見出し画像

シューマンの「歌の年」を考える

秋も深まる11月。なかなか心穏やかに…とはいかない今年の秋ですが、変わることなく季節を運んでくれる自然に、ほっとする思いがします。

先日、なにげなく発信したツィートが思いもかけず拡散する…という経験をしました。なぜこのツィートが…?と驚きを感じるとともに、切り取られた短いツィートが、受け止めようによっては、自分の意図を越えた解釈を招きかねないことにも気づかされました。私が前提としている土台があって、それに付加した言葉だったのですが、それは確かに…誰にでも伝わるものではありません。今回の投稿のテーマは、その反省から急遽決めさせて頂きました。作曲家シューマンの歌曲多作の1年、いわゆる「歌の年」についてです。

作曲家としてキャリアを始めてから約10年、ピアノ曲ばかり作曲していたシューマンは1840年、30歳になる年に突然、歌曲(リート)の作曲に向かいます。この年2月以降、日に日にのめりこみ、実に彼の生涯における歌曲総数(約300曲)の約半分にも迫る数をこの1年で生みだす…という爆発的な創作活動を行ったのでした。この年9月12日に、彼は9歳年下で当代一流のピアニストであったクララ・ヴィークと結婚。新婦への贈り物として歌曲集《ミルテの花》op.25を捧げています。その第1曲が、(最近リストのピアノ編曲でも聴かれることが目立って多くなった)〈献呈 Widmung〉ですね。

リュッケルトの詩にのせた美しい旋律、和声はもちろんのこと、シューマンが「聖なるイメージ」を表すときに使う「変イ長調 As-dur」で書かれていること、またピアノの後奏にシューベルトの歌曲〈アヴェ・マリア〉の旋律が引用されているなど、新婦クララへ寄せる思いが神聖化された歌曲です。

結婚の年との関連から、シューマンの1840年の歌曲は、まるで結婚生活の喜びから溢れんばかり生まれた…かのようなイメージも持たれていますが、実際のところ、この年の主要な歌曲はほぼ9月の結婚式の前までに書かれていること(結婚生活に入ってからは作曲数は減少)には注意すべきです。つまり、結婚を目前に控えて(結婚生活への準備、期待と不安のなかで)書かれた…と捉えるのが正確でしょう。前述の《ミルテの花》のほか、アイヒェンドルフの詩による《リーダークライス》op.39や《女の愛と生涯》op.42が、そんなシューマンの最も「プライベートな」側面の歌曲集でしょう。

《詩人の恋》op.48と並ぶシューマンの傑作として知られる《リーダークライス》op.39は、クララとの関係がとりわけ強い作品です。彼女はシューマンに請われてアイヒェンドルフの詩の写しを彼に送りました。この歌曲集の第5曲〈月夜〉のピアノ・パートに、彼が「結婚 Ehe」(ドイツ語の音名、E、H、E)の音をはめ込んだのは象徴的。クララにはわかるであろう秘密の願いを込めたのですね。このOp.39はクララとのやりとりの中で共に作り上げていった性格の強い歌曲集です。シューマンはクララに、書き上げた譜面を送って、弾くはもちろん歌ってもらい(クララはアマチュアではありますが、声楽の心得がありました)、感想を求め手直しをしました。彼のクララへの想いはもちろんのこと、クララの協力もあって、歌曲創作が熱を帯びて進んだのです。(このOp.39については興味深い点が多く、また回を改めて取り上げたいと思います。)

