見出し画像

なるようにしかならない私を私が愛する

自分が書いたシナリオどおりの人生を歩んでいる人なんて世の中にいるのだろうか……。



初潮を迎えてからというものずっと生理不順だった。母も若い頃はそうだったと聞いていたので、そんなもんだろうと思っていたのが、18歳の時に祖母が亡くなった頃を境にひどくなりはじめた。

受験のストレスや疲れからだろうと思ってみても半年以上生理がないのはいくら何でも不安になってくる。付いて行くという母の申し出を断り、数カ月分もの基礎体温グラフを持って婦人科に行くと、無排卵月経症だと診断された。

無排卵月経症というのは、甲状腺ホルモンの関係で月経はあっても排卵が正常に起こらず、これにより子宮の萎縮を引き起こし、不妊症の一番の原因になるらしい。私の場合、結婚どころか相手すらまだいない状態だったので、とりあえず、診断はこうだった。

「うん、まあね……。あなたは若いし、結婚して赤ちゃんが本当に欲しいとなったら治療方法を探しましょう。それまでは子宮が萎縮しないように、人工的に排卵を起こさせるお薬をだしておきますね」

30代中頃だろう男性医師のデスクの上には息子さんらしき赤ちゃんと、彼と同じ大きさのくまのぬいぐるみが並んで写る可愛い写真が飾られていた。

「あぁ……はい……」

今ひとつ状況がよく分からず、薬を飲めばいいんだなくらいの気持ちでカーテンで仕切られた部屋で着替えていた。すると、さっきの先生の声が聞こえてきた。

「若いのにかわいそうだけや仕方ないなぁ。きっと、あかんなぁ」

一瞬、何の話なのか分からなかった。外の待合室にもカーテンで仕切られた3つ場所にも私しかいない。かわいそうなあかん人というのは私のことだった。

聞いてもいないのに、子どもが産めない体だと告げられた瞬間だった。

急に涙が溢れてきて心臓が激しく暴れ出す。血液が激流となって吐き出され、同時に頭の中からはどんどん血液が無くなっていく。

普通でない自分。人として不完全な自分は不良品なのだ。目の前がどんどん白くなっていく。

気がつくと診察室の隅にある小さなベットの上に横たわり、腕には点滴の管が付けられていた。

この日を境に、誰も知らない私だけの秘め事を持つことになった。

今、冷静に考えると治療法はあるのだし、絶対に産めないと診断されたのではない。同じような問題を抱えた人でも、それぞれが自分の道を選びながら私よりもずっと逞しく生きている。

甘かった、弱かった、若かったと言ってしまえばそれまでかもしれないけれど、当時の私の心には、自分は不良品だという気持ちが黒く固く凝り固まっていくばかりだった。

「あなたもお母さんになったら」「孫ができたら」「子宝に恵まれそうだから」という母親の些細な言葉さえ痛みとしてしか受け取れなくなった。妊婦さんや乳母車を見るだけで目を反らしたくなる自分自身に嫌悪した。

「不良品」という見えないレッテルを貼り付けたのは私以外の何者でもない。


彼からプロポーズをされた時に、最初に自分の秘密を告白した。

子ども好きの彼が、私たち子どもを望んでいることは手に取るように分かっていたからだ。

いつかは打ち明けないといけない時が来る。それでも、自分の欠陥を話すのは勇気がいる。親にも話せなかった欠陥。告白することによって私だけが背負ってきた重荷を、彼の肩にもかける可能性もあるの。

しかし、彼は即答した。

「それならそれで、ずっと二人で楽しめるじゃないか。」

彼の言葉は本当に嬉しかった。それなのに、私はまだ自分を受け入れらず、不良品のままだった。私自身でレッテルを剥がす必要があったのだ。



分岐点は突然訪れた。妊娠したのだ。

不思議なのだが、妊娠したと直ぐに直感した。下腹に手を当てると、どのあたりに未来の子どもがいるのかも感じる取ることができて、その後の検診で胎児の位置を確認するとズバリ一致していた。もちろん、私にはそういう力なんてない。

私の人生の中で一番大きな選択をした。

タイミング的に私個人のキャリアとして一番成長できる時だった。夢を追える時だった。既に芽生えていた「食」への興味を満たしうる仕事にも、手を伸ばしさえすれば届く状態だった。

全てを捨てる。友人から離れ、家族から離れ、国を離れて見知らぬ土地で母となる。不安がなかったというと嘘になる。けれども、産むという選択に迷いはなかった。

ようやく自分が肯定された気がした。ピルでの排卵治療を始めてから9年経っていた。


あの時、新しい命を与えられた瞬間、私は決意と覚悟を試された。

自分で選んでみろと。



あれから、3人の子どもを授かった。日本での恵まれた環境とは別世界で、働く親への配慮などない。保育所への送迎と子どもの世話で一日が終わった。自由に使える時間もお金もなく、掃除や送迎を誰かに依頼して自分は外に出るという選択肢もない。執筆の仕事も休業せざるを得なかった。村一人の日本人。心を開いて話せる人もいない孤独な時間が過ぎていった。

ただ、どんな時にも家族が側にいてくれた。毎日一緒に食卓を囲む。子どもは早く寝ないといけないからと親たちより先に晩御飯を取らせらたということは一度もない。彼らの前で情けないくらい何度も泣き、数え切れないくらい笑った。喧嘩をして軌道修正が必要だったことも一度や二度ではない。それでも必ず一緒に食卓を囲んだ。

美しい盛り付けや豪華な食事にも興味がなくなった。私の「食」に対する興味は次第に、本当の暮らしの中にある生きるための「食」に焦点が向けられていった。何が大切で、守るべきものは何なのかを日々、感じながら暮らしている。


生きているといくつもの分岐点がある。回避できない出来事との交差点だったり、時間が経ってから「もしかしたらあれが分岐点かも」と思うような小さなきっかけだったり。

そんな中、自分自身で選び取った選択肢は、生きていく上で何よりも大きな軸になっているのに気づく。そして、そういった大小様々な分岐点を通過してきたからこそ今がある。

失ったものがある。やり残した事がある。叶えられていない夢があることを、過去の選択間違いの結果だとは思わない。

すべて私が選び取ったものだ。

今、手元にあるものを一つ一つをそっと救い上げてみる。何かと引き換えになんてできない。誰にも渡さない。脆くて儚くて果てしなく尊いものをしっかりと胸に抱く。

なるようにしかならない。
何一つ欠けても今の自分はいない。
成るべくしてなった自分が今、生きている。


(追記)
これは、気がついたら分岐点になっていた話。↓

大好きなたなかともこさんのとっても濃厚な(笑)個人企画に参加します。
例により、非常に長い記事になりました。

ここまで読んでくださった皆様に拍手!!!!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?