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緊急事態宣言が響きわたる世界で遺伝子検査を行った話

商店街を歩く人があまりに多いので驚いた。
それは国から新型コロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言が発出された、翌々日の昼下がりのことだった。

その日私は大学病院に検査結果を聞きに向かっていた。
「不要不急の外出」ではないと認識しつつも、どこか後ろめたい気持ちになる。

新型コロナの流行が叫ばれてほどなく、会社からはマスクと消毒液が配給され、オフピーク通勤のため始業時間が大幅に変更された。チームが共倒れしないように執務室を分けられ、食堂は向かい合わないように座席を配置変更。緊急事態宣言が出てからは出社人数を8割減、極力テレワークに切り替えている。
当初は大したこと無いだろうと甘く見ていた私だが、土日の外出自粛要請が出た辺りから、思いのほか大変な事態になっているのだと実感しはじめた。

どことなく緊張感を持って生活している今日この頃、テレビでも渋谷や銀座の閑散とした様子を目にしていたので、まさか住宅地の商店街が、しかも平日の昼間に(皆が皆マスクを着けているとはいえ)こんな活況を呈しているとは思っていなかった。何なら土日よりも混んでいるのではないか。
とはいえアーケードに軒を連ねる飲食店は人の入りも少なく、いくつかの店は営業自粛によりしばらく閉店する旨の紙が貼られている。
そぞろ歩く人々は一体何を求めていたのだろう。

ほどなくして大学病院にたどり着いたのだが、その状況は様変わりしていた。
開け放たれた窓には「新型コロナ対応のため換気中」の貼紙。
タクシー乗り場には並ぶ人々が接近せず距離を保てるよう養生テープが等間隔に張られている。
ガラス扉は「入口」と「出口」がロープとボードで仕切られて片道通行に。
ロビーに入ると、待ち合いの三連続きの椅子は真ん中に「新型コロナ対応のため使用中止」と貼り紙されていた。
午後だからなのか通院まで自粛されているのか、患者はそう多くない。

なんとまぁ大変な事になったものだ。
思わず人ごとのように呟いてしまう、悪夢のようなパラレルワールド感。
数ヶ月前には予想だにしなかった世界。数ヶ月前の過去からタイムスリップしてきた人がいたならさぞかし驚くことだろう。

さて掲題の話であるが、2週間ほど前に術後の経過観察で大学病院へ通院した際、例の飛猿医師から「遺伝子検査をやらないか」と打診があった。
遺伝子検査。昨年、告知された際に検討してはいたものの、検査費用は20万円超(!)と高額。手術が全摘に決まったことで受ける必要もなかろうと断っていた検査である。
(ちなみに1〜2万円と比較的安価で市販されている遺伝子検査キットとは精度が格段に違うらしく「市販のやつはお守り程度ですよ〜」と専門医は言っていた)

すっかり油断していたところに20万円が迫り来て、一瞬たじろぐ。
完全にお断りする姿勢で、
「でも、お高いんでしょう……?」
と問うと、飛猿医師はジャパ◯ットも驚きの発言をした。

「何と、いまなら無料です」

え、ええええーーー!
一体どうして? 高価なサプリとか鍋とか買わされたりするのでは…? と訝しむ私に飛猿医師は、
「乳がんに関する遺伝子研究が行われることになり、研究対象者になるのであれば、費用は研究費でまかなうので負担いただかなくてもいいんです」と説明した。
(ちなみに2020年4月以降は遺伝子検査も保険適用になっているそうだが、それでも少なくとも6万円位はする)
もちろん研究対象である一部の遺伝子(BRCA1/2)の結果しか出ないのだが、こんな機会はめったにないだろう。「やります」と即答。
ちょうど今朝募集が出たばかりの話で、条件に私がぴったりだったのでお声がかかったのだそうだ。ラッキー!
検査は採血だけですぐに終了。
そして2週間後、結果発表の日を迎えたのだった。

乳がんや卵巣がんには遺伝性のものがある。そして私のように40歳以下で発症する人はそういった遺伝子変異によるものである可能性が高い。
今回はその主な対象である遺伝子、BRCA1やBRCA2を調べる。
遺伝子変異がある場合、再発の可能性や健康な方の乳や卵巣もがんになる可能性が高く、その遺伝子を持っている親族も特定のがんを発症する確率が高いという。
検査することで自分が安心したいのと同時に、遺伝性がないことが証明されたら、多少は母を安心させられるのではという思いもあった。
過去に乳がんの疑いありと診断されていた母は、口にはしないものの多少は自分を責めていたように思う。もちろん遺伝子変異があったとしても、父方の遺伝子である可能性もあるのだが、場所柄どうしても女系の印象が強い。

病院のソファでソーシャルディスタンスをとりながら待つこと小一時間。
こだまさんのエッセイ「夫のちんぽが入らない」を遅ればせながら読みつつ、美しい文章から溢れ出る人生のきらめきと他人には知りえない夫々の苦悩に胸を打たれ、ほんのり涙ぐんでいるタイミングで診察室に呼ばれた。

検査結果報告書を渡され、説明を受ける。
結果表には「変異を検出せず」と書かれていた。
私の病は遺伝性のものではなかったのだ。
「とはいえ、BRCA1/2が変異なかったとしても、この検査で検出できなかった他の稀な遺伝子変異がないとは言い切れないですが」と、飛猿医師は言った。
確率でいうとがん患者のうち◯パーセントがBRCA1/2に変異があるが、△パーセントは遺伝性どうたらこうたら…と説明してくれたのだが、病的に数字が苦手な私の頭には何も残っていない。
まぁ完全セーフじゃないにしても、とりあえずはほっと一息。

ちなみに「新型コロナ」に関して、糖尿病などの基礎疾患がある方や抗がん剤治療をしている方は注意が必要である旨言われているが、現在ホルモン剤のタモキシフェンという薬を飲んでいる私はどうなのか聞いてみたところ「免疫が下がる薬は飲んでいないので、普通の人と同じと考えていれば大丈夫」とのことだった。

次回この大学病院に来るのは夏。術後1年目ということで、レントゲンや血液検査を行う予定だ。
その間は提携している自宅近くのクリニックに通って薬をもらう。
大学病院は非常に混むし自宅からも少し離れているため、都が実施しているこの医療連携制度はありがたい。

それではまた、と診察室を後にする。

思えば違和感に気づいて検査してもらったのは1年前の今頃だった。
告知を受けてから今日まで、病気のことを考えなかった日は一日だって無い。
本当にタイミングというのは不思議なもので、もしも発覚したのが今年だったら、新型コロナの影響で手術が遅くなっていたかもしれない。家族や友人に会えないまま一人で入院していたかもしれない。
今まさにそういう状況の人もいるだろう。
どうか医療崩壊が起きることなく、早期に収束してほしいと願う。次回この病院に来る頃には、貼り紙も仕切りもなくなっているといいのだけれど。


外に出ようと1階に降りたところ、入口側で赤子を抱いた女性がもぞもぞ動いているのが見えた。
彼らの目の前にはプッシュ式の消毒液が設置されている。女性はそれを、赤子を抱いていない方の手で難しそうに押していた。
手伝おうかと歩みを進めた瞬間、唾が変なところに入って咽せた。周りの視線がチラリと私に注がれる。
もちろんマスクをしてはいるのだけれど、人々の視線は鋭い。
これでは余計に心配させてしまうかも……と足踏みしている間に、女性はなんとか無事に消毒を終えたらしく、手を揉みながらその場を離れていった。

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