見出し画像

積分できなかった

 わからないのが許せなかった。数学がすきで、きらいだった。高校数学も中盤に入ると、「これはこういうものです、説明すると難しいし君たちが覚える必要はないので公式として覚えてください」と言われることが多くなった。わたしはそれが許せなかった。しっかり理屈としてわかっておきたかったのだ。ぶあつい青チャートを開きながら理系の友人に証明を見せ、「これはなんで? どういう理由で?」と質問攻めにしたら「なんでって言われても……とりあえず覚えときゃいいんだよ」と困惑されたことが幾度となくあった。思考を放棄したひとから上がれる脳死ゲーだと気づいてしまったから数学とはIIBまででお別れした。Diosの「断面」がリリースされたのはその3年後だった。

 この曲の英題は"Integral"、つまり「積分」だった。日本語の歌詞の中にも「積分しようよ」というラインがある。作詞したたなかさんのことはぼくのりりっくのぼうよみとして活動していた頃から好きで、私はDiosの活動が開始されてからもずっと後方彼氏面をし続けていた。彼の言語化のセンスを本当に尊敬していて、何度も救われ、ぼくも詩を書きたいような心持になって、寝た。
 「断面」が出た当時、正直あまり理解ができなかった。たなかさんの詞には共感し続けていたから、そんな自分が意外だった。「積分しようよ」という意味もわからなかった。積分は理屈を教えてくれない単元の代表格だ。多少の怨みもあった。それがもっともらしく歌われていても、わからなかった。その少しあと、リアルサウンドでDiosのインタビュー記事が出た。たなかさんはそこで「断面」の歌詞について語っていた。

長く添い遂げた老夫婦が、過去を振り返ったときに、その数十年の時間を正確に描写することってできないじゃないですか。でも、愛として蓄積してきたものは、なんとなく残っているし、「これは確かにあるものなんだ」と実感できる。その実感と過程にあるブラックボックスが、体積を求める積分という行為に似ているような気がしたんです。

 ここでは積分がブラックボックスであることが肯定されていて、さらにそれが愛と結びつけて語られていた。たなかさんはそこに美しさを見出していた。ブラックボックスを許せなかった私とは途中で道を違えていたらしい。わたしは愛もわからなかった。世間はかなり恋愛が好きらしい。みんなが当然のように自覚している恋や愛の定義を調べてもぴんと来るものは見つからず、要約すると「そういうものだ」と語っているのと同じであるように思える青チャートのようなサイトばかりだった。わたしにはわからないから、許せなかった。そこに関連性を発見したたなかさんのことを改めて尊敬した。しかし、やはり美しさはわからなかった。

 ここで「断面」を聴き返してみる。

愛の話ばかりしてる 僕にはよく、分からなくて
あなたの心はあなただけのもの
理解しあうなんてできっこないもの

 ……わかっていない人の意見だ。これはわかってない。主人公に対して、おれもそう思う!とハイタッチしたくなった。近代社会において確立された個人はあくまでひとりで完結するものであり、唯一無二の心を理解するのは不可能だと考えた。わからないことを深めてゆくのは無意味だから、愛に期待はできないのではないか。しかし、この主人公は愛を理解する糸口を掴んでいる。

行き場を失った毎分毎秒は空気にとけて
それがきっとあなたの言う愛だった

 どうやら、どこにもいけないような時間をいたずらにとかしてゆくことこそが愛であるようだ。インタビューでの老夫婦の例でいう、正確に記録できない過去がここにあたるだろう。
 なんだかそうかもしれなかった。本来は個別のものであった時間をともに浪費させていくような相互関係は私にも美しいものに思えた。また、それは無駄ではなく愛という実数解を生んでいるだろう。ひととひと(とひとと……)の間で溶けていく、解けていくいま。そこに完全な理解や共感が介入する余地はないのかもしれなかった。
 人間が健全に生きる方法としてただ「いまを生きる」というものがある。過去について考えると怒りや痛みが生じ、未来について考えると欲望や恐れが想起される。いまという時間をとかしていく行為が愛なのだとしたら、それは地球ほどは救えなくても、私たちくらいなら救えるかもしれない。また、幸福のためには変えられないものをしょうがないと受け入れるということも大事だ。もちろんできることは助けていくべきだが、わからないことや人智の及ばないことはいちど置いておいて飲み込んでいくことが必要だろう。

輪切りにした過去
共感不可能のあなたをことばを愛でているだけなの
怒らないで

 理屈を知らなくても積分ができるように、なぜ「あなた」となら個別の時間をとかしてゆけるのか、ということを説明できずとも他人を愛せるのかもしれない。僕のような理詰めの人間はそれはなんだか不誠実であるような気がしてしまう。怒らないで。きっとみんなは「怒らないよw」と言うだろう。理論武装のぼくたちはどこか釈然としないまま、でもそれで良いのだとぎこちなく折り合いをつけながら、断面をなぞる。わたしはなにもわからないまま、ただ美しさを追い求める、どこかプラトン的な愛を恐るおそるつくりあげたいだけだった。いまなら、積分できるような気がした。


【蛇足としての2022年11月前半 日記】
 ハロウィンが終わって、街がクリスマスムードになった。クリスマスだねぇという雑談をすると、みんなは恋や愛の話を始めた。私はわからなかった。どうしてみんなそんなに恋愛が好きなのか。クリスマスに恋人と過ごすという概念は資本主義が勝手に作ったものだ。大学の1年生たちと話した。わたしたちと違ってキラキラしていた。陰鬱なオンライン世代の僕は、みんな恋愛が好きなんだなぁとまた他人事に思った。そんな感じで秋休みは過ぎた。行き場を失った毎分毎秒をとかしていた。学園祭には行かなかった。
 わたしの恋人は、微分ができなくて単位を落としそうらしい。私は「積分からのほうがまだわかりやすいよ」と返した。なんだかレアらしい皆既月食を見た。ゼミの文献で中村英代の『依存症と回復、そして資本主義——暴走する社会で〈希望のステップ〉を踏み続ける』を読んだ。人間が健全に生きる方法を考えた。Diosのライブを観た。ゼミは時間が足りなくて不完全燃焼だった。なんだか思想を表明したかった。編み上げて、今日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?