見出し画像

ヴァーチャル・キャラクターとリアリティの境目

20年ほど前になる。テレビ局でヴァーチャル・キャラクターの収録に立ち会う機会を得た。果たしてそれがヴァーチャル・キャラクターという言い方で呼ばれていたかは思い出せないが、CGでリアルタイムで演技できるキャラクターは既にそのころから存在していたのである。

当時(現在もであるが)使われていた技術は、モーションキャプチャと呼ばれるもので、ゲーム制作等ごく一部にしか知られていなかった。収録には、演技をする俳優さんに、まるでシッポのようにチューブが繋がっていた。チューブを伝わって信号がキャラクターに伝わり、キャラクターが俳優と同じ動きをする。このようにして当時のヴァーチャル・キャラクターは動かされていた。

(上記写真はモーションキャプチャの一例として、リアルサウンド 2019年7月7日付「RAS・夏芽が語る、アニメ『BanG Dream! 2nd Season』モーションキャプチャの裏側」より借用させていただきました。撮影は稲垣謙一氏によるものです。)

また、俳優さんとは別に声優さんが、キャラクターの声を担当していたので、俳優さんは演技に集中できた。キャラクターの表情は、俳優さんとも声優さんとも別の担当者がゲームのコントローラーで変化させるという「三人羽織」とでも言うべき体制で運営されていた。専用のスーツと、俳優の動きを再生するコンピュータは当然高価なものであり、半ば実験的に導入してみたという感じだったと記憶している。

キャラクターは役者次第

その時に自分が感じたのは「キャラクターは役者次第」ということ。役者さんがキャプチャに慣れれば慣れるほど、役者さんがキャラクターをより深く理解するほど、キャラクターの演技は単なる「モーション(動作)」から「表現」に近くなる。このキャラクターはオリジナルのものだったので、役者さんがキャラクターを理解するというより、役者さん(と声優さん)がテレビ番組の演出家と共にキャラクターを作っていったという方が表現として近かいかもしれない。

さて、あれから20年あまりが経ち、またヴァーチャル・キャラクターのデモに立ち会う機会を得た。今度のキャラクターは、遊園地のアトラクションとして開発されていた。スクリーンの向こう側にいるお客さんとキャラクターが対話する目的でつくられていた。キャラクターはすでに多くの子供たちに認知されているものであった。そして、ここで使われていたモーションキャプチャ技術は圧倒的に進化していた。

20年前に比べて俳優さんには前述のシッポは必要ない。シッポから開放された俳優さんが、セリフも含めて完全にキャラクターに成り切っていた。そう、ここで重要なのは「なりきり」である。既に知られているキャラクターとは、演技者が別人なので声はもちろん同じではない。アニメーションのキャラクターの動きを研究した上で、オリジナルの声優のセリフ回しのモノマネが、俳優さんには必要とされているのであった。

このような高度なモノマネ芸(と敢えて言ってしまおう)を行えるのはもちろん、前述のモーションキャプチャ技術の発展があるからである。俳優さんが、目の前の小さなカメラに向かって表情をつくると、キャラクターは同じ表情をする。一方でゲームのコントローラーのようなものを手に、キャラクターが何かを放り投げる動作も簡単にできる。20年前同じ技術があれば、あの当時のキャラクターはもっと軽やかに動けたはずである。

結局「キャラクターは役者次第」

さて20年を経てヴァーチャル・キャラクターを前に自分が感じたことは、結局「キャラクターは役者次第」ということだった。自分がふと気になったのは、「遊園地に展示される時には、複数の俳優さんが交代でアトラクションを担当することになるはずで、果たして同じような才能を持つ役者さんを見つけて訓練することが出来るだろうか」という、技術とは無関係なことであった。何回ものリハーサルと「それらしくキャラクターを魅せることのできる」シナリオの推敲を重ねた結果、役者さんの演技は自分にはパーフェクトに見えた。

20年前、ヴァーチャル・キャラクターなるものはまだ生まれたてであり、スクリーン上だけに存在するキャラクターというだけで珍しかった。そして今日、多くのデジタル・コンテンツ上で生まれたキャラクターはそもそもスクリーンないしはゴーグルをかけたその中に存在することから始まっている。そのキャラクターを遊園地に持ってくる為に、別な時間と場所にヴァーチャル・キャラクターを、最新の技術を使って「複製」することが、ヒトの役割である。

さてキャラクターを構成しているデジタル情報はいくらでも複製が可能であるが、人間の俳優は今のところ簡単には複製できない。この問題を解決するための技術としてヒトはロボットやらAIやらを選ぶのだろうか。おそらくモーションキャプチャがいらなくなった時に、「キャラクターを演じる役者」と「役者によって演じられるキャラクター」の境目は曖昧になるのだろう。その日までやっぱり「キャラクターは役者次第」なのではないだろうか、と20年の月日が教えてくれた気がしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?