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胡乱、その先のはなし


 左耳のピアスのキャッチが無くなった。


 理由は明白で、これは眠っているときの体勢にある。自分はよく左を下にして丸まって眠るので、おおかたその時なのだろう。しかしどうして、常に同じ体勢な訳もなく、寝返りもごろごろとしているはずなのに、何故かいつも左耳のキャッチだけ無くなりやすい。緩いのかしら。

 ふと左耳に手をやって、あれキャッチが無いぞ、じゃあ今このピアスは自分の足のみで刺さっているのだとヒヤリとすることがままある。
はたしてこいつが根性でしがみついているのか、はたまた惰性でひっかかっているのか私にはわからない。

 だいじょうぶ。また枕元をしっかり探せば、ぜったい見つかるはず。焦っている時は見つけられなくて、少しした頃にぽろんと出てくるものなのだ。こういうのは。
そう自分に言い聞かせて、予備のキャッチで穴を埋めた。ピンチヒッターのキャッチは居心地が悪そうに硬かった。

 夢から覚めるとき、お布団から起き上がるとき、いつも何かを枕元に置いて来てしまっている感覚になる。何かを忘れている心地がする。

 判然としないそれの輪郭を掴むために夢日記を付けたことがあるのだが、あまり芳しい結果は得られなかった。というのも、夢とうつつの境目がわからなくなってしまうのだ。インターネット上ではよく、「夢日記を書いていると狂う」といった話がまことしやかに囁かれているが、あれは(少なくとも私の中では)事実である。

 ……ところで最近、「狂」という漢字を本や番組などで使いにくくなっているそうですね。狂気、戦闘狂、などのことばに校正がはいることが多いらしい。ジョージ・オーウェルの1984年、ニュースピークをどこか彷彿とさせる。でもねでもね、ここはインターネットだから書いても大丈夫なんだ~!ばたばたばた。

 閑話休題。

 起きてすぐ、夢のキーワードを携帯のメモに残していた時期がある。
不思議なもので、夢日記をつけていると、事実夢の記憶をすぐ手に取れるようになる。いちど書き起すことで忘れにくくなってしまうのでしょうか、今まで引き出しの深くにしまってすぐに忘れていたような夢の内容が、ちょっぴり手前に出てくる。
 ほんの少し引き出しを覗き込めばすぐに思い出せるようになって、それからだんだん、単語だけではなくエピソードが思い出せるようになる。そのうえ眠りが浅くなるから、加速度的に夢を見るペースが上がっていく。

 そうなってくると少しずつ、その記憶が実体を持ち始めるのだ。夢だとはっきりわかる夢であればまだしも、やたら現実と近い夢だとこれはまずい。あれ、おかしいぞと思った時にはもう遅くて、友人とエピソードトークをしているときにはたと気が付く。この記憶が夢の中の記憶で、事実ではないこと。さて、今は夢か、それとも現実なのかと怖くなって……それで、夢日記をやめた。夏ですからね、怖い話のひとつやふたつよいでしょう。

 と、実害が出てしまったからというトホホな理由でやめてしまったけれど、なんだかんだ夢をたくさん見られたのは面白い経験だった。けれどやっぱり、何かをずっと、忘れてきている気がする。

 夢の中でだけ、何度も訪れている街がある。こちらにいる今はどんな街だったか思い出せないけれど、その夢を見ると毎回、帰ってきた気持ちになる。その街で以前何をしたか、どんな思い出があったか、瞬時に鮮明に思い出す、そんな街が。
 不思議と日記を付けていた時期でも目覚めるとその街のことを忘れていて、ただ、あの街に居たなという感覚だけがてのひらに残っていた。

 もしかしたら私には、あちらの街での人生もあるのかもしれない。ちがう世界とたまたまチャンネルが合って、夢を見ている時だけ、違う角度の鏡を覗き込んでいるのかもしれない。そうだったら面白い。あるはずのない可能性を考えるのはいつだってたのしいこと。

 あの街の私は、朝早くに起きて、外をよく歩く。青空の下を、肺いっぱいに空気をためて、顔を上げて進む。雨上がりの水溜まりを踏む。近所の人にあいさつをして、レンガの道を抜けて、お花を買いに行く。ポストの手紙を確認して、ぺーバーナイフでゆっくり開く。控えめに笑う。コケモモのジャムを作る。珈琲を淹れる。鼻歌を歌う。

 ふとした時に左耳に手をやって、ピアスのキャッチがないことに気が付く。焦って振り返る。そうして偶然にもチャンネルが合って、私はぼくを見つける。

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