ところで、そもそもあれだけ読書家で文学的素養を持つシューマンが、なぜ長いこと歌曲というジャンルに手を染めなかったのでしょうか。10代の頃の数曲の試作は別として、ピアノ曲作家として本格的スタートを切ってからは、彼は歌曲に近づきませんでした。評論活動で取り上げる以外は…。その評論においても彼はしばしば辛口で、例えばシューベルトの(〈糸を紡ぐグレートヒェン〉のような)一貫した音型のピアノ伴奏についても警鐘を鳴らすほど…。結局のところ、シューマンにとっては、詩は詩であり、音楽は音楽(器楽)であり、両者の関係は安易には結びつけられない。文学的感性があったからこそ、詩と音楽の結びつきに慎重にならざるをえなかったのでしょう。ただ、彼が1838年ごろより、ピアノ曲一辺倒から何らかの打開を図りたいと模索している様子は窺えます。見逃せないのは1838年から1839年にかけての約半年間のウィーン滞在。この滞在は、クララとの移住計画という当初の目的を果たせなかったものではありますが、シューマンの作曲家人生には大きな影響を与えた経験でした…。交響曲、そしてオペラ!。

「歌の年」には、形にはならなかったけれど、シューマンがリート創作と並行して行っていたことがありました。オペラの作曲(E.T.A.ホフマン『総督と総督夫人』による)です。そもそも「歌の年」の最も早い時期に書かれた歌曲の一つがシェイクスピアの詩(『十二夜』より)によるものだということも、興味深い示唆です(2月1日付の〈道化師の最後の歌〉Op.127-5)。なんらかの劇作をシューマンが早い段階から志向していた可能性はあります。ただ、オペラ計画は台本から難航して思うように進まず、彼はそれを気にかけながらも歌曲の世界に没入していきます。大がかりなオペラに比べれば、歌曲は、詩が手元にあれば比較的すぐできてしまうのですから。シューマンは非常に用意周到な作曲家でもあるので、歌曲を書くことがオペラをいずれ完成させるための基礎勉強になることも、頭に入れていたはずです。事実、「歌の年」には様々なキャラクターの心理を描いた作品も目につきます。〈二人の擲弾兵〉op.49-1、〈トランプ占いをする娘〉op.31-2…人物像の研究をしているかのように。…なお、彼の野望はオペラのみならず「ミサ曲」にまで及んでいたことも書簡から分かります(5月19日)。

「歌の年」の前年1839年には、彼の身辺では穏やかではない事態が続いていました。故郷の兄エドゥアルドが4月に亡くなったこと。そして自立の意志が高まり、7月からはクララとの結婚の許可を求めて、反対する彼女の父フリードリヒ・ヴィーク相手に裁判で争うことに…。泥沼の法廷での闘いで、性格や品行の点に至るまでヴィークから非難攻撃を受けたシューマンは、当然ながら神経をすり減らします。クララは父親からの自立のため、ピアニストとして果敢に単独で演奏旅行に周り、収入を得ていました。ショパン、リストのような演奏家ではなかったシューマンですから、作曲(と音楽評論)の仕事だけが収入源。作曲家としてピアノ小品だけではいけない、交響曲やオペラなども書く大作曲家になるのだ…という水面下の思いがこの時期の彼に人一倍あったのには、このような事情がありました。クララにふさわしい夫、作曲家としての社会的地位・経済基盤を求めたのです。裁判が決着、シューマンの勝訴が確定したのはやっと1840年8月12日、結婚式の1カ月前のこと。この間に、彼の主要な歌曲集の多くが誕生したのです。

シューマンの1830年代ピアノ作品は、クララやリストのような天才ピアニストの賛辞を得てはいましたが、一般聴衆にはわかりにくいと受け止められたようです。コンサート活動中のクララからも折に触れ「もっとわかりやすい曲を」との要望がありました。1838年以降、シューマンはどうすれば自分の音楽が同時代の聴衆に理解されるのか、試行錯誤していた様子が窺えます。1839年の《三つのロマンス》op.28の第2曲などはクララが「最も美しい愛の二重唱」と呼んだように2声の内声の秘やかなメロディーが印象的な作品となりました。

