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自由連想からの学び

 『こころの秘密が脅かされるとき』はわたしのような門外漢には自由連想についての入門にちょうどよかったようで、自由連想のコンセプトがなんとなくピンときた感じがします。それと同時に、これはあくまで出来の悪い車輪の再発明でしかないのですが、自分がしていることの中に自由連想の空想、あるいは「心的現実」というコンセプトに通底するものを感じました。

 もともとを辿ればどこだったか、一番古い記憶は計見一雄の本にあった「相手の中に入って、一体彼には外の世界がどう見えているのか、どういうふうに見えているのか、を理解せよ」という話だったような気がします*。当時のわたしは、その人がどういう体験をしてきて、どういう世界観を生きていて、それが現在の反応、思考、行動、対人関係や社会の理解を形作っているのかを知ることが、病気や障害というフィルターを通してではあれ、その人のときに不合理で不適応的な感情を理解するうえで決定的に必要だと、なんとなく気づきつつありました。と言ってもそんなに立派な話ではなくて、頭ごなしなやり方に行き詰まっていただけなのですが。当時の同僚から「誰が迷惑しているわけでもないのに、事実か妄想かなんて区別する意味はあるの?」とたしなめられたのも転換点だったかもしれません。
 「この人の中ではそういうことになっているんだな」という言い方はやや冷淡なトーンかも知れませんが、そこを議論や交渉の出発点にすることが対外的に好ましい結果にもつながったようでした。あの時代にカルテをひっくり返して答え合わせをしたり論理的首尾一貫性の欠如を指摘したりしていたら、今とは違う理解があったかもしれません。少なくとも一時期のわたしにとって、客観的事実は脇に置かれていました。「その人から世界はどう見えているか」を探求していた時期が確かにありました。

 病状が重たかったり激しい虐待を受けてきたりすると、一見事実認識がおぼつかないように見える場合があります。そうでなくても、荒唐無稽だったりあまりに誇大的だったり、あるいは幼かったり、何だったら別に何がなくとも話が噛み合わないことはあります。統合失調症における妄想が典型的な例でしょうか。それを「妄想だから」と言えばコミュニケーションはそこで終わります。事実性を確認しようとすれば、これもやはり「事実ではない。妄想だ」となります。しかし、そこに自由連想的な「心的現実」というコンセプトを持ち込むと、「本人の中ではそうなっている」という主観的な事実の訴えとして聴けるようになるのですよね。そうして聞いてみると、統合失調症的な訴えの背後に「だからわたしは狂っていない」という悲壮な証明の痕跡を垣間見ることがあります。「妄想を否定してはいけない」という消極的な作法ではなくて、あえて事実性を確かめないことに積極的な意義があるというのは別のnoteで触れましたが、それを「心的現実」というコンセプトで説明できるというのが、わたしの発見でした。

 と言っても、これは別に「虐待を空想としてあしらう」みたいなハーマン的理解ではないつもりです。社会規範における虐待、人間の心理構造の面から見た虐待、本人の心的体験としての虐待はそれぞれ異なる範疇を有しているのに、事実性を俎上に提出すると、虐待は結局のところ、本人の心的体験の質を離れて客観的な事実認定の話に吸い寄せられることを避けられません。そしてその区別がなされないから、心的体験と社会規範の合一を試みるから、虐待という言葉の持つ意味と範疇が社会の中で無原則な拡散を迫られるのではないでしょうか(そして虐待の概念は必ず希薄化します)。
 個人に奉仕する存在としての支援者の使命には、虐待の客観的事実を社会に定立させること以外にもクライエント個人の心的体験を回復も含まれているはずで、ハーマンの提出した命題とは異なり、それはきっとパラレルなのだ、というのがわたしの現時点での理解です。

 ちょっと虐待に話が逸れましたが、虐待に限らず、この人は何を言いたいんだろう、何を表現したいんだろう、わたしに何を訴えかけようとしているのだろう、ということをきちんと聴こうと思えば、事実性がどこかで衝突することは十分にあり得ます。そのときに「心的現実」という仮定があると、その人なりの話としてずいぶんとスムーズに話が聴けるものです。幸いにして、わたしはあえてボラス的な組分けに当てはめればソーシャルセラピストでしょうから、事実の確認と対応を別のレイヤーで並行して作業することができますし。

*『統合失調症あるいは精神分裂病 精神医学の虚実』(計見一雄, 2004, 講談社メチエ)

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