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『世界の終わりを紡ぐあなたへ』北出栞 を読みました

 タイトル通り、『世界の終わりを紡ぐあなたへ』北出栞 を読みました。私の関心範囲にクリーンヒットしていて、色々考えたいことがあったので少し書きます。
 まず、私は去年(2023年度)に大学を卒業しました。そこでの卒論のテーマがhyperpopについてでした。具体的には、ジグムント・バウマンやマーク・フィッシャーの言う絶望感をもとに、木澤佐登志などの論をヒントにしてhyperpopという文化について考えていました。ゼミでは半年ほど(この本の帯を書いていた)佐々木敦先生に教わっていたこともあります。また、趣味としてDJや詩作をしており、いわゆる天使界隈の服が好きです。
 学者の単行本といち学生の卒論を比較したら当たり前なのですが、この本の内容がかなり私の卒論の上位互換めいていて、すげ〜と思ったり悔しくなったりしました。そういう人による感想・反省・考察です。

すごい! 悔しい!

・「半透明」「セカイ系」をキーワードにインターネットや音楽などの現代文化を論じている点。
・ドイツ・ロマン派という芸術鑑賞の視点を取り入れている点。
・好きなんだろうなっていう作品から根拠を持ってくることが多くて勇気づけられた。マイナーすぎる好きな作品の話をすることから逃げていたが、わかりやすいし知らない思われても見てくださいで終われることに気づいた。
・東『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』と『動物化するポストモダン2』を読んで、両者を接続して大人-子供の世界という軸を持ってきたのがすごい。私もまったく同じ本を読んだのにできなかった。
・クリエイターが宣伝のために自らボーカロイドのようになることを求められている、って確かにそうだ。土井『キャラ化する/される子供たち』も読んだのに気づけなかった……。
・Tohji-Y2Kと天使界隈の繋げ方がすごい。Y2Kと天使界隈は層も被っているし境目が流動的だと思っていたけど、それを言語化できなかった。

疑問点

・TikTokのフォーマットで「型」・エフェクト・音楽への分離が発見されたと述べているが、ニコニコ動画における手描き動画もそのようなフォーマットで切なさを産んでいると考える。これは本当に新しいものなのだろうか。
・nyamuraさんは以前からInstagramにたくさん自撮りを上げていた記憶がある。
・インターネット/音楽/Y2K/ノベルゲーの文脈でNEEDY GIRL OVERDOSEを連想した。その話も聞いてみたいなと思う。
・“SNSで発表する詩”とプログラムの「実行」されるまでの時間が同じ、というのがピンとこない。
普通の詩であれば、

↓ 詩:速い プログラム:遅い
識字
詩を書く(class ノートアプリ)
↓ 詩:遅い プログラム:遅い
発表する(class main 詩集)
↓詩:遅い プログラム:速い
反応が返ってくる(コンソール)
という流れであるために同じくらいの速度かもしれないが、SNSで発表する場合は詩における発表→反応の間も速くなるので詩のほうが速いのではないかと思う。

考察

 セカイ系に登場する「『同じ』ではなく『似たような』傷を抱えた者たちの共同体」について、それをインターネット論に繋げるとしたらバウマン『レトロトピア』の「子宮への回帰」に含まれるフィルターバブル論に繋げられると思った。筆者の論調からすると、SNS上のフィルターバブル的な共同体は「同じ」者による共同体と言えるだろう。
 それでは、現実世界において「『似たような』傷を抱えた者たちの共同体」は生み出し得るのだろうか。パッと思い浮かんだのはACAなどのミーティングだ。破壊的可塑性のあたりで述べられていた「意識的に『つながり』を断ち、切なさを味わうことで回復につながるというプロセス」はアルコホリック・アノニマスの回復ステップに似ていると思う。現実世界に目を向けないと成長できないというのは本当にそうなのだが、この本はそういう正しいことを言いたい本ではない気がする。というか、そのあたりの現実的な向き合い方についての記述が希薄な印象を持った(配信イベントでも、ずっと子どものままではいられないという問題点について述べられていたと思う)。
 現実世界でいちばんヤバいのは、世界が終わらないということだと考える。終わりそうな雰囲気だけあるのに。恋人と別れても世界は終わらないどころか、世界を終わらせようとしても世界は終わらない。革命に失敗して獄中行きになるか、自殺してとりあえず自分の世界を終わらせるかだ。終わりそうだから、作者が言うようにセカイ系的な(半透明な)文化がリバイバルしている。だがそれを超えていく方法論を見出さない限り、わたしたちは生きづらさを抱え続けたままなのではないか。
 ここで、この本で示唆されたものの解決されずに終わった「『切なさ』を噛み締めること」がヒントになるだろう。少し話が逸れるが、私はDOMMUNEでのイベント中心に、コロナ禍が理想化されていることに拒否感をおぼえた。2020年に大学生になった私はあの時期に鬱病になったし、あの時期に言いつけを守って外に出なかったことがずっとコンプレックスだ。
 1章にて、「切なさ」の定義は「無力感とわずかな希望の間で揺れる、両義性の感覚」とされていた。それでは、私がコロナ禍の後悔に持っている感情は明確に「切なさ」である。あのときの私は無力だった。自主的に動くにも、そのための方法を知らなかった、ということを認めたとき、そう思った。そして、だからこそあのときのことを清算したくて胎内回帰・天使性というテーマに固執しているのかもしれないと思う。この本で言語化されるまで気づかなかったが、私が胎内回帰に興味を持つきっかけとなった「もう戻れない」という感情や、いつの間にか着るようになっていたみずいろの服、いつの間にか聴くようになっていたhyperpopに共通するものはまさに「切なさ」だったのだろう。それがわからないまま、hyperpopの研究をして迷っていた。
 hyperpopについて、この本では明確には述べられていない。私も、柴『初音ミクはなぜ世界を変えたのか』を読んだときには筆者(北出さん)と同じように「ボーカロイドが人間に憧れる」でCevio AIを導いた。しかし、「人間がボーカロイドに憧れる」で私はhyperpopのオートチューンを連想した。そのため、この本の「半透明」という概念はhyperpopにも適用されると思う(nyamura, Tohjiの話してるけど)。
 私はよくわからないなりに、研究や読書で自分が思う「切なさ」に向き合っていた。その研究は、この本や私が論文を提出してから出てきた様々な研究に遠く及ばないものだった。でも、その事実は無力感とほかの道に対するわずかな希望(=切なさの受容)を生んだ。研究だけではない。私は悲しいほどになにもできなかった。世間知らずゆえに存在した謎の自信はぜんぶなくなって、それを受け入れた。前よりは他人に嫉妬をしなくなって、健康に生きられている。悲しいけど、世界が終わらないことと自分がなにもできないことさえも「切なさ」に変換してそれを受容していくことが、「うまくいかないまま倫理的に生きていく」セカイ系の思想なのではないかと考えた。
 突然だが、私は社会人になったいまでも詩のサークルに所属している。そこでSEになったという話をしたら、詩作とプログラミングの関連性について問われたことがある。私は直接的な関連性を見いだせず、「詩を書いたりして顔を変にし続けていたら、人手不足のSE職にしか就けなかった」と答えた。なので、布施さんのインタビューには興味を持った。この問いにちゃんとした答えを出せるかもしれない。それは絶望していた就職先に対する、わずかな希望だった。これまで私が勘でやってきたことはまったくの無意味ではなく、なにか関連性があるかもしれない。研究・音楽・ファッションがそうだったように。自分を肯定するための補助線を引いてくれたこの本に感謝している。

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