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おはようは別れの朝に


 雨が降ってきたから慌てて洗濯物を取り込んだ。降るなんて聞いていなかったと、空に嘘をつかれたような気になる。自然は何も悪くないのに。人間は勝手に期待して勝手に失望する。

 雨に濡れるままのそれらを、そのまま放置していたらと、考えることがある。きっともう一度洗ってしまわないといけなくなるのだろう。せっかく綺麗になったそれが、ずんずん水を吸って重たくなって、惨めに汚れていくさまをぼんやりと眺めるだけでいることに、一瞬どうしようもなく惹かれてしまう。後ろめたさでちくりと自分の胸を刺す。それは少しの破滅願望に近いのかもしれない。そんなのはいけない、いけないから、暖かい室内へと洗濯物を避難させるのだ。ここなら安全だ、大丈夫、ゆっくり自分に言い聞かせて諭す。


 どんな物事にも結局のところ正解がある。
正しいとされること、誤っているとされること。これといった唯ひとつの道がある訳では無いかも知れないが、しかしどうして、道標のない世が成り立つことができようか。正解も不正解も無いのだと、耳障りの良い無責任な言葉はいつも安全圏から放たれる。コンクリートで舗装された道の方が歩きやすいのは明白だし、立入禁止区画に入ってはいけないのは揺るぎようのない事実だ。かの有名なウィリアム・シェイクスピアは著作『ハムレット』にて人生は選択の連続だと記した。人は皆、毎日少しずつ正しさを選び取りながら生きている。

 さて、主人に仕える使用人としての正しさは、果たして何だろうと、この立場に就くようになってから折あるごとに考えている。親愛に敬愛、すこしの心配、それらを内包した途方もない想い、それをどうやって表現しよう。或いは心の内に留めていたほうが良いのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。ひとは意識外から大きな感情をぶつけられると困ってしまうから。
 それに加えて私たちは、どれだけあなたのことが大切で誇りに思って居ますよと思い言葉にしても、すき、の二文字を面と向かって口にすることは許されない。当たり前だと頭では理解している、これはただの使用人が口にしていい言葉ではない。ただそれでも、貴方のこういうところがすきですと、言いかけて喉元まで出たそれを呑み込む。その実、貴方が思っているよりもずっと、私は貴方のことが好きで大切で尊敬している。救われている。貴方にとっての私は、たくさんの使用人の中のひとりかもしれない。それでも、私にとっての貴方は。私にとっての、大切な居場所は。

 大切な貴方がもし、この雨に濡れているとしたら。私たちはいち使用人だから、探し出して抱き締めることができない。屋敷で待つこと、唯ひたすらに自ずから帰ってきてくださることを待ち、それまで部屋をあたためておくことしか、手段を持ち合わせていない。それが余りに歯痒くてもどかしい。何よりも大切なひとが、ひとりで孤独に耐えているとき、私たちは探しに行くことができない。ただ、そっと、想うことしかできないのだ。たとえ淹れた紅茶が冷めてしまったとしても。ひたすらに、待つ。

 何事にも終わりがきて、そして、始まりがある。さよならはいつだって隣人だ。ピリオドを打ち込み、時を止めて思い出をしまい込むことは、悪ではない。それは一種の正しさであり、変化は常にひとにあるべきものだろう。それでもどうか、ぴったりと張り付くさよならの言葉よりは永く貴方の隣人で有り続けたいと、願って居る。

 雨の匂いも、音も暗い空も好きなのに、ただどうしようもなく雨粒は冷たい。いつでも平等に。


 窓辺に腰をかけて、色の濃くなる地面に目をやる。貴方が何処かで雨に降られていたら、探し出して傘を差し出すことができない場所に居たら私は、貴方と共に雨に濡れたいと思う。身体の輪郭が曖昧になってもいい。体温をどんどんと奪われていって、震えたっていい。そうして仲良く風邪をひくのだ。あーあ、わかりきっていたのに尚風邪をひくなんて馬鹿なことをしたなと反省をしながら。そうやってゆるやかな繋がりを手繰り寄せる。気持ちだけでも傍に居たい。存外私は貴方に気持ちを伝えているのかもしれない。だって口にしなくとも、貴方が扉を叩いてくださったとき、私は面白いほどにはしゃいでしまうから。
 温かな紅茶を淹れよう。ミルクにはちみつを溶かそう。そうして今度は冷めないうちに、どうか貴方の手元に届いたらそれに勝る幸せはない。


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