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「心理学で学んだ性に生き性に死ぬ」

これは、通信制大学に通っていた時に学びました。

性とは、セクシャリティな意味だけではありません。

性とは生きるための性であり、死ぬための性である。

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高齢者施設での一幕です。

互いに赤の他人であるにも関わらず、高齢者の二人が夫婦だと思い込んでいます。

背が高い男性は大きな歩幅で、背が低い女性は小さな歩幅で歩くため、歩く速度が異なります。

それでも、二人は常に施設内を共に歩いています。

女性が風邪を引いて歩けなくなった日から、男性は一人で歩いていましたが、明らかに元気がありませんでした。
しかし、一人で歩く時は、二人で歩く時よりも速く大きな歩幅で歩いていました。

女性が回復した後、二人は再び施設内を一緒に歩き始めました。

二人は完全に赤の他人ですが、お互いを夫婦だと信じています。

二人の歩く姿を観察すると、背の高い男性が背の低い女性の小さな歩幅に合わせてゆっくり歩いていることがわかります。

歩幅が異なる二人は、いつも適切な距離を保ちながら、決して離れずに一緒に歩いています。

二人は夫婦として最後まで一緒に生きていくことを選びました。

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ヴィクトール・フランクルが、『夜と霧』で妻のことを書いているので、引用します。

『愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり「本質」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存」、わたしと、ともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、全くの問題の外なのだ。・・・妻がとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。』1)

そして、フランクルは、「私をあなたの心にしっかりと刻んでください。それは、愛が死と同じくらい強いからです。」という意味の聖書の一節を書いています。2)

フランクルは、収容所での悲惨な状況と苦痛に耐えながら、愛する妻と共に生き続けました。


私の父は84歳になります。
8年前に母が亡くなったので一人暮らしです。

父は亡くなった母と今でも夫婦として生きています。

母が庭で育てていた花の代わりに、父は毎年季節ごとの花を植え続けています。

庭から花を摘み、玄関の花瓶に一輪飾ります。

毎日、父は母と心を通わせて会話をしています。
悲壮感など微塵もなく、むしろ父は生き生きとして楽しげです。

父は母との心の会話の内容を、話してくれます。
「私がやっていたように庭の花を育てて」と言われているようだと言います。

父は愛する母と共に生き続けています。
肉体の有無にかかわらず、二人は一緒にいるようです。

父は毎日、母と同じく楽しげに丁寧な生活を送っています。

それは生きる力となり、死さえも凌駕するもので、最後までそばにいてくれるような存在だと感じています。

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人は一人でこの世に生まれ、幸運にも愛する人と出会えた時、その存在は生きるためだけでなく、死を迎えるためのものでもあります。

これは高齢者だけでなく、すべての人にとってかけがえのない価値があることを学びました。
その学びをここに記録しておきます。

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参考文献
1)2)ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳『夜と霧 新版』みすず書房 62、63頁 2023年

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

私が目指しているのは、孤立のない共生社会の実現です。

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