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終 末

今年もダメだったか。
悔しいな。
自分なりに精一杯頑張って来たのにな。
何でなんだろう。
他人には出来て、自分には一度もできないのは。
望んだものは、手を伸ばせば届く距離にあるのに、その手は一向に届こうともしない。
目の前にあるのに、それを掴む事ができない。
痛いほど、嫌という程経験してきた苦痛。
もう私にとっても、終末を迎える時なのかもしれない。
でも、もう少し生きていたいかもな。

これが私の単なる遺書の一説にならない事を切に願う。

今日も頑張った。
今日も自分なりに頑張って来た。

いつものように起きて、支度をし、バイトに向かう日々。
苦痛と言う苦痛を抱えながらも、いつものように、電車に揺られながら、バイト先に向かう。
この電車が事故でも起こしてくれて、私の命もそれと同時に散ったら、こんな苦痛を二度と味わう事無く済むのにな、何て不謹慎極まりのない考えを頭に置いて電車に揺られている。

今日も他人の為に、他人の幸せの為に頑張らなければいけない。
笑顔で接さないと生きていけない世界なのだ。

お客様に喜んでもらう為、相手に喜んでもらう為

あのな、そう言う腐れた御託はもう聞き飽きたんだ。
そんな声にもならない事を考え込んでは、すぐさま、忘却の彼方へと飛ばす。
憂いを抱えたまま、バイトに励んでも何の力も出ない。
以前に、何度か憂いが一気に頭に来て、吐き気、そして目眩などを起こしてキャパオーバーした時があった。
もちろん、私がその場に倒れこもうとしても、誰も私を助けてはくれなかった。

聞こえてきたのは

休むか、帰るかどっちかにしろ

自分の感情をコントロールできない、又は人と関わる事のできない人間は、どうやらこの世界では塵らしい。

他人の幸せばかりを見飽きる程、痛い程見せられては、頭に悲しみや憎しみ、寂しさが一気に襲いかかって来る。
その度に、私はここで何をしているんだろう と言う上の空じみた錯覚が私を襲う。
いい加減にしてくれ、と時折思っては、手に力が入り、前には爪が皮膚に食込み、血が出ていた時もあったくらいだ。
憎しみや悲しみ、寂しさが一気に頭に来ると、私はつい感情を抑える事が出来なくなり、破壊に走りたくなる。
そのせいもあって、以前は自分の携帯の画面にヒビを入れたり、部屋にある物を壊したり等、とにかく怒りが抑えられなくなる。

「何で私だけなんだ、あいつらは一体何をした?、私よりかあいつらの方が価値があるとでも言うのか、ふざけんな」

そんな感情が襲う度に、私は自我を失ったかのようについつい破壊という行動に出てしまう。

ある人には落ち着け、落ち着く事も大事だ 何て言われた事もある。
でも、冷静に考えてみれば、それが正しい判断なのかもしれない。
それとも、私が時折頭に置く、怒り、悲しみ、憎しみと言った異なる感情を持っている事が普通では無いのか? とも自問自答したくなるくらいだ。

私のやっている事は"異常"なのか?

私の行っている行動と言うのは、異常なのか?
確かに、周りから見たら、私のやっている行動等は異常に見えるのかもしれない。
だが、今までに耐えきれない程の絶望、苦しみや壁を乗り越えて来たのだ。
それにも関わらず、次から次へと、別の絶望や、苦しみ、壁が目の前に現れては、私を苦しめ、そしてどん底に叩き落としてくる。

