてしまう)としたら残念なこと。その危惧を抱きつつ、「音画」という手法の持つ効果を使って、音楽史上それまでになかった挑戦的な「感情の音楽」を書いたのがベートーヴェンであり、シューベルトもまた然り…といえるのではないでしょうか。

音画は、シューベルトに限らずドイツリートのあちらこちらに転がっています。鳥の声の描写だけでも、何通りもありますよ。皆さんも見つけて下さいね。そして、聴きながら様々な情景を心に描いて、追体験してみて下さい。

【今日のお薦め】エリー・アメリング(1933- )は多くのリート録音を残しているが、一般的によく聴かれているのはおそらくルドルフ・ヤンセンや、ダルトン・ボールドウィンのピアノによるものだろう。このボックスセットでは、それ以前のアーウィン・ゲージやイェルク・デームスとの貴重な共演が聴ける。60年代末から70年代初めにかけての若きアメリングの瑞々しい声と明確な表現に、改めて感服させられる。ドイツリートのほか、バッハのカンタータやフランス歌曲も。ちなみに今回の記事で紹介した女性の歌曲(ルイーゼ、グレートヒェン、ズライカ)はどれも収録されている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?