音楽の明快さを志向するなかで、シューマンは「言葉の力」つまり「簡潔さの力」をよく心得ていました。それゆえに、歌曲の作曲を本格的に始めたとき、シューマンは自分の音楽の伝え手となる者に出会ったような喜びを感じたのではないでしょうか。自分が文学に精通していたこと、ピアノを知り尽くしていたこと、リートを批評するなかで理想を固めていたこと…すべての経験が、詩に向き合ったとたんに音になって流れ出た、その力もあって、彼はリートを作る充実感を味わったでしょう。そして自分がこの分野でより多くの理解を得られること(=成功すること)を感じ取ったに違いありません。彼は、若き日より愛読していたハイネの詩集『歌の本』から《リーダークライス》op.24を作曲し、早々に出版に回していますが、よほど自信があったものと見えます。当時、リートは中産階級のアマチュア演奏家たちの間で人気のジャンルで、ピアノ連弾曲などと並んで家庭音楽として愛されたため、楽譜はよく売れたのです。実際、歌曲を書き始めてからシューマンの収入は増え、彼は「もっと稼ぐ」とクララに誇らしげに報告しています。創作意欲にますます拍車がかかったのです。

たとえきっかけはクララへの結婚の贈り物として、もしくはオペラのための勉強として…あるいは出世欲から…であったとしても、シューマンは書き始めるとまもなく、徹底した「仕事」として、歌曲の世界に没入しました。《詩人の恋》op.48などは、ハイネの原詩に登場する女性がクララの性格・イメージとは異なりますし、結婚直前の身としてはあまりに不吉な内容です。が、シューマンは作曲家として書かずにはいられない…熱狂的な集中力を示しました。結局、細部にわたって修正に修正を加え、4年後ようやく出版にこぎつけたという渾身の大作となりました。その出版時にシューマンがこの作品の献呈相手に選んだのは、ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=ドゥヴリアン(1804-1860)、すなわちベートーヴェンの《フィデリオ》再演やヴァーグナーの幾つかのオペラ初演で起用された、シューマンも大絶賛していた偉大なソプラノ歌手です。つまり、クララと自分との間のプライベートな形から発したシューマンの歌曲への思いが、数年のうちに確信を伴って大きく成長したことがわかります。(ちなみに、近年は《詩人の恋》を男性のみならず女性の歌手が歌うことも増えてきていますが、シューマンがドゥヴリアンに献呈している事実から見ても、全く不自然なことではありません。シューマンは性差をこえて作品を捉えています。)

それまでシューベルトは別として、歌曲は作曲家の創作の主要ジャンルとはみなされてはいませんでした。モーツァルト、ベートーヴェンも歌曲はあまり数多く残していませんが、それはそもそもこのジャンルを重視していないからです。シューマンも当初はそうだったかもしれません。ただ、彼が考えの末に「歌の年」に生み出した作品によって、シューベルト以後のドイツリート、すなわち芸術歌曲の新たな局面が開かれたことは間違いなく、19世紀後半のヴォルフ、ブラームス…の作品へとつながっていったわけです。ヴォルフにせよ、マーラーにせよ、もはやリートは軽視されるどころか創作の中心となります。19世紀は百花繚乱の芸術歌曲の時代となりました。

※二人の間で交わされた書簡については次の訳書で日本語で読めます。(ただし全書簡ではありません。オルタイルが原文から部分的に省略している箇所もあります。) 
📖『ローベルト⇄クラーラ シューマン 愛の手紙』(ハンス=ヨーゼフ・オルタイル編 喜多尾道冬・荒木詳二・須磨一彦訳、1986年、国際文化出版社) 
【今日のお薦め】「歌の年」に、結婚生活に入ってから書かれた《12の詩》Op.35、通称《ケルナー歌曲集》。この作品はもっと演奏されてほしい。歌曲創作にこなれたシューマンの余裕が感じられる、味わい深い歌曲集だ。マンメルは1973年生まれのドイツのバリトン。素直で繊細な美声が魅力。ヒールシャー(東京生まれ!)の感性あふれるピアノも注目。このアルバムにはそのほか《詩人の恋》出版時に外された4曲、「歌の年」の最初の歌曲、10代の頃の試作数曲が含まれ、シューマンファンには嬉しい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?