辛いことの後には良い事がある。 何て言葉を幾度か耳や目にしてきたものの、結局、私に立ちはだかったのは、辛いことの後には辛い事 だった。

私はこの世界に嫌われているのか?
それとも、人間が創造した、神と言う上位の存在に嫌われているのだろうか?
理由は不明のまま、日々だけが一刻と過ぎてゆくだけだ。

私は時より、この世界に存在しないのではないか? と言う考えを持つようなった。
単に、私は箱の中の猫の様に、身内や知り合いに観測されない限り、死んでいるのかもしれない。
私はその事には、覚えがあり、街の中を歩いている際に経験した事だ。
人混みに飲み込まれて、存在が消えそうになっている時だ。
目の前から人が私の進行方向から歩いてきた。
その人は、私を観測していたのにも関わらず、私に道を開けることなく、ぶつかりそうになった時に私が咄嗟に避けた際にも、何の変哲もないかのようにそのまま歩いていった。

この出来事が、1人だけなら、単なる人としての習性だと思うかもしれないが、その様な出来事が二度や三度、いや、10回以上も、1日の内に何度も繰り返し起きている。
さすがにここまで来ると、本当に私はこの世界に存在していないのではないか? とも思ってしまう。

箱の中の猫とは、シュレーディンガーの猫と言うもので、量子力学の話では有名なものだ。

簡単に説明すると、猫の入っている箱の中に一定時間を過ぎると毒ガスを発生させ、次に箱を開けるまで、箱の中の猫は死んでいるのかも生きているのかも分からない。
つまり、箱を開けるまで、箱の中の猫は生きている事にもなれば、死んでいる事にもなる。

これが現状、私の中で起こっている事だ。
不思議とバイト中だけは、どうやら周りにも私の存在は確かにそこになり、私と言う存在が影響源となり、私の存在が確定している。
しかし、退勤し、帰路に着く頃に利用する道と言う道では、どうやら私はそこには存在せず、私と言う存在自体も死んでいるのかも生きているのかも分からない状態にある。

私は箱の中の猫や、実はこの世界、現実世界と言うのは本当の世界であって、私だけが別の世界の住人(一種のパラレルワールド的存在の人間)なのではないかとも思ってしまう。
それくらいに、今まで私の歩いて来た道は腐りにも腐りきっているくらいだ。

小中高ではいじめの対象になり、中学生の時には小学生から仲の良かった奴らに裏切られ、高校受験も失敗、待っていたのは、"いじめ"と言う環境であり、その私をいじめの対象としていた者達は青い春を謳歌していた。
私はそんな、青い思い出も何もかもを犠牲にし、勉強と現実逃避に漬け込む日々だった。
唯一信頼していた、家族からも裏切られ、終いには大学受験も同じく失敗し、今でも浪人と言う、重い罪荷の肩書きを背負い、日々を送っている。

でもやはり、街で見る高校生達を見ると、みんなすごい楽しそうで、恋人もいて、ものすごく羨ましい上に、悲しみと同時に憎しみまでもが私の頭を刺激してくる。
その甲斐もあり、時折バイト中にも同じ光景を目にしては、自分の存在証明を示してきた歯車が狂い、私を苦しめてくる。

ネットでも他人とはあまり絡めず、私よりかすごい楽をして、私の様な境遇を経験せずして、ゲームに没頭し、楽して逃げている彼らに、その様な癒しと言う存在ができるのは何故なのか?

私だけがこの世界から弾き出されているのか?

何故、私だけが上手くいかないのか。。

そんな意味の無い自問自答を繰り返しては、来る日々を、血を吐く様に、空気を吐き出して生きてきている。
他人と比べるのは良くない 何て何度も聞き飽きる位には聞いてきた。
確かに、他人と比べるのは何の意味も成さず、自分を苦しめるひとつのトリガーになっているのかもしれないが。

私は今まで人と比べられながら、育てられてきた。
「あの子の方が点数良かったのに」、「あの子はできるのに、何でうちの子であるあんたにはできないんだ?」等。
思い出せば、思い出す程、私の傷は深く抉られてくる。

嫌という程、他人の幸せを目に焼き付け、痛い程にその光景を目撃してきた。
私にとって、人の温もりを感じる事は無縁なのだろうか